16、七夕飾り
月乃は美術の時間がかなり好きである。
自己顕示欲に満ちた生粋のお嬢様である月乃は、幼い頃から自分を鋭く美しく表現する場を常に探しながら研鑽を積んできたため、芸術科目はお手の物なのだ。
「月乃様は絵もお上手なんですね」
「あら、これくらい普通ですのよ」
夏服に衣替えした月乃と桜ちゃんは、絵の具と木材の香りが心地いい美術室の椅子に腰掛け、窓に向かってキャンバスにコンテを走らせていた。完成しなかった分は夏休みの宿題にもなる予定の今回の課題は、ベルフォール大聖堂を自分の好きな場所から描こうというものである。ほとんどの生徒が「美術室の外に行っていいんだぁ」と喜んで学舎の外に出て行ったが、賢明な月乃は美術室から一歩も動かなかった。ここは必要な画材が自由に使える上にエアコンもヒューヒュー効いているので最高のお絵描きスポットだと月乃は思っている。
「んー」
月乃は絵はまあまあ上手いのだが、このコンテとかいう硬いクレヨンみたいな画材の扱いにまだ慣れておらず手惑っているから、寮に帰ってからこっそり練習する用に小さいのを一個だけ貰ってティッシュに包みスカートのポケットに入れた。月乃は人前でカッコイイお嬢様を演じるための陰の努力を惜しまない女なのである。
「わぁ、月乃様、大胆な構図ですねぇ」
「ええ。わたくし広場よりも空に興味がありますの」
月乃は努力家である一方、才能がない部分をキッパリ切り捨てる潔さも持っており、自分の唯一の苦手分野である「人物画」を避けるために、人通りの多い広場を描かずに済む構図を選んだのだ。白黒ハッキリさせる性格の月乃は、柔らかい曲線をうにょうにょ使って滑らかなフォルムをしたものを描くが不得意であり、人間を描こうとするとどうしても古代エジプトの壁画のおねえさんみたいなデフォルメが効いたホーリーな仕上がりになってしまうのだ。
「今夜は晴れるかしらね」
月乃は窓越しの空を見上げながらなんとなくつぶやいた。
「今夜なにかあるんですか?」
「あら、今日は七夕ですのよ」
笹の葉サラサラの七夕が今年もやってきたのだ。西洋ラブな毎日を送ってきた月乃にとっては特に馴染みのないイベントだが、天の川が綺麗に見えるかどうかくらいは気になるものである。
「た・・・七夕・・・・」
桜ちゃんがにわかに震え出した。手に持ったコンテをキャンバスに当てたまま震えているので絵が凄いことになっている。
「月乃様・・・」
「な、なんですの?」
「・・・私、すっかり忘れてました!」
桜ちゃんが思い出した内容は以下の通りである。
期末試験が始まるかという頃、桜が月乃の真似をしながら廊下を優雅に歩いていると見知らぬ生徒が声を掛けてきた。彼女は桜がロワール会の細川月乃様と親しいと聞いて、あるお願いをしに来たのである。なんでも彼女の住む寮では毎年7月7日にちょっとした七夕祭をやっているらしいのだが、知名度が低過ぎて誰も来ずいつも頭を悩ませており、今年はぜひロワール会の細川様のお力を借りたいと考えているらしいのだ。今はマイナーなイベントでも、学園のお姫様が来てくれれば自然と噂は広まり、来年や再来年辺りには大盛況になっているだろうという計画らしい。
「それで、わたくしはどうすればいいんですの」
「はい・・・七夕の日にその寮へ来てくれるだけでいいらしいのですが」
この学園における月乃の影響力はすっかり大きなものになっている。
「わかりましたわ」
「い、いいんですか?」
「もちろんですわ。ロワール会は困っている生徒をほっとけませんのよ」
「ありがとうございます! 急なお願いになってしまい申し訳ありません!」
桜ちゃんの顔を立てるためにも月乃は一肌脱いであげることにした。期末試験も無事終わったので授業は午前中でおしまいだから月乃は結構暇なのである。
ちなみに試験の結果はまだ出ていないが、今回の試験も月乃は全力で臨み、1位を狙いにいった。しかしそれはロワール会のメンバーとしてトップはとっておきたいという自分の立場に背中を押されたモチベーションであり、日奈様には負けたくないという気持ちは特に無かった。むしろ勉強で競い合ううちに二人の仲が今よりも険悪な感じになっていくことは絶対避けたいと月乃は思っている。周囲の生徒たちが求める細川月乃像と、本人が望む細川月乃像のあいだにちょっぴり齟齬が生じているのだ。
「とにかく桜様」
「はい、なんでしょう」
「手の震えを止めたほうがいいですわよ」
桜のキャンバスはもう真っ黒である。
セーヌ会が企画したあの球技大会から数週間が経つが、学園の生徒たちはすっかり落ち着きを取り戻していた。大会が白熱したお陰で、会場に来ていたほとんどの生徒が戒律に抵触する異常事態となったが、各々反省したりしなかったりで、今では完全にいつも通りの無表情で上品な生徒たちに戻っている。月乃もあれ以来日奈様の顔を見ていないせいで小学生モードになっておらず、お嬢様としての人生は順調なのだが、日奈様に会えない切なさで毎晩寝付きが悪いのも事実である。
七夕祭を開いている寮は北西部にあるレンヌハウスという名の小さな寮で、一階には和風雑貨と和菓子のお店が入っているらしい。そもそもこの学園で和風のお店を開いていたらそれなりに目立つはずなのだが、ほとんどの生徒がその存在に気づいていないほどの陰の薄さである。
授業を終えた月乃たちは北大通を突き当たりの広場まで北上してから左折した。ちなみに今の広場を右折すればあっという間にロワールハウスに帰れる。
「風が気持ちいいですねぇ」
「そうですわね」
木々を揺らして北の山から涼しい風が吹き下りてくる。梅雨はまだ明けていないのに今日はなかなか日差しが強いので、木陰の道で風のささやきを聞くのはとても心地いいのだ。
和風雑貨のお店というから街角のおだんご屋さんみたいな和風な店構えを月乃は想像していたが、レンヌハウスも他の寮と同様煉瓦や天然石で作られた西洋建築で、しかも地中海の香りすらする砂像のような質感の白い外壁であった。
「・・・まだ誰もいないみたいですね」
「あら、早く来過ぎたみたいですわね」
スパゲティでも出て来そうなオープンテラスがあるが、よく見ると「ひんやりわらび餅」とか「北極だいふく」といった夏っぽい和風涼菓のメニューが書かれた木板がテラスの柱に下がっている。なんだか不思議なお店である。
二人がテラスの椅子に座らせてもらって寮生の帰宅を待っていると、桜ちゃんが急に立ち上がった。
「月乃様、今なにか聞こえました?」
「え?」
もしかしてあなたも小学生になったりしませんわよねと月乃は思った。
「動物の声です。なにかいるんでしょうか」
「あらまあ、動物ですの」
そういえばさっきからキューンみたいな声が背後の山から聞こえているが、鳥か何かかと思って月乃は気にも留めていなかった。桜は道の真ん中へ出て山の中腹を見渡した。
「あ! なにかいます!」
桜ちゃんは笑顔にならぬよう気を付けている様子だが、なんだかとても楽しそうである。
「なにがいますの」
月乃は保護者のような気分で座ったまま声を掛けた。
「鹿かもしれません! 少し見てきます」
野生の鹿は気が小さいので絶対に驚かせてはいけないんですと言いながら、桜は抜き足差し足でどこかに行ってしまった。桜ちゃんは真面目なのだが少しマイペースで天然なところがある。
それにしても、七夕に欠かせない笹の七夕飾りが見当たらないので、月乃は辺りを見回した。ちなみに若い竹を「笹」と言って七夕の日に飾るのは、笹と竹が植物学的にもまだハッキリ分類できていないことが原因とか、葉っぱを利用する場合は笹、稈の部分を利用する場合は竹って呼べばいいんじゃないのという感覚が国民に広まっているからとか色々言われているが、単純に童謡のせいだろうなと月乃は思っている。
桜様はどこまで行っちゃったのかしらと思いながら月乃が山の方を振り返ってみると、店の裏側に折り紙の飾りが付いた笹が風にそよいでいるのが見えた。
「あら・・・」
どれほど遠慮深ければあのような場所に飾る気になるのか不思議なところだが、やっぱりここが七夕祭の会場であることが分かって月乃はひと安心である。桜ちゃんもなかなか戻って来ず時間を持て余した月乃は寮の裏手の七夕飾りを見に行くことにした。
山林のすぐ下にある寮なので、その裏庭はほとんどが天然の竹林の様相だったが、赤い布を敷いた床机と大きな野点傘がなんとも風流で、ここの寮生たちの秘めたる和心が感じられる。
「ん?」
七夕飾りの脇のデスクに「ご自由にお書きください」というメモが貼られたクッキー缶が置かれており、開けてみると中には無地の短冊がたくさん入っていた。時間つぶしに何か書いてみようかと月乃はペンを手にとった。
すると、オープンテラスのほうから小さな靴音が聞こえてきた。
桜ちゃんだったら「月乃様ー?」などと声を出すに違いないのでたぶん寮生が帰宅したんだなと思った月乃は、「こほんこほん」と咳をして自分の存在だけアピールして、そのまま短冊に何か書くポーズを続けた。月乃は最近、後ろ姿や横顔からお嬢様オーラを出すことにハマっているので、「あ! 月乃様! 来てくださったんですか」という声を聞いて初めて顔を上げて「あら、どうも。お邪魔してますわよ」とかっこ良く挨拶することにしたのだ。今日は湿気が少ないのでいつも以上に髪のコンディションも良い。
しかし、靴音がこちらに向かってくるにつれ、月乃は自分の鼓動が高鳴っていく奇妙な感覚に包まれた。自分の名誉のためにいつもギリギリの戦いをしている多感なお嬢様であれば、直感が思考を上回る瞬間に出会うことはよくある。
「あ・・・」
月乃が顔を上げて振り向いた先にいたのはなんと、大好きで大好きでたまらない日奈様だった。日奈は月乃が振り向く直前にどこかに身を隠そうとしていた様子だったが、目が合ってしまって諦めたみたいである。
「こ、こんにちは」
日奈の声が月乃の耳をくすぐった。彼女の声を聞くだけで月乃は頭がクラッとしてしまう。
「こ、こ、こんにちは・・・」
夏服になった日奈様の袖から見える綺麗な肌が眩しくて月乃は耳を真っ赤にしてしまった。ちなみに二人とも衣替え済みだが、ちゃんと夏服用のリボンを襟元に付けており、両会のトレードマークである黒いリボンと白いリボンは健在である。
「ど、どうしてこんなところに日奈様が来ましたの」
こんなところと言うと失礼かも知れないが、やっぱりセーヌ会のメンバーは学園の南側の賑やかなエリアにいるイメージがあるので、このような最北部の何も無い場所に訪れるのは意外である。
「・・・少し、興味があったんです」
日奈は恥ずかしそうにうつむきながら答えた。
日奈のクラスでも美術の授業で大聖堂を描く課題が出ており、日奈は坂の上の北山教会堂から描くことに決めたので最近この辺りの山に通っているのだが、教会堂の建つ辺りから見下ろした時にこの寮の裏にある七夕飾りがちょうど見えたのである。目立たないところで咲く花に感動するタイプの日奈は、ぜひ一度お邪魔してみたいと思っていたのだ。つまり二人がここで出会ったのは完全に偶然なのである。
「短冊、自由に書いていいらしいですわよ」
「え」
「・・・書きたいなら、どうぞ」
月乃はそっぽを向きながら日奈にペンを渡した。
「ありがとうございます」
月乃は静かな木漏れ日の中で、ゆっくり近づいてきた日奈の髪の香りに包まれていた。これはまた小学生に戻ってしまう大ピンチなので、月乃はなるべく日奈様のほうを見ないように見ないようにと意識しながら、クールなモデル立ちをして竹林を見上げ続けた。このタイミングで桜ちゃんが戻ってきたら、二人が実はそれほど不仲で無いことがバレてしまい、その噂が広まると西園寺会長にも叱られてしまう可能性があったので、その意味でも月乃はなるべくツンツンした態度をとった。本当は一緒に椅子に座って風を聞きながらおしゃべりをしたいのである。
と、ここで月乃は背後の日奈が一向に短冊を書き終える気配がないことに気づいた。間違いなくすぐ後ろに彼女はいるのだが、動きをぴったり止めているのかもしれない。何かあったのかと気になった月乃は、こっそり振り返ってみた。
そして月乃は言葉を失ったのだ。
短冊を胸の前でぎゅっと握りしめたままの日奈様が、頬を染めて上目遣いに月乃を見つめていたのだ。実は日奈はここに来る前から、もし短冊に願い事を書ける機会があれば、自分と月乃様に関することを書こうと思っていたため、近くに本人がいたら恥ずかしくて書けないのである。
「ど、どうしてそんな目をしますの・・・」
なんだか妙な質問である。
「いえ・・・別に・・・」
日奈はうつむきながら曖昧に答えた。
不仲では無いにしろ、自分は日奈様からそれほど好意的な印象を持たれていないと思い込んでいる月乃は、なぜ日奈様が自分の前でこんな表情をしているのかサッパリ分からなかったが、今この瞬間が二人だけの秘密の時間であることだけはハッキリと肌で感じられた。いま月乃の目に映っている日奈様の全てが、月乃だけのものなのである。月乃が体がじんじんするほど緊張してしまった。
恋のドキドキを感じまいと月乃が懸命に舵をとってきた理性の船は、ここでついに青春の荒波に呑まれることとなる。若竹の葉擦れに紛れていつもの鐘の音がガラーンガラーンと迫ってきたのだ。ちなみにこの鐘の音はなぜか果物みたいな甘酸っぱい香りとセットになって近づいてくるのが特徴なので、ただの環境音と間違えてしまうことはない。
「うう・・・」
これだけ顔を真っ赤にしていたらそりゃ学園の守り神様も怒りますわよねと月乃は自分にあきれてしまった。自分が恋の戒律を破ることによって小学生の姿にされてしまうという事実を最も知られたくない相手は日奈様なので、月乃は必死で逃げ場所を探した。
「じ、実はクラスメイトの子が鹿を見たとか言ってどこかに行ってまして」
「鹿?」
「わ、わたくしも見に行ってきますの! さよならですわ!」
月乃は黒いリボンを揺らしながら裏庭を抜け出し、表の通りへ駆けていった。
「さ、さよなら・・・」
月乃様は意外と動物好きなのかなと思いながら、日奈は月乃のかっこいい後ろ姿が日差しの中で白く輝いて消えていくのを綺麗な瞳で見つめていた。
他に生徒が近くにいると知った日奈は、早めにこの場から離れることにした。ロワール会の月乃様のそばに自分がいるところを見られたら、月乃様の人気が下がってしまうかも知れないからだ。
「よし・・・」
短冊に自分の願い事を小さい字で遠慮がちに書いた日奈は、自分の名前を敢えて記さないままそれを笹の葉に結びつけてその場をあとにした。月乃様に偶然会えてお話まで出来たので日奈はとっても幸せな気持ちだった。
「大丈夫やろかぁ・・・」
「眠ってるだけだと思いますよ」
どれくらい夢の中にいたのか分からないが、月乃はぼんやりする意識の中に二人の少女の声を聞いた。通りの角を急いで曲がった辺りで倒れた月乃は、例にもれず小学生モードにされてしまったようである。
「・・・ん、あ、おはよう! 私のこと覚えてる?」
重いまぶたを頑張って持ち上げた月乃の幼い顔を覗き込んでいたのは桜ちゃんだった。覚えていないわけがないが、もう今の月乃は小桃ちゃんなのでそれっぽい振る舞いをしなければならない。
「よかった。目ぇ覚めたんやね」
あなたは覚えてませんわよと思いながら月乃が体を起こすと、そこには見知らぬ生徒がいたが、どうやら七夕祭を企画したこの寮の生徒のようである。月乃はついさっきまで日奈様と一緒にいた裏庭の赤い床机の上に寝かされていたらしく、見上げた竹林の葉漏れ日は若緑の爽やかな風合いで、月乃の体が小さくなったせいもあってとっても開放的である。月乃は日奈様がもうこの裏庭からいなくなっていることにホッとしたようなガッカリしたような複雑な気持ちを抱いた。
「お、おはようございますわ・・・」
またしても小学生になってしまった自分が恥ずかしくて月乃の声は小さい。なぜ月乃だけが戒律を破った時に罰を受けるのかは未だに解決していない謎である。
「前に保健室の先生にいろいろ聞いたけど、キミ小桃ちゃんって言うんでしょ。この前はありがとうね!」
桜がお礼を言ってきた。彼女が言う「この前」というのは月乃が初めて小学生モードになり、無事に高校生に戻れたあの日のことであり、月乃は桜ちゃんに特製パンの券をプレゼントしているのだ。
人の役に立つことをして感謝されれば元の体に戻れるはずなので、今桜ちゃんに「ありがとうね」と言われて月乃は一瞬飛び上がるほど嬉しかったが、特に体に変化はないため、新たに人の役に立たなければいけないらしい。
「小桃ちゃんに会えたのは嬉しいけど、今度は月乃様がどこかに行ってしまったみたいですねぇ・・・」
ここにいますわよと月乃は心の中でつぶやいた。
「やっぱり・・・こんな小さな寮でやる七夕祭にお誘いするのは失礼だったんやろかぁ・・・」
どうやら小学生になってしまうタイミングが悪かったようである。これではこの寮の子も可哀想だし、月乃を連れてくると約束した桜ちゃんの面目も立たなくなってしまう。なんとしても今日じゅうに高校生に戻って、上方の方言が可愛いこの寮生に「七夕最高ですわー!」と伝えてあげなければならない。
「小桃ちゃん、時々この学校に来てるんでしょ? 今日は何時までいられるの?」
「え、ええと・・・夕方くらいまで、ですわ」
「そうなんだ、じゃあゆっくりできるんだね」
ゆっくりする訳にはいかない。人助けをすれば戻れるはずなので、月乃は困っている人がいないか周囲を見渡したが、この場で今一番困っているはおそらく月乃であり、他の二人はのんびりお茶菓子などを食べ始めている。
「はい、小桃ちゃんも食べてやぁ♪」
「あ、ありがとうございますわ」
逆に月乃がお礼を言ってしまった。これでは先が思いやられるが、とりあえず頂いた草餅を食べながら月乃は作戦を練ることにした。まだまだ時間はあるから落ち着かなければならない。
が、その長い時間はあまりにも穏やかに流れた。
「短冊書いていいですか?」
「どうぞぉ」
「これ、色はどれ使ってもいいんですか」
「どうぞぉ」
「ではこの桃色の短冊に書かせて頂きますっ」
「どうぞぉ」
時折高い枝から細い葉がくるくる回りながら落ちてくるのを眺めていると、なんだか心が洗われるような気がして、月乃はそっと目を閉じた。自然と一体化してしまうほど暇なのである。
「小桃ちゃんも書かせてもらえば?」
「なにをですの?」
この状況で短冊以外に何があるのか。
「短冊さん。お願い事を書くんやでぇ」
寮の子がトランプのばばぬきのように短冊を並べて月乃に差し出した。
「何色がええかなぁ?」
「うう・・・」
少し恥ずかしい月乃は、何色でもいいですわよと心の中でつぶやきながら紫色の短冊を貰って願い事を書くことにした。月乃という生き物は無意識に黒に近い色を選ぶ習性がある。
「小桃ちゃん、書けた?」
「・・・書けましたわ」
「じゃさっそく結びつけよう。これ、どこでもいいですか?」
「ええよぉ」
寮の子は何でもOKしてくれる寛大な女性である。桜は笹の中程にある枝を少し引っ張って下ろし、その先の方に短冊を付けた。
「小桃ちゃん、届く?」
「と、届きますわ」
月乃は精一杯背伸びをして短冊を結びつけた。人に見られていて恥ずかしいし、手首の辺りに葉っぱがこしょこしょ当たって非常にくすぐったかったが、月乃は小学生の時にこんなイベントに参加したことが無かったので少し新鮮な気分を味わうことができた。
「小桃ちゃんの願い事はなにかな?」
「うちも気になるわぁ」
「み、見なくていいですわ!」
『早く大きくなりたい 小桃』
来るはずもない高校生の月乃を三人が引き続き待っていると、桜が突然立ち上がった。
「聞こえましたかっ?」
「え? なんも聞こえへんよぉ」
「わたくしもですわ・・・」
本当は鹿の鳴き声がかすかに聞こえたが月乃は鐘の音以外に興味がないので適当に答えておいた。
「たぶんさっき見逃してしまった鹿です。今度こそこの目に焼き付けてきますっ」
桜ちゃんは「すぐ戻ります」と言い残して表通りに飛び出していった。どう考えても山から声が聞こえるのだからここからまっすぐ上ってみればいいのに、桜の行動は謎が多い。
さて、月乃は思いがけず寮の子と二人きりになってしまった。
「鹿さんがおるんかなぁ」
「い、いるかもしれませんわね」
「そうやねぇ。この学校、山奥やしねぇ」
何をしゃべっていいか分からず手持ち無沙汰な月乃は床机の上にひらひら落ちてきた葉っぱのしっぽ部分を指でつまんでくるくる回してなんとなく遊んだ。何度か回すうちにかなり高速の美しい回転ができたので少し楽しくなった月乃は、「今の見てましたか」といった感じの顔で寮のおねえさんを見上げた。
意外にも、おねえさんは寂しそうな顔をしてぼんやりと竹林を見つめていた。
「ど、どうしましたの?」
月乃は面倒事には自ら足を踏み入れないというオトナな信念の持ち主なのだが、さっきまで桜と楽しそうにしゃべっていた彼女が急にこんな顔をしたら心配にもなってしまうものである。
「え? ・・・うん」
おねえさんは七夕飾りを見上げた。
「細川様、一度ここへ来てくれはったのに、いなくなってしもうた・・・」
近代日本画に出て来そうな綺麗な横顔である。
「やっぱり和風のイベントなんてこの学園に似合わんのやろかぁ・・・。気に入ってもらえんかったかも知れんね・・・」
胸にノスタルジックな痛みを覚えた月乃の体は、気づいた時には椅子を飛び降りていた。
「そ、そんなことありませんわ!」
目を丸くするおねえさんの正面でそう叫んでしまってから、月乃は頭の中の整理を始めた。確かに七夕のイベントは浮いているかもしれないが、こんなに寂れていることが不思議なほど素敵な催しだと月乃は感じている。
「ロワール会は、別にこの学校を黒一色の学園にしようとしているわけではありませんわ!」
「え?」
「色んな人が集まって、色んな考えが互いに譲り合って、尊重し合って、時にはぶつかり合うかも知れませんけど、最後は必ず丸く収まる、そんな学園を目指しているはずですのよ!」
月乃は意識していなかったが、セーヌ会との争いもいつか平穏に終わって欲しいと内心望んでいるということである。
「ロワール会が多様性を尊重する証拠に、期末試験前の球技大会の黒チームには、金髪のおねえさんも帽子被りっぱなしの子もいましたわ。戒律をしっかり守って、自分なりに真のレディーとはなにか追求する女性をロワールの細川様が悪く思うはずがありませんわ」
本人が言ってるのだから間違いない。
「だからもっと胸を張ってください。裏庭も確かに素敵ですけど、表にも堂々と七夕飾りを出せばいいと思いますのよ」
「小桃ちゃん・・・」
「あなたが思っている以上に、あなたの寮は素敵ですのよ」
おねえさんは少しはにかんだ後、そっと立ち上がって月乃を抱き寄せ優しく頭を撫でてくれた。おねえさんのふわっと柔らかい胸からスズランみたいないい香りがする。
「あ、あの・・・」
おねえさんの温かい指は月乃の髪をゆっくりゆっくり滑った。今日は空気が乾いているため小桃ちゃん状態でも髪のコンディションはやっぱりいい感じである。
「小桃ちゃん」
「は、はい」
「おおきに。ありがとう」
その言葉を耳にして始めて、月乃は今自分が誰かの人助けをしなきゃいけない立場であることを思い出した。
「あ・・・」
どうやら月乃の熱弁は寮のおねえさんの心をちょっぴり救っていたらしく、鐘の音がどこからともなく聞こえてきたのだった。世の中には無欲になってこそ掴める勝利もある。
「どうしたん?」
「わ、わたくしも・・・感謝しておりますのよ!」
ありがとうの気持ちはギブアンドテイクなのだ。
自分に頭を下げて裏庭を抜け出し、大通りに逃げていく小桃ちゃんの背中を、おねえさんはなぜか手を合わせて拝みながら見送った。
「不思議な子やなぁ〜・・・」
あなたもなかなかである。
鹿見学から戻ってきた桜ちゃんは、表通りの木陰のベンチで足を組んで頬杖を付き、目を閉じている高校生の月乃を発見した。
「あ、月乃様! どこに行かれてたんですか?」
月乃は小学生モードの最後の瞬間にとっさにベンチに腰掛け、たぶんここを通りかかるであろう桜ちゃんに見つかった時に恥ずかしくない格好をしてから意識を失ったのである。月乃ほどのお嬢様になればこのくらいの機転は利くのである。
「月乃様? 考え事中ですか?」
何度か呼びかけられて月乃はようやく目を覚ました。ちなみに月乃は口の中の感覚で今の自分が高校生か小学生か分かるようになってきた。体が丸ごとチェンジした時に一番最初に違和感を覚えるのは舌先が感じる口の中の微妙な変化であり、あるはずの永久歯がまだ乳歯だったりする感じは想像以上に気になるものである。
「・・・月乃様?」
「あ、あらおはよう・・・じゃなくて、桜様、鹿には会えましたの?」
「はい! 生まれたばかりの子鹿の後ろ姿も見かけましたっ。珍しいものを見られて感動しました」
変身したばかりの月乃の寝顔もなかなか珍しいのでこっちにも感動して欲しいところである。
「とにかく、さっきの寮に戻りましょうっ」
「そうですわね」
月乃はまだくらくらしておぼつかない足元を懸命にモデル歩きに整えながら桜と一緒にレンヌハウスに向かった。あまりにもスピーディーな展開なので何かミスをしていないかどうか気になったが、今はとにかく高校生の姿にちゃんと戻れた喜びで月乃の胸はいっぱいである。
いつの間にか二人の陰は長く伸びており、夕暮れも近いようである。
「おそくなりましたわ」
寮に着くと、方言のおねえさんは裏庭ではなく表のテラスにいた。
「細川様ぁ! 来てくれはったんですね」
「ええまあ。戻ってきたんですのよ」
「どこへ行かれてはったんですぅ?」
しまったと月乃は思った。やらなければいけないことが多過ぎて、高校生の月乃が一時的にどこかに消えていた言い訳を考えるのを忘れていたのである。
「そ、それは・・・」
何か自分を救ってくれるものはないかと月乃はとっさにスカートのポケットをポンポン触って中を確かめた。すると、ハンカチでもティッシュでもないキャンディみたいな小さくて硬い感触に出会った。それが何なのか月乃は分からなかったが、ここは出た物勝負ということで、ポケットに手を突っ込んでそれを取り出した。
午前の授業で使っていたコンテだった。
「わたくし、これを取りに帰ってましたの」
「それは・・・」
「コンテですの。画材ですわ。わたくしの願い事は深い精神論になりますから、字ではなく絵で表現したいと思いましたのよ」
寮のおねえさんは今日まですっかりなくしていた自信を、今の一言で完全に取り戻した。小桃ちゃんという小学生が言っていた通り、ロワール会の細川様は自分たちが始めたこのささやかな催しを気に入ってくれたのである。
「さあ、七夕祭、はじめましょう」
おねえさんはずっと我慢していた喜びの感情を、ついにここで輝かせて返事をしたのだった。
「はい!」
表のテラスに移動させられた笹の七夕飾りを囲って月乃たちがお茶を飲みながら短冊を書いたりしていると、通りかかった生徒たちが徐々に集まり始め、噂も広まり、いつの間にか寮の周りには自分の願い事は何にしようか楽しげに悩む制服たちで溢れていた。ここの七夕飾りのご利益は、早く大きくなりたいという願い事をすぐさま叶えて貰えた月乃が保証できる。
「短冊、増えましたねぇ」
桜が七夕飾りを見上げて感嘆している。乙女達の希望が鈴なりになって揺れる様は星々に負けぬほど美しい光景である。
「わたくしの短冊も描けましたわ。飾りますわよ」
わざわざ画材を取りに帰ったということにしてしまったので月乃はちょっと気合いの入った絵を描いておいた。特に深い意味はないが、猫と犬が仲良く寄り添って寝ている絵である。若干古代エジプト風になってしまったが気にしてはいけない。
ただし、彼女はただ絵を描いただけではなかった。体が小学生になったり戻ったりを繰り返す信じがたい経験をしている今の月乃は、もはや神様にまつわる行事にバカにできなくなっているため、一応本当の願い事も書いておきたいと考え、匿名のまま別の短冊にこっそりと希望を記し、絵の短冊の陰に隠すような形で枝に結びつけたのだった。
めでたいことにその夜は雲ひとつない星月夜で、空気の澄んだベルフォールの盆地から望める天の川は吸い込まれる程に美しく輝いて、静かにせせらいでいた。今日は珍しく良い事が出来たぞという心持ちが、ロワールハウスに帰る月乃の足取りをとっても軽やかにした。
夜風にそよいだ七夕飾りの隙間から月乃の願い事が書かれた短冊がこっそり顔を出した。その短冊には『日奈様と友達になりたい』と小さな字で記されており、偶然にもそのすぐ隣りでは、同じように遠慮がちな小さな字で書かれた『月乃様とお友達になれますように』という短冊が揺れていたのだった。