24、夢の跡
「いない・・・」
いつもの白衣を脱ぎ捨ててバスケットボール模様のTシャツ姿になった保科先生は、夏祭りの会場にいた。
「あの三人どこいった・・・?」
小学生の月乃ちゃんと究極の美少女日奈ちゃん、そして普通の女の子桜ちゃんが仲良く石段に座っているのを確認した保科先生は、この隙に自分が食べる焼きそばを買いに行っていたのだが、元いた木陰に戻ってみると既に三人は姿を消していたのだ。
「んん、もっと撮りたいのに・・・」
保科先生は高校生の女の子が大好きなちょっとヤバい女性なので、主に日奈ちゃんの浴衣姿を狙ってこっそり彼女たちを付けてきたのだ。女がカメラを持ったまま物陰を忍び歩きして回っているので、彼女に気づいた地元住民たちは大変怯えている。
「先生♪」
「うわ!」
クヌギの大木の陰でキョロキョロしていた保科先生の背後に少女が現れた。
「び、びっくりしたぁ・・・」
「驚きすぎですわ♪」
桜ちゃんだったらどうしようかと先生は思ったが、そこにいたのは完全にヨーロッパ人フェイスのサラサラ金髪少女である。制服を着ているのでベルフォールの生徒であることは明らかだし、外国出身の美少女ということでちょっと目立っていたから先生は彼女に見覚えもあった。
「先生、観光ですか?」
「ま、まあ、そんなとこ」
「そうですかぁ、素敵なご趣味ですわぁ♪」
怪しまれてないようで先生は少しほっとした。
「そのカメラは?」
「これ? これはその・・・お祭りの風流な光景を切り取るために」
「あら♪ 先生もしかして」
金髪の彼女は先生に顔をぐいっと寄せて囁いた。
「そうやって隠れながら教え子を撮ってるんじゃありませんよね」
つかみどころのない表情から一変した少女の鋭い眼差しと言葉に保科先生は体が凍り付いてしまった。どういうわけか少女は先生の企みをお見通しらしい。
「そ、そんなことないよ、ハハ」
学園の生徒に怪しまれたらもう続行不可能なので、保科先生はしぶしぶ学園に帰ることにしたのだった。
「あーあ、私も帰ろっかなぁ」
金髪のリリーさんはポケットから取り出したデジカメを頭に乗っけて溜め息をついた。実は彼女も先生と同じことを考えて日奈様たちを追いかけてきたのだ。保科先生から自分と同じにおいを嗅ぎ取ったリリーは、ライバルの動きを封じるために先生に釘を刺しておいたのである。
「あの小さい女の子にも会いたかったのになあ」
会っていたら月乃は何をされていたか分かったものではない。
さて、月乃たちはその頃お祭り会場の裏手にある開けた農道を歩いていた。
「こっちです!」
夏祭り当日ということもあって人通りが無いわけではないが、辺りには民家も街灯も少なくて薄暗いため、やたら広く綺麗に舗装された道路が月乃には妙に浮いて感じられた。道が徐々に上り坂になって、両脇の田んぼも段々になってきた頃、月乃たちの前方に田舎道に不似合いな大きなゲートが出現したのだ。
「わぁ・・・」
「わぁ・・・」
月乃は日奈様とほぼ同時に同じような声を出してしまったため恥ずかしくてそっぽを向いた。ゲートの周りには浴衣姿の小学生たちや家族連れもおり、かき氷の屋台もひとつだけ建っているから、知る人ぞ知る隠れ処なのかもしれない。
「ここは・・・公園ですの?」
「おしいよ小桃ちゃん。ここは遊園地の跡地」
「遊園地の・・・跡地?」
ベルフォールの生徒のほとんどが知らない事実なのだが、学園のすぐ南側にはかつて小さな遊園地があったのだ。学園に配慮して騒がしい乗り物やイベントが全く無い一風変わった遊園地で、それでも地元の人を中心に愛され長らく営業していたのだが、電車で一時間ほどの場所に世界的にも有名なアミューズメントパークが出来てしまって以降徐々に客足は遠退き、十年ほど前に潰れてしまったのである。
「そんなところ、勝手に入っていいんですの?」
「入っていいんですの」
笑顔の桜ちゃんはお嬢様言葉を真似て答えた。
どういう経緯かは不明だが、遊園地だった敷地の現在の持ち主は一般の女性で、危険な遊具を撤去したのちに地元の人たちに開放してくれたのである。つまりここは個人のお庭のようなもので、そこが誰でも自由に出入りできるようになっているのだ。世の中には酔狂なお金持ちがいるものである。
「さ、入りましょう」
跡地に入っても誰にも怒られないということは分かったが、そもそもなぜ桜ちゃんが月乃たちをここに連れて来たのか、月乃はまだ合点がいかない。かき氷の屋台なら神社にもあったのだ。
「中どうなってるんだろうね」
「し、知りませんわ」
日奈様が楽しげに話しかけてきたので小学生の月乃は小さな肩をビクッとさせて彼女から二歩離れた。本当に日奈様は月乃をいつも気にかけてくれており、無理矢理手を繋いできたり抱きしめてきたりしない理由も、小学生の小桃ちゃんがそういうコミュニケーションを苦手とする子だと分かっているからこその自制に違いなく、彼女の思いやりの現れでもあるのだ。
そもそも月乃は超硬派なお嬢様なので遊園地になど行ったことも無かったから、ちょっと切ない話だが、彼女にとって初めての遊園地が既に閉園済みということになる。駅の自動改札を大きくしたような入場ゲートを小走りに抜けた桜ちゃんを追って、二人もゲートの向こうに飛び込んだ。今日の月乃はたくさんの初体験に遭遇している。
「わぁ・・・すごい」
月乃の背後で日奈様が溜め息をついた。そこにはおもちゃの家みたいな建物がたくさん並んだ大通りがまっすぐ伸びており、足元には歩くのに最低限必要な橙色の電灯が点々と続いていた。安全のために全ての建物の窓ガラスが外されているため中がちょこっと見えるのだが、どうやらこの辺りはお土産店が並ぶメインストリートだったようである。道のライトさえ消えていれば肝試しにでも使えそうなスポットであるが、建物がみんなポップでマジカルな可愛いデザインのため、オバケ好きの人が期待するような渋くてスタイリッシュな幽霊にはおそらく会えない。昼間ここに遊びにくる近所の小学生たちは「自分の家」を決めて勝手に秘密基地にしており、そこら辺に転がっているローラースケートや縄跳びはその子たちの物である。
「こっちです! 坂のぼりましょう」
足元のライトに少しばかり透ける桜ちゃんの黄色い浴衣がなんだか幻想的で、月乃の目には桜ちゃんが道案内専用の妖精に見えた。
「あら、坂がありますの?」
「あるみたいだね」
ここは「ぶどうの丘遊園地」という名前だったらしく、周囲は果樹園の経営の最適な日当り良好の斜面であるから、遊園地の中にもなだらかな坂がたくさんあるのだ。大人たちは下層のメインストリート付近を好んだが、坂を上るほど景色がよくなるので子供達からは上層部のお店やアトラクションが人気だったらしい。
くねくねと曲がった坂道の両脇にはやはりお店だった建物が並んでおり、たしかに寂れて空っぽになってしまってはいるが、まるで子供達がイメージする童話の世界の城下町みたいに感じられなくもないので、月乃はついつい辺りをキョロキョロしてしまった。ライトにぼんやり照らされる塗装の落ちた柱や、レンガの隙間から伸びた背の高い野草たちは、時の流れの悲しみを優しく語ってくるので、月乃はまるで生きた博物館に迷い込んだような気分である。
「小桃ちゃん、気をつけてね」
「わ、わかってますわ」
足元のレンガが所々抜けているが、そんなものにつまずく月乃ではないので心配はご無用であるが、今の月乃はとにかく体が小さいので、ところどころで伸びたネコジャラシが足や手をくすぐってきてなかなか大変である。風船ヨーヨーなどをポンポンつきながら駆け抜けていく近所のこどもたちは軽々とネコジャラシを飛び越えるので、月乃もそれを真似して「えい」っと言いながら片足でぴょんっとジャンプしたのだが、その瞬間を日奈様に見られてしまい顔を真っ赤にした。日奈からすれば、妙に大人っぽい性格をしている小桃ちゃんの子供っぽい可愛い仕草を見ることができたのでちょっと嬉しいシーンだった。
桜ちゃんがようやく足を止めたのは、遊園地の最上層部にあるメリーゴーランド跡地だった。今も馬が残っているが、乗っかると支柱がポキッと折れたりする可能性もあるため「のらないでネ」という看板が立てられている。
「桜様、こんなところへ来て何をしますの」
と月乃は不機嫌な感じで桜ちゃんに問いかけたが、柵の向こうに広がる絶景を見て言葉を失ってしまった。
「すごい・・・綺麗だね」
月乃が感じていることはだいたい日奈様が代弁してくれる。三人はメリーゴーランドをぐるっと回って一番景色がいいポイントに向かった。いつの間にか随分と高所にたどり着いていたらしく、展望できる夜景はどこまでも透き通って輝いて見えた。眼下に並ぶ竜宮城みたいな光は夏祭りの会場であり、その周囲から遥か遠くまで窓明かりが星のように輝いて続いている。
「ちょっとまだ早かったですね」
桜ちゃんが得意な様子で腕時計を見ている。ちなみに今は午後八時ちょっと前である。
「桜様、あとちょっとで何がありますの?」
月乃は鈍感なので気づかないが、日奈はもうなんとなくこれから起こることが理解できたので、にこにこ笑いながらメリーゴーランドの台座のへりに腰掛けた。ちなみに日奈の下駄の鼻緒は浴衣と同じ薄紫色である。
「そうだ! 私かき氷買って来てもいいですか?」
桜ちゃんは普段学園で月乃のクラスメイトとして恥ずかしくないマナーモードの生活を送っている代わりに、休日では思いついたままに行動する天真爛漫さを発揮するらしい。
「それなら皆でいきます? 私も食べたいですし」
せっかく登ってきたのにまたゲートまで戻りたくない月乃は耳に手を当てて「あーあー」と言って聞こえないフリをしておいた。
「ここは特等席ですので、お二人はここに残って場所をとっておいてください。私が皆さんの分まとめて買ってきます」
桜ちゃんはそう言い残して坂を下りていってしまった。月乃もお金を渡したので合計3つ買ってくるはずだが、どうやってかき氷を3つ手に持つつもりかは不明である。
というわけで、図らずも月乃は日奈様と二人きりになってしまったのだ。
「ほら、おいで。小桃ちゃん」
メリーゴーランドの台座のへりに腰掛けている日奈様が誘ってくる。
「ここからも景色見えるよ」
月乃は日奈様から距離を置いたまま足元のレンガの上に転がるコンクリートのかけらみたいなものを下駄の先でつんつんしていた。月乃は先日電話で日奈様とおしゃべりをしたが、今の気分はその時のものに近かった。ただし状況は必ずしも一緒ではなく、日奈様がやたら積極的に話しかけてくるという点は月乃にとってはちょっとした脅威である。
「おいで♪」
「んんー・・・」
自分のことをロワール会の細川月乃だとも知らず無邪気な笑顔を向けてくる天使に月乃の心はがちがちに固まってしまった。ちなみに姉小路日奈という少女の美しさがどれくらい凄まじいものなのかというと、先程のお祭り会場で日奈と目が合ったラムネ屋の娘を含む10名ほどが意識を失って病院に運ばれたくらいである。今メリーゴーランド付近から見下ろせる神社周辺の明かりのいくつかは救急車のものなのだ。日奈が自分のモテ具合に罪悪感を覚え、可能な限りひっそりと暮らそうとしている理由はこういった点にある。
「もう秋の風だね」
月乃が一向にメリーゴーランドに近づこうとしないので、日奈様のほうが立ち上がって月乃に歩み寄ってきた。
「ひっ」
「夜になったら、涼しいね」
柵にもたれ掛かり、綺麗なポニーテールを風に揺らす日奈様の横顔を見て、月乃は体が動かなくなってしまったので、仕方なくその場で一緒に夜景を眺めることにした。
「小桃ちゃん」
「・・・なんですの」
「一番遠くのさ、ほら、光が途切れてるところ、たぶん海だよね」
漁り火みたいなトリックでも使っていない限り、日奈様の言う通り街灯りが消えている曲線が海岸線である。
「小桃ちゃんは海好き?」
「・・・ふ、普通ですの」
緊張してしまって月乃はまともに会話できない。
「私ね、海って行ったことないんだぁ」
わたくしもですわよと月乃は思ったが、特に何も言えなかった。
「通りかかったことはあるけど、海水浴はね、行ったことないの」
「そ、そうですのね・・・」
水着姿の日奈様がうろついたりしたら、その海岸は立ち入り禁止のなんたら区域になってしまうことだろう。日奈様の水着姿を想像した月乃は体のどこか深いところがキュンキュンしてしまった。
「小桃ちゃん」
「は、はい!」
月乃はもう「小桃ちゃん」という呼ばれ方に慣れてきてはいるが、元々は家で飼っているネコの名前なので、不意に呼ばれると返事が遅れそうになる時がある。
「私ね、今日お祭りに来るかどうか、迷ったんだ」
「そ、そうですの?」
月乃が見上げた日奈様の横顔の向こう側に白鳥座が羽ばたいていた。
「人がたくさんいるところにいくと迷惑になっちゃうから、こういうイベントは滅多に来た事ないんだけど、来てみたらすっごく楽しい」
原因は少し違うが、月乃も似たような境遇である。
「小桃ちゃんは、いま楽しい?」
「え・・・?」
日奈様の星のような眼差しが月乃の小さなハートを射抜いてきたので、月乃は慌てて正面を向き、遥か遠い水平線にかかる夏の星座たちのすだれに目をやった。ちなみに小学生の身長からでは柵越しでしか夜景は見えない。
「わたくしは・・・その・・・あの・・・」
月乃はお嬢様である。夏休みであるとは言え、きらびやかな浴衣を着て学園の外に飛び出し、祭り囃子と和太鼓の響きの中でなんたら焼きを食べ、遊園地跡を近所の子供たちに紛れて自由に探索する・・・こんな一日を「楽しかった」と言ってしまったら、月乃はお嬢様失格であるような気がしてしまったのだ。
「わたくしは・・・あー・・・あのう・・・その・・・」
月乃は自分の信じる美しきお嬢様論に支配されたカゴの中の鳥なので、素直に物事を楽しむことができないのだ。
「小桃ちゃんって、なんだかミステリアスだね」
セーヌの自由な鳥がくすくす笑った。日奈様の笑顔は地上に咲く最も美しい花である。
「ねえ小桃ちゃん」
日奈は寂しそうな顔でもじもじしている月乃の背後に回った。
「いま小桃ちゃんに見えてる世界と、私が見てる景色が一緒になったら、素敵だと思わない?」
「あっ・・・」
腕の下に日奈様の温かい手が回されたかと思うと、月乃は後ろからひょいっと抱き上げられたのだ。
「あ・・・うぅ!」
まるで虹の中に飛び込んでしまったかのように、月乃の見ていた世界の全てが色鮮やかで刺激的なものに変わった。小さな体じゅうを包み込む優しくて生々しい感触と一緒に日奈様の美しいお顔に迫ってきたので、慌てた月乃はちょっぴり呼吸が乱れてしまった。
柵に邪魔されない高いところから景色を見せてあげようと抱っこしてあげた小桃ちゃんの顔が、なんだかとっても可愛いような、カッコイイような、そして懐かしいような不思議な感じがして日奈は一瞬見とれてしまった。二人はお互いの瞳に吸い込まれるようにじっと見つめ合ったのだ。
夏の宵闇に偶然生まれた少女たちの秘密の時間は、やがて午後八時ちょうどを迎えることとなる。
「あ」
麓の河原あたりから夏の第三角を突き抜けるように風を切る音が打ち上がったかと思うと、二人の顔をパッと苺色に照らす大輪が夜空に咲いたのである。
「花火だよ、小桃ちゃん!」
一歩遅れて届いた破裂音は、月乃の小さな胸にどっごーんと響いて、日奈様に気づかれてしまいそうなほど高鳴っていた鼓動を隠してくれた。
「わぁ・・・」
月乃は思わず声をもらした。人生で初めて見た本物の打ち上げ花火は、ただ景色を華やかに彩るだけの芸術でなく、街そのものを夢の世界に変えてしまうもので、刹那に消えて闇へ帰っていく儚い美しさに、月乃は自分が空に向かって落っこちているかのようなちょっぴり危うくてやみつきになりそうな快感を覚えた。
「すごいね・・・」
次から次へと打ち上がる花火のきらめきの隙間に日奈様のささやきが聞こえて、月乃は自分が花火に夢中になるあまり日奈様の肩にしっかりしがみついていることに気づいた。これは花火が無かったら起こりえない奇跡であり、もしからしたら今この街じゅうで他にもたくさんの小さなミラクルが起こっているのかもしれない。月乃はついに「わたくしは今楽しいですわ」と素直に言うことはできなかったが、彼女の胸にこの半日のことが深く刻まれたことは間違いなかった。
月乃の体が小学生に戻ってしまう現象の詳細については保科先生も調べてくれてはいるが今だ不明である。しかしもし本当に神様みたいなものが存在して、お嬢様を自称しているくせにしょっちゅう恋の戒律を破ってしまっている月乃に罰を与えるために魔法をかけているんだとしたら、その神様は今の月乃を見てどう思っているのか気になるところである。戒律を守らせるための罰であるはずなのに、小学生になったことでクールなお嬢様っぽさとは全く正反対の目映く楽しい思い出を作れてしまったのだから。
「綺麗だね」
日奈様が月乃の耳元で囁いた。夏が終わってしまえば、もうこんな機会が訪れることはないだろうなと思った月乃の胸はきりきりと痛んだが、空に消えていってしまう花火の美しさをニセモノだとは思えないので、今日のことは大切な思い出として心の中の内緒の宝箱にしまっておいて、9月からまたしっかりお嬢様として生きていこうと月乃は思った。ここはお嬢様月乃の、誰も知らない夢の跡地になるのだ。
「もう花火始まっちゃってましたぁ!」
ブルーハワイを頭に乗っけた桜ちゃんが坂を上がってきた。
旅の楽しみ方は様々であるが、行きと帰りを別の道にすることを粋と考える人もいる。
「姉小路様、この遊園地がどこに建っていたか分かりますか」
「えーと、学園のすぐ南ですよね」
花火と日奈様の体の感触の余韻浸ってまだ足元がふらふらしている月乃の横で、二人が帰り方について相談し合っている。
「そうなんです。実はここから裏の山を越えればもう学園の敷地なんです」
「で、でも・・・山に入るのはあぶないと思いますけど」
既に遊園地の高所にまで来ているとは言え、夜の山に入るようなオバカな真似をしていたら命がいくつあっても二学期を迎えられない。
「ところがですね、この遊園地からベルフォール女学院の敷地に抜ける秘密の通路があるらしいんです」
「つ、通路、ですか?」
「はい。場所までハッキリ調べたんですけど、うーん、完全に忘れてしまいまして」
桜ちゃんは情報の肝心なところを綺麗サッパリ忘れるという素敵な能力を持っている。
「・・・桜様、わたくしたちはもう充分冒険をいたしましたのよ。また麓まで下りて、神社のそばからバスに乗って帰るのが賢いと思いますわ」
月乃の舌はイチゴ味のかき氷でピンク色になっている。
「ちょっとだけ探してみましょうよ、その通路。たぶんこの辺りですし」
「そ、そうですね」
「しょうがないですわね、5分だけですのよ」
月乃が一番のしっかり者みたいになっているが、彼女は小学生である。
「そもそも、遊園地の中から外に出られる秘密の通路なんて・・・」
「ありましたぁ!」
世の中は月乃が考える以上に非常識で、表面をお嬢様の指先でなぞるだけでは理解もできないロマン溢れる立体構造である。
桜ちゃんが発見したのは、『この先サン・ベルフォール女学院。関係者以外立ち入り禁止』というご丁寧な看板付きの歩行者用トンネルだった。夜中にトンネルだなんて、これはいよいよオバケとコンバンハできそうな状況であるが、今夜は夏祭りのためかトンネル内に和紙をイメージした朧に透けるガラス製の灯籠がたくさん並んでおり、怖いどころかこれから昔話の世界へタイムスリップできちゃいそうなワクワクすら感じさせる光景である。
「行きましょう!」
「そうですねっ」
意外にも日奈様もノリノリである。彼女はとにかく自分の外見が他者の人生を狂わす罪悪感に悩んでいるので、トンネル相手には割と積極的なのだ。ちなみに日奈は全身が完璧に健康でスポーツも万能である。
「・・・でもこれ、なんかの罠じゃありませんの?」
「大丈夫、おねえちゃんが一緒だよ」
後ろから両肩を優しく撫でられて月乃は「うぅっ!」と声を上げた。日奈様に寄り添われてしまっては、もう抵抗する余地はない。
「行きましょう!」
桜ちゃんは同じ台詞を何度も言ってくれる親切な少女である。浴衣姿の三人は淡い虹色のトンネルに飛び込んだ。こういうのは勢いが大事である。
前に桜ちゃん、後ろに日奈様という定位置で駆ける月乃は、自分たちの陰と下駄の音と笑い声がトンネルの輝く天井に満ちる様子を、遠い宇宙のドキュメンタリーでも見ているような気分で眺めた。夢の世界から現実の世界へもどる道が、こうも幻想的であると、ますます元の生活に戻るのが切なくなるからやめて欲しいものである。
「小桃ちゃん、足元気を付けてね!」
「は、はいっ!」
追いつかれたら日奈様にまた抱き上げられてしまいそうだったので月乃は必死に走ったのだった。
桜ちゃんの浴衣の袖が目の前でヒラヒラ揺れ続けたので、月乃はトンネルの出口がぐいぐい迫っていることに気づかなかったから、急に開けた視界に月乃は息を飲んだ。
提灯と和太鼓の世界だった南の街とは打って変わり、トンネルの向こうにはレンガと大聖堂の学びの園が広がっていたのだ。見下ろせるたくさんの寮も、吹き抜ける夜風の香りも、全てが月乃のよく知る街のものである。
「帰ってこられましたね!」
桜ちゃんの持っている、何かあっても結局全部上手くいきそうなポジティブパワーは見上げたものである。
「小桃ちゃん、すごい。よくがんばったね」
自分は帰ってきたんだというホッとした気持ちと、中腰になって自分を覗き込む日奈様の笑顔が月乃の心の中でミルクティーのように甘く溶け合った。どうやら月乃はいつの間にかこの学園のことを自分の大切なホームタウンだと意識するようになっていたらしい。
三人は大聖堂広場で別れた。
セーヌハウスやマドレーヌハウスはもう少し手前にあるため、日奈様と桜ちゃんは南大通りの適当な場所でサヨナラして良かったのだが、保健室に滞在中の小桃ちゃんのことを広場まで送ってくれたのである。皆でセーヌハウスに泊まっていかないかと日奈様が提案してきたが、月乃は必死に首を横に振って断ったのだ。もう月乃の心と体は、疲労とはまた別の理由で限界に近い。
「それじゃあね、小桃ちゃん」
「は、はい」
ド派手にライトアップされた大聖堂広場での別れは、どんなものであってもドラマチックになってしまう。遠ざかっていく二人の背中を夢見心地で見送った月乃は大聖堂のバラ窓をなんとなく見上げた。白鳥座はこの街の空にも浮かんでいた。
「小桃ちゃんっ」
「ひ!」
軽やかな下駄の音が聞こ出したかと思ったら、帰ったはずの日奈様が一人で戻ってきた。
「な、な、なんですの?」
「小桃ちゃん」
日奈様が月乃の前でしゃがんだので、月乃は彼女の胸の谷間をちょっぴり見てしまった。
「最後にお願いがあるんだけど」
「ななな! なんですの!?」
わざわざ二人きりになる必要があるお願いなのだろうか。
「あのね」
日奈様は白い手のひらをそっと月乃に差し出した。どうやら月乃と握手がしたいらしい。思えば月乃は今日ずっと日奈様と手を繋ぐ機会を意識して避けていたため、それをずっと気にしていたのかもしれない。
「ちょっとだけ、手繋いでくれる?」
「う・・・」
広場の眩しい金色のライトに浮かび上がる二人きりの時間は永遠のように長く感じられたが、月乃はそこで降り積もった勇気を必死にかき集めて思い切って彼女に手を伸ばした。月乃はかっこいいお嬢様だから、素直に「楽しかったですわ」と言うことはできないが、感謝の気持ちだけは伝えなきゃ気が済まなかったのだ。
日奈様の温かくて柔らかくてスベスベな手は、月乃の小さな手を心ごと包み込んでくれる魔法のお手々だった。
「ありがとう、小桃ちゃん」
眩しい笑顔と感謝の言葉を残して今度こそ日奈様は帰っていった。振り返って手を振る日奈様の姿に、たった今見ていた彼女の笑顔がぼんやり重なって見えたので、月乃は自分がまだ夢でも見ているかのような感覚におちいった。
「お姉さま・・・ありがとうは・・・わたくしの台詞ですのよ・・・」
大聖堂広場のライトに包まれ、贖罪の鐘の音に抱かれ、月乃はその場にゆっくりと倒れ込んだ。一寸の隙も許されぬ硬派なお嬢様人生に、儚くも美しい夢のような時間をくれた自分の八月の運命に、月乃が感謝をしていないと言えば嘘になる。