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12、セーヌハウス

 

 湖畔の丘には穏やかな日だまりの時間が流れていた。

 若緑の草原を駆け抜ける爽やかな風の音は耳に心地良く、軽やかに運ばれてくる草の匂いは月乃をなんだか懐かしい気持ちにさせた。どこまでも続く青い空は、不思議と明日へではなく遠い昨日へ続いているような感じがして、月乃はこの星の遥かな歴史や宇宙の神秘についてぼけえーっと考えながら、眩しい太陽になんとなく手を伸ばしてみた。

 すると、彼女の手をそっと握り返す温かな感触があった。これが神様って奴なのかなと月乃は一瞬思ったが、冷静に考えてそんなものが現実に登場するわけがないし、ところでここは一体どこですのという客観的な感想にたどり着いて、彼女は夢から覚めることになった。


「あ。おはよう、小桃ちゃん」

 月乃は我が目を疑った。

 仰向けに寝ていた彼女の顔の上で、大好きな姉小路日奈様が優しく自分を見下ろしていたのだ。どうやら月乃は日奈に膝枕してもらっていたらしく、どうりで気持ちいい夢を見るわけである。

「おはよう。大丈夫? 寒くない?」

 綺麗であったかくていい香りのお姉さまにまっすぐ見つめられて月乃は頭の中がホットミルクみたいに真っ白になってしまった。

「・・・お、お姉・・・さま・・・」

 月乃は思わず本物の小学生みたいな甘えた声を出してしまった。夢から覚めた先がさらに夢のような場所だったのだから無理もない。難しいことかもしれないが、月乃は持ち前のお嬢様根性をフルに発揮してこの状況の理解と整理に努めなければならないのだ。

 月乃は雨宿り中に様々な偶然が重って日奈様と見つめ合ってしまった結果、心身共にときめいて燃え上がってしまい、めでたく小学生モードに戻されてしまったようである。「恋をしてはならない」という戒律を破ることで罰が当たるのではないかという点は予想済みだったが、再び前回と同じ小学生の姿になるのかどうかは自信がなかったため「小桃ちゃん」と呼ばれて月乃は一安心である。ワンちゃんやネコちゃんに変身してしまうよりはマシだからだ。

「大丈夫?」

 日奈の優しい笑顔と体の温もりで月乃の体はとろけてしまいそうだった。

「だ、大丈夫ですわ・・・」

 声の幼さと口の中の違和感が完全に以前と同じである。この辺りで我に返った月乃はあまりの恥ずかしさにほっぺをおいしそうな桃色に染めながらゴロっと転がって日奈のヒザの上から脱出した。月乃は人生で初めてと思われる膝枕を最高に大好きなお姉様にしてもらった幸福感から、そのままゴロゴロゴローっと転がって地平の彼方へ旅してしまいたいと思うほど恥ずかしかった。こんなに幸せで胸が苦しくなるような興奮を月乃は他で味わったことがない。

 日奈様からだいぶ距離をとって胸の鼓動を少し落ち着けてから月乃が体を起こしてみると、そこは月乃の見知らぬ部屋であり、使われていない重厚な暖炉の前に置かれた小さな電気ストーブが、広いカーペットの上に座る二人の横顔を暖かく照らしていた。まるでお洒落なアンティーク家具のお店みたいに可愛い内装なのだが、学びの園にある建物という感じはあまりしない。月乃は直感でここがセーヌ会の本部、セーヌハウスであることを察した。

 日奈はヒザを使ってトコトコ歩いて小学生モードの月乃に再び近づくと、月乃の小さな頭に白くて柔らかいタオルを被せ、子犬にするようにわしゃわしゃと拭いてくれた。

「や、やめっ・・・やめてくださ・・・」

 プライドが高く恥ずかしがり屋な月乃はすぐに抜け出そうともがいたが、心地よい白の世界にすっかり包みこまれている小さな月乃の抵抗は無力であった。

「やめ・・・やめ・・・」

 日奈はくすくす笑いながら、幼い小桃ちゃんの髪をしっかり拭いてあげた。目の前の幼子がつい先程一緒に雨宿りしていたロワール会の細川月乃様だと知らない日奈はとっても無邪気である。


 月乃はびしょ濡れで発見されたせいで現在タオル地のバスローブを着せられており、さすがに眠っている彼女をお風呂に入れるのは困難だったらしく、とりあえず冬に使っていた電気ストーブで体を乾かし、風邪を引かないようにしてくれたのだ。日奈はとっても気が効くおねえさんである。

 が、恋の戒律を破ることが切っ掛けとなって変身してしまうことが分かった以上、月乃は姉小路日奈様に甘えることは出来ない。対処の基本は原因に逆らうことであり、例えば暑くて喉が乾きバテてしまった時は体を冷やして水分を補給するとだいたい改善するように、今の月乃の場合はとにかく恋から遠ざかり、日奈様のことを考えないようにしたほうがいいはずである。そうすればそのうちまた美しい高校生モードに戻れることだろう。


 月乃が日奈に背を向けたまま部屋の端っこでじっと体育座りをして「早く戻れ〜早く戻れ〜」と心の中で念じていると、誰かが階段を下りてくるような物音がドアの向こうから聞こえてきた。

「会長ー、東郷会長ー。小桃ちゃんが起きました」

 このとき日奈は廊下の足音に向かってそう声を掛けたのである。

 東郷会長・・・それは月乃が初めて耳にする名だったが、その人物が何者なのか容易に想像することができた。この学園に会長と呼ばれる生徒は2人しかいない。一人は正義のロワール会のリーダーで前髪パッツンのロングヘアーと徹底した無表情がドーリーな魅力を醸す西園寺様であり、もう一人はそのロワール会をぶっ潰すために活動している悪の組織セーヌ会のトップであり、大好きな日奈様を悪の道に引きずり込もうとしている闇の女王である。戒律を破ってしまって天から罰を受けている月乃が言えた口ではないが、少なくとも月乃は自分からルールを破ろうなどと野蛮なことは考えていないので、やっぱりセーヌ会の会長のことは嫌いである。

 葡萄の葉みたいな凝った木彫りの装飾がされたドアがゆっくり開いて、その人は部屋に入って来た。

「それはよかった。寒くないかい」

 月乃は反抗期のネコのような鋭い視線をドアのほうに向けていたのだが、東郷会長の姿が見えた瞬間、その顔は驚きの表情に一変した。

 確かに月乃の予想通り、胸のリボンと同じ白色のセーターを腰に巻いていたりするワイルドさはあるが、東郷会長のお顔の品の良さはとてもアバンギャルドを気取る闇の組織の長のものではなかった。優しくもどこか筋の通った聡明そうな眼差しや穢れなき透明感を持つ素肌もさることながら、月乃が最も注目したのは東郷会長の髪型である。彼女の髪はシニヨンと呼ばれるまとめ髪の一種なのだが、後頭部にこぶしサイズの幾何学的な薔薇模様を編み上げる高度なシニヨンであるため月乃もビックリのお嬢様ヘアースタイルになっている。ただのお団子ではなく花のように仕立てるにはなかなかの手間とコツが必要であることを月乃は経験で知っているのだ。

「もう髪も乾いたよね、小桃ちゃん」

「は、は、はい・・・」

 日奈に尋ねられて月乃は声を上ずらせながら返事した。ちょっと油断しているとすぐ横から天使が声を掛けてくる。

「それはよかった。紫陽花の葉の陰で雨に打たれて倒れているキミを背負って寮に戻ったら、日奈くんの友人だったとは。私はてっきり花の妖精かと思ったよ」

 東郷会長の声色はとても高校生とは思えないくらい落ち着いていて、優しく微笑みながら歩く所作は、なんとなく王子様みたいである。なるほど西園寺会長と渡り合うだけの人物だなと月乃は思った。

 しかし、いくら彼女が美しく礼儀正しかったとしても、伝統を破壊しようとしている会のリーダーであることは事実なので、月乃は騙されちゃダメですわと自分に言い聞かせて警戒心を奮い起こした。警戒している時の月乃はだいたいネコみたいな顔をしている。

「電話をしたから、じきに保科先生が診察に来てくれるよ」

「ホシナ先生?」

「保健の先生だよ。はて、キミとは知り合いだと聞いているけど」

「え、あぁ、はい。もちろん知り合いですのよ。昔から診てもらってますの」

 月乃は保健の先生の名前をここで初めて知ったのだが、東郷会長はそんな小学生モードの月乃を怪しむ様子もなく優しく笑ってくれた。

「髪が乾いたばかりで惜しいかもしれないが、風呂が沸いたから入ってきたらどうだい? 油断をすると風邪を引いてしまうよ」

「あら」

 有り難いことにお風呂に入れるらしい。あまり東郷会長の世話になりたくはないのだが、少し体が冷えている感じがする月乃は先生が迎えにくる前に温かいお湯に浸かっておきたい気分である。

「日奈くん。小桃くんをお風呂に入れてあげな」

「はい、わかりました」

 月乃はお風呂に入れる喜びで浮かれていたせいで一瞬反応が遅れた。

「え!?」

「小桃ちゃん。お姉ちゃんと一緒にお風呂入ろう」

 日奈は実に自然に、何のためらいも無しに、当たり前のように月乃を誘ってきた。月乃は恋から遠ざからないと元の体に戻れない可能性が高いし、そんなこと以前に大好きな日奈様と一緒に裸でお風呂に入るなど天地がひっくり返っても考えられない。雨宿り中にちょっと手に触れただけでも天罰が下るレベルの興奮をしてしまうのに、一緒にお風呂なんか入ったら、一生高校生の体に戻れないばかりか下手をしたら一輪の百合の花か何かにボワーンと変えられてしまうかも知れない。

「だ、だ、ダメですわ!!」

 月乃は飛び上がってそう叫んだが、小桃ちゃん状態の彼女の声は非常に可愛らしく全く迫力がないので、日奈や東郷会長にその必死さは伝わらない。

「大丈夫、お風呂広いから、一緒に入れるよ」

 広さなどどうでもよい。月乃は顔を真っ赤にしてぴょんぴょん飛び跳ねた。

「一人で入りますっ! 一人で入りますっ!」

「え・・・そ、そんなに一人で入りたいの?」

「一人でお風呂入りますのっ!」

 これじゃただの何でも一人でやりたがる年頃の女の子である。

「そ、そこまで言うなら・・・」

 さりげなく訪れた人生最大級の危機を月乃は無事に回避した。運命というやつはすぐに月乃の恋心をもてあそぶから困り者である。


「タオルはこれ使ってね」

 お風呂場はなんと地下1階にあった。

「ボディータオルは・・・これ開けちゃおうか。クマさんのスポンジ」

 セーヌハウスは表から見れば3階建てだが、裏から見れば4階建てであり、最下階のスペースは贅沢にお風呂場に使われている。

「ク、クマさん・・・」

「ウサギさんのスポンジもあるよ♪」

 月乃は今の自分が日奈からどれほど幼く見られているかクマのスポンジを介してひしひしと感じた。

 棚にカゴがたくさん並ぶちょっと和風で明るい脱衣所は、なんだか修学旅行に来たような気分にさせてくれるワクワクスポットであるが、月乃は日奈様が流れで服を脱ぎ出さないかどうか警戒を怠っていない。小学生モードの月乃としゃべっている日奈様は、普段の月乃としゃべっている時と比べて積極的で、なんだかずっと楽しそうである。

「それじゃあ、本当に一人で大丈夫?」

「だ、大丈夫ですのよ・・・」

「そっか。お風呂上がったら、1階のさっきのお部屋来てね。あそこはこの寮のリビングみたいなところだから」

「わかりましたわ・・・」

 月乃は日奈様にこれ以上惚れてしまわぬよう目を合わせずに会話をした。しかし日奈の持つ美と温もりは五感のうち一つを意識して遮ったとて避けられるものでないから、月乃のハートは夏の空を泳ぐ旅客機のように少しずつ少しずつ高度を上げながらきらめいていった。さっさと日奈様と距離を置かないとロウの翼が溶けて海に落ちてしまう。

「それじゃあ、またね小桃ちゃん」

「はい・・・」

 ようやく月乃は一人になった。静かになった脱衣所で月乃は棚のカゴをひとつ引っ張りだして床に置き、サイズの合っていない大きなバスローブの帯をどうやってほどくのか小さな手のひらでゆっくり研究し始めた。

「あ、洗い場にボトルが3本ずつ並んでるけど」

「ひい!」

「左がボディーソープで真ん中がシャンプーで右がトリートメントだからね」

「わ、分かりましたわ・・・」

 日奈は手を振ってにっこり笑いながら、今度こそ脱衣所から去っていった。

「あ、トリートメントって分かる?」

「わ、分かりますわ!」

 日奈は小さい子に対して非常に世話を焼きたがる乙女なのである。


 お風呂はプールみたいに広かった。

 実際はロワールハウスの大浴場と大して変わらないはずなのだが、誰もいないお風呂場を小さな足でペタペタ歩いていると、ホールケーキのど真ん中にスプーンを突き立てて一人でぱくぱく食べているかのような強い独占感が味わえた。体のサイズが大幅に縮小されてしまった数少ない利点は、ささやかな空間に大きな開放感を得ることができるところかもしれない。

 月乃は一番奥の洗い場で体を洗うことにした。蛇口を使おうと思ったらシャワーが出てしまい冷たい水を頭から被ってしまったが、一人でいる時の失敗はノーカウントというのが月乃流のお嬢様道なのでむしろこれは良い経験である。日奈がくれたやたら泡立つ新品のクマさんスポンジに全身なでなでされて、雨に打たれた悲しみをすっかり洗い流した月乃は、そこそこご機嫌なステップで湯船に飛び込んだ。吸い込んだ蒸気がのどに染み入るような感覚がとっても心地いい。

「気持ちいいですわぁ・・・」

 月乃は湯船の中でぐっと両足を伸ばして一息ついた。このままお湯に溶けて流れ、最終的には真珠かなにかになりたいですわと月乃は謎のセンチメンタリズムに酔った。お風呂場は人を詩人にする。


「やっほう小桃ちゃん」

「ひい!」

 突然ガラッと扉を開けて入ってきた空気の読めないおねえさんは白衣姿の保科先生である。白衣を着たまま靴下だけ脱いで大浴場に入ってくるという大胆な登場である。

「なんですの・・・? わたくしは入浴中ですのよ・・・」

「おいおい冷たいなぁ、わざわざここまで迎えに来てあげたのに」

 月乃は首までしっかりお湯に浸かって不機嫌な日のアザラシみたいな格好で先生に挨拶した。またしても小学生モードになってしまった自分がちょっと恥ずかしいのである。

「セーヌ会の会長さんから電話を貰った時から思ってたけど、やっぱり今回も原因は・・・日奈ちゃん関係?」

 月乃はお湯をちゃぷんと揺らして黙ってうなずいた。

「んーなるほどぉ。これは面白くなってきたなぁ」

「ちっとも面白くありませんわ・・・」

 保健の先生は何の気なしに洗い場のボトルを一本手に取って裏の成分表示を眺めながら笑った。「まずい! クマさんスポンジが見つかったら先生に馬鹿にされますわ」と月乃は一瞬焦ったが、クマさんは一番端っこの洗い場の風呂桶の中で寝ているので大丈夫そうである。

「こういうのは関係のある事柄を絞っていくことがまず大事だからね。恋をしてはいけないっていうのは・・・えーと、何条だっけ」

「第2条ですわ・・・」

「あぁそうその第2条、少なくても戒律の第2条は今の月乃ちゃんの病に関係があるってことさ」

「・・・どう関係がありますの?」

「それはまだ分かりませーん」

 本当にこの人は医者なのだろうか。

「ま、今一生懸命調べてるところだよ」

 先生は白衣の裾を若干濡らしながら湯船の水際にしゃがみこんで月乃にウインクしてくれた。先生の笑顔はなんとなく月乃の裸を見たいだけのようなえっちな雰囲気があるので、笑顔の品位だけで言えばセーヌ会の東郷会長の勝ちである。

「さぁて、どうすればまた高校生に戻れるか」

「・・・しばらくは恋から遠ざかってみるべきだと思ってますわ」

「あー、日奈ちゃんから?」

「いえ・・・その・・・恋から・・・」

 日奈様から物理的に遠ざかることはもはや不可能な状況である。

「前回は妙なタイミングで元に戻れたっけなぁ・・・。ほら、パン屋で並んでる時に」

 クラスメイトの桜ちゃんに特製パンの券をあげたらどこからか鐘が鳴りだし、あっという間に変身できちゃったのである。よく考えると全然恋の戒律と関係がない。

「・・・いろいろ試してみますわ」

「まあそうだね。当面はなるべく恋愛感情を持たないようにして様子見ってとこかな」

「憂鬱ですわ・・・」

 こんな状況でドキドキするなという方が無理な話である。なにしろここは大好きな日奈様が毎日使っているお風呂場なのだから、全国の女子高生の中でもトップクラスに優れた理性と、感情のブレーキを持つ月乃でもついつい色んな想像をしてしまうのだ。

「ほっぺが赤いけど」

「う、うるさいですわ!」

 月乃の気持ちがなんとなく分かる先生は、くすくす笑いながら歩き出した。

「そんじゃ私はお先に。ごゆっくりどうぞ、コモちゃん♪」

「・・・コモちゃんじゃありませんわ」

 先生は豪快に笑いながら脱衣所に歩いていった。実によく笑うねーちゃんである。

「あ、先生っ」

「なぁに」

「西園寺会長に・・・またお電話しておいて頂けますか」

「あぁそれなら大丈夫、既にロワールハウスには連絡済みだから」

 先生は意外としっかりしているところもある。

「西園寺様はなんとおっしゃってましたの?」

「この前とおんなじ。いたってクールな調子で、分かりましたって」

「そうですのね」

「いやぁ、あまりに無表情な声だったから音声ガイダンスかと思ったよ」

 さすがはロワール会の会長である。おそらく彼女なら普通に電話に出てから留守番電話のフリをしたりも可能だろう。

「西園寺様に心配をかけてしまってますわ・・・」

「大丈夫大丈夫。この前も一日で戻れたじゃん。この後保健室で色々試そう」

「・・・色々って、まさか変なこと考えてませんわよね」

「だーから、私は小学生には興味なーいの」

 先生は「上で待ってるからね」と言って笑いながら去っていった。


「小桃くんと保科先生は、随分仲がいいんだね」

「はい、そうみたいです」

 東郷会長と日奈は一緒に白いエプロン姿で晩ご飯を作っていた。

 セーヌ会の二人は普段近くのレストランへ外食しにいくことが多く、今は雨も止んだ様子なのだが、小桃ちゃんにまともな着替えが無いため今日は寮内でご飯を作って食べようということになったのだ。この後すぐ月乃を保健室に連れて帰る気でいる保健の先生と、小桃ちゃんと一緒にごはんを食べる気満々のセーヌ会メンバーたちの間に若干の認識の食い違いが生じている。

「そろそろ弱火にしてくれるかい」

「わかりましたっ」

 東郷会長はいつもより楽しそうに料理をする日奈の横顔をこっそり見つめていた。


「やあやあ、いい匂いだね」

 お風呂場から戻ってきた保健の先生がキッチンに顔を出した。

「先生っ、小桃ちゃんはどんな感じですか?」

 日奈に駆け寄られて先生は少し頬を染めた。なぜこの美少女は学校の先生ならば遠慮なく近づいても大丈夫だと勘違いしているのか保健の先生には大いに疑問である。

「あ、あぁ、小桃ちゃんね。今日は街を出歩いてて突然眠くなる症状が出たけど、もう大丈夫」

「そうですか、よかったです」

 とんでもない病気である。

「保科先生、少しお話よろしいですか」

「あ、はい。何かな東郷さん」

 東郷会長は先生を連れて廊下に出た。セーヌハウスの廊下は暖色の照明が天井で品良く輝いており、壁には小さなティーカップが30センチ程の隙間を空けて点々と並ぶ可愛い絵柄の壁紙が使われている。

「先生、もしよろしければ、小桃くんをたまにセーヌハウスに預けて頂けませんか」

「えぇ?」

「無論小桃くんがこのベルフォールに来ている時、それも症状が落ち着いている場合で構いません」

 保健の先生にしてみれば、恋から離れる必要がある月乃ちゃんの気持ちを考えてここは断ってあげたいところだったが、公に断る理由がなんだか思いつかなかったし、東郷会長がかなり神妙な面持ちをしているので、やむを得ず提案を受け入れることにした。

「まあ・・・たまにならね、オッケーだけど」

「ありがとうございます。今夜もここで預かって構いませんか」

「こ、今夜って・・・泊まりで?」

「ええ。小桃くんが着ていた服は既に洗濯してしまいまして、まともな格好で外に出してあげることができませんから」

 確かに東郷会長の論理は筋が通っており、これまた断る理由が見つからない。後で月乃ちゃんに怒られるだろうなと思いながらも、先生は首を縦に振るしかなかった。

「分かったよ。それじゃまあ・・・任せるから」

「ありがとうございます」

「なにかあったら電話ちょうだいね・・・」

「はい。分かりました」

 穏やかに微笑む妙に大人びた東郷会長の王子様風の眼差しに先生はすっかりお手上げである。


 時計の針が午後7時を回る頃、お風呂から上がった月乃は涼しい脱衣所でほっと一息ついていた。

 鏡に背を向けつつ巨大なバスタオルで体をよく拭き、その細い腕を新しいバスローブの袖に通した月乃は、あぁこれでようやく帰れますわという感慨に浸っていた。あとは保健室で先生と一緒に学舎の購買のお弁当を食べながら、月乃の症状や世の中の理不尽について語り合い、ぐっすり眠るだけだと月乃は勘違いしているのだ。彼女の艱難はまさにこれから始まるのである。

 

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