17、17才
日奈は絵を描くのが大好きである。
歴史を変えてしまうレベルの美貌を持っているくせに幼い頃から内向的な彼女は、大好きな野花や小動物を一人で静かに眺めながら気ままに筆を走らせる時間に大きな癒しを感じている。自分の容姿についてある程度自覚があり、それを自分には過ぎたるものと感じているような内気な日奈にとって、この世の中は余りにもめまぐるしくて気が休まるヒマがない。
「よし・・・」
日奈は誰もいない北山教会堂の外にイーゼルを立て、遠くに望めるベルフォール大聖堂を描いていた。ここへは長い階段を上って来なければたどり着けないので滅多に他の生徒が訪れることはなく、美術の宿題をのんびり進めるには打ってつけの場所である。
「帰ろうかな」
日奈のキャンバスには既にこの時期に進んでいるべき分量以上の立派な風景画が描かれており、今日はもう雲行きが怪しくなって来たのでそろそろ退散してもいいかもしれない。もしも雨に濡れたらせっかくの絵が台無しである。
しかし、日奈はなかなか山を下りる勇気を出せずにいた。彼女は残念ながら期末試験でも1位を取ってしまったため人気がますますアップしてしまい、先程も自分を追い回すファンの子をまいて逃げてきたところなのである。セーヌ会は悪役の生徒会だから、入会すればキミはモテずに済むよという東郷会長の言葉がきっかけで日奈はセーヌ会に入ったのだが、その効果は芳しくない。今回も2位になってしまった月乃様の方が絶対に努力をしているのだから、ラッキーだけで好成績を取ってしまう自分の運命力を日奈は恥ずかしく思っている。
「帰ろう・・・」
もしもファンの少女たちに追いかけられたら必死に逃げなければならない。彼女たちの心をいたずらに乱し、他の場所で芽吹くはずだった恋のつぼみを摘んでしまってはいけない・・・それこそが日奈が自分のファンたちを振り切る最大の理由なのである。日奈は自分のことは二の次で、他人の恋愛や幸せばかりを気にしている少女なのだ。
さて、その頃月乃はクラスメイトの桜ちゃんと二人でベルフォール大聖堂の東にある小さなケーキ屋にやってきていた。
「細川ですわ。頼んでいたものを受け取りに参りましたの」
月乃は自分の髪をサッと撫でて格好つけながら店員さんに言った。
「は、はい! 少々お待ちくださいませ」
店員の少女は月乃とおしゃべりが出来てとても幸せそうである。普通に学校生活を送っていたら学園のプリンセスと会話する機会などほぼ無く、ごく普通の生徒なのに月乃の秘書ポジションにいる若山桜ちゃんが特例なのである。
「わぁ・・・美味しそうですね」
桜ちゃんは冷蔵ショーケースの中にずらっと並ぶ可愛らしいケーキたちを見てウットリしているが、今日二人が受け取りにきたのは切り分けられたショートケーキやモンブランではない。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございますわ」
大きめのホールケーキ用の箱が入った白い紙袋を受け取って、二人は意気揚々とケーキ屋を出た。本日のベルフォール盆地は厚めの雲に覆われているが、月乃の気分は晴れやかである。
実は、今日はロワール会の会長、西園寺様のお誕生日なのである。
月乃は西園寺様と懇意にさせて頂いているが、互いにお誕生日がどうとかプレゼントがどうとか話すような性格ではないため、西園寺会長の誕生日は永久に謎のままだろうなと思っていたのだが、月乃が先日寮のダイニングテーブルで偶然目撃した会長の生徒証から誕生日が判明したのだ。知ってしまった以上、これを祝わない手はない。
「あ、細川様よ!」
「細川様ぁー!」
「ごきげんよう細川様ぁ!」
大聖堂広場を通りかかると、生徒たちが月乃の周りに集まってきた。人気ものはつらいですわねと思いながら、月乃は彼女たちにクールな横顔を見せてあげることにした。月乃は日奈とは正反対で、他人からちやほやされることに生き甲斐を感じるタイプである。
ちなみに月乃は今回の試験も2位という極めて悔しい結果に終わったが、悔しがっているのは月乃のファンたちであり、月乃本人も悔しい顔をしてアピールはしたものの本当は日奈様の頑張りを心の中で讃えている。月乃は夢の中で日奈様に勉強を教わったりもしているが、いつの日か二人で勉強について仲良く語り合えるのではないかという希望は、二人が対立する生徒会に所属している限り叶わぬ夢かもしれない。
さて、月乃たちが今向かっているのはロワールハウスではなく、大聖堂よりちょっと西にある小さなレストランである。第四学舎の保健室から程近いそのレストランは本日は休業日らしく、調理場を借りることができたのだ。本当はこの学園で一番大きな寮ヴェルサイユハウスのキッチンが一番豪華なのだが、だいたいいつも誰かが使用しているので、今日のようなサプライズの準備には不向きである。
「ちゃんと作れるでしょうか」
「大丈夫ですわ。わたくしはお菓子作りも得意なんですのよ」
月乃たちは西園寺会長のために手作りのケーキを用意しようとしているのだ。
手作りと言っても、既に美味しく焼き上がっているスポンジケーキに好きな果物を適当に挟んでクリームを塗ったくるだけで一応完成するので、必要なのは料理の腕前ではなく小学生レベルの図画工作の能力であり、目を瞑ったまま作業してもおそらくそれなりの物が完成する。
勝手口からレストランのキッチンに入ると、椅子の上にコルクボードが立てかけられており、そこには「ようこそいらっしゃいました細川様。このキッチンにあるものは全て自由に使って下さって構いません!」という、月乃に遠慮が無かったらとんでもない事態になりそうなメモが貼られていた。月乃はケーキを完成させる作業場が欲しかっただけなので、別にレストランの食材をどさくさに紛れて使っちゃおうなどとは考えていない。ケーキにレタスやじゃがいもを挟むのはまた次の機会である。
「月乃様、この寮の人はどこにいるんでしょう」
「・・・おでかけ中かも知れませんわね」
一階レストランが休みの日とはいえ、上の階は寮生の部屋なのだから誰かいてもおかしくはないのに、月乃たちがご挨拶できるのは目の前のコルクボードさんくらいである。
実はこの寮に住む4人の生徒たちは現在全員寮内におり、直接月乃に会っておしゃべりする勇気がないため2階のコモンルームでドキドキしながら息を潜めているのだ。月乃のファンは大勢いるが、その少女たちの全員がキャーキャー言いながら月乃を追いかけ回しているわけではないのだ。むしろ表に出ずに陰から羨望の眼差しを送る生徒たちの恋の炎のほうが青くて高温であるケースが多く、かく言う月乃もそちらに分類される乙女であり、日奈様への恋慕の情は保科先生を除けば誰にも知られていないはずのシークレットファイアーである。
「それでは、作りますわよ」
「はい!」
ドールハウスという名誉なニックネームが付いている究極のお嬢様の家、ロワールハウスのリーダーのお誕生日なのだから、完璧なケーキを作らなければならないと月乃は考えている。気持ちがこもっていれば多少形が崩れててもオッケーなどという発想は小学生にのみ許される低次元のものであると、厳しいお嬢様教育を受けて育った月乃は信じているのだ。
小さな4号サイズのケーキが完成する予定なので、スポンジにクリームを塗る作業もあっという間に終わりそうなものだが、対象が小さいが故に凝った装飾をしようと思うとかなり神経をすり減らすことになる。ただ完成させるだけなら小学生でも可能だが、完璧なものにしようと思うとシェフの腕前が必要なのだ。
「ふうー」
というわけで、すり減らす予定の集中力を強靭にし、研ぎ澄ますため、月乃は西園寺会長おすすめの店で買った黒いエプロンを身につけたまま精神統一を始めた。スポンジケーキの前で月乃が突然お地蔵さんみたいなポーズになったので桜ちゃんは思わず月乃を二度見してしまった。なるほどこれが月乃様流の調理法かとすぐに納得したピュアな桜ちゃんは、月乃の隣りで一緒になって瞑想をした。上の階にいる生徒たちはキッチンから月乃たちの気配が消えたため少々ビックリしている。
冗談みたいな方法だが二人の集中力は本当にアップした。
窓の外を吹く湿った風の音も、道往く少女たちの声も、月乃の耳には一切入らず、日奈様への恋の雑念も一時的に振り切ることに成功したようである。目の前のケーキしか見えない月乃は、もはやケーキにクリームを塗るためだけに生まれたスイーツワールドの妖精であり、パレットナイフを持つ手は精密なプログラムに導かれるコンピューターアームのように迷いの無い動きを見せた。ちなみにこのようにスポンジにクリームを塗る作業のことを「ナッペ」というらしく、月乃は事前に図書館で研究した通りに下塗りと本塗りに分けて丁寧に仕上げていった。月乃があまりに集中しているため桜ちゃんは手伝うことすらできず、月乃の美しい横顔をじっと見つめて応援した。
珍しく順調である。月乃はこの学園に来てからというもの、ここぞという時で必ず失敗したりトラブルに巻き込まれたりしてきたが、西園寺様のお誕生日は無事にお祝いすることが出来そうだ。あとは上部のトッピングの仕上げに、フルーツを美しく盛りつけるだけである。敢えて不規則に敷き詰めることもできるのだが、やはり西園寺様が食べるケーキであることを考えると、ベルフォール大聖堂のバラ窓のように整然とした美しい並べ方にしなければならない。ちなみにベルフォール大聖堂のバラ窓はフランスにあるノートルダム大聖堂のバラ窓によく似ているが建築史を辿れば別起源であり、これは人が美しいと感じる造形を長い時間を掛けて洗練していくと似たような姿に行き着くということの証明なのかもしれない。
月乃が手に持っているイチゴをあと一個乗せればいよいよケーキは完成である。しかし、イチゴに全身全霊を込めるために月乃が一度顔を上げて肩や首をリラックスさせようとしたその時、事件は起きてしまったのだ。
「あ・・・」
キッチンの窓からは誰もいないレストランの店内の様子が見えるのだが、その更に向こう側、入り口近くのボックス席の窓に一瞬だけ月乃が良く知るあの人の姿が映ったのだ。
「うっ・・・」
間違いない、日奈様だった。日奈様の美しいポニーテール姿が左へ過ぎていったかと思うと、キャーキャー言いながら走り去る少女の一団も見えた。
「月乃様、どうしたんですか?」
月乃がイチゴを持ったままピッタリと動きを止め、イチゴ狩り農園の看板みたいになってしまったため桜ちゃんは心配している。
月乃はレールの上なら力強く走れる系女子なので、応用を必要とする場面や不意の危機にめっぽう弱く、この時も月乃は日奈様のことがすっかり頭から抜けていたのに、急に彼女の美しい姿を見てしまったため心と体が停止してしまったのだ。普段通り黒板の板書をノートに写している最中にシャーペンをカチカチして芯を出そうとしたらペンの先から美味しそうなパスタが出てきてしまって、その瞬間から先生の声が全く耳に入らなくなるのと大体同じ現象である。
しかもこういう時に限って運命は月乃と日奈を出会わせてくれちゃうのである。
キッチンの勝手口がカチャンと音を立てて開いたかと思うと、時空をゆがめるレベルの美貌を持つその少女が飛び込んできた。日奈は絵のキャンバスを抱えたまま自分のファンたちから逃げているらしく、隠れられる場所を見つけてほっとした様子だったが、すぐにキッチン内にいる月乃に気づいてハッとした表情を見せた。
「こ、こんにちは・・・月乃様」
「こ、こ、こ・・・こ」
今日の月乃はニワトリさんである。
月乃と日奈が顔を合わせることは度々起こる事象であるが、そこに桜ちゃんが居合わせたのは実質初めてであり、桜ちゃんはこれから二人が激しい戦いを繰り広げるのではないかと思ってちょっと身構えている。桜にとって月乃様と姉小路様はライバル同士の関係であり、それ以外の接点や心的交流など無いと思っているのだ。
「ま、待ってください!」
桜は勇気を振り絞って二人のあいだに立った。
「ここは厨房、つまりキッチンです! キッチンとはつまりキッチンで、その・・・ケンカはいけません!」
「え?」
月乃と日奈は、互いに相手に出会ってしまった驚きと喜びと緊張のみを感じているところだったので、桜にそう言われるまで自分たちが敵同士の関係だということを忘れていた。日奈はそっとドアから離れると、桜の腕にちょんっと触れた。
「だ、大丈夫ですよ。私たちは公式の行事でしか争いませんし、あなたのおっしゃる通り、ここは狭いですからね。ケンカなんてしませんよ」
日奈は元々月乃と争う気などなく、友達になりたいと思っているのだが、月乃様は自分のことをそれほど良く思っていないという感覚もあるし、桜のような一般生徒が持つ月乃様のイメージを壊してしまうわけにもいかなかったので、二人はライバル同士だが今は別にケンカしないよと言ってくれたのである。日奈はとても賢くて思いやりがある。
「・・・そうですよね?」
一応日奈は月乃に確認をとった。
この時の日奈様の表情があまりにも可愛かったため、月乃は足が震えるようなめまいを覚えた。日奈は月乃と同じくらいの身長であり、スタイル抜群で脚もスラッと長いから、可愛いというよりは美しい女性という感じなのだが、今の日奈の表情は月乃よりずっと年下の子が何かをおねだりしているような顔に見えて月乃のドキドキは一瞬でハートの許容量をピョーンと飛び越えた。
「わ、わたくし・・・すぐ戻りますのよ!」
鐘の音を確認するまでもなく月乃は今七夕の日以来の大興奮をしているのですぐに小学生に変身してしまうから、慌てて勝手口から外に飛び出した。
「月乃様・・・」
「月乃様っ!」
日奈と桜はほぼ同時に月乃を呼び止めたが、月乃はもう店の裏側の細い路地の方に姿を消してしまっていた。
襲われる・・・桜はそう思った。
まだこの寮の近くに追っ手がいる状況で外に出られない日奈と二人きりになってしまった桜は、ライバルの月乃様と決着を着ける前にまずはその周囲の人間からということで、自分が狙われるのではないかという恐怖に駆られた。
「わ、私は食べても美味しくありません!」
桜は日奈を何だと思っているのか。
なぜか怯えている桜を安心させるため、日奈は彼女とフレンドリーにおしゃべりをすることにした。
「私、セーヌハウスの姉小路日奈です。あなたは?」
「え? わた、私は桜です・・・マドレーヌハウスです」
「桜様っていうんですね」
「は、はい。月乃様とは、同じクラスです」
一般的には気づかれていないが、日奈には美的魅力以外にも、無意識のうちに近くにいる人間を癒して心を穏やかにするという能力も持っているため、元々周りの影響を受け易い性格の桜は徐々に日奈への警戒心を解いていった。
「ケーキを作ってたんですか」
「あ、はい。ロワールの西園寺様がお誕生日なので、内緒で作ってたんです」
「すごい、綺麗ですね」
「私は全然手伝ってません。月乃様がクリームを塗って、イチゴを並べたんです」
「月乃様が・・・」
ケーキはほぼ完成しているのだが、上に敷き詰められたイチゴたちのあいだにちょうど一個分隙間が空いていた。ここに収まるべきイチゴは一体どこに行ってしまったのか。
レストランの勝手口に小さな耳を当てて中の様子を探っている怪しい小学生は、小桃ちゃんである。
日奈様に会うとほぼ間違いなく小学生に戻ってしまうという、恋心を制御する力が皆無なドジな月乃は、今回もめでたく小桃ちゃんになってしまった。西園寺様の誕生日は今日だけなので、なんとしても今日中に元の体に戻らなければならないから、さっそく大通りなどを散策して人助けを求めている生徒がいないか探すべきなのだが、月乃はどうしても勝手口を離れられずにいた。なにしろキッチンの中には大好きで大好きで仕方がない日奈様と、自分の友達の桜様が二人きりでいるのである。日奈様が桜ちゃんに夢中になるとは考えにくいがその逆は充分あり得るので、ややこしい事態にならないか月乃は心配でしょうがないのである。
「うぅ・・・」
月乃は我慢ができなくなってドアを少しだけ開けてそーっと中を覗き込んだ。
「あ、小桃ちゃん? お久しぶり」
2秒で日奈にバレてしまった。ちょうどドアの方を見ていたらしい。
「ホントだ! 小桃ちゃーん。会いたかったよ」
「うわぁ!」
月乃は桜ちゃんに抱きつかれた。桜の柔らかい三つ編みが月乃の首すじやうなじにふわふわ当たって非常にくすぐったい。桜は動物好きらしいのだが、小桃のことを子犬みたいな扱いをしないで頂きたいものである。
「小桃ちゃんと桜様は、とっても仲良しなんですね」
日奈の笑顔が見えて体の中心がキュンッとしてしまった月乃は、倒れないように桜の肩にそっと掴まった。それを自分への親しみだと勘違いした桜はますます強く月乃を抱きしめたため、月乃はとってもくるしかった。
月乃様が戻ってくるまで作りかけのケーキは冷蔵庫に入れておくことになった。
このままではケーキがその一生を冷蔵庫の中で終えてしまうので、月乃は早々に善い行いをして誰かに感謝されなければならない。
「そうなんですかぁ、この前はセーヌハウスで預かってあげたんですね。じゃあ小桃ちゃん、キミは今日も姉小路様の寮に泊めてもらうのかな?」
「い、いえ、今日はもう少ししたら帰る予定ですのよ」
予定というか希望である。
「小桃ちゃん、いつでもセーヌに泊まりに来ていいからね」
「は、はい。わかりましたわ」
日奈も桜もすっかりリラックスした様子であり、意外と相性がいい二人なのかも知れず、そうと分かればますます月乃はこの場を離れたくなくなってしまった。もしかしたら日奈様と桜ちゃんが仲良くなることへのちょっとしたジェラシーが原因かもしれない。
となると、目の前にいる二人のおねえさんのどちらかから感謝される必要があるので、月乃は二人を注意深く観察し、物を落としたらすぐに拾ってあげようと思った。
「姉小路様は、美術部なんですか?」
「え? 違いますよ。これは美術の宿題のキャンバスです」
「宿題の・・・ああ、大聖堂を描くやつですね」
「はい」
「姉小路様はどの場所から描いてるんですか?」
「北山教会堂からです。図書館の裏から階段を上っていった場所なんですけど」
「へー、そんな場所があるんですかぁ」
なんだか会話が弾んでいる様子でなによりである。なんとなく月乃は日奈様と桜ちゃんのあいだに割り込むようにして立った。
「絵って肩凝りますよねぇ」
「そうですね、そうかも知れません」
「姉小路様も凝ってますか?」
「ええまあ、少し・・・」
日奈は健康の神にすら祝福を受けている娘なので胸が大きくとも肩が凝ったことはあまり無いのだが、つい話を合わせてしまった。
「そうだ、揉んで差し上げましょうか」
「え? そんな、いいですよ。わるいですし」
「遠慮しないでください」
桜ちゃんが変なことを言い出したので、月乃は桜ちゃんの腰にしがみついて阻止しようと思ったが、日奈様が椅子に腰掛けたのを見て少し気が変わった。もしここで月乃が「わたくしが揉みますわ」と名乗りを上げてモミモミしてあげれば、優しい日奈様のことだから大して気持ちよくなくても「ありがとう、小桃ちゃん」と感謝してくれるかもしれない。そもそも心が綺麗な人はちょっとしたことに対しても深く感謝するものだから、口先だけではない本当の感謝の言葉を貰えるに違いないのだ。
しかし月乃のこの作戦には大きな問題があった。
「わたくしが揉みますの! わたくしが肩を揉みますのよ」
「おぉ、姉小路様、小桃ちゃんが揉んでくれるみたいですよ」
「はい。わたくしが揉んであげますのよ」
これで幾分ジェラシーは解消できたかもしれないが、重要なのはこの後である。
「小桃ちゃん、私の肩、揉んでくれるの?」
「も! もみ・・・はい」
「それじゃあ、お願い♪」
椅子に座って自分に無防備な背中を見せる日奈を前にして月乃は全身が燃えるように熱くなった。よく考えると自分から日奈様の体に触ってモミモミするなど飛んでもなく恥ずかしいことである。もちろん服の上からのタッチということになるが、夏服であるためおそらく体温くらいは感じることになるだろう。日奈様の体温をこの手で感じる勇気と覚悟があるのか、そんな自問自答をしながら顔を真っ赤にしてモジモジしている小学生を、桜は後ろから不思議そうに見ていた。
「じゃあ、揉みますわ・・・」
「お願いします」
肩を揉めばきっと日奈様は感謝してくれるだろう。しかしその感謝の言葉を貰うために恋のドキドキを味わっていたら、高校生の体に戻してもらえないおそれもあるから、なるべく平常心で肩を揉む必要があるのだ。
「はぁぅ・・・」
日奈様の肩に手を伸ばそうとしたら、顔のすぐ前に日奈様のポニーテールがやってきて月乃は変な声を出してしまった。月乃は先程桜ちゃんの髪も肌で感じたが、香りも肌触りも桁外れの心地よさである。おでこや鼻先で日奈様の髪を感じていると、まるで愛のシャワーを浴びているように気持ちよくて、月乃はウットリしてしまった。
「小桃ちゃん? 姉小路様の肩、揉んであげて?」
「は、はい!」
桜ちゃんに覗き込まれて月乃は懸命に理性を呼び戻した。高校生に戻って完璧なケーキを完成させ、西園寺様のお祝いをするためにもここは心を無にして頑張るしかない。月乃は先程高校生モードの時にやっていた瞑想を日奈の背後で行うことにした。あれ、これは最近流行ってるのかなと桜ちゃんは首をかしげた。
「ふうー」
肩を揉むだけなのになぜ気合いを入れているのかは謎だが、とにかく月乃は日奈の肩に手を伸ばした。温かくて優しい感触を小さな手のひらいっぱいに感じながら、ポニーテールを避けるために必死に下を向いて月乃は肩を揉んだ。このまま日奈様の背中にぎゅううっと抱きついてほっぺをすりすり出来たらどんなに幸せか分からないが、そんな想像とも月乃は格闘しながら肩を揉み続けた。
マッサージをする子猫のような柔らかくゆったりした月乃の手つきは、特に肩が凝っていなかったはずの日奈の肩をとっても気持ちよくさせた。単にフィジカルに血行を促進させただけでなく、姉妹のような距離感が生む癒しの力が孤独な毎日を送る日奈の心をほんわか温めたのだ。
「小桃ちゃん」
やがて日奈はゆっくり正面を向いて月乃の小さな手をとった。制服越しでない本物の肌の温もりに包まれた自分の手のひらだけが天国にいっちゃったような感覚に月乃は背筋がゾクゾクした。
「お姉ちゃん、すっごく気持ちよかったよ」
お姉ちゃん・・・そう名乗られた月乃は自分の欲求と権利と使命が一致する瞬間に出会った。
「お・・・お・・・お姉さま・・・」
久々に日奈様をお姉様と呼ぶことが出来て月乃はとっても幸せだった。
「小桃ちゃん、ありがとう」
やっぱり自分は日奈様のことが大好きなんだというある種の諦念の中で迎える女神のベルの音は不思議な感覚であった。恋をした罰で小学生にされたが、その罪を償うための奉仕活動のさなかに恋をしているのだから間抜けな話だが、どうやら神様は今回は大目に見てくれたようである。
「あ、あの! そういえば保科先生に呼ばれていたのを思い出しましたの。というわけでお二人とも、さよならですわ!」
そう言い残して小学生の小桃はキッチンを去ったのだった。
小桃ちゃんがいなくなったらそれは高校生の月乃が戻ってくる合図なのだが、日奈や桜ちゃんはそんなことを知らない。
「追いかけてくる人もいなくなったみたいですし、私はそろそろ行きますね」
日奈は腰を上げた。
「そうですか。お話できて嬉しかったです。姉小路様」
「ええ。私も・・・。月乃様によろしくお伝え下さい」
「わかりました。でもその前に」
「え?」
桜は鞄からピカピカのスケジュール帳を取り出した。
「サインを下さいっ」
彼女は姉小路様に引かれないようにずっとお行儀よくしていたが、本当はサインが欲しかったのである。桜はそこそこ努力家だが、せっかく知り合いになれた白いリボンのプリンセスとそのまま別れられるほど強い意志は持てなかったのである。
一人になった桜が完成目前のケーキを冷蔵庫から出したり入れたりして暇を潰していると、誰かがドアをノックした。
「はい、どうぞー」
桜はまるでこの寮の住人のようになっている。
少しだけ開いたドアの隙間から覗き込んできたのは高校生の月乃様だった。キッチンに桜ちゃんしか居ないことを確認した月乃は、嬉しいんだか寂しいんだか分からない微妙な表情をした。ちなみに月乃は感情を表に出さないプロお嬢様なので、今のような微妙な表情も「無表情」に見せる誤摩化し術を小さい頃に既に会得しているから、桜の目にはただのポーカーフェイスにしか見えていない。
「月乃様! おかえりなさい」
「・・・日奈様はいませんの?」
「はい、たった今お帰りになりましたよ」
日奈様に一言くらいちゃんと挨拶しかったという後悔があるが、今は反省をしている場合ではない。七夕の日以来のクライシスを少々危険な方法を用いて無事に乗り切ることができたのだから、この流れに乗って今は前向きに自分のやり残した仕事の続きに着手すべきである。
「こほん。これでは桜様」
「はい、なんでしょう」
「あなたに見せて差し上げますわ」
月乃は冷蔵庫で冷え冷えになったケーキの前に立ち、三たび瞑想を始めた。肉体と精神の山場をまた一つ乗り越えて成長した今の月乃のハートはまさに明鏡止水、完璧な先輩をお祝いするための完璧なケーキを完成させる完璧な一手が今くりだされる。
「はいっ!」
月乃はずっと手に持っていたイチゴをケーキの上にようやく乗せた。
「完成ですね!」
「ええ。完成ですわよ」
ちなみにこのイチゴは高校生の月乃の体と一緒に一時的にこの世界から神隠しに遭うという不思議な大冒険を経験したイチゴの国のアリスである。
東の山際の雲間に月影が輝きだした頃、保冷剤にしっかりガードされた完璧な誕生日ケーキを持った二人はロワールハウスに到着した。
「西園寺会長は?」
「まだ帰宅されていないみたいですわね」
午前中の授業後に西園寺様がどこで何をしているのか月乃たちはよく知らないが、とにかく今はチャンスなので、二人はキッチンダイニングに上がってサプライズパーティーの準備をした。パーティーと言ってもここはロワールハウスだし相手はあの西園寺様だからあんまり派手にしてもいけないので、黒と赤と金の紙テープを輪っかにして繋げたオーナメントをちょこっとキッチンカウンターの辺りに飾りつけておくにとどめておいた。ちなみに黒はロワール会のリボンで、赤は一般生徒のリボン、そして金は西園寺様の栄光の未来を表現している。
「それでは月乃様、私はこのへんで帰ります」
準備が整って楽しいのはまさにこれからという時に桜がそう言った。
「あら、帰ってしまいますの?」
「はい。見知らぬ生徒がパーティーにいても変な感じですし、それに今日は近所のお店の日替わり夕食メニューが、美味しいと評判のパエリアなんです。今日を逃したら来月まで食べられません!」
桜ちゃんはあちこちの店の日替わりメニューを非常に細かく調査してノートにまとめているマメな女である。これでいつもの物忘れさえ無ければきっとどこかの道で大成することだろう。
「そうですのね。それじゃあ、桜様がたくさんお手伝いして下さったことはわたくしから西園寺様にお伝えしておきますわ」
「ありがとうございます! それではっ」
桜ちゃんは必要以上に深くお辞儀をしてロワールハウスを去っていった。
西園寺会長が帰ってきたことは門を開ける音で分かる。会長は門の閉め方がとても丁寧なので、キューッという丁番の金属音は聞こえるのに、カチャンッという閉まる音が聞こえてこないのだ。
「西園寺ですわっ」
門の音を聴いた月乃は急にドキドキしてきた。間もなく玄関を開けて会長が入ってくるはずである。本当はダイニングの電気を消して、西園寺様が入ってきた瞬間にパッと明るくして「ハッピーバースデー!」とやりたいところだが、戒律を守るための無表情を保ったまま「ハッピーバースデー!」は色んな意味で無理があるので、いつも通りのクールで静かなサプライズにしてみようと月乃は思った。月乃たちが作った完璧なケーキを見れば、それだけできっとビックリしてくれるに違いないのだ。月乃はケーキに立てた18本のロウソクに火を点けた。ちなみにこのロウソクは特製の黒いロウソクである。
「ただいま。月乃さん、帰ってるの?」
「おかえりなさいませ。西園寺様」
月乃は廊下に顔を出して先輩を出迎えた。
「ただいま。雨降らなかったわね」
「そうですね。会長、どうぞこちらへ」
「あら、なあに」
西園寺様の髪は今日も星空みたいにつややかである。
「会長、お誕生日おめでとうございますわ」
「あら、まあ・・・」
ダイニングに入った会長を出迎えたのは、月乃たちが様々な困難を乗り切ってこしらえた非の打ち所のない完璧なバースデーケーキである。しかもトップに美しく並んでいるイチゴの中には不思議の国の住人まで混ざっているという限定版だ。
「嬉しいわ。ありがとう。私の誕生日を知ってたのね」
「はいっ」
完全に無表情であれば「嬉しいわ」と発言することは戒律的にもセーフらしい。
「そのケーキ、クリーム塗る作業からは手作りなんです。同じクラスの若山桜様が手伝ってくれたんですの。きっと美味しいケーキになってますわ」
「そうなの。今度桜さんにもお礼を言わなきゃいけないわね。素敵なケーキだわ」
「ありがとうございますっ」
月乃は鼻高々である。やっぱり私が計画することは全て完璧ですわねと月乃は思った。
が、西園寺様はロウソクを吹き消す前に首をかしげた。
「どうかされましたか?」
「ロウソク、18本あるわ」
18本用意したのだから当然である。高校三年生の先輩が誕生日を迎えたら当然18才のはずなのだ。
「あの、なにか問題ですの?」
「月乃さん、私は今年で17才なのよ」
「えっ・・・!」
月乃の完璧な計画はここでめでたく終幕した。
「だ、だって西園寺様は・・・18才・・・」
「私は2年生よ」
新事実が発覚した。月乃はてっきり西園寺様は3年生だと思っていたのだが、本当は一つしか歳が違わなかったらしい。
「に、2年生だったんですか!?」
「そうよ。・・・言ってなかったかしら」
月乃はよーく思い出してみた。このダイニングのテーブルの上で偶然見かけた西園寺様の生徒証・・・月乃は西園寺様の誕生日しかチェックしなかったのだが、確かにそのすぐ隣りには大きな字で「2年A組」と書かれてあった。
「2年A組、西園寺美冬。よろしくね」
二人が出会っておよそ三ヶ月、会長は初めて月乃にちゃんとした自己紹介をした。
「は、は、はい! よろしくお願い致しますわ」
西園寺様が差し出した右手を月乃は大慌てで握り返した。恥ずかしくて耳まで真っ赤である。
「あらあら、気にしないでいいのよ。誰にでも失敗はあるわ」
今回の一件で確かに月乃はミスをしてしまい只今後悔の真っ最中であるが、客観的に考えて自分の学年を正確に伝える機会を一度も作ってこなかった西園寺会長のほうもなかなかの天然っぷりである。
「ロウソクを吹き消したいわ。その前に電気を消しましょう。そのほうが雰囲気が出るわ」
「そ、そうですわね」
パチッと照明を落とすと、キッチンダイニングの壁と天井に二人の陰が浮かび上がった。小さいけれど温かい・・・大成功も大失敗も全部優しく美しく包み込んでくれる西園寺様が待つこの場所こそが自分の家なんだと月乃は改めて感じた。
「それじゃあ、消すわよ」
「はい」
炎に照らされる西園寺様の美しい横顔がケーキに迫ったかと思うと、「ふっ」という細い吐息と同時にダイニングは黒一色の真っ暗闇に包まれた。
「ありがとう、月乃さん」
やはりロワール会には黒がよく似合う。