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22、電話

 

「はい。こちらロワールハウスですわ」

 バスタオルを頭から被った月乃は、ピカピカの黒い受話器を手に取った。

『お、月乃ちゃん。こんばんはー、保科先生だよお』

 ロワール会の生徒として恥ずかしくないようなクールな声色を作ろうと意識して電話に出たというのに、相手が保科先生では気が抜けてしまう。

「あら・・・なんのご用ですの?」

『いいニュースがあって電話したんだからもう少し楽しそうな声でしゃべってほしいなあ』

 夏休みに入ってからの保科先生は普段以上にノリが軽く、まるで同級生みたいである。

「いいニュース? 道でドングリでも拾いましたの?」

『ちがうちがう。親戚の小さい子が去年使ってた浴衣、譲ってもらえたからさ、今度お祭りに行こうとしているキミにあげようと思ったのさ』

 ロワール会の仕事がなくて暇な日に月乃はよく保健室に遊びに行っているのだが、先生はこのお祭りの件で妙に盛り上がっており、進んでいろんなお手伝いをしてくれる。

「あ、あら・・・それはありがとうございますわ。でも試着はできませんのよ。今高校生ですから」

『分かってるって。適当なタイミングで浴衣取りに来な』

「分かりましたわ。わざわざありがとうございますの」

 浴衣などというカワイイ服は着たこともないので、正直要らないのだが、少なくとも桜ちゃんは浴衣でお祭りに行くらしいので、着ていても自分だけが浮いてしまう心配はない。

『お祭り来週だけど、小桃ちゃんに変身できそう?』

「・・・日奈様に会うチャンスがなくて全然できませんわ。最近のわたくしは戒律を完璧に守る模範的な女ですのよ」

 ロワール会の一員としてはベストな状態である。

「最悪の場合わたくしは欠席ですわね。高校生の細川月乃はお祭りになんて行けませんから」

『でもそうなると日奈ちゃんと桜ちゃんが二人でお祭りに行くことになるけど』

「そ、それは困りますわっ!」

 大きな声を出してしまった月乃は廊下を見回した。西園寺会長は二階にいるので大丈夫である。

「と、とにかく近いうちに保健室にお邪魔しますわ」

『はいはーい。待ってるよん』

 なぜかご機嫌な様子の先生は、そう言って電話を切ってしまった。

「はぁ・・・。どうしましょう・・・」

 いつもは小学生の体になってしまうのがイヤでイヤでしょうがない月乃だが、今ばかりは早く小桃ちゃんに変身したいと思っている。変身できたとしても日奈様と一緒におでかけしてまともな精神状態でいられるかは大いに不安だが、それはまた当日になって悩めばいいことである。


「どなたからの電話?」

 黒いバスローブ姿の西園寺会長が椅子に腰掛けて待っていたのは、二階の階段横にある共有スペースである。

「保健の先生からでしたわ。ま、まあ、大した用事ではありませんでしたのよ」

「そうなの」

 一緒にお風呂に入った月乃と西園寺会長は、お風呂上がりのひと時を夜風に当たりながらのんびり過ごしているのだ。この地域は盆地だがそもそも標高が高いので、真夏でも夜になれば心地よい風が吹く。

「夏の虫が鳴いているわ」

「そうですわね」

 月乃は会長の隣りの椅子に座った。軽自動車一台分くらいのスペースだが、二人が椅子を並べて歓談するには充分な場所である。

「いつもこの学園は無口な乙女たちの靴音で賑やかだけれど、夏になって色んな音が聞こえてきたわね」

「たしかに、山を駆け下りてくる風の音も気持ちいいですわね」

「どこの寮か分からないけど、かすかに風鈴の音も聞こえるわ」

 空き部屋から持ってきた小さなテーブルに冷たいお茶のコップを二つ並べて、会長様とのんびり過ごす時間はなかなか幸せである。

「音と言えば、わたくしこの前の見回りで初めてパイプオルガンをじっくり見ましたわ」

「大聖堂のあれね。大き過ぎて、管理が容易じゃないのよ」

「たしかにすごく大きかったですわ。鍵盤もたくさん並んでて、ドアノブみたいなレバーも付いてましたし」

 グラスの氷をカランカラン鳴らして言った月乃の言葉に、会長は返事をする訳でもなく、いつも通りの人形顔で窓のカーテンレースをしばらく見つめていた。

「鍵盤?」

「え」

「今、鍵盤って言った?」

 会長は意外なところに食いついた。

「言いましたけど・・・」

 西園寺様ほどの秀才にかかれば、どんな些細な情報も逃さないのである。

「あのパイプオルガンはね、普段使われていないから鍵盤やレバーは木製のシャッターを下ろして鍵を掛けているのよ」

「・・・そうなんですの?」

 月乃が見た時、そのようなカバーは無かった。

「夏休みの隙を突いて、誰かが悪いことを企んでいるようだわ」

 会長はその誰かに心当たりがある様子である。

「月乃さん、ダンスはできる?」

「え?」

 随分唐突な問いである。

 ひと口にダンスと言えど色々あるが、月乃が中学の授業で少し習ったようなヒップホップな踊りは月乃の趣味の対極に位置するので、できないわけではないはずだが、なるべくやりたくないものである。

「ど、どのようなダンスですの?」

「ワルツよ」

 社交ダンスでみるような踊りである。月乃はお嬢様だが別に社交的ではないのでワルツは習ったことがなかった。

「・・・いえ、あんまり経験はありませんわ」

「私もよ」

「え?」

「だから、明日から練習しましょう」

 会長は「細かい理由はそのうち話すわ」と言ったきり黙ってしまい、涼しい顔でお茶を飲むので、月乃もこれ以上踏み込んで尋ねなかった。


 どうも会長は極秘でワルツの練習をするつもりらしく、練習場は寮の3階にある会長の自室になった。会長のお部屋は月乃が暮らす2階の部屋よりも若干広いとは言え、このような緊張する場所で会長と寄り添い合い、ダンスをしなければならない月乃の神経の擦り減りようは凄かった。

「休憩にしましょう」

 ワルツのダンスがこれほどまで体を密着させる危険な踊りであることを月乃は知らなかったので、終始下を向いたままステップを教わった。休憩タイムをこれほど恋しいと感じたレッスンは久々かもしれない。

「あ、お水を持って参りますわ」

「いいわ。私が言ってくる」

「え、でも・・・」

「いつも月乃さんがやってくれるから、たまには私が行くわ」

 会長の部屋に残されてしまうのもちょっとツラいのだが、会長はかっこいい背中を見せてさっさと部屋を出て行ってしまった。月乃は西園寺様のいい匂いがするベッドの脇にペタンと座り込んで待つことにした。ここが一番エアコンの風が当たるのだ。

「月乃さん」

 しばらくすると、階段の下から会長の声が聞こえてきたので、月乃は慌ててドアを開けて顔を出した。

「は、はいっ」

「買い置きしていた水が無くなったみたいだから、近所のお店まで行ってくるわ」

「そ、それでしたらわたくしが!」

「いいのよ。たまには私も働きたいの」

 月乃の気のせいかも知れないが、最近の西園寺様は毎日楽しそうである。


 快適な室温と心地よい疲労感に包まれた月乃がウトウトし始める頃、会長が帰ってきた気配がしたので、月乃は髪をしっかり整えてから階段の踊り場まで迎えにいった。ちなみに階段の踊り場は結構危ないのでここで踊ってはいけない。

「帰ったわ」

「おかえりなさいませ。申し訳ありません。わたくしの仕事ですのに」

「いいのよ」

 会長は紙袋から水滴がキラキラ光るお水のボトルを取り出した。

「ありがとうございます」

「ヴェルサイユ広場の前で姉小路日奈さんに会ったわ」

 月乃はペットボトルを落としそうになった。

「ひ! ひ、日奈様ですの?」

「夏休みで閉まっているお店が多いから、専門店に行こうと思ったら遠くまで足を伸ばさなきゃいけないのね。彼女、買い物へ行く途中だったわ」

 月乃が日奈様に惚れちゃっていることは、西園寺会長にはもちろん内緒なので、月乃はなるべく平静な表情を作ろうと努めた。

「それで・・・どんなお話をされましたの」

「大したことはしゃべってないわ。でも」

「でも・・・?」

「パイプオルガンの件でどうしても話さなきゃいけないことがあるから、今週中にロワールハウスに来るようにという東郷会長への伝言を頼んでおいたわ」

「そ、そうですのね。何を話し合いますの?」

「釘を刺しておくだけよ。何を企んでいるかはお見通しだから、やめなさいってね」

「ワルツと関係ありますの」

「あるわ。でも私たちがダンスの練習をするのは最悪の事態になった時の保険よ。いざとなった時、踊れなきゃ困るでしょう」

 なるほどセーヌ会の東郷会長は球技大会に続いてダンス大会までも企画しようとしてるんだなと月乃は思った。それにしても、もしさっき自分がお水を買いに行くことになっていたら日奈様と出会っていたことになるので、月乃はほっとしたような、そしてちょっぴり残念なような不思議な気持ちを抱いた。


 その夜のことである。

 月乃がキッチンで西園寺様と一緒に魚を煮込んでいると、廊下から電話の呼び出しベルが聞こえてきた。

「わたくしが出ますわ」

 月乃は素早く反応して廊下に向かった。昼間は西園寺様に買い物に行かせてしまったし、電話くらいは出ようと思ったのだ。それにこんな時間に電話をしてくるのはきっとあの保科先生である。

「もしもーし」

 昨夜はクールな感じで電話に出た月乃も、相手が保科先生だと思い込んでいたせいで、かなり適当な感じの声色でしゃべり出してしまった。

『こ、こんばんは・・・』

「ひぃ!」

 月乃は日中のペットボトルに続き、受話器も落としそうになった。

「も、も、もしもし!?」

『こんばんは。セーヌハウスの姉小路と申しますが・・・もしかして、あの・・・月乃様ですか?』

 油断したところに日奈様は現れる。月乃は左耳から全身に伝わる甘いしびれに頭がくらくらしてしまったが、なんとか顔だけでもクールな感じに仕上げて声を絞り出した。

「え、ええ。そうですのよ。細川ですのよ。セーヌ会の日奈様がロワールハウスに何の御用ですの?」

『あぁ・・・はい。昼間の伝言の件で、東郷会長から西園寺様にメッセージを預かってまして・・・』

 回りくどい連絡合戦である。

「あら、どんなメッセージですの? 内容によっては西園寺会長に伝えてあげないでもないですわ」

 月乃は強気の対応をすることでしかお嬢様っぷりを維持できなくなっている。

『申し上げにくいんですが・・・ご用がおありなら西園寺会長がセーヌハウスに来るのが筋でしょう、と東郷会長が言ってまして・・・』

「あら・・・そうですの」

 日奈様も苦労してるんだなと月乃は思った。

「まあいいですわ。西園寺会長に伝えておいてあげますの」

『あ、ありがとうございます。お願いします』

 それにしても東郷会長もなかなかに強情な女である。あの西園寺様が来いと言っているのだから、すぐに駆けつけるのがベルフォール生として正しい姿である。

「今はお料理中ですし忙しいので、返事はたぶん明日になりますのよ」

『はい。分かりました』

 話すべきことを話し終えた二人はもう電話を切ってよかったのだが、数秒ばかり無言の間があった。どちらかが何かをしゃべってくれるのを待つような、不思議な時間である。

『・・・そ、それでは・・・失礼します』

「は、はい! さよなら・・・ですわ」

 初めて日奈様と電話をした月乃は、その後ご飯を食べている時も、お風呂に入っている時も、胸のドキドキがなかなか収まらず、耳に残っている日奈様の声が一晩中頭の中をいったりきたりして彼女の心を揺さぶった。


 もちろん西園寺会長がセーヌハウスに足を運ぶわけがない。

「私たちのロワール会が第一生徒会なのよ。東郷会長は身の程が分かっていないわね」

 昨夜から西園寺様はこんな感じでお怒りである。

 胸の奥がふわっと浮かび上がるようなそわそわとした気持ちで朝食のお皿を洗い終えた月乃は、ダイニングの窓からこぼれる午前の日差しの中でグッと伸びをして気合いを入れた。月乃はこのあとセーヌハウスに電話をしなければならないのだ。

「よし・・・」

 西園寺様はお勉強のために自室に籠ってしまったため、1階の廊下には誰もいない。月乃は少し熱っぽい指先でセーヌ会の番号を押した。ちなみに各寮間の電話はすべて内線扱いなので番号は3ケタである。

 ちょっと冷たい受話器を耳に押し当てて、月乃は呼び出し音に耳を澄ました。

『はい。セーヌハウスです』

 鈴の鳴るような美しい声が電話に出た。こんなに綺麗な声を惜しげもなく地球上にこぼしてくれる日奈様は愛の天使なのかもしれない。

「わ、わたくしですのよ。ロワールのお嬢様の、細川月乃ですのよ」

『あっ、こ、こんにちは』

 シミュレーション通りに上手に日奈様と会話を始めることができた満足感で、月乃は頭がぼーっとしてしまった。

『・・・あのう、月乃様、ご用件は』

「あ! 用件、というのはつまり・・・」

 月乃はもう顔が真っ赤である。

「・・・東郷会長に伝えて欲しいことがありますのよ。昨日の提案の返事ですわ」

『はい、わかりました・・・』

「サン・ベルフォール女学院の正統な生徒会はロワール会ですから、その会長が来いと命じている場合、素直に来るのが道理ですわ。セーヌ会がロワール会と対等だという誤った認識を持っているのなら、早めに直してください、とお伝えしてくださるかしら」

『わかりました・・・東郷会長がロワールハウスに行くように説得してみますね』

「・・・は、はい。それでいいんですのよ」

 日奈様はやっぱり争いを好まない生き物なんだなと月乃は思った。

「・・・い、以上ですのよ」

『はい・・・』

 用件は済んだのだが、二人とも電話を切ろうとしない。昨夜と全く同じ現象で、二人きりのコミュニケーションの時間が終わってほしくないという願いと、何をしゃべっていいか分からないという困惑が入り混じって、不思議な時間を生み出しているのだ。二人の沈黙を埋めてくれたのは、遠くから聞こえてくるセミの声だった。

『あの・・・そ、それでは、また』

 十秒ほどがあっという間に過ぎると、日奈様がそう言って電話を切った。月乃は受話器を置いたあとも、しばらく廊下に立ちつくして日奈様の声の余韻に浸った。

「日奈様・・・」

 対立する生徒会が連絡し合っているだけなのに、なんとなく友達になれそうな温かさを感じる電話だった。日奈様からあんまりいい印象を持たれていないと思い込んでいる月乃には、なんとも不可解な感覚である。


 この日の午後も月乃は西園寺様と一緒にダンスの練習をしたのだが、いつまた日奈様から電話が掛かってくるかもしれず、ずっと緊張しっぱなしだった。ただでさえ会長の部屋で二人きりのレッスンを受けて気持ちが張り詰めているので、かなり神経が疲れる午後になった。

「だいぶ上達してきたわね」

「そ、そうでしょうか」

「ええ。とっても上手よ」

 腰に手を回されたまま褒められるとさすがの月乃も照れてしまう。

「もう夕方だし、今日はこれくらいにしましょう。ご飯にする? それとも、お風呂にする?」

 体を密着させたまま先輩が尋ねてきた。

「それでは、わたくしはお風呂の準備をしますわ」

 その時間に先輩はちょっとだけ宿題を進めることになった。西園寺様のクラスだけかもしれないが、二年生になると夏休みの宿題の量が膨大になるらしい。

 お風呂は午前中に掃除を済ませてあったので、あとはお湯を入れるだけなのだが、栓などをチェックするため月乃は靴下だけ脱いで大浴場に入った。お風呂場の天井近くの窓からヒグラシの声が聞こえてくる。昔から月乃はミンミン鳴くセミよりも夕方に切ない感じの声を出すヒグラシのほうが好みである。月乃が湯船の元蛇口を開けると、お湯が勢いよく浴槽に流れ込み始めた。ちなみにこの学園の寮のお湯はほとんどが天然温泉であり、ちょっとだけ電気湯沸かし機の力を借りて温度を調節している程度なので、結構じゃぶじゃぶ使っても問題はないらしい。

 すると、湯しぶきの音にまぎれて電話の呼び出し音が聞こえてきた。月乃は慌てて脱衣所に出て、裸足のまま廊下を駆けて受話器を取った。

「ももも、もしもしですわっ!」

 電話というのは心の準備をする時間を与えてくれないので、お嬢様とはあまり相性のいい通信手段ではない。

『あの、セーヌ会の姉小路です。先ほどは・・・どうも』

「わ、わたくしは細川月乃ですのよ。お嬢様ですのよ。東郷会長のお返事はどうでしたの?」

『はい・・・ロワールハウスとセーヌハウスの丁度真ん中にあるベルフォール大聖堂で会議をやりましょう、ということでした』

「・・・なるほど」

 東郷会長は譲歩してきたようである。ちなみに本学園の二大寮、ヴェルサイユハウスとマドレーヌハウスも大聖堂をはさんで対称的な位置関係にあるので、ライバルになる寮は立地によって運命付けられているのかもしれない。

「その提案でしたら、西園寺様から良いお返事を頂ける可能性もありますわ。ちゃんとお伝えしておきます」

『よろしくお願いします』

 電話の用件が終わったこの時、月乃の胸には今朝のドキドキがすぐに蘇り、全身がポッと熱くなったが、またしてもあの甘い時間が始まる前に、月乃は冷たい一言を放った。

「それじゃあ、切りますわよ」

『あ、は、はい。それでは、また』

 月乃は自分の欲求に素直にならないことが美徳だと思っている女なので、さっきの幸せな沈黙をまた味わおうと期待していることを日奈様に悟られたくなかったのである。これは、お腹が空いていても他人のご飯を物欲しそうな目で見ずに平気な顔をしていよう、という武士の高楊枝みたいな理論の延長にある精神である。

 が、電話を切ってしまってから月乃はかなり後悔をした。直接顔を合わせずにコミュニケーションをとれるという、言わば盾を持った状態で日奈様と接することができる機会は滅多にないので、ちゃんと味わっておくのが正解だったのかも知れない。

「はぁ・・・」

 落ち込んでしまった月乃は、宿題を一段落終えて下りてきた西園寺様に指摘されるまで自分が裸足のままでいることに気付かなかった。


 大聖堂で会議するアイディアに西園寺様はなんとか納得してくれた。

「会議と言っても私があっちの会長に注意をするだけだから、月乃さんは来ないで大丈夫よ」

「そうですの?」

 西園寺様の持つ距離感は独特なので、広い脱衣所であっても月乃のすぐ隣りで服を脱ぐ。

「そうよ。明日に電話して、今週の土曜の正午に大聖堂へ来るようセーヌに連絡してくれる?」

「分かりましたわ」

 寄り添いあってロマンチックなダンスを踊るパーティーなんか企画されたら、恋をしてはならないという戒律に違反する生徒が続出するおそれがあるので、西園寺様なら意地でも開催を阻止してくれるだろう。ワルツの練習が少しずつ楽しくなってきた月乃も、やっぱりダンスは恥ずかしいので、開催されないに越したことはないと思っている。夏休みを利用して新しい教養を身につけましたよ、みたいな感じで充分なのだ。

「行きましょう」

「はい」

 月乃は明日電話した時にどんな感じで日奈様としゃべったらクールなお嬢様っぽいか、湯船に浸かって考えることにした。


 いよいよこれが最後の電話である。

 月乃は電話の前でしばらくウロウロしていたが、意を決して受話器を取り上げた。ちなみに西園寺様は電話の件の一切を月乃に任せている代わりに、朝食を終えたらすぐに見回りの仕事に行ってしまったので、今寮にいるのは月乃だけである。

 月乃は自由の女神のようなポーズをとって自分の人差し指を冷房で冷やしてからセーヌハウスの番号を押した。とにかくロワール会のお嬢様はクールさが命なのである。

『は、はい、セーヌハウスです』

 まるでこちらからの電話を待っていたかのような迅速な反応で日奈様が受話器を取ってくれた。

「わた、わたくしですのよ。月乃ですの」

『はい・・・こんにちは。日奈です』

 二人の声はちょっぴり火照ったように高音になっている。

「昨日の返事ですけど、大聖堂で会議する件、オッケーが出ましたのよ。次の土曜日の正午に東郷会長は大聖堂へ来るようにと伝えてくださいます?」

『わかりました。いろいろありがとうございます』

「いいんですのよ」

 さて、これにてあらゆる連絡が終了した。もうこの受話器を置いてしまえば月乃の仕事は終わりであるが、月乃は昨日のように冷たく電話を切ることができなかった。冷静に考えてみると、夏休みが終わって生徒たちが帰ってくれば学園の郵便システムがまた機能し始めるので、こうして日奈様と受話器越しにおしゃべりする機会はなくなるかもしれないのだ。

「あ、あの・・・」

『はい・・・』

 今日はこっちからブチッと切ることはしませんわよというアピールのために月乃はとりあえず何か言いたげな声を漏らしておいたが、どんなことをしゃべっていいか全然分からない。いつも通りセミの声が二人の沈黙を埋める作業に入りだした、その時である。

『つ、月乃様・・・』

 受話器の向こうの日奈様がしゃべり始めたのだ。

『最近・・・暑いですね・・・』

 飛び跳ねそうになる心臓の鼓動を聞かれないようにするためか、月乃は無意識のうちに自分の胸に手を当てていた。

「な、夏ですもの。当たり前ですわ・・・」

『そうですよね・・・洗濯物がよく乾きます・・・』

 自分のような絡みづらいお嬢様に気を遣って会話してくれているんだと思った月乃は、そのお返しにこっちから何か質問をすることにした。

「ど、どんな洗濯物がよく乾きますの?」

 意味不明な質問である。

『え? いろいろですよ。シャツとか、下着とか、シーツとか』

「な、なるほどですわ」

 会話してもらえるんだという安心感が日奈の緊張をちょっぴりほぐした。

『もう八月の半ばですけど、その・・・月乃様は・・・夏休みになにをしたいですか』

「そ、そうですわね、フランス語とイタリア料理をマスターして、イギリスに行きたいですわっ」

『わぁ・・・すごいですね』

 月乃は本心でしゃべりたがらない割に嘘が下手である。

「ひ、日奈様は・・・」

『え』

「日奈様は夏休みになにがしたいんですの」

 同じ質問を返せば失敗がない。

『私がしたいことは・・・えーっと』

 日奈様は照れたように少し笑った。彼女の笑顔はこの世のものとは思えないほど美しいが、その輝きが受話器から溢れて月乃の耳をくすぐったため、月乃は体をビクッとさせてしまった。耳にふぅーっと息を吹きかけられた時のようなゾクゾクを電話越しに相手に感じさせてしまう姉小路日奈様は、宇宙のさまざまな物理法則を超越した魔女なのかも知れない。

『私が夏休みにしたかったことは・・・もう叶っちゃったような気がします・・・』

「あら・・・そうですの?」

『はい・・・』

 月乃様とおしゃべりがしたい・・・日奈がそんな願いを持っていたことを、月乃は知る由もない。

「まだ二週間以上残ってるんですから、新しい目標でも作ったらいいと思いますわよ」

『んー、そうですね。しいて言えば、気球に乗ってみたいです』

「き、気球ですの?」

『はい。小さい頃から好きなんです』

「飛行機じゃだめですの?」

『飛行機もいいんですけど、風船みたいにゆっくり空を飛ぶのが夢なんです』

「あら・・・ご存じないかもしれませんけど、気球というのは頭上でボワワーッとバーナーが轟音を立てていて、とてもじゃありませんけどのんびり旅なんか楽しめませんのよ。熱いですし」

『そうなんですか?』

「そうですのよ。乙女ならやっぱり、馬車ですのよ。馬はボワワーッて言いませんから」

『馬・・・ボワワ・・・』

 日奈様がくすくす笑い出した。

『そうですよね。馬はボワワーて鳴きませんもんね』

「そうですのよ。ですから地に足付けた目標を持ってくださいね」

『・・・はいっ!』

 気球について適当な知識で語るお嬢様月乃のアドバイスに、日奈はなんとも嬉しそうに返事をした。まさかこんな風に生徒会と無関係な雑談をできるだなんてお互い思っていなかったので、この時間は二人にとってとっても幸せなひと時だった。

「あ・・・」

 ふと時計を見るとまもなくお昼である。月乃が電話を掛けるまでにウロウロしすぎて時間が経っていたため、間もなく西園寺様が帰ってきてしまうのだ。西園寺様の前で「ボワワーッ」みたいなことはしゃべっていられない。

「わたくし、そろそろ電話を切らなきゃいけませんのよ」

『そうですか・・・』

 二人は旅立ちの日の朝のような切ない気持ちになった。これが最後の電話になるかもしれないことはよく分かっているからだ。

『あ、あの・・・たくさんお話ししてくださって・・・ありがとうございました』

「え・・・」

 月乃は自分がフレンドリーになりすぎてしまったことに気付いて、慌てて冷たいセリフを探した。

「べ、別に・・・あなたがしゃべってきたから、仕方なくお話ししてあげただけですのよ。わたくしはさっさと電話を切りたかったですわ。ホ、ホントですのよ」

 いつの間にか月乃の心と体は、口先だけのクールさだけでは抑えきれないほど熱くなっていた。

『私・・・その・・・』

「はい・・・」

 もう自分のペースを作れなくなってしまった月乃は、日奈様の言葉をおとなしく待つだけの子供みたいになってしまったが、大人っぽく聡明であることが自分らしさであるというお馴染みの信念など熱で溶けてしまっているから、この時の気分はとても幸せだった。まるで女神様に抱きしめられているような幸福感が受話器を通じて伝わってきたのである。

『私は・・・月乃様とお話しできて・・・嬉しかったです・・・』

 月乃は「ふぇ」っと情けない声を漏らして黙ってしまった。話ができて嬉しかったということはつまりどういう意味なのか月乃は推理しようとしたが、受話器を持つ手が震えてしまって、もう考え事なんかしている余裕はなかった。

『そ、それでは・・・失礼しますっ』

 切れてしまった受話器を耳に当てたまま、月乃は立ち尽くした。日奈様はもしかしたら自分のことをそれほど嫌っていないのかもしれない・・・そんな予感が月乃の体のどこか深いところを優しく刺激して、頭をぼーっとさせた。日奈様はその非常識なまでの美しさを、徹底した遠慮と謙遜のベールに包むことによってようやく日常生活を送ることができる美の化身なので、そんな人に「あなたと話せてよかった」などと電話で囁かれたら、さすがのお嬢様月乃もノックアウトである。

「うっ・・・」

 内股になって座り込んでしまった月乃の背後に、あの音色が近づいてきたのだった。



 夏休みの保健室はいつにも増して暇である。

 傷を負ってはならないという戒律があるお陰でもともと保健室を利用する生徒は少ないのに、夏休みにもなってしまえば何もやることがなくなってしまう。保科先生は実家から届いた荷物を整理して保健室をより自分らしくアレンジする作業で時間を潰す毎日を過ごしていた。

「あ」

 窓の外を珍しく人影が通りかかったかと思ったら、黒いリボンが素敵な西園寺会長だった。どうやらロワール会の見回りのお仕事らしい。

「んー、相変わらずお美しい」

 ロワール会と言えば、月乃ちゃんがなかなか小学生用の浴衣を取りに来ない。忘れているとは考えにくいが、恋の戒律を破って小学生の姿になる機会が得られず苦戦しているのかもしれないなと保科先生は思った。根っからの硬派なお嬢様なのだから無理もない。

「電話しよーっと」

 とにかく時間をもてあましているので、先生はロワールハウスに電話を掛けることにした。西園寺様はたったいま西大通りを歩いていたので電話に出る人がいればそれは確実に月乃ちゃんである。


 鳴り始めた電話の呼び出しベルと一緒に、ひんやりした床の感触が体に流れ込んでくる。

 月乃は重い体を起し、ちかちかと明滅する視界で懸命に電話の場所を探り当て、受話器に手を伸ばした。

「も、もしもし・・・」

『あ、月乃ちゃん?』

「はい・・・」

『浴衣早く取り来ないと先生が食べちゃうぞ。あ、もしかして、小桃ちゃんに変身できなくて困ってる?』

 受話器の異常な重量感と、天井の高さを感じた月乃は、自分の手のひらのサイズを確認した。

「どうやら・・・その心配は要らないみたいですわ」

『え?』

 良いことなのか悪いことなのか分からないが、とにかく月乃はドキドキのしすぎで恋の戒律に違反し罰を受け、小学生になれたようである。

「電話というのは・・・ほんとに厄介な機器ですわね」

『え、も、もしもーし。月乃ちゃん?』

 連日の緊張と興奮ですっかり疲れていたお嬢様月乃はそのままペタンと倒れこんで再び夢の世界に落ちてしまったが、彼女にとってその疲労感は達成感の裏返しであり、必ずしも不快なものではなかったことは、幼い月乃ちゃんの幸せそうな寝顔を見ればよく分かる。

 

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