2、お嬢様
雲の切れ間から春の青い空が覗き始めた。
月乃は暖かそうな日の光が新緑の山肌をポカポカ照らす様子をバスの座席からぼんやり眺めながら、時折見かける桜の木の鮮やかなピンク色を数えていた。
サン・ベルフォール女学院へ向かうバスは現在月乃の貸し切りである。あらゆる生徒たちから尊敬されるステキなお嬢様になるにはまず初めが肝心だと踏んでいる月乃は、麓の街の駅前でバスに乗ってからずっとクールな表情のまま背筋を伸ばし正面を向いていたのだが、先程から徐々に疲れが見え始め、今は寝起きのようなちょっぴり間抜けな顔で車窓に見とれている。
月乃は気持ちを引き締め直すために車内に誰もいないことをもう一度確認してからぐーっと伸びをした。天井の広告が月乃の地元のものとだいぶ違う。
「あっ」
自分がピカピカの新品制服を着ていることを思い出した月乃は、上に伸ばした両腕を慌てて下ろした。万が一胸の辺りのボタンがぽ~んとすっ飛ぼうものなら、レディーとしての細川月乃ちゃんの高校生活は初日で終幕である。
ブラウスのボタンの無事を確認した月乃の指先は、不意にスベスベとした心地よい感触に出会ったが、これは制服のリボンタイのものである。サン・ベルフォール女学院のリボンの色は深い赤なので月乃の好みとはちょっと違うのだが、制服のリボンを黒にするようなひねくれたファッション感覚を持つ高校は日本中探してもなかなか見つからないから、この点は妥協せざるを得ない。その代わりリボン以外の制服各所には陳腐な制服像を破壊し独自の乙女チックワールドを創造するデザイナーの反骨精神が溢れていて、シルエットを重視したゴシックな仕上がりになっているから、美意識の高い月乃ちゃんも大満足である。
窓を鏡代わりにして月乃がリボンを整えていると、可愛らしいブドウの低木がライトグリーンの縞模様を作って並ぶ小高い丘の真ん中でバスがゆるやかに停車した。学園直通のバスでないことは彼女も分かっていたが、このような田舎道で誰かが乗り込んでくるとは思っていなかったので少々慌てた。
「あの・・・このバスってどこ行きでしょうか」
ブラウンの大きなキャリーケースを引きながら不安気な面持ちで乗車してきたのは、月乃と同じ制服を着たおさげ髪の小柄な少女である。彼女は運転手のおねえさんにこのバスについて何やら尋ねているが、車体にでっかく『サン・ベルフォール女学院行き』と書かれてあるのだからそこは心配しなくてよいところである。
「あ、ベルフォール女学院行きです。あと15分くらいで着きますよ」
「そうですか、ありがとうございます」
ホッとした様子で少女がこちらに歩いてくるが、月乃はこのとき既に鞄から入学案内の冊子を取り出し、先程までの締まらない表情がウソのような涼しい顔で読書を開始していた。月乃が中学時代に鍛えまくったお嬢様的瞬発力はもはや全国レベルである。
月乃が視界の隅に捉えているおさげ髪の少女は通路を挟んで斜め前、ポカポカと日の当たる一人席に腰掛けた。自分が日陰側にいるせいで彼女を日なたに座らせてしまったかなと月乃は一瞬胸が痛んだが、おそらく自分のほうが肌の日焼けを気にしているだろうと勝手に推理して許してもらうことにした。
心地よくバスに揺られるうちに、お嬢様らしくあろうとする月乃の緊張感は少しずつゆるみ始め、もう一人の乗客への意識は入学案内のページの白い部分に溶け出していった。別に眠いわけではないのだが、実は昨夜緊張してなかなか寝付けなかった月乃がここでちょっぴりぼーっとなってしまうのは仕方ないことである。肩の疲れを払って集中力を取り戻すために月乃はそっと顔を上げた。
事件が起きたのはその時である。
「うっ・・・」
すっかり油断していた月乃は、自分に注がれていた少女の熱い視線にあっさりと意識を引き寄せられ、彼女とバッチリ目を合わせてしまったのである。もちろん月乃はすぐに下を向いたが、少女は一体いつから、そしてなぜこちらを見ているのかが気になって入学案内どころではなくなった。月乃は肩や腕をなるべく動かさず手首から先だけを使って鞄のポケットから手鏡を取り出し、こっそり自分の顔を確認してみたが、朝食べたトーストのバターが頬についていたり、髪の毛がにょーんと跳ね上がっていたりする様子は無く、見知らぬ乙女に注視される原因は見当たらなかった。神経質な月乃はこういうのが気になって仕方が無いのだ。ちなみに窓際で手鏡を見ると外の光がわずかに顔に反射するので月乃が今必死に自分の顔をチェックしていることは少女からバレバレである。
「あの・・・すみません」
月乃の心臓が高鳴る。少女は月乃ウォッチングに飽き足らず大胆にも声を掛けてきたのだ。小心者のお嬢様のハートをこれ以上揺さぶるのはやめて頂きたいところである。
「は、はい・・・なんですの?」
たった今少女の存在に気付いたかのような平静を装った顔で月乃が返事をすると、少女は席から身を乗り出し、顔を真っ赤にしながら尋ねてきた。
「も、もしかして・・・姉小路様ですか!?」
「・・・あねこうじ?」
少女の眼差しがアツい。大層勇気を奮って声を掛けてきてくれたようなので真実を告げるのも心苦しいが、残念ながら月乃はその姉小路様とかいう人物ではない。
「申し訳ありませんけど、わたくしは細川ですのよ」
「あ・・・こ、これは大変失礼を致しました!」
「構いませんわ。気になさらないで」
一時はうろたえてしまったが、最後は大人っぽい寛大な対応ができたので月乃は満足である。誰かに間違えられる経験も今までに一度も無かったわけではないし、じっと見つめられていた理由も分かったので月乃は安心して読書の姿勢に戻ることにした。ちなみに入学案内の冊子は先程から1ページも進んでいない。
ところが、おさげ髪の少女との物語はこれでおしまいではなかったのである。
「あの・・・そちらよろしいでしょうか?」
「は、はい?」
少女が月乃の前の座席を指差して尋ねてきた。やっぱりお肌は大事ですわよねと思いながら月乃はカッコよくOKしてあげることにした。
「ええ。もちろんですわ」
「あ、ありがとうございます!」
若干天然なところがある月乃は、少女がこちら側に座りたい本当の理由に気づかない。
「では・・・失礼します」
「どうぞ」
少女がこちらにやって来ると、せっけんのような優しい香りがふわっと月乃の鼻をくすぐった。
この少女は月乃に比べれば少々子供っぽい外見をしているが、礼儀や節度を弁えようと努めていることはここまでのコミュニケーションからも明らかなので、月乃は彼女にちょっぴり好感を持っている。
少女の三つ編みが片方だけ背中側に垂れているのを何となく眺めながら、広いバスの車内でわざわざこんな近距離に座っているのだから何か話し掛けた方がいいのかしらなどと月乃が思案していると、少女が急に振り返ってきた。
「あ、あの!」
「ひいっ!」
月乃はいつも偽りと抑圧による冷静さの仮面を被っているから、その反動で驚きのリアクションが他の乙女と比べて大きい。
「私・・・若山と申します。名前は桜です。よろしければその・・・細川様のお名前を教えて頂けませんか」
「あら」
自分の名前を訊くために耳まで赤くする桜ちゃんの様子に月乃はなんだか照れてしまったが、自分の淑女オーラが高校レベルの相手にもちゃんと通用することが分かって非常に気持ちが良かったし、これは月乃のお嬢様っぷりをアピールするチャンスであるから、カッコイイ横顔を見せつける優美なポーズをしながら答えてあげることにした。ちなみに今日の月乃の髪型は大人っぽいポニーテールであり、とある信念から明日以降もこのスタイルを続けていこうと彼女は考えている。
「月乃と申しますわ。細川月乃」
「月乃様・・・素敵なお名前です」
「桜様がお望みなら、名前で呼んでも構いませんのよ」
近寄りがたい空気を故意に出して生きる高山植物のような自分の名を勇気を出して尋ねてきてくれた桜ちゃんにはこれくらいの権利をあげて然るべきというのがレディー月乃の考えである。月乃は自分を敬ってくれる謙虚な子にはやたらサービスがいい。
「ありがとうございます、月乃様!」
おさげ髪の若山桜ちゃんは一人きりの初登校が余程不安だったのか月乃と知り合いになれてとても嬉しそうである。
ところが、何を思ったのか桜は急に自分の口元を小さな手のひらで隠して黙ってしまった。
「どうかされましたの?」
車酔いならガマンして下さいねと月乃は思った。
「いえ・・・あの、私今、笑ってましたよね」
そう言われて月乃は合点がいった。桜は学園の戒律のことを気にしているのである。
「たしか第3条ですわね。人前で喜怒哀楽を表現してはいけないっていう戒律」
「そうなんです。あぁ、気をつけようと思ってたのに・・・私のばかばか!」
ベルフォール女学院には校則とは別に戒律と呼ばれる厳しいルールがある。そのことが記された入学案内は、3月の半ばには小洒落た切手付きの分厚い封筒に入れられて新入生の自宅に届いているので、入学者は全員戒律の存在を知っている。
「私、考えてることがすぐ顔に出るタイプなので、第3条だけは守っていける自信がありません・・・」
なんだか気の毒だし、このような落ち込んでいる表情も下手をすれば戒律に引っかかりそうなので月乃は桜ちゃんを励ましてあげることにした。
「まあ、はしゃぎ過ぎたり、泣き喚いたりしなければきっと大丈夫ですわ」
「そうですかね」
「ええ。それに戒律は校則と違って破ってしまったとしても退学になったりはしませんのよ」
「なるほど・・・なんだか気持ちが楽になってきました! ありがとうございます!」
感情の起伏が激しい少女である。
「月乃様って、何でもよくご存知なんですね!」
「え? ま、まあこれくらいは当然ですのよ」
熱賛を受けた月乃は危うくニヤけてしまうところだったが、15年間修養してきた非凡なお嬢様根性で表情筋を制御し、ポニーテールをサッとなでる仕草をすることで上手くごまかした。
「ま、わたくしは断固として戒律を遵守いたしますけどね」
ここで月乃は硬派なキメ台詞を言ってみたが桜からの反応がないので、横目でちらっと彼女の表情を確認すると、桜は熱でもありそうなぼーっとした顔で月乃のことを見つめていた。
「どうかしましたの」
「私・・・なんだか今は第2条の戒律のほうが気になってきてしまいました・・・」
「え?」
ちょうどバスが信号待ちをしているタイミングだったので、少し気恥ずかしいような二人の沈黙は車内全体を包み込んだ。
「月乃様、他に私が気をつけたほうがいいと思う戒律って何かありますか?」
第2条の戒律がどんなものだったか月乃が思い出すより先に桜は明るく尋ねてきた。
「そ、そうですわねぇ」
マジメな月乃は入学案内を毎晩のように読み込んできたのだが、内容をすべて記憶している自信は正直ないので何か訊かれる度にドキッとしてしまう。物知りでカッコイイお嬢様としての信用を得ていくために、こういうところで絶対に失敗をしたくないのである。
「刺激物を摂ってはならない、っていう戒律かしら」
「あ、私それ疑問だったんです。刺激物というのはどのようなものなんでしょう」
無垢な桜ちゃんは月乃にどんどん質問してくる。
「お、お茶やコーヒーは除外されるような書き方でしたから、さしずめ炭酸飲料とか、極端に辛いスパイスのことだと思いますわ」
間違っていたらどうしようかと月乃は内心ドキドキである。お嬢様というのは非常に心労の多い生き物なのだ。
「なるほど。炭酸ジュースが飲めないのはちょっと寂しいですねぇ」
「炭酸ジュース・・・」
月乃レベルのお嬢様になれば、自分が硬派なレディーになれる好機をいかなる瞬間も敏感に察知できる。月乃はここまで守ってばかりだったが、攻め時は今だ。
「あら。わたくしは少しも寂しくありませんわよ」
「月乃様はメロンソーダみたいなジュースはあまり飲まれないんですか?」
「ええもちろん。メロンソーダなんて、小学2年の初夏に飲んだのが最後だったかしら」
「す、すごいです! そんな小さい頃からベルフォールに入学しようと思って修練を!?」
「え? まあ、そうですのよ。飲み物なんて紅茶とコーヒーで十分ですもの」
「コーヒーは何才の頃から飲んでいたのですか!?」
「え、えーと・・・小学1年のお正月からでしたわ」
「ではブラックコーヒーは!?」
「・・・よ、幼稚園の頃から」
「さすがです! 月乃様は生まれながらにしてカッコイイお嬢様だったのですね!」
「ええ、まあ。その通りですの。生まれながらにしてカッコイイお嬢様でしたのよ」
嘘をついてはならないという戒律がなくて本当に良かったと月乃は思った。
バスは最後の青信号を左に曲がり、鮮麗な新緑の木漏れ日が落ちて輝く『学院東通り』と呼ばれる坂を登り始めた。天まで届きそうな長い坂である。
「まもなくベルフォール女学院です。お忘れ物のないようご注意ください」
白樺の山道を登りきったバスの窓が壮観なパノラマビューに切り変わるのと、車内のアナウンスが流れたのはほぼ同時だった。