20、お誘い
月乃は誰かに感謝されれば高校生の姿に戻ることが出来る。
逆に言えば、小学生のままでいたいタイミングであっても、誰かが月乃に「ありがとう」の気持ちを念じた瞬間、彼女はいつもの不思議な鐘の音に包まれて高校生に変身しちゃうのだ。
「こんにちは、姉小路様。今日はお散歩ですか?」
「え、ええまあ・・・私の寮に近い食料品のお店が今日からお休みらしくて、夏休み中も営業してるお店を探してるんです。桜様は?」
「私はお散歩です。バスターミナルが騒がしいという噂を聞いて見に来てしまいました」
「そ、そうなんですか・・・」
姉小路日奈様と桜ちゃんが仲良くおしゃべりしている現場に偶然を装って近づき、二人がどれくらい睦まじい関係なのかチェックしなければ気が済まない小学生モードの月乃は、人影が少なくなってすっかり開放的になったバスターミナルの日なたを小さな足でパタパタと駆けていた。ベルフォール盆地を吹き抜ける軽やかな初夏の風は、月乃のさらさらと柔らかい髪をふんわり揺らしている。
「もしもし、桜様」
そう呼びかけようとした時、月乃はイヤな音を耳にした。
「あ・・・」
遠い潮騒のようにさりげなく聞こえ始めて迫ってくる、いつもの鐘の音である。
一体誰が自分に感謝してくれたのか、月乃にはサッパリ心当たりがなかった。たった今彼女がしたことと言えば、西園寺会長と別れて少し走ったことくらいである。西園寺会長がきっかけになっている可能性が高いタイミングだが、あんなに優しい会長が「小桃さん、私のそばから離れてくれてありがとう。清々したわ」みたいな悪いことを考えているとは思えず、結局月乃は誰が自分に感謝してくれたのかよく分からなかった。
が、とりあえず今はそのような推理をしている場合ではない。桜ちゃんはともかく、日奈様に話しかけようと思ったら高校生状態に戻った後だと社会的要因が壁となってしまいほぼ不可能となるし、そもそも二人の近くで高校生に変身してしまうとややこしい事態にもなりそうなので、彼女たちに話しかけるのは取りあえず諦めてこちらの存在に気づかれる前に月乃は急いで身を隠すことにした。花壇の陰が手近でイイ感じだが、変身後のスラッと長い脚が道にはみ出してちょっとシュールなことになってしまうおそれがあるからやめたほうがいいかも知れない。月乃は耳元に迫る鐘の音から逃げるように走り回って、画材屋と青果店のあいだの路地に滑り込み、ヒザを抱えるようにしてしゃがみ込んだ。次に目が覚めた時、月乃はカッコイイ高校生の姿に戻っているはずであるが、日奈様と桜ちゃんの動向が気になってしまって、あまりハッピーな気分ではない。
鐘の音はいつもよりゆっくりと月乃に近づいて散々じらしたあと、ようやく彼女を渦巻くめまいの世界に落としてくれたのだった。
「細川様」
月乃はまどろみの中に涼しげな声を聞いた。
「細川様、ご無事ですか」
「う、うーん・・・」
声を絞り出してみて月乃はすぐに自分の体が本来のナイスバディに戻っていることを感じた。
「はい、無事ですわよっ」
月乃の頭脳はまだほとんど夢の中だったが、釣り上げられたばかりの船上の巨大魚のように飛び起きて、さも自分が眠っていなかったかのようなアピールをした。美しいお嬢様が路地裏でぐうぐう寝てたらおかしいからである。
「ご無事でしたか」
「はい。無事ですのよ」
そこにいたのは黒い帽子を目深に被った小柄な少女だった。麦わら帽子くらいの大きなサイズの帽子なので顔がよく見えないが、多分ドッジボール大会の時にロワールチームで頑張ってくれた女の子である。
「細川月乃様、このようなところで何を?」
「あ、あの、えーと」
帽子が少女の表情を隠しているお陰で完全に目が合っているわけではないのだが、なんだか威圧感がビリビリ届いていて月乃は焦ってしまった。
「この辺りはセーヌ会の空気が強くて危険です。あなたのようなお人がいるべき場所ではありません」
「え?」
どうやらこの子はロワール会の味方であり、路地裏ですやすや寝ていた月乃のことを怪しんでいるわけではないらしい。ただし、以前この少女は小学生状態の月乃に「子供は早くおうちに帰りなさい」などと冷たく言ってきた闇の経歴の持ち主なので、油断しておしゃべりしているとすぐに怪しまれてしまうだろう。月乃はいつも以上に意識して怜悧な声色を作りながら会話することにした。
「わたくしはこの辺りの見回りをしておりますのよ」
「見回り、ですか」
「はい。ロワール会メンバーとしての夏休みの仕事ですわ」
「なるほど、さすがですね。初日からこのような南端の路地裏にまで目を光らせていらっしゃるとは」
彼女も月乃に似てなかなかクールな生徒なのだが、身長は桜ちゃんと同じくらいなのでちょっと可愛くも見える。
(・・・そ、そうですわ! 桜様たちはどこ!?)
月乃は大事なことを思い出した。日奈様と桜ちゃんがおしゃべりをしている場に自分が到着したとて何も出来ず遠くからじっと見つめるだけに違いないが、気になってしまうのだから仕方が無い。
「わ、わたくしもっと周囲を回ってみますわ」
「お手伝い致しましょうか」
「いえいえ! 暑くなってきましたし、わたくし一人で平気ですのよ」
「・・・そうですか」
「そうですのよ」
月乃は髪をサッと撫でてモデルさんのようなカッコイイポーズを決めてから路地裏を抜け出した。やっぱり高校生モードの体は最高である。
バスターミナルに戻ってみると、既にそこには人っこひとりおらず、いつの間にか高く昇っていた太陽が歩道のレンガを白く輝かせていた。月乃は山の深い緑から降り注ぐセミの声を聞きながら、まだ少しぼーっとしている頭を懸命に働かせて二人の行方を考えた。
もう別行動をしているのではないかとも思えたが、月乃の恋の勘がそれを否定した。おそらく日奈様と桜ちゃんは今もどこかで仲良くおしゃべりしているのだ。
「うう・・・」
ぜひ自分もそのおしゃべりに参加したい、というのが月乃の本音である。
「とりあえず・・・こっちのほうかしら」
月乃はセーヌハウスやマドレーヌハウスがある区画に向かうことにした。お昼時なので、営業しているレストランを探すのがいいかもしれない。
「細川様、ごきげんよう!」
「こんにちは。細川様っ」
ほとんどの生徒が里帰りしたはずなのだが、表通りを歩いているとやはり人とすれ違う。
「あら、ごきげんよう」
敵であるセーヌ会の本拠地に近いこの辺りを歩いている理由を主張するために、月乃は建ち並ぶ小さな寮の玄関や路地を意味も無く指差してうなずき、ポケットから取り出したメモ帳になにかを書き記したりした。月乃がイメージする見回りの仕事というのはこんな感じである。
「素敵! きっと見回りのお仕事よ」
「素敵ですねぇ」
どこらへんが素敵なのかよく分からないが、どうやら生徒たちは月乃の意図を分かってくれたようである。こういう時の月乃の演技力は女優並だ。
月乃はマドレーヌハウスのすぐ前にある広場に到着した。中央の大きな噴水が爽涼な感じを演出しているが、近寄って身を乗り出さないとその涼しさは味わえないので、いつも美しい姿勢でいなければならないお嬢様にとってはあんまり意味がない設備である。
「暑いですわね・・・」
月乃は涼しい顔が大得意だが暑さそのものには弱いので、そろそろ日奈様たちを探す作業とは関係なしにどこかのお店に入りたいところである。生徒たちが里帰りしまくっているお陰で8割近くのお店が閉まっているから、喫茶店を探すのも一苦労だ。
ふと、噴水のきらめきの向こう側に白いテーブルが並んだカフェテラスを月乃は発見した。夏なのでさすがにわざわざ屋外でお茶を飲んでいるパワフルな生徒はいないが、窓を見る限り営業はしているようである。
「とりあえず避難ですわ」
クールな月乃は体が溶けちゃう前に喫茶店に入ることにした。
が、夏の暑さの比ではない、もっと月乃の体をとろけさせちゃう人物が店内にいたのだ。
(あ・・・!)
月乃が覗き込んだ木枠の窓の向こうにいたのは、テーブル席で仲良く向かい合っておしゃべりする日奈様と桜ちゃんだった。目の底がズキズキするようなその眩しい光景に自分がいないことがとっても切ないが、窓にうっすら反射する黒いリボンを見ればそれも致し方ないことと納得できる。
(うう・・・)
とにかく桜ちゃんがうらやましい月乃は、セーヌ会の手先である日奈様がクラスメイトの桜ちゃんに悪影響を及ぼしていないかどうかチェックするという名目を心の内で唱えながら、震える指先でカフェのドアを開けた。
店内の空気を肌で感じた瞬間、月乃は背筋がゾクゾクした。涼しいからとかそういうことではなく、日奈様がいる場所の空気は少なくとも月乃にとってはあまりにも特殊であり、底なしの魅力に溢れているから、ちょっと近づいただけで全身の感覚が心地よく狂ってしまうのである。
「いらっしゃいませー!」
「う・・・」
せっかくヒザを曲げながらコソコソと入店したというのに、ウェイトレスの生徒が元気にご挨拶してくれたので、月乃は素早く後ろをむいて観葉植物の陰に身を半分隠した。日奈様たちに見つかってしまったら調査にならないし、下手に日奈様とコミュニケーションをとってしまうとまた小学生に逆戻りだからだ。
「お一人様ですか?」
「ひ、一人ですのよ・・・」
「こちらへどうぞ」
月乃はアンティークな柱時計に隣接するテーブル席へ案内して貰えた。ここはなんと日奈様の顔が見えるという最高に幸せでそして恐ろしい場所だったので、月乃はスカートのポケットに入ったままになっていた終業式のスピーチ原稿を取り出して広げ、自分の顔を隠した。
「あのう、ご注文は」
「アイスコーヒー、ブラックで」
「かしこまりました」
「ミルクやお砂糖は不要ですのよ」
「は、はい」
月乃はブラックコーヒーをアクセサリーかなにかと勘違いしており、幼い頃から苦いのを我慢して飲み続けている。
細身のストローでコーヒーをちゅうちゅう吸いながら、原稿用紙からそっと顔を出して月乃は日奈様を見つめた。溜め息が出るほど美しい日奈様の周囲には虹色のオーロラが同心円に広がっており、彼女の優しい眼差しや透き通る肌、柔らかそうな唇の全てが夢ではなく現実のものだと考えると、月乃の緊張と興奮は加速するばかりである。理由はよく分からないが、月乃は日奈様を見ているといつも脚を少しだけもじもじさせてしまう。
(桜様は・・・日奈様に好意を抱いているのかしら・・・)
気になるところである。クラスメイトの桜ちゃんが自分と同じ人を好きになっているんだとしたら面倒なことになるからだ。
しかし、月乃はラッキーである。
実は桜ちゃんは別に日奈に恋をしているわけではないのだ。確かに姉小路日奈様は道を歩くだけで路傍の花がほころぶような桁外れの美貌を持ち、学園にいるほとんどの生徒が彼女に恋に近い感情をこっそり抱いているような神懸かった美少女である。しかし桜ちゃんは日奈様のことを月乃様と並ぶ程の魅力の持ち主であるという事以外で特別に意識はしておらず、月乃が今心配しているような恋愛がらみの感情を持っていない。
では、桜ちゃん一体どんなことを考えて日奈様とおしゃべりをしているのか。
「日奈様は夏休みになにかご予定があるんですか?」
「夏・・・ですか」
「はい」
「特に無いかもしれません」
「ほ、本当ですかっ」
真面目なのだが少しおっちょこちょいなところがある桜ちゃんは、月乃と日奈が両生徒会の対立が切っ掛けとなって激しいケンカをしていると思い込んでおり、美しいお二人が不仲なままよりも、手を取り合ったほうがきっとこの学校はもっと楽しい場所になるだろうと考えたのだ。その手始めとして、学園にいる生徒が少なくなった夏休みを狙い、二人を遊びに誘う計画を立てたのだ。
「もしよろしければ、近くの街で開かれる夏祭りに行きませんか?」
「夏祭り・・・?」
耳を澄まして桜ちゃんたちの会話を盗み聞きしていた月乃は思わずガタッと音を立てて立ち上がるところだったが、ギリギリのところでその衝動をコントロールした。このあと自分も誘われることになるとは知らない月乃は、日奈様とどこかに遊びに行ける桜ちゃんがうらやましくてしょうがないのだ。
「よ、予定は特に無いんですけど・・・その・・・」
日奈の返事にいまいちキレが無いのには理由がある。
実は、日奈は月乃がカフェに入って来た事にとっくに気づいていたのだ。白い紙で顔の下半分を隠しているがあの人は間違いなく月乃様であり、彼女が先程からずっとこちらをネコのような鋭い目で監視しているため、日奈はかなり緊張しながら桜ちゃんと会話しているのだ。
「もしかして、セーヌ会にいると遊びにいけないんですか?」
「い、いいえ。むしろセーヌ会は自由な生徒会なので、東郷会長に叱られる心配は全然ないんですけど」
月乃様はきっとクラスメイトの桜様が私みたいなセーヌ会メンバーの影響を受けないように見張ってるんだろうなと日奈は思った。日奈は月乃様に嫌われたくないので、なかなか夏祭りの約束にオッケーを出せなかった。
「・・・もしかしたら、夏は忙しいかもしれません」
「そこをなんとか、お願いします! 帰りが遅くならないようにしますからっ」
桜は月乃様と日奈様の仲直りのためなら何でもする所存である。日奈はお願いされると断れない性格の持ち主なので、もはやこれ以上抵抗できない。
「そ、そこまでお願いをされると、お断りする理由もありませんけど・・・」
「わぁ、ありがとうございます! お祭りは八月下旬らしいので、詳細はまたご連絡させていただきます」
柱時計の陰から耳を澄ましていた月乃はすっかり消沈してしまった。素顔を虚栄で塗り固めている卑怯な自分が、桜ちゃんのような無垢な少女に後れをとるのは仕方ないことだという悲しみが月乃の胸をぎゅうぎゅう締め付けた。
「他にどなたかいらっしゃるんですか」
「はい、実はもう一人お誘いしたい方がいまして」
月乃は青い顔でテーブルに突っ伏したままグラス表面の露を指先でなぞっていて日奈様たちの会話を聞いておらず、まさかこの後自分もお祭りに誘われるなどとは夢にも思っていない。
「お客様、大丈夫ですか?」
「お会計お願いしますわ・・・」
まあ桜ちゃんが日奈様と親しくなるのであれば自分も日奈様とおしゃべりするチャンスが増えるかもしれないので、今日のところは退散しようと月乃は思った。
「アイスコーヒーおひとつで、100円になります」
「はい・・・おつりは要りませんわ」
「あ、ありがとうございましたぁ」
月乃は100円丁度を支払ってカフェを後にした。
幼い頃から自分がいかにカッコイイお嬢様かアピールすることに人生を捧げてきた月乃にとって、姉小路日奈様に対して抱いているこの感情は完全に初恋であるから、恋に付随して訪れる胸の痛みも全て初体験のものとなる。足が重いのに地面がふわふわと弾力を持っているような不思議な歩き心地に手を焼きながら、月乃はなんとなく保健室に向かった。もうこうなったら保科先生を頼るしかない。
「そ、そっかぁ、それは残念というかなんというか」
「わたくしみたいな嘘つきは一生日奈様とお友達になんてなれないんですわ・・・」
「そんなことないと思うけど」
「そんなことあるんですのよ・・・」
月乃は保健室の白いベッドの上にうつぶせで倒れ込んでいる。高校生状態の月乃が保健室に来ることは稀なので保科先生は結構緊張しており、はだけたスカートから覗く彼女の綺麗なふとももをなるべく見ないように天井を見上げた。
「んー、いっそキミも日奈ちゃんを遊びに誘ってみればいいんじゃないの?」
「・・・そんなこと出来るわけありませんわ。わたくしはロワールのお嬢様で、あっちはセーヌなんですのよ」
「あんまり気にしなくていいと思うけどなぁ、会長さんたちはともかく、キミたちはまだ一年生なんだし」
「日奈様はもっと明るくて心が綺麗な人と遊びたいんですのよ。わたくしの出る幕なんてありませんの」
一度気持ちが沈んだ月乃はどんな励ましの言葉も跳ね返す鉄壁のネガティブガールになるのだ。
「夏なんて早く終わってほしいですわ・・・」
今日も最高に美しかった日奈様の面影が目に焼き付いて離れない月乃にとって、孤独な夏休みはあまりにも長く寂しいのである。いつもクールな自信家の顔をしているお嬢様が、自分の前でだけ異常に落ち込んでいる姿を見せてくれるこの状況に、保科先生はちょっとだけ嬉しく思ったのだが、この信頼になんとかして応えてあげたいという責任感のほうをより強く感じた。どうしたら月乃ちゃんが元気を取り戻してくれるか、先生は診察用の椅子に座ってキュルキュル回りながら思案した。
「あのー、月乃ちゃん」
「なんですの・・・」
「私でよかったら、一緒にプールにでも」
などと保科先生が変なことを言い始めた時、保健室のドアをノックする者が現れた。
「失礼します」
「どうぞー」
遠慮がちにドアを開けて顔を出したのは、なんと桜ちゃんであった。
「細川月乃様はここにいらっしゃるでしょうか」
月乃は瞬く間にベッドから起き上がり、スカートやポニーテールの乱れを整えてレディーの顔をした。
「ごきげんよう、桜様」
「月乃様ぁ! お探ししてましたぁ!」
実は桜ちゃんはあの後喫茶店で日奈様とすぐに別れ、ロワールハウスを訪ねていたのだ。月乃に会えなかった代わりに買い物の帰りと思しき西園寺会長に遭遇し、ちょこっとお話させて頂けたので、桜は今日のロワールハウスの夕食のメニューがパセリたっぷりのパスタであることを知っている。
「桜様、一体こんなところで何をしてますの?」
お互い様である。
「月乃様にお願いがあって来たんです!」
桜ちゃんはいつになく真剣な顔をしている。
「一緒に夏祭りに行きませんかっ!」
その一言で月乃の胸は一気に発熱し、頭はすっかり混乱してしまった。
「な、な、夏祭りは日奈様と一緒ではないんですの?」
「え! ご存知なんですか?」
月乃は慌てるとすぐに口を滑らせる。
「・・・ちょっと風の噂に」
「はい、日奈様は来て下さるみたいです!」
そばで聞いている保科先生は桜から見えないように背中を向けて小さくガッツポーズをした。月乃が日奈様と一緒にお祭りに行けることになったようなので先生も喜んでくれているのだが、所作がいちいち運動部員っぽいのでもう少しお医者様らしい落ち着いた振る舞いをして欲しいところである。
「ぜひ、月乃様にも来て頂きたいのです!」
「わ、わた、わたくしもですの?」
「はい!」
桜様、あなたはなんていい人なんですのと月乃は思った。桜ちゃんの目を見れば、彼女が自分の思い出作りのためだけに日奈様を遊びに誘ったわけではないことは容易に察することが出来たのだ。桜は明らかに月乃と日奈の仲を取り持とうとしている。
「三人で・・・夏祭りですの?」
「はい!」
大好きな日奈様、無害な桜ちゃん、そして自分という最高の組み合わせで遊びに行けると思うと、月乃は頬や耳がポッと熱くなった。こんなに心がときめくお誘いは初めてかもしれない。
しかし、事態は月乃を簡単にはハッピーな夏にいざなってくれない。
「で、でもそんな・・・夏祭りなんて、わたくし行きたくありませんわ」
月乃はもう完全に硬派なお嬢様としての人生を歩いているので、ちょっとお誘いを受けたからといって遊びの約束などできず、ついついこのような冷たい返事をしてしまったのだ。
「そこをぜひ、お願いします!」
桜ちゃんが粘ってくれているが、月乃には大きな心配事があった。ここだけの話、月乃は15年生きてきてただの一度も夏祭りに行ったことがなかったのだ。だから他の子が当然のように知っている夏祭りの常識を理解していない可能性が高く、いきなりそのような難所に飛び込んでしまったら、日奈様の前で恥をかくことになるかも知れない。
「うう・・・」
しかも月乃が日奈様と一緒に夏祭りに行ったなんてことが一般生徒たちにバレたら、ロワール会のイメージを落としてしまいかねない。ロワールを支持する生徒たちの中にはセーヌ会には絶対に屈しないぞという強い意志を持っている子も多いので、彼女たちを裏切ることになってしまうのである。
『月乃さん、あなたのお陰でロワール会は順風満帆よ。これからも頑張ってね』
そんなことを言ってくれる西園寺様の美しい顔が頭にふっと思い浮かんで、月乃はついに決心してしまった。
「いやですわ。日奈様と一緒にお出かけなんて。ふんっ」
言ってしまって月乃はすぐに後悔した。こんな機会はもう二度と訪れないかもしれないからだ。
「そうですかぁ、残念ですけど、仕方ないですよね」
しかもこういう時に限って桜ちゃんは諦めるのが早かった。もうひと押ししてくれれば月乃も良い返事ができたかも知れないのに惜しいところである。
月乃が桜ちゃんに背を向けたまま後悔の念に打ちひしがれていると、桜ちゃんは首をかしげて何かを考え始めた。
「うーん、でも、もう一人誘うって日奈様に言ってしまったんですよね・・・どうしましょう」
それを聞いた保科先生は、保健室に散らばった様々な思惑と、本件に関わる学園のあらゆる状況がある一点に収束しているのを感じた。全てをたちどころに解決してしまう方法を思いついてしまったのである。
「あ、あのさ・・・」
保科先生は白衣のポケットから取り出したボールペンをカチカチさせて、自然な感じを装いながら意見を出した。
「小桃ちゃんを誘えばいいんじゃない?」
「あ、なるほどぉ、小桃ちゃんですか」
それを聞いた窓辺の月乃は肩をビクッとさせてゆっくりと振り返った。今この瞬間、月乃の胸中の保科先生の評価は怒濤のうなぎ上りである。
(そ、その手がありましたのね! なんて頭が良い先生ですの!)
月乃は自分に訪れた二度目のチャンスの有り難さにちょっぴり足が震えるような思いだったが、平静な顔を作って桜ちゃんに歩み寄った。
「ロワールのお嬢様である以上、わたくしはそのお誘いには乗れませんでしたけど、桜様のお気持ちはとっても嬉しかったですわ。わたくしのためにたくさん頑張って下さいましたのね。お祭りにはわたくしの代わりにその小桃ちゃんって子を誘ってあげてください」
「は、はいっ。わかりました」
月乃がそっと髪を撫でてあげると、桜ちゃんは顔をちょっぴり赤くしながら力強くうなずいてくれた。本当に素直な良い子である。
「さて、二人とも体調が悪くないならそろそろ帰って晩ご飯の準備でもしたほうがいいんじゃない? 私はこう見えて忙しいからね」
月乃の夏休みの救い主である保科先生は、月乃からお礼を言われそうなこの空気が照れくさくて二人を追い出そうとしている。
「そうですわね。桜様、先生のお邪魔にならないうちに出ましょうか」
「はいっ」
月乃は去り際に桜ちゃんにバレないように先生に深々とお辞儀をしておいた。
二人が去った保健室に残った夕方の静けさを持て余した保科先生は、レモンティーを一杯淹れた。夏こそホットでお茶を飲むというのが彼女のポリシーである。セミの声が漏れ聞こえる窓際で、先程の桜ちゃんの様子や月乃ちゃんのお辞儀なんかを思い浮かべながら、先生はティーカップをそっと傾けた。
「はぁー」
ほっとひと息ついた先生は、窓の外に帰り際の桜ちゃんを発見した。全てが成功したわけではないが、なんとか大仕事をやってのけ、月乃様にも褒めて貰えちゃったぞという満足感に足取りを軽やかにして大通りを過ぎていく彼女の姿に、先生はちょっぴり見とれてしまった。
「んー、眩しい・・・」
先生はそのままカーテンを閉めずに、いつまでも夕焼けの街並みを眺めながら、甘酸っぱいレモンの香りを味わい続けたのだった。




