11、友情
簡潔に言えば、姉小路日奈は日本一美しい女子高生である。
目が合った相手が高確率で卒倒してしまうという社会生活に支障を来すレベルのその美貌は、今までに幾度となく他人の心を惑わし、彼女たちの人生を色んな意味で狂わしてきた。あらゆる人間に受け入れられる音楽や料理が存在しないように、どんな人からも好かれる少女などありえないはずなのだが、日奈は人の心を掴んで離さない超人的な魅力を持って生まれた魔女みたいな子なので、どんなに立派な理性の盾をお持ちのお嬢様でも日奈への熱い胸キュンは避けられない。
日奈はそんな自分のモテ具合に昔から手を焼いていた。例えば本来であれば結ばれる筈だったとあるカップルの恋や友情が、日奈がふらっと目の前を通りかかったがために壊れてしまったりするケースもあり、そのことを深く気に病んでしまう心優しい日奈は迂闊に出歩くことも出来ないのだ。人が大勢集まっている場所をいつしか必死に避けるようになった彼女は、壁にへばりついたり木と同化したり池に潜ったり、さながらくのいちみたいな特殊技能を成長過程で身につけていったのである。余程運が良い生徒でなければ休み時間の日奈を見かけることは出来ないだろう。
さて、そんな日奈が本日の昼休みにやって来たのは大図書館のロビーだった。
昼休みの頭から図書館に来る生徒などおらず、おまけに休憩所みたいになっているこのロビーは書庫内と違って飲食が出来るので、窓際のロングソファーに一人で腰掛けて寮から持参したサンドイッチを頬張りながら高い天井でくるくる回るファンをぼんやり眺めるという至福のひと時が味わえるのだ。
「・・・おいしい」
セーヌ会の東郷会長がおすすめしてくれたラズベリーのジャムがとても深い味わいで日奈はちょっぴり感動した。
「貸し出しカードはお持ちですか」
「え、私もカード必要なの?」
「は、はい」
「私先生だけど?」
「はい・・・できればお願いします」
「じゃあカード新しく作ってくれる?」
「かしこまりました」
保健の先生は新しい台紙にボールペンで自分の名前を書いた。ちなみに先生の名前は保科先生なのだがこれはテストに出ないのでほとんどの生徒が覚えてくれていない。
「これでいい?」
「はい。こちらにもご記入お願いします」
「あ、はい。・・・これ何書くの?」
「そちらも先生のお名前です」
「なるほどぉ・・・このクラス出席番号ってところは?」
「空欄で結構です」
「わかりましたぁ」
「返却は2週間以内でお願いします」
「は、はーい・・・」
ボーイッシュな保健の先生は昔から読書がニガテで中学高校時代の貸し出しカードはずっと真っ白だったから、図書館の空気にちょっぴり圧倒されている。
先生は当初、「わたくしは体が小さくなった細川月乃ですわ」と主張する怪し気な幼子の話に耳を貸さなかったが、今ではすっかり一連の出来事を信じており、今日も関係がありそうな文献を集めるためここにやってきたのだ。4類自然科学の医学の棚を初めは眺めていたのだが、症状が珍しすぎる上に因果関係を疑わせるものが学園の戒律というまさに型破りな病なので、先生のほうも柔軟に物理学や歴史学、各地の伝承にまで範囲を広げて本をたくさん集めたのだった。
本を抱えた先生がやたら近未来的な改札口風のゲートを通ってロビーに出ると、大きなガラス窓の眩しい逆光の中に美少女が一人座っていた。女好きだが少し奥手なところがある先生はどんな感じで声を掛けていいか迷ってドキドキしてしまった。
「や、やあ日奈ちゃん」
日奈が2個目のサンドイッチを頬張っていると、白衣のおねえさんが声を掛けてきた。
「こんにちは、先生」
「いやあ、穴場だねここは。人がいなくて明るくて、おまけに涼しい。先生も時々来ちゃお」
「はい。私も気に入ってるんです・・・」
自分が諸事情で人から逃げ回りながら生活していることを察した上で先生がフォローしてくれている気がして、日奈は少し恥ずかしく、そしてとっても嬉しかった。
「そういえば今日の昼は成績発表があるから、大聖堂広場は混雑しそうって話だったねぇ」
「はい。なので学舎の裏から出てきてしまいました」
4つある学舎は全て大聖堂広場に面しているので外に出るのも一苦労である。
「日奈ちゃんはあれかな、自分の順位とかあんまり興味ない?」
「・・・あまり、ありません」
「へえー、そうなんだ」
「はい・・・」
思えば日奈は小さい頃から1位ばかり取っていた。
出席番号は1番、運動会の駆けっこも1位、絵を描けば必ず金賞で、ついでに実家の住所が一ノ瀬町1丁目1番の1である。このような1の呪いは彼女の勉学にも例外でなく効力を発揮しており、わざと誤った解答にしようとしても様々な偶然が重なって正解になってしまうのである。人はそんな日奈のことを幸運な女だと思っているが、頭が良くてかっこいいという印象が結局日奈のモテに繋がってしまい、トラブルを生む元になってしまうから、日奈にとってはちっともラッキーなことではなかった。今回の試験は記述式ではなく選択肢で解答する問題ばかりだったため、きっと上位になってしまっているだろうなと日奈は思っている。彼女はイヤでも目立ってしまう星の下に生まれたのだ。
「そういえば先生」
「なーに?」
「小桃ちゃんの具合はいかがですか、最近」
「え? あぁ! あのね、小桃ちゃんも普通に小学生だから今は自分の学校に行ってるよ」
「そうなんですか」
「うん、調子が悪い時とか定期的な診察とかでこっちに来るだけで、普段はあの子の地元にいるんだ」
「そうなんですね」
「そうなんだよ」
日奈は小学生くらいの小さい子が大好きである。
ちょっと失礼かもしれないが、幼い子と一緒に遊んでいると可愛い子犬と戯れているようなほっこり優しい気持ちになれるし、普段コソコソと生活をしている汚れたハートを持った自分がちょっぴり癒されるような、幸せな時間を過ごせるのだ。
「また小桃ちゃんに会いたいです」
「あぁ、今度来たら連絡するよ」
「ありがとうございます。お願いします」
「はは、それじゃあまたね」
先生はちょっとぎこちない笑みを残してその場を去りかけたが、大きなヨットの絵の前でそっと立ち止まって振り返った。
「あ、日奈ちゃん・・・」
「はい」
「これはついでというか、アンケートというか、大した質問じゃないんだけど」
「なんですか」
「細川月乃ちゃんのこと、どう思ってる? ロワール会の」
なぜか少しドキッとした日奈は、一瞬頭が空っぽになるような、体がふわっと暖まるような感覚を覚えた。なんでそんなことを先生が尋ねてくるのか日奈には分からなかった。
「・・・厳格な人なんだなっていう印象です」
「そ、そっか。そんじゃまた、いつでも保健室遊びにおいで」
「はい」
保健室とは一体何なのか考えさせられるやり取りである。
孤独な生き方にシンパシーを覚えたのか、もしくは冷たい態度の中に隠された優しさを見てしまったせいか分からないが、日奈は近頃ずっと月乃のことばかり考えている。最後に月乃様に会ったのは中間試験の前で、それ以来顔も見ていない希薄な関係なのだが、なんとなく他人ではないような、単なる顔見知りの同級生ではないような不思議な感じがするのだ。
「この時代になるとイタリア半島の様々な都市が地中海貿易に乗り出していきます」
世界史のノートにぼんやりとペンを走らせながら、日奈はもし次に月乃様に会えたらどんなことをしゃべろうか考えていた。昔からモテモテの日奈には友達と呼べる者が異常に少なく、ずっと寂しい思いをしているから、最近の不思議な巡り合わせに乗じて月乃様との友人関係の成立を彼女は期待しているのだが、残念ながら二人の間には大きな壁が立ちふさがっていた。月乃様は学園の伝統を守る由緒正しいロワール会のメンバーで、日奈はそのロワールに対抗する改革派セーヌ会の一員だから、本来ならば私的なおしゃべりなど一切交わせないライバル関係なのである。友達になりたいという日奈の淡い希望は、はかなく消える運命なのかもしれない。
「それでは教科書を読んでもらうんですが、次の人は・・・姉小路さん」
「は、はい」
日奈は胸の白いリボンを揺らしながら慌てて腰を上げた。
「・・・そういえば先程総合成績の順位が発表されましたけど、姉小路さんが1位だったらしいですね」
先生の声に、クラスメイトたちは待ってましたという調子でどよめいて拍手をした。どんなことをしてもモテてしまう日奈は高校生活最初の試験から1位を取ってしまったのである。
「皆さんも彼女を見習って、一生懸命勉学に励んでくださいね」
日奈は胸が痛くてうつむいてしまった。
実際に日奈が持つ知識など人並みだし、頭の回転だって速くないから、1位なんて取れるはずもないのに、適当に選んだものが勝手に正解になってしまう謎の奇跡のせいでいつもこんな風に褒められてしまうのだ。自分よりももっと努力している人が世の中には大勢いるのに、その人たちが報われず自分がトップになることが日奈のハートをズキズキさせるのだ。持って生まれてしまったモテモテの強運を日奈が嫌っている一番の要因はこのような罪悪感なのかも知れない。
生徒みんなが待ちわびる放課後のチャイムが鳴った。
学舎は外靴のまま出入りOKな欧米スタイルの施設なので昇降口があまり意味をなしていないのだが、傘立ては昇降口にしかないので傘を持って登校した生徒は放課後必ずここを通ることになる。
日奈は今朝セーヌ会の東郷会長から「いい天気に見えるけど、夕方は雨が降るはずだから念のため傘を持っていったほうがいいよ」と優しく助言を貰っていたので傘を持参していたのだ。ちなみに今のところ雨が降ってくる様子はない。
「見て! 姉小路様だわ!」
「きゃあ! お美しいですう!」
「あれがベルフォールで一番頭の良い人のお顔よ・・・素敵ですわぁ」
やはり昇降口は利用できないなと日奈は思った。
「姉小路様ぁ! 私にサインを下さい!」
「私も私も!」
「お願いします!」
逃げようと思ったが日奈は既に大勢に囲まれていた。
「うぅ・・・サ・・・サイン・・・ですか?」
右を見ても左を見ても、自分のことを素晴らしい人間だと勘違いしてしまっている少女ばかりで、日奈はとっても申し訳なくなったが、断れる状況ではなかったのでサインを書いてあげることにした。色紙を用意していた準備のいい生徒もいたのだが、ノートやペンケースなどの私物に書いてくれという人がほとんどだったため、サインを書いたら誰の持ち物だかよく分からない感じになってしまった。
「ありがとうございます! 姉小路様はこれからお帰りですか?」
「あ・・・その・・・私は少し用事があるので、こっちから、サヨナラー」
ぎこちなく手を振って回れ右をした日奈は「お待ちくださ~い」という声を振り切って、学舎の裏口に向かった。裏口は謎の胸像や大きなイチョウの木などが並んでいるため身を隠すには打ってつけで、日奈は自分を追いかけてくる生徒の姿がなくなるまで木陰にうずくまってじっと息をひそめた。このように身を隠す際の判断力も日奈は優れており、例えばこれがちょっとドジで独自の世界を持つ細川月乃ちゃんだったら、おそらく傘を枝に見立てて木のフリをしてその場に立っていたことだろう。
日が陰り始めた頃、辺りはすっかり静かになっていた。
幹からそっと姿を現した日奈は、地面についている雨だれの跡をたどるように学舎の壁に沿って大通りまで歩いていった。今日はなんとなく西大通りの端っこから南下したほうが人に会わずに済む気がした日奈は、道往く生徒たちの背中をこそこそと渡り歩いて西の小川を目指した。
日奈にあまり自覚はないが、彼女は実は月乃と同じレベルかそれ以上にスタイルが良いので、そのナイスバディが思いがけず活躍することがある。川沿いの小道へと続く角を日奈が曲がろうとした時、突然少女が飛び出してきたのだ。
「あっ」
「わぁっ!」
なかなかの勢いだったので本来であればどちらかが尻餅をついていても不思議ではないのだが、日奈の胸にぱふっと飛び込む形で少女がぶつかってきたので二人とも完全に無事であった。
「・・・大丈夫ですか?」
「あ、あ、はいっ。申し訳ありません!」
少女は過剰なほど深く何度も頭を下げて走り去っていった。学級日誌を抱えていたから、自分が日直であることを思い出して慌てて教室に戻っているところなのがバレバレである。
しかし日奈はここで東郷会長から数週間前に聴いたささやかな情報を思い出した。ロワール会の一年生メンバー細川月乃さんにはおさげ髪のそそっかしいマネージャーがついているという噂である。もし今の子が月乃様の知り合いだったとしたら、この道の先に月乃様本人がいる可能性がある。今日は中間試験の順位が発表された日であるからなんとなくありえない話ではない。
「ん・・・」
ポタリと鼻先をかすめる冷たい感触に誘われた日奈が天を仰ぎ見ると、いつの間にかベルフォールの盆地は雨水をたっぷり蓄えた低い雨雲にすっぽり覆われていた。東郷会長の言っていた通り、雨が降り始めたのである。
日奈はさっそく持ってきていた傘を開くことにした。ちなみにベルフォール女学院は制服と同じように傘も指定のものになっており、レース風のエレガントな銀色の模様が描かれた黒地の傘である。
まだ日奈たち一年生の傘は新しいのでワンタッチジャンプのバネがパワフルだから、開く時に「シュバ!」と大きな音を立てるのだが、この音がちょっとした不運を呼んでしまった。
「あら・・・姉小路様だわ!」
「本当だ、姉小路様ぁ!」
なぜ先程おさげ髪の少女とぶつかって「あっ」とか「わぁっ!」とか言ってた時に気づかず、傘を開いた音で気づくのかよく分からないが、学園の美少女を無差別に慕うミーハーな生徒たちが日奈の存在を察知してしまった。日奈はやむを得ず傘を差したまま小走りでその場を去ることにした。
透明なビニールの傘ではない場合傘の下には擬似的なマイルームが形成されるから、雨の日は案外考え事が捗ることがある。日奈は強まっていく雨脚の中を軽やかに駆け抜けながら、もしセーヌハウスに月乃様が訪れていたらどうしようかと考え始めた。ずっと月乃様に会いたいとは思っていたが、今日会ってしまうとセーヌ会やロワール会に関するギスギスした話になってしまいそうな気もしてきたのである。本心かどうかは別として「悪のセーヌ会メンバーのくせに1位を取るなんて許せませんわ」みたいなことを言われてしまうかも知れず、普通の友達のような関係に憧れる日奈にとってはなかなか憂鬱な未来である。
もう次の角を左に曲がってしまえば1分程でセーヌ寮だ。
まだ気持ちの整理が付けられていない日奈は寮の直前にある喫茶店の屋根の下で立ち止まってしまった。幸いもう追っ手は来ていないようなので日奈は傘を閉じてほっと息をつき、白くぼやけていく西の山肌を見上げて遠い目をした。残念だけどいっそこのまま時間を潰して月乃様に会わずに済まそうか・・・そんなことまで考えるほど日奈は争い事や競い合いが苦手だった。
『カランッ♪』
軽い金属がレンガと擦れたような音が同じ屋根の下で聞こえたので日奈は目が覚めるように驚いた。通りの角にあるこの喫茶店で、自分以外に雨宿りをしている少女がいることをすぐに察した日奈は、ほぼ同時にその人物が今の自分に極めて関係が深い者であるという予感がした。高鳴り始めた心臓の音は物語の新しいページへと向かう彼女自身の足音であった。
喫茶店の角から恐る恐る向こう側を覗き込むと、そこにいたのは黒服の天使だった。冷たい態度の中に見え隠れする深い思慮と慈愛に満ちた立ち振る舞いが日奈の心を惹き付けてやまない美少女、細川月乃様である。
「こ、こんにちは・・・」
日奈の声は雨音のカーテンに半分溶け込んでしまっており、今の声は完全に月乃様にしか届いていないんだという実感が日奈をますます緊張させた。
「・・・こんにちは・・・ですわ」
月乃様はうつむいたままそう返事してくれた。
彼女が傘を持っておらずここで雨宿りしていることを悟った日奈は、手に持っていた傘を角の向こう側にとっさに隠してしまった。こんな急に降ってくる雨に備えて傘を持っていた自分が異常なのであって、傘を持っていない月乃様が恥ずかしい思いをするような状況を作りたくなかったのである。
日奈は本当は「私の傘で月乃様の寮まで送って行きましょうか」と言いたかったが、ロワール会のメンバーとしての彼女のプライドを傷つけてしまう可能性もあるし、あの細川月乃様が悪のセーヌ会の少女と同じ傘を共有して仲良く帰るところが見つかってその噂が広まるようなことがあれば、ロワール会の熱狂的支持層から月乃様が何を言われるか分からない。相合傘など夢のまた夢なのである。
「雨・・・ですね」
ちょっぴり月乃様に近づいてみた日奈は、思わず分かりきったようなことを口に出してしまった。
「・・・そ、そうですわね」
月乃様の横顔はシャボン玉に映る秋の花みたいにはかなげで美しかった。
セーヌ会がどうとかロワール会がどうとか考えて心配する日奈をよそに、月乃様の声には攻撃的な響きがこれっぽっちもなく、二人の間を流れる優しい時間はベルフォールの他の生徒たちのものとは完全に切り離されていた。同じ傘の下にいるわけではないのに、二人寄り添い合ってちょっぴり温かい場所から冷たい雨の様子を眺めている気分は、まるで相合傘をしているかのようにドキドキして、幸せだった。
『カラカラカシャンッ♪』
月乃様の背後に立てかけてあった折りたたみの可愛い椅子が急に倒れた。
二人きりの世界だと思っていたのに「私もいますよーん!」とアピールされたようで、日奈は緊張していた心と体をパッとライトで照らされたような恥ずかしさを覚えてちょっぴり笑ってしまった。固まっていたはずの日奈の体は、倒れた椅子を起こしてあげるために自然と動いた。
しかし、同じように椅子に手を伸ばしかけた月乃が、何かにつまずいて転びそうになったことで事態は進展する。
「あっ」
ガーデニアみたいな甘いシャンプーの香りと一緒に月乃様の体が日奈に倒れ込んできた。日奈は運動センスはあるが他人の体にほとんど触れた事がなかったから、支え方が正しいかどうか自信は無かったが、なんとか月乃様の転倒を防ぐことができた。
「・・・大丈夫?」
日奈は突然の出来事に動揺しているため、ロワール会の月乃様には敬語を使わなくてはという意識が一時的にすっ飛んでいた。
日奈を見上げた月乃様の瞳は恥ずかしそうに潤っていて、その輝きは日奈が今までに見たどんな星の瞬きよりも美しく澄んでいた。転んでしまって照れているからこその表情なのだろうが、「なに気易くわたくしの手に触れてますの?」みたいな厳格なロワールらしい台詞を言うでもなく、ただじっと見つめ返してくれる月乃の態度が、日奈はとっても嬉しかった。すぐに離れないということはそれだけ日奈のことを信頼するに足る人物だと思ってくれている証拠であり、言い換えればそれは友情の表出に違いないのだ。
通常の感覚を持っておれば、ここまで様子で月乃が日奈に恋をしていることを察することが可能だが、日奈はしっかり者のくせに恋や友達の感覚にめっぽう疎いのでこのような勘違いをしてしまったのだ。
自分は月乃様に嫌われてなかったんだという幸福感の中で、日奈は月乃様と繋がっている右手をきゅっと握り直した。日奈は月乃の優しい手のぬくもりに友情のかけらを感じたのだ。
幸せそのものは限りないものであっても、時間の流れの性質上有限でもあるので、別れの時はいつかやってきてしまう。何を思ったのか月乃様が急に離れたので、日奈はびっくりしてしまった。
「大丈夫、ですか?」
考えてみればまだそんなにおしゃべりもしていない関係なのに、少しベタベタしすぎてしまった気もするので、月乃様はそれに気づいて飛び退いたのかなと日奈は思った。
「はい。あの・・・また・・・さよならですわ!」
そう言い残して月乃様は雨の中へ傘も差さずに駆けていってしまった。
つまり距離感を弁えず馴れ馴れしくしてしまうと硬派な月乃様から嫌われる可能性がやはりあるということである。今日は月乃様が転びそうになったところを助けたという構図だったからどうやらセーフだったが、次にお会いした時からはしっかりと気をつけなきゃいけないなと日奈は思った。
ともあれ先程感じられた友情のようなものは日奈の心をとっても前向きにさせてくれた。いつかきっとセーヌ会やロワール会の壁を越えて、本当の友達になれる・・・そんな期待に日奈が胸を膨らませたとしても、誰も彼女を楽観主義者と言い捨てることはできないだろう。なにしろ月乃は日奈に対して友情どころではないもっと特別な感情を抱いているのだから。
屋根の下でシュパッと勢い良く傘を開いた日奈は雨のすだれをくぐり抜けて寮に向かって歩き出した。結局月乃様を濡らしてしまったことを日奈はそこそこ悔やんでいるから、次からはこの傘とは別に折り畳み傘を鞄にこっそり入れておこうと思ったのだった。
セーヌハウスに戻った日奈が、共用の広いお風呂場をお掃除をしていると寮のインターフォンが鳴った。そろそろ東郷会長が帰ってくる時間だとは思っていたが、わざわざピンポンを鳴らすのには何か事情があるのかもしれない。日奈は手や足をぱぱっと拭いて受話器を取りにいった。
「はい、セーヌハウスの姉小路です」
『日奈くん、少し手を貸してくれないかな。今両手がふさがってるんだ』
この優しくて落ち着いた声の持ち主は、日奈をセーヌ会に誘った張本人、東郷会長である。どうやら何か荷物を持っていて門やドアが開けられないらしい。
「はい、今いきます。大荷物なんですか?」
『ああ。すぐそこの川の道で小さな女の子がずぶぬれで倒れていたから背負って来たんだ』