14、選手会議
お昼時のベルフォール大聖堂はまぶしい青空の中にそびえ立っていた。
小学生モードの月乃は大聖堂のすぐ近くに建つ学舎の屋上で木製ベンチに腰掛け、まるで波止場にやってきた黒い宇宙船のような強烈な存在感を放つそのゴシック建築を遠い目で仰ぎ見ていた。月乃の体が小さいせいもあってか今日の大聖堂はまた一段と巨大に感じられて、尖塔の装飾にちょこんと座ってお昼寝する三羽の白いハトが、チョコケーキにトッピングされた小さな銀のアラザンみたいに見える。
「はぁ・・・」
抗えぬ運命の激流に翻弄されている月乃が解放的な癒しを求めて屋上にやってきたのに、目の前のでっかい建物がこちらを下ろしてきているせいであんまり気が休まらない。この学園に住んでいる生徒が遠くまで展望できる壮大な景色を拝もうと思ったら、敷地を囲っている山に頑張って登るか、大聖堂のてっぺんの塔によじ登るかしなければならないようである。
昨夜セーヌハウスにて眠れぬ夜を過ごした月乃は、午前中は保健室のベッドでゆっくり眠っていたい気分だったが、それ以上に自分が授業に出ていないという罪悪感と焦りが大きかったため、授業時間中はこっそり自分の教室前の廊下に忍び込んでノートをとったりしていた。月乃は熱を出して保健室で寝ているという設定で本日の授業を欠席しているので、何日も誤摩化し続けることはできないというのに、待てど暮らせど元の姿に戻れる気配はない。前回の変身時に高校生モードに戻れたのが奇跡なのであって、もうこのまま一生小学生のままである可能性も否定はできないのだ。
月乃が二度目のため息をつこうとした時、階段から続く屋上の扉が軽やかに開いた。
「やっほう月乃ちゃーん」
爽やかな風に白衣を揺らしながら呑気な感じで登場したのは、長いとも短いとも言えない微妙なショートカットがステキな保健の保科先生である。憂鬱な気分の自分と温度差のある挨拶についていけない月乃は、先生に小さな背中を見せたまま聞こえないフリをした。
「月乃ちゃん、先生凄いこと気づいちゃったよ」
先生は靴をコトンコトン鳴らして歩きながら何やら真面目な調子でそう言った。
「な、なにに気づいたんですの!?」
やっぱり頼りになるのは先生ですわねと感激しながら月乃はベンチを飛び降りて先生に駆け寄った。
「レモン果汁の450ミリリットル瓶は蓋を開けたままでも完全な真っ逆さまにすれば中身がこぼれないんだ」
月乃はそのまま小さな足で先生の靴をむぎゅっと踏んでおいた。
二人が仲良くベンチに腰掛けて菓子パンを食べ始めると、お昼休み開始のチャイムが鳴った。
「お、みんな校舎から出て来たねぇ」
パックのコーヒー牛乳を片手に席を立った先生が屋上の柵にもたれてつぶやいた。眼下の大聖堂広場には午前中の授業から解放されてそれぞれの昼食場所に向かっていく少女たちがたくさん見える。
「んー、いい眺めだねぇ」
あきれた先生ですわねと思いながら月乃は小さな口で牛乳のストローをちゅうちゅう吸った。現在の月乃は見た目こそ無邪気な小学生だが中身は超硬派なお嬢様なので、先生みたいなえっちな女性は容赦なく軽蔑される。
少女たちの柔らかい髪をふわっと風が揺らす穏やかなお昼休みに、いつもとちょっぴり違う変化の風が吹いたのはその時であった。学園の各所に設置された屋外用スピーカーからノイズと物音がこぼれ始めたかと思うと、女生徒のカッコイイ声が聞こえてきたのだ。
『お昼休み中の学園生徒諸君、お騒がせして申し訳ない』
大聖堂の屋根でおまんじゅうみたいな格好で寝ていた白いハトたちがびっくりして立ち上がっている。意外と足が短くてかわいいハトたちである。
『私はセーヌ会の会長の東郷礼。諸君に急ぎ伝えなければならない用件があるため放送室をお借りしている』
「と、東郷会長・・・!」
昨夜はとことん穏やかで優しそうな声をしていた東郷会長も、今日はちょっぴり力強くハキハキとしゃべっている印象である。これが彼女のお仕事モードらしい。
「なになに、この放送」
「東郷会長です。明日のことを生徒たちに連絡しようとしてるんですわ」
「え・・・明日のことって?」
何も知らない先生は話についていけない。
『大変急なので心の準備もできないかも知れないが、明日土曜日の授業後にスポーツ大会を開催したい。これは体育祭の復活を望む我らセーヌ会の発案によるものだが、すでにロワール会との協議は済んでおり、開催は決定している』
大聖堂広場の生徒たちはざわめいていた。個人的にセーヌ会の東郷会長や姉小路日奈様に憧れている生徒は少なくないが、セーヌ会が戒律や校則を軽視する悪の集団であるというのは共通認識として根強いので、多くの生徒たちが東郷会長の放送に警戒心をあらわにしている。
「ねえ、セーヌ会の会長が何か企んでるみたいだよ」
「そうね、きっと素敵・・・じゃなくて面倒なことになるわ」
「スポーツ大会なんて・・・く、くだらないよね」
「ほんと。考えることがかっこいい・・・じゃなくて、どうかしてるわ」
警戒心をあらわにするのが下手な生徒もいる。
『明日の予報も今日と同じ快晴だが一応梅雨どきなので万全を期して体育館で行いたい。2つのグループに分けた対抗戦とするため、そのグループを今から発表する』
非常に手際が良く、生徒たちに有無を言わさぬ強引さと説得力のある東郷会長の声は、ちょっと内気で甘えん坊な生徒たちの心をキュンキュンさせてしまうかも知れない。
「うーん、東郷さんは私のライバルだなぁ」
先生が腕を組みながら空を見上げてつぶやいた。たしかに先生もそれなりにかっこいいが、モテ具合で教え子と張り合うのは恥ずかしいからやめてほしいなと月乃は思った。
『ベルフォール大聖堂より北部の各寮の生徒は全てロワール会が率いる黒チーム、南部の寮生は我らセーヌ会の下で白チームとして参加してもらいたい』
この学校にはヴェルサイユハウスとマドレーヌハウスという二つの巨大な寮があるが、それぞれ北部と南部に建っているので、このチーム分けは人数的にもちょうど良いものである。
月乃はとっさに「わたくしは黒チームですわね」と思ったが、小学生のままではおそらく白チームの仲間である。せめて小桃ちゃん状態でロワールハウスに滞在できるようになれば状況はマシなのだが、小桃ちゃんのまま西園寺会長にどんな感じで接していいのか分からないし、西園寺会長が小学生とおしゃべりする様子も想像できない。
「そんで、なんのスポーツなんだろうね」
月乃も先生と同じ疑問を抱いていた。
「バスケだったら先生も活躍できるんだけどなぁ」
なぜ参加する気でいるのか。
『気になる種目についてだが、誰もがおおよそのルールを知っていて、勝敗が分かり易いものを選ぶことにした』
じゃんけんでもいいんですのよと月乃は思った。
『ドッジボールだ』
広場に響いた意外な言葉に月乃と先生は顔を見合わせた。
月乃にとってドッジボールとは内野にいる相手チームメンバーにボールをぶん投げて喜ぶ野蛮なスポーツであるし、小学生が楽しむ球技という印象もあるので月乃はちょっと微妙な気持ちになった。しかも今彼女は高校生モードに戻る方法を考えることに専念したい時なのに、小学生だった頃の体育の時間などを思い出させるのもやめて頂きたいところである。
「なるほどぉ、ドッジボールか」
「・・・何がなるほどなんですの?」
またえっちな想像に基づく変な発言をされる可能性もあったが月乃は一応先生の所感を伺っておいた。
「この学校は運動部員が極端に少ないし、中学生の時に運動部だった子も少ないんじゃないかなぁ。中学の授業でやるスポーツなんて学校によってまちまちだし、小学校の時に多くの人が遊んだことがあるドッジボールを選ぶのは悪くないと思うね」
先生が何を言いたいのかちょっとよく分からなかったが、どうせ全員が出場することはできないのだから、ルールを理解している人の数などあんまり気にしないでもっとかっこいいスポーツを選んでいいのになと月乃は思った。
『これは我ら白組への連絡になるが、出場選手を決めるため、本日の放課後マドレーヌハウス一階のホールに集まって頂きたい。黒組の皆さんも今日中に集まって相談しておくことをお勧めする』
月乃は入学当初の数日だけマドレーヌハウスで暮らしていたから知っているが、マドレーヌハウスの一階には夕食会などで使われる広い部屋があるのだ。
『諸君、これはセーヌ会とロワール会の勝負ではない。勝敗にとらわれず、参加する者と応援する者が一体となって存分に楽しんで頂きたい。これは全員に等しく与えられた新しい自分に出会えるチャンスなんだ』
とかなんとか東郷会長は言っているが、本当はロワール会の勢いを削いでセーヌ会の人気を上げるチャンスにしようとしてるに違いありませんわと月乃は思った。月乃の心はいつでも西園寺会長のロワール会と共にある。
『万が一ロワール会の西園寺会長がこの放送を聞き逃していたら面倒だから、このあと彼女を見かけた生徒は念のためこの放送の内容を細かく伝えておいてほしい』
これだけ大音量で放送してたら確実に聞こえてますわよと月乃は思った。
『私からの連絡は以上、お騒がせしてすまなかったね』
広場の異様な盛り上がりに圧倒されたのか、あるいは明日が待ちきれないのか、大聖堂の白いハトたちは青い空を気持ち良さそうに泳ぐ白い雲の向こう側へ飛び立っていった。
6時間目の古典の授業の盗み聞きを終えた月乃が保健室に戻る途中、ホームルーム終了のチャイムが鳴ったかと思うと、廊下のスピーカーから聞き覚えのある美しい声が流れてきた。
『ロワール会の西園寺です。気は進みませんが、明日の大会の件で私たちも話し合いをします。大聖堂より北部の寮に所属する生徒は、特に用事がない限りヴェルサイユハウスのホールに集まって下さい』
ロワール会率いる正義の黒チームも集会を開くらしい。これはぜひとも会場に急行して西園寺様のお手伝いをしたいところだが、このような小学生など門前払いされるに違いないなと月乃は思った。月乃は大好きな日奈様から半日ほど距離を置いているので恋のドキドキも結構落ち着いてきてはいるのだから、そろそろ高校生に戻してほしいものであるが、まだ学園の神様から許しは貰えていない。
「ただいまですわ・・・」
月乃は保健室が家みたいになっている。
「おかえり。今の聞いた?」
「ヴェルサイユ寮で集まるみたいですわね」
「月乃ちゃんはどうする?」
「どうしようもありませんわ・・・保健室でゴロゴロしますの」
月乃はベッドの上に力無く倒れ込んだ。ちなみに小学生状態の月乃は保健室の備品の体操服みたいなシャツを着ている。
「いいじゃん、集会見に行こうよ。先生も一緒に行くから」
「・・・西園寺様に追い返されるようなことになったら、わたくし立ち直れませんわ」
「大丈夫だって。学校見学ですよーって私が上手く説明するから」
そう言いながら先生は手首のストレッチなどをしている。助っ人としてドッジボール大会に参加して生徒たちともっと親しくなりたいという下心が見え見えである。
「わたくしは絶対選手として参加したほうがいいですわよね・・・」
「ん、わたくしっていうのは?」
「高校生の細川月乃ですわ。ロワール会の一年生ですもの。西園寺様のお手を煩わせる程のイベントではないにしろ、やっぱり一人は代表として参加しておかないと格好がつきませんわ・・・」
「まあ確かにね。白チームの選手には日奈ちゃんが入る可能性が高そうだし、あの子の魅力に対抗できるのは西園寺さんかキミだけだな」
「・・・日奈様はやっぱり運動も出来ますの?」
「うん。スポーツテストで学校新記録を連発してたって聞いたよ」
「ううぅ・・・」
月乃はぐったりした。世間は月乃と日奈がライバル同士だと思っているが、月乃にとって日奈様は雲の上の存在である。
「明日のお昼までに高校生の体に戻れるの信じてさ、とりあえず会議の様子だけでも見に行こっ」
先生は鼻歌を歌いながらデスクの上を整理している。悩みがなさそうでうらやましい限りである。月乃はしぶしぶベッドの上からうつぶせのまま滑り降りた。
「ヴェルサイユハウス行く前に図書館だけ寄らせて」
先生は月乃の病気を調べるための難しそうな専門書をたくさん抱えながらウインクした。いい加減なようでいて、実は月乃のことをちゃんと考えてくれている、それが保科先生である。
月乃が経験している症状で最も難解なのは、彼女の着衣が変身する度に変身元の体とセットになっている点である。初めて小学生になってしまった時の月乃は素っ裸で、高校生だった時の制服はどこかに消滅してしまったかに思えたが、無事に高校生に戻った時はちゃんと制服を着ていた。このようなことは、お洋服にまで責任を持てない医学のみで太刀打ちするべき問題ではない。
「でも、医学以外に何学が使えますの?」
「それはまだハッキリとは分からないけど」
先生は黙ったままひと気の無い図書館を見渡した。この図書館は最近改装されたものらしく、ベルフォールには珍しい近代化を前面に出した建物であり、ここにいると都会の科学博物館にやってきたようなワクワクを味わうことができる。
「前にも言った通り、私は神様なんて信じないからね。戒律を破ったら症状が出るなんて思ってないよ」
「でも現にわたくしはこうして小学生になってますわ・・・」
「・・・戒律が前提になって病気が存在するんじゃなくて・・・その逆なんじゃないかな」
「逆ってどういうことですの?」
「んー」
先生は唸りながら腕を組んで貸し出しカウンターにもたれ掛かった。月乃は先生の白衣のポケットに引っかかっているボールペンが落ちそうになっているのを見つけてそっと直してあげた。体が小さいと細かいところに目がいくようになる。
「とりあえず、ヴェルサイユ宮殿行こうか」
「そうですわね」
ヴェルサイユ宮殿に行くためにはまずパスポートが必要である。
ヴェルサイユハウスは学園で一番大きい寮であり、見た感じは南のマドレーヌハウスと大して変わらないのだが、この学校では大聖堂の次くらいに有名な格調高い建築物である。
「お、もう始まってるみたいだね」
紫陽花と噴水が清しいこの広場は月乃もたまに通りかかっているヴェルサイユ広場と呼ばれる場所で、ヴェルサイユハウスの中の様子が窓越しにちょっぴり見えるのだが、一階のホールには既に大勢の生徒が集まっているらしい。
「いってみよう」
自分が入っていって大丈夫なのかちょっと不安な月乃の小さな肩を温かい手でポンポンと押しながら、先生はヴェルサイユハウスに入っていった。
「ですから、細川様は体調を崩しているんです!」
会議は白熱していた。
「長い歴史を見ても両生徒会がスポーツでぶつかり合うなんて珍しいことだと思いますわ。それなのに、こちらの生徒会の代表が一人も選手にならないなんて、戦う前からセーヌ会に遅れをとっているのと同じだと思いますけど」
ヴェルサイユハウスのホールは結婚披露宴の会場のような300人くらいは余裕で入れる広さだったので、後ろの扉からこっそり入った月乃たちに気づく生徒はあまりいなかった。すぐに追い返されると思っていた月乃は一安心である。
が、ホールに入った瞬間から自分のことが話題にされていたので月乃は生きた心地がしなかった。ここは他人のフリをしたまま話を聴くしかないのだが、非常に肩身が狭い。
「これはセーヌ会の罠なんです! 傷を負ってはならないという戒律を知っておきながら野蛮な球技大会を開くなんて・・・西園寺会長はもちろん、細川月乃様の参加も私は反対です!」
前の方で椅子から立ち上がり、月乃と似たようなお嬢様度の高い論理を展開してくれている少女がいる。ちなみに彼女は麦わら帽子みたいな大きめのシルエットの黒い帽子を被っているが、あれは10年くらい前までこの学園で公式に使われていた制服の一種であり、なかなかお洒落な上に今でも販売しているので使用している生徒が時々見受けられる。室内でもなるべく帽子を取らずに自分の表情を隠していくという、マナーが良いんだか悪いんだか良く分からない戒律遵守の補助グッズだ。
「まあ、そうですね。でも細川様に出場して頂けることがベストなのは間違いありませんわ♪」
一方、どうしても月乃に頑張ってもらいたい派の主張をする柔らかい物腰の女の子は綺麗なストレートの金髪である。これも別に珍しいことではなく、ベルフォール女学院には海外からやってきた物好きな少女も少なくないのだ。
この学校はルールが厳しいがとにかく個性的なので集まってくる子もちょっと変わった人間が多く、会議を後ろから眺めているだけでも結構面白い。
「お二人とも、静粛に。貴重なご意見を頂けて助かったわ」
一番前の議長席で人形のような顔の西園寺会長が二人を制した。何百人も生徒が集まっている中でちゃんと意見を言っていた二人は、実は凄い人たちなのかも知れない。
月乃は西園寺様の姿を見て、もどかしいような切ないような不思議な気持ちになった。一秒でも早く誇り高いロワールメンバーの姿に戻って会長を補佐することが月乃の心からの願いである。
「帽子のあなたが言うように月乃さんは今保健室で休んでいるけれど、この大会であの子に選手として活躍して貰ってセーヌ会の勢いを挫いてしまいたいのも事実よ」
なんだか非常に申し訳ない気分の月乃は広いホールの一番後ろで小さな体をますます縮こまらせた。
「だからこうしましょう。明日もし月乃さんの具合が万全だったら、ドッジボールの外野として参加してもらう。そしてその補欠という形で・・・あなた」
西園寺会長は先程のサラサラ金髪の女の子を指差した。
「は、はい!」
「あなたに参加してもらうわ。さっきは運動部員のみなさんにお願いすると言ったけれど、特別に枠を開けてもらって」
「わかりました・・・」
月乃の位置からははっきりとは見えないが、金髪の少女はちょっぴり西園寺会長に圧倒された様子である。自分の意見には責任を持ちなさいという、会長の超クールな姿勢は月乃も見習いたいと思っている。
「それから、彼女だけでは不公平だから・・・あなた」
西園寺会長は帽子の子も指差した。
「あなたにも出てもらうわ。」
「・・・わかりました」
帽子の子も深々と頭を下げた。
「ですが会長、どうか細川様がご無理をなさいませんよう・・・」
「その点は大丈夫よ。私も月乃さんに無理にお願いしにいくつもりはないわ」
それにしても帽子の少女の月乃への気遣いはなかなかのものである。ロワール会にもし新しいメンバーを入れるなら、ああいう生徒を誘えばいいのかも知れませんわねと月乃は思った。
ドッジボールの選手はそのあと運動部の生徒を中心にスームーズに決定し、会議は20分程で無事に終了した。解散になった生徒たちはヴェルサイユハウスの自室に帰ったり、再び外に出かけたりとさまざまである。
一足早く先生と一緒に廊下に出ていた月乃は、先程自分のことを一生懸命気遣ってくれたあの生徒を探していた。ぜひとも一言をお礼を言っておきたいと思ったのである。
「あ」
「どうしたの?」
「先生、わたくしちょっと用事ですの。すぐ戻りますわ」
帽子のおねえさんを見つけた月乃は靴をペタペタいわせながら、他の生徒達のスカートを華麗にかわして彼女の背後に迫った。
「もしもし、帽子のおねえさん」
「え?」
帽子の少女は月乃の幼い声に半身で振り向いた。帽子を目深に被っていると本当に目元の様子や表情が分からないので、月乃もこの帽子が欲しいなぁとちょっと思った。
「こほん。えー、先程の選手決定会議の様子、わたくし後方から拝見しておりましたの」
月乃は帽子の彼女をたっぷり褒めてあげることにした。
「ロワール会とそのメンバーを想うあなたの気持ち、素晴らしいとわたくし思いましたわ。あれだけの生徒が集まっている中で自分の主張を曲げず、体調不良の細川様に全力で味方する、なかなか出来ることじゃありませんのよ。あなたのような人がいたことを保健室の細川様が知ったらきっとお喜びに・・・」
「こどもは早くおうちに帰りなさい」
金輪際この女とおしゃべりすることは無いだろうなと月乃は思った。
自分の身分や正体を隠したまま庶民とふれあい、最後は痛快な勧善懲悪を演じるというようなお話は各国で昔から題材にされてきた舞台劇やドラマの定番であるが、その主人公たちが序盤に受けるストレスがいかに大きいかということを月乃は身を以て学んだのである。