25、リンゴ
セーヌハウスの朝の食卓には真っ白い皿がよく似合う。
『いよいよ二学期が始まりましたね! 今日からもう授業ですが、がんばっていきましょー!』
日奈は東郷会長の真向かいでパンにバターを塗りながら、ちょっと元気すぎるいつものラジオに耳を傾けていた。
「今日はいい天気だから、気温は上がりそうだね」
「そうですね」
東の窓のカーテンは白く透けて澄んだ朝の香りに揺れている。
寝起きの東郷会長は花のようなシニヨンをまだ作っていないので髪はそのまま下ろしており、実は彼女の髪が日奈の髪なんかよりもずっと長いということは、日奈以外のほとんどの生徒が知らない事実である。
「二学期になったけれど、日奈くんは何も気負わなくていいよ」
「え?」
「セーヌ会とロワール会の争いが激しくなるのを生徒たちは内心望んでいるんだ。私はそれに乗じていろいろ手を打つつもりだが、キミは今のまま、自然なままに暮らしていてくれ」
「わ、わかりました」
東郷会長は目玉焼をほとんど食べ終えてから塩をぱらぱら振った。食べ方にこだわりがあるのかもしれない。
「ただ、今日は早めに帰ってきてくれるかい? まとめたい書類があるから」
「分かりました」
東郷会長は戒律や伝統をぶっ壊そうとしているだけあって制服の着こなしなどにはオリジナリティが溢れているが、ごはんの食べ方はいつも非常に綺麗である。
「ここだけの話だが、このセーヌ会に新しいメンバーを入れようと思っている」
「え、そうなんですか?」
「ああ。この寮に招いて一緒に活動するのは少し先になるが、既に本人の了解も得ている」
月乃様や桜様みたいな人ならいいけど・・・内気な日奈はなんだか気が重くなってしまった。
「大丈夫だよ。きっとキミも仲良くなれる。それに彼女が我々と合流するのはもっと後になってからだ」
「・・・もっと後?」
「そう。それまで彼女は別のところで働いてもらうのさ。スパイとしてね」
東郷会長はミルクのカップをくいっとあおってそっと微笑んだ。
「ロワール会に勝つためなら、私は手段を選ばないよ」
悪役生徒会のトップらしい表情だが、わざと悪そうな顔をしているようにも日奈には感じられた。東郷会長の考えていることは複雑すぎて日奈のような一般人にはよく分からないのだ。
ロワールハウスの朝にはブラックコーヒーがよく似合う。
「九月の風だわ。今日は涼しくなりそうね」
「そうですわね」
黒いリボンの二人は今日も優雅でおしとやかなお嬢様モーニングを迎えていた。もちろん戒律を完璧に守ったスーパー無表情である。
「以前から話していた新メンバーの件だけれど、ようやく決めたわ」
「まあ、本当ですの!?」
ついにロワールハウスに新しい少女がやってくるらしい。随分遅かったなと月乃は思った。
「セーヌ会の人気がこれ以上上がらないように、実力者と人気者の二名を選出したわ」
「二人ですの?」
「ええ。もう月乃さんの知っている顔かもしれないわ」
月乃は日奈様の顔くらいしかまともに見ていないので、知っている顔なんか多分いませんわよと思った。
「一人はヴェルサイユハウスのリリアーネさんよ」
「あら」
さすがの月乃もリリーさんのことならよく覚えていた。以前見回りの仕事を手伝ってくれたフランス出身のお嬢様である。
「リリアーネさんは少し笑顔が多いから心配だけれど、彼女の持つ美しさの影響力は見逃せないわ。あの子がセーヌ会に勧誘されたら面倒なことになるから」
「確かにそうですわね」
ちなみに月乃と西園寺会長はリリーさんがとんでもなくエッチな少女であることに全く気付いていない。
「もう一人は同じヴェルサイユハウスの林檎さんよ」
「り、林檎さん?」
いつだったかロワールハウスに電話で情報を提供してきた少女が「林檎」と名乗っていたが、どうやらそれは本名だったらしい。可愛い名前である。
「林檎さんは存在自体は地味だけど、戒律を守ろうとする意志の強さは随一よ」
「なるほど」
リリーさんと林檎さんを足して2で割れば理想のお嬢様が出来上がりそうである。
「そこで今日は月乃さんにお願いがあるのよ」
「はい、なんですの」
「林檎さんにこの手紙を渡してきてほしいの」
ロワール会への勧誘状である。
「リリアーネ様には?」
「あの子にはもう渡したのよ。昨日、始業式のあとに茶葉を買いに行った時に偶然会ったから」
「なるほどですわ」
なぜ手紙を持ち歩いていたのか。
「わかりましたわ。その林檎さんに、手紙を渡してきますの」
「よろしくね」
「はい!」
ベルフォール女学院の美しい伝統と戒律を守るため、いよいよロワール会が重い腰を上げたのである。有力なお嬢様をロワール会に呼べば、一般生徒たちの心も確実にこちら側に惹かれることになるので、セーヌ会の東郷会長が狙っているような伝統と格式の崩壊は起こらないはずである。正義は必ず勝つのだ。
とりあえず授業である。
今年の夏休みを非常に楽しく過ごせたのは、自分が小学生モードになったからだという意識を月乃もちょっとは持っているのだが、とにかく彼女は名門細川一族の娘であるし、超硬派なロワール生徒会の新星であるので、戒律を破るようなことはやっぱりお嬢様としてのプライドが許さない。月乃は日奈様と争いたくはないし、むしろもっともっと身も心も近づいて彼女の温かさに触れたいが、自己実現のためには彼女と距離を置くのが賢明なようである。悲しい運命に生まれてしまったものだ。
「月乃様っ。お昼ご飯一緒に食べましょう」
月乃がそこそこ得意としている化学の授業が終わると、お弁当を持った桜ちゃんが席までやってきた。
「もちろんいいですのよ。でもその前にわたくし、やらなければいけないことがありますの」
「お仕事ですか?」
「そうですのよ。1年A組の林檎さんって人にロワール会へのお誘いの手紙を渡しに行きますの」
「え!?」
「新メンバーですのよ。桜様も一緒に行きましょう」
「わ、わ、私は結構ですっ! 今日はこの教室でラ、ランチを食べますのでっ!」
なにやら動揺した様子である。ロワール会のメンバーが増えることで月乃様が自分と一緒に遊んでくれる時間が減るかも知れないと思って悲しんでいるのかもしれない。しかし月乃が特に緊張感なく接することができるのは桜ちゃんくらいなので、今の彼女のポジションはおそらく今後も安定して維持されるから心配ご無用である。
1年A組というクラスに月乃は足を踏み入れたことはなかったが、同じ第四学舎の一つ上の階にあるらしいことは分かっていた。
「見て! 細川様よ!」
「きゃあ! 今日も素敵ぃ!」
普段来ない階なので、階段を上っただけで月乃はキャアキャア言われてしまったから「そこ、笑顔は禁止ですのよ」とかっこよく注意をしておいた。ちなみにこの学園では近頃ポニーテールが流行っており、明らかに月乃と日奈の影響である。
月乃はざわめきの中の木床廊下を得意気に背筋を伸ばして歩き、A組を探した。学舎はエアコンが効いているが、窓から差す日光は月乃の白い手の甲をじりじり焼いてきたので、おそらく今日は気温がかなり上がっている。
A組のプレートを発見した月乃は、その教室から出て来た少女に声を掛けた。
「もし」
「は、はい! これは、細川様」
「そうですのよ。細川ですの。このクラスに林檎様って方はおられますの?」
「はい。今呼んできます」
「あ、どの方か教えて下されば充分ですわ」
「そうですか。ええと、あの窓際の黒い帽子の女の子です」
「あら・・・?」
西園寺会長の言う通り、月乃は林檎さんと顔見知りだった。月乃は彼女とほんの数回しゃべっただけだが、確かに彼女はロワール会に入れそうな厳しい雰囲気を持っているように思える。
さっそく彼女に話しかけて手紙を渡そうと一歩教室に入った瞬間、月乃はなぜか自分の心臓がビクンと飛び跳ねるのを感じた。
「もしもし、あなた林檎様ですの?」
そう声を掛けようかと思った時、不意にその人が現れたのだった。
「あの、林檎様・・・」
月乃はその人の姿に即座に反応して教壇の陰に身を隠した。
「姉小路様、なんのご用ですか?」
「た、大したことではないのですが、今日の特別清掃の当番についてご連絡がありまして」
月乃はすっかり忘れていたのだが、1年A組は日奈様がいるクラスだったのである。月乃は教壇の後ろから出られなくなってしまった。
「セーヌ会の姉小路様からご連絡頂くようなことは無いと思いますが」
林檎さんは日奈に対して非常にクールな態度で接している。
「じ、実はですね、二学期になってから当番のローテーションが変わりまして、今日の軽剪定の作業は林檎様にやってもらうことになりました」
ちなみに日奈は頼まれたら断れない性格なのでクラス委員を任されている。
「寮の前の低木ですか?」
「はい」
「なるほど、分かりました。お話は以上ですか?」
「は、はい」
なぜあの日奈様相手にそんなロボットみたいな冷静な対応ができるのか月乃にはサッパリ分からない。
「それではまた・・・」
「はい。おつかれさまです」
林檎さんと日奈様が離れたので今が話しかけるチャンスであるが、まだ近くに日奈様がいるので状況はそれほど良転していない。お嬢様たるもの戒律は絶対遵守したいし、こんなところで小学生になってしまったらまずいのだ。
「もしもし、林檎様ぁ・・・」
月乃は教壇の陰からそう呼びかけてみた。
「林檎様ぁー」
「え?」
「少し、こちらへ。こちらへお願いしますわ」
林檎さんは大きな黒い帽子をいつも被っているので目元は全く見えないが、おそらく今彼女は眉間にしわを寄せて訝しんでいるに違いない。
「誰ですか? 用があるなら姿くらいきちんと現しなさい」
厳しい感じのことは言っているが、林檎さんは席を立って教壇のほうへ来てくれた。
「ほ、細川様!?」
「しーっ!」
「これは・・・失礼しました」
林檎さんは速やかにその場にしゃがみ込んで月乃と目線を合わせてくれた。どうやらロワール会や月乃のことは尊敬してくれているらしい。
「ここじゃまともに話せませんから、放課後どこかで待ち合わせましょう」
「・・・なぜここではお話し頂けないのですか?」
「り、理由は内緒ですわ。とにかくどこかで、じゃあ・・・あなたの寮でいいですわ」
「ヴェルサイユハウスですか」
「ええ。一階の会議室にしましょう」
「分かりました」
教室に入った瞬間から始まった胸のドキドキが止まらないので、月乃は早くこの教室から出ないとまた小学生になってしまうだろう。ちなみに月乃は前回、夏祭りの夜の別れ際に日奈様から貰えた「ありがとう」が切っ掛けとなって高校生に戻れたので、もしも今小学生モードになってしまったら、その時は浴衣姿ということになる。昼休みの教室に突然お祭り帰りの小学生が現れたら意味不明である。
「とういうわけで林檎様、わたくしは失礼しますわ」
「はい」
月乃は辺りをキョロキョロしながらしゃがみ歩きで1年A組の教室を抜け出した。
「細川月乃様・・・ロワール会のメンバーなら、もっと堂々となさればいいのに」
ごもっともである。
フランス語の授業を受けながら、月乃は林檎さんのことを考えた。
この学校には彼女のようにセーヌ会のメンバーを徹底して軽蔑する生粋のロワール支持者もかなりいるので、月乃は改めて自分がお嬢様らしくあることへの義務と責任を感じた。林檎さんみたいな子の期待を裏切りたくないのである。
「よぉし・・・」
気合いが入っている時の月乃は筆圧が上がるので、今日のフランス語のノートはいつも以上に濃いパリ感に満ちている。
ロワール会に憧れる林檎さんがロワールの一員になるのだからとても心強いが、彼女の前ではますます戒律を破れないので月乃の毎日は厳しいものになるかもしれない。しかしお嬢様月乃としてはそれくらいの緊張感があったほうが毎日に張り合いがあって充実しそうなので、ウェルカムである。
窓の外を見ると、まだ空の青と高い白雲のコントラストが夏のものだったので、月乃の胸には不意に八月の思い出が蘇ってきてしまった。日奈様の美しい横顔、心地よい声、柔らかい感触・・・思い出しただけで頭がフワーっとなって、胸が熱くなってしまう。
「うっ・・・」
これではいけない。こんな調子では林檎さんにすぐに呆れられてしまうだろう。月乃はシャーペンをさらに強く握りしめて、お嬢様としての誓いを新たにした。
終業のチャイムと同時に桜ちゃんがやってきた。
「月乃様、一緒に帰りましょう」
「もちろんですわ。でもその前にヴェルサイユハウスに用事がありますの」
桜ちゃんは細い肩をヒクッと持ち上げて一歩下がった。
「お、お仕事ですか?」
「え? まあ、そうですのよ。さっきの林檎様にお手紙をお渡ししなければいけませんの。さっきは渡せませんでしたのよ」
それを聞いた桜ちゃんは顔色を変えて慌て出した。
「そ、そ、それでしたら私は今日は一人で帰ります! お仕事のお邪魔になってしまうかもしれませんのでっ」
「あら」
月乃が引き止めるより先に桜ちゃんは頭を下げて教室から出て行ってしまった。夏休み中の若山桜ちゃんは子供のように元気で、はしゃぎ回っていたが、2学期が始まってからはいつも通りの遠慮がちで慎ましい少女に戻っている。
「仕方ないですわね」
月乃は待ち合わせ場所であるヴェルサイユハウスに一人で向かうことにした。
4つある学舎は全てベルフォール大聖堂を囲むようにして建っているので、昇降口から外にでるとそこは必ず大聖堂広場である。
「細川様、ごきげんよう」
「ごきげんよう細川様!」
「細川様ぁー!」
夏休み中の静けさが嘘のように、午後の大聖堂広場は赤いリボンの制服たちの活気に満ちていた。目立ちたがりの月乃にとって、このような「ちやほやされるゾーン」はたまらない場所であり、歩いているだけでお嬢様ハートにホットなシャワーを浴びているような気分になれるのだ。
適当な路地を辿って北東に歩くとすぐにヴェルサイユ広場に出ることができる。その広場の噴水越しに見える巨大な寮がヴェルサイユハウスだ。
「ちょっと早かったかしらね」
先んじて人を制することに生き甲斐を感じるお嬢様月乃はウキウキしながら寮の入り口に向かった。が、その時事件は起きたのである。
「うっ!」
背後にラブリーな気配を感じた月乃が振り返ると、雑貨屋の角から白いリボンの日奈様がひょっこり登場し、ヴェルサイユハウスのほうに向かってやってきたのである。月乃は慌ててしゃがみ込み、噴水の陰に隠れた。今日の月乃はクノイチみたいになっている。
(ど、どうして日奈様がこんなところに来ましたの!?)
そんなの日奈の勝手だが、大聖堂より北側のエリアはロワール会を支持する硬派な空気が特に強い場所なので、彼女がヴェルサイユハウスのそばに来ることは珍しいのだ。
(お掃除ですの・・・?)
月乃は円形の噴水を上手く回って日奈様の視線を避けながら彼女のことを観察してみたが、どうやら半透明の袋と軍手のようなものを持っているらしい。日奈様はキョロキョロしながらヴェルサイユハウスの入り口までやってきたが、中に入る様子はなく、誰かを待つように美しい姿勢で立ち尽くした。
「はわぁ・・・」
月乃は日奈様の美しさに思わず見とれてしまったが、このままでは林檎さんに会えないので真剣に対策を考えなければならない。たまたまヴェルサイユ広場に他の生徒がいない今がチャンスである。
水音を聞きながら思案すると結構頭が働くらしく、月乃の胸にも天から名案が舞い降りてきた。
(木のフリをすればいいんですわ!)
アホみたいなアイディアだが月乃は本気である。広場はその名の通り広々とひらけた空間だが、隅っこのほうにツツジの低木や花壇があるので、その辺りに移動して自然と同化し、こっそり日奈様に近づき、彼女の脇をするっと抜けて寮に入ることが出来るかも知れないのだ。お嬢様っぽい行動ではないが、誰かに見られなければセーフであり、約束の時間に遅れることのほうが問題なのだから選択の余地はない。月乃は風に乗ってほんのり漂ってくる日奈様の髪の香りに心を奪われないように気を強く持ちながら動き出した。
「遅い・・・細川月乃様は何をなさっている・・・」
黒い帽子を被った林檎さんは既にヴェルサイユハウス一階の広い会議室にいた。彼女は実は月乃や日奈よりももっと早く寮にたどり着いていたのである。
「月乃様のほうから約束を取り付けておきながら指定の時間にいらっしゃらないとは・・・何かトラブルでもあったのだろうか」
林檎は月乃と同様に厳しい家庭で育ったため、ベルフォール女学院に来た理由もお嬢様としての自分を磨くためである。ただし月乃と少し考え方が違うのは、敵のセーヌ会を一刻も早く潰そうとしている点である。
「ぬぅ・・・こんなことをしている間にもセーヌの姉小路様が人気を集めているかもしれないのに、もどかしい」
林檎はロワール会の理念を尊敬するあまり月乃のことを若干ライバル視しているところがあるが、なんだかんだ言って月乃のことは高く評価している。だからこそ今日の遅刻が残念なのだ。
「・・・もうしばらく待ちましょう」
ちなみに林檎は非常にクールな少女だが身長は桜ちゃんと同じくらいなので声は結構高く、なかなか可愛らしい。
そのころ月乃は日奈様からおよそ3メートルの位置にいた。
低木の陰に落ちていた葉っぱ付きの小枝を念のため顔の前にかざし、月乃はじりじりとヴェルサイユハウスの入り口に向かっている。なんで日奈様が寮の入り口で待機しているのかは今だに謎だが、とにかく月乃は寮の会議室に行かなければならない。
「うう・・・」
日奈様に一歩近づく度に月乃の心臓は高鳴っていく。少し困ったような表情を見せている今日の日奈様の横顔もまた素敵なので、月乃の恋心は加速してしまうが、戒律は絶対に守りますわというお嬢様根性でなんとか興奮を制御していた。
(大丈夫、大丈夫・・・日奈様はわたくしに気付いていませんわ)
日奈は月乃の存在にとっくに気付いていた。
(月乃様・・・一体何してるんだろう・・・)
低木と同化しながら少しずつ自分に迫ってくる黒いリボンのお嬢様に日奈はかなり緊張してしまった。制服も特に乱れていないし、注意されることに心当たりがない日奈は、自分の胸の鼓動が不思議な調子で駆け足になるのをただじっと感じるばかりであった。
(もうこんな時間・・・)
日奈は今朝東郷会長に「早めに帰ってきてくれ」と言われたことをちゃんと覚えているので、そろそろ戻らないといけない。日奈は白い軍手とビニール袋にそっと視線を落とした。この荷物を託せる人がいるとすれば、それはすぐ近くにいる月乃様だが、あれほどの大胆な隠密行動をしている彼女に声を掛けるのにはなかなかの勇気が必要である。日奈は月乃がなんであんなことをしているのか分からないので、何か非常に大事な任務の途中である可能性も否定できず、自分がそれを邪魔しちゃったらダメだなという気持ちもあった。
しかし、これが月乃様と親しくなる切っ掛けに化けてくれることもあるかも知れない。日奈は思い切ってツツジの低木の背後にいる月乃に呼びかけた。
「あ、あの・・・」
「ひっ!」
突然声を掛けられた月乃はすっかり気が動転してしまい、小枝で顔を隠したまま川エビのようにピョンと跳ねて後退した。存在は気付かれてしまったがまだ自分が細川月乃であるとバレてはいないと勘違いした月乃は、なんとか誤魔化す方法を考えた。こんな怪しい動きをしているのが自分だと日奈様には知られたくないのだ。
「にゃあ」
「え?」
「にゃああ」
月乃はネコの振りをすることにした。実家でネコを2匹飼っているので声を真似るのは得意である。
驚いたのは日奈のほうだった。普通に月乃様とお話しして掃除用具に関するお願いをしようと思っていただけなのに、その月乃様からの返事が「にゃああ」だったからだ。ロワール会の硬派なお嬢様が「にゃああ」などと言う状況は明らかに異常であり、もしかしたら自分はとんでもない大事件の中心に立ってしまっているのではないかという思いが日奈の頭をよぎった。
(よく分からないけど、私は離れたほうがよさそう・・・)
タイムリミットも近いので、日奈は持っていた清掃道具を寮の入り口付近の分かりやすい場所に丁寧に畳んで置いて、ヴェルサイユ広場から足早に去っていった。
「上手くいきましたわっ」
自分のネコの演技が成功したと勘違いしている月乃は小枝を握りしめたまま低木の陰から飛び出して寮の入り口にやってきた。
「・・・日奈様、何をしていたのかしら」
軍手やビニール袋が残されているが、これを使って彼女がなにか作業をする様子もなかったし、ここにいた目的はいまいち明瞭でない。
「あら?」
日奈様のぬくもりがまだちょっぴり残っている軍手を月乃が指先でつんつんしていると、寮の廊下から人の気配が迫ってきた。素直にまっすぐ会議室へ向かえばよかったのに、日奈様が置いていったものに気を取られてしまったのが月乃の失敗である。今の彼女のポーズを他人に見られるとややこしいことになってしまうだろう。片手に小枝を持ったまま昇降口の小椅子に置かれた軍手を手に取って幸せそうな顔をしているロワール会員など、明らかに一般生徒たちの夢を壊してしまうのだ。
「う・・・」
すぐに立ちあがって涼しい顔で会議室に向かう感じにすれば解決だが、月乃がその誰かの気配を感じたのがあまりにもその人と出くわす直前だったため、月乃はもう目の前のものを使ってその場の怪しさを誤魔化すことしかできなかった。人生には往々にして一瞬の判断を要求される場面がある。
「あ・・・細川月乃様。ここで一体なにを?」
やってきたのはなんと待ち合わせの約束をしていた林檎さんだった。月乃が全然現れないので痺れを切らして外に様子を見に行こうとしたのである。
「り、林檎様! これは・・・その・・・」
月乃は軍手をはめて小枝をビニール袋に突っ込むポーズで林檎さんに挨拶した。その場にあった道具を使ってできることはこれくらいしかなかった。
「会議室で会う約束でしたのに、こんなところで何をされてるのですか? あなたはロワール会の一員なのですから、もう少しきちんと・・・」
そう言いかけて林檎は言葉を失った。
「あっ・・・」
彼女は珍しく動揺した様子で後ずさりして背中を廊下の壁にぺったりつけた。帽子のほうが目立っているが、よく見ると林檎さんは先にいくほど細くなるちょっとおしゃれな三つ編みをしている。
「私は・・・私は・・・なんてことを・・・」
林檎さんはそう呟きながら廊下の赤いじゅうたんの上に崩れ落ちた。不可解な展開に月乃は目が点になりそうである。
「月乃様・・・私はずっとあなたのことをライバルとして見ていました。月乃様はロワール会のお嬢様でありながら怪しい言動を取ることがあったので、きっと私のほうが優れた淑女に違いないと、心のどこかで思っていたのです」
怪しい言動は特に否定できない要素である。
「しかし・・・しかし今私は確信しました・・・あなたの行動には全て深く美しい理由がある・・・くやしいのですが、私はまだまだのようです・・・」
林檎さんはじゅうたんの上を這って月乃のそばへやってきた。彼女も月乃に負けないくらい怪しい少女である。
「私は枝切りの仕事の当番を任されていたのにすっかり忘れていました・・・あなたはそれを咎めることもなく黙々とフォローしてくださいました・・・」
「え?」
「ありがとうございます・・・そして申し訳ございません」
よく分からないが月乃は林檎さんに感謝されてしまった。どうやら日奈様は林檎さんが教室から持っていかなかった掃除道具を届けに来ていたらしく、仕事を忘れた自分の代わりに月乃様が作業を進めようとしてくれたと林檎さんは勘違いしたらしいのだ。ラッキーなこともあるものである。
「ですが・・・ですがいつか必ず私もあなたのような立派な女性になり、あなたのライバルとして互いに精神を磨き合いたいと思っています・・・」
そんな彼女の思いを聞いた月乃はおもむろに立ちあがって軍手を外し、かっこいいお嬢様フェイスを作ってから林檎さんの肩にそっと手を置いた。
「お嬢様として、林檎様と切磋琢磨することはわたくしや西園寺会長も望んでいることですのよ」
「え?」
帽子を目深に被っているせいで彼女の顔はほとんど見えないが、顔を上げた時にマスカットみたいな香りが月乃の鼻先まで届いた。意外と可愛いシャンプーを使っているのかも知れない。
「そ、それはどういうことですか」
「こういうことですのよ」
月乃はカバンから例の手紙を取りだした。
「こ、これは・・・!?」
「わたくしのいいライバルになれるように、頑張ってくださいね」
林檎さんはじゅうたんの上にペタンと座り込んだまま、少し手を震わせて手紙を読んだ。彼女はロワール会を心から敬愛していたので、にわかには信じがたいお誘いであったろう。
「私なんかで大丈夫なのでしょうか・・・!」
「西園寺様が選んだんですのよ。自分に自信がないなら、あなたを選んだ西園寺様を信じたらいいんじゃありませんの?」
それを聞いた林檎さんは恥ずかしそうにそっとうつむいた。帽子は被っているだけで自分の表情を見られるリスクが激減するので非常に便利なお嬢様グッズである。
「そ、それでしたら・・・」
「オッケーですの?」
「はい・・・」
「よかったですわ」
月乃は林檎さんの細い手を引いて起してあげた。オーラは冷たいが手のひらは妙に温かい子である。
「・・・今はまだまだですが、私はいつか必ず月乃様を越えますので・・・覚悟しておいてくださいね」
言葉とは裏腹に、林檎さんの声から本気の敵意は感じられなかった。
「あら、楽しみにしてますわ」
「・・・そうやって油断していたら、すぐに私に負けますからね」
「分かりましたのよ。がんばってくださいね」
同級生ではあるが、月乃にとってはちょっと生意気な可愛い後輩が出来たようなものである。
「ですから・・・その・・・その・・・よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますわ、林檎様」
ロワール会に誘われたことが余程嬉しかったのか、帽子の下から覗く林檎さんの頬は、本物のリンゴのように可愛く真っ赤に火照っていた。