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8、ずっといっしょ

 

 少し遅れて咲くベルフォール女学院の桜は、今日がまさに満開であった。

 入学式当日としてはこの上ない、透き通るようなブルーの空の下を、純白の制服に身を包んだ新入生たちが大聖堂に向かって歩く光景は、まるで美しい白砂の海辺のようである。

「わぁ・・・」

「すごーい・・・!」

 初めて大聖堂に足を踏み入れた新入生たちは大抵このように圧倒され、息を呑む事になる。

 巨大なステンドグラスは現役バリバリの神様たちの威光により神々しくきらめいており、香炉の煙は生徒たちが進んでその香りを制服につけたがるくらい甘くて落ち着く匂いだから、まさにそこは別世界なのだ。

 視線をステンドグラスから下に移した新入生たちが次に目にしたのは、美しい先輩たちの姿である。先に大聖堂に集まっていた二三年生たちは、背筋をスッと伸ばしてウルトラ優雅な表情をして待っていたのだ。新入生たちはみんな緊張しているが、先輩たちはつくべき席に迷っている生徒をそっと導いてくれたり、目を合わせた瞬間そっと微笑んでくれたりしたので、大聖堂の空気は案外和やかだった。ベルフォール女学院が、ただ美しいだけでなく、人間らしい温もりのある学園であることに一年生たちが気付いた瞬間である。それはまるで、素晴らしい絵画がチョコレートで出来ている事に気付いたような感激だ。



「静粛に願います。これより入学式を始めます」

 しばらくして、大きな帽子がおしゃれな林檎さんが司会を始めた。もう新入生のあいだでも林檎さんは有名であり、同じ型の帽子が一番街や三番街でばか売れだ。

「初めに、生徒会長、姉小路日奈様よりご挨拶です」

 歓声を上げる者、自主的に祈り始める者、さっそく気絶する者、反応は様々であるが、日奈様の登場に心を動かさない新入生は一人もいなかった。誰もが知っている超有名ビューティフォーお姉様に、いよいよ会えるのだ。

(よし・・・月乃様みたいに堂々と・・・頑張れ、私)

 日奈は目立つ事を嫌うが、任された仕事は頑張る子である。彼女は月乃様から伝授された通り、重心の安定したお嬢様歩きをして、演台までたどり着いてから客席をゆっくり見回した。お嬢様にはとにかく落ち着きが大切であり、実際に落ち着いているかは別として、落ち着いているように見えることが第一らしい。

「こんにちは。ベルフォール女学院、セーヌ会会長、姉小路日奈です。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」

 ちなみに月乃は舞台袖で日奈をしっかり見守っている。


 お嬢様と呼ばれる存在への価値観がひっくり返る大事件により、ベルフォール女学院は人形の学園から人間の学園へと生まれ変わった。よく笑い、よく考え、ちょっぴり泣いて、新入生たちには素晴らしい学園生活を送っていって欲しいものである。


 さて、日奈がスピーチをそろそろ()めようかという頃、いよいよ例の作戦が始動する。

「ご、ご報告でぇーす!!」

 花嫁を奪いに来たヤツみたいな感じで、大聖堂の入り口を開けてきたのは、若山桜ちゃんだった。ちなみに桜ちゃんも新入生のあいだではもう有名人で、野生の動物も手懐けられるプロの飼育委員だと評判なのだ。近頃は桜ちゃんのせいで野生の鹿たちが四番街に居ついてしまい、図書館周辺は奈良公園みたいになっている。

「一体なんですか? 日奈様のスピーチを妨害しないで下さい」

 司会の林檎さんはすぐさま桜ちゃんを注意したが、その言葉にはあまり怒気がなく、演技なのがバレバレだ。

「ご報告です! 飼育小屋のボスうさぎ、はんぺんが、保科先生の私物を奪って逃げ出した模様です!!」

「な、なんですって!?」

 林檎さんが大げさに驚いてみせると、新入生や二三年生たちもざわついた。

「それで、その私物というは一体何なのです!?」

「メロンパンです!!」

「メロンパンッ!? それはいけませんね!!」

 林檎さんの素晴らしい大根演技が功を奏したのか、生徒たちのざわめきはさらに広がった。

「それで、メロンパンを奪ったウサギは今どこに!?」

「ここの上です!!」

 桜ちゃんの白い指が差したのは、遥か頭上の天井画だった。あの先にあるのは大聖堂の尖塔である。

 生徒たちのざわめきに紛れて舞台に上がってきた金髪のリリーさんが、日奈のマイクを拝借した。

「あーあー、私は生徒会のリリアーネ。好きな食べ物は林檎よ」

 なぜかリリーさんのセリフは全部いやらしく聞こえる。舞台袖の月乃はちょっと顔を赤くしたが、リリーさんをにらまないでおいてあげた。月乃は日奈様とちゅっちゅしたくて協力して貰っている立場だからだ。

「はんぺんは非常に生意気なウサギですけど、メロンパンを盗んでいったとなれば話は別だわ。ウサギはパンを喜んで食べるけど、本当は体に毒なのよ」

 リリーさんが言った。これは昨夜の会議中に桜ちゃんが出してくれた豆知識で、本当かどうか知らないが、ウサギに炭水化物は良くないらしい。

「はんぺんがメロンパンを食べるより先に、メロンパンを取り返す必要があるわね!」

 生徒たちは「なるほどー!」とか「おっしゃる通りですわ」とか「すぐに探しましょう!」などと口々に言って大盛り上がりである。


 どうも新入生たちのノリが良いが、実はこれにはワケがあった。


 昨夜、月乃たちが東郷様の家の夜景が見える部屋で最終的な会議を行っている時に、電話が掛かってきたのである。電話の主は意外にも保科先生だった。

「せ、先生!? どうされましたの?」

 電話に出たのは月乃だった。

『やあやあ。そっちに勢ぞろいしてるの?』

「は、はい。日奈様や林檎様たちもいますわ」

『それは良かった。実はさ、キミたちの帰りが遅いから、寮のみんなが心配してるんだよ』

 保科先生は学舎の昇降口にある公衆電話を使っているのだが、彼女の周りには今、大勢の生徒たちが集まって月乃たちの安否を気遣っているのだ。これは入学式の前日に連絡も無しに宿泊することにした月乃たちが悪いのだが、月乃は申し訳なく思うと同時に、どこか心強いような、ありがたさを感じた。もう月乃たちは自分たちの心の声にのみ従って運命と戦う孤独な戦士ではなく、調和した友好関係の中で支え合う花なのだから、学園に残っている生徒たちにもっと頼るべきなのだ。

「ちょっと・・・林檎様に代わりますわ」

『え?』

「なんでも、生徒の皆さんに、協力して欲しい事があるらしいですわよ。よ、よく知りませんけど」

 頬を染めた月乃は、隣りで聴き耳を立てていた林檎さんに受話器を渡した。賢い林檎さんは全てを察して頷いたのだった。


 というわけで、新入生を含め、この大聖堂に集まった全校生徒が今回の作戦の協力者なのだ。新入生たちにとって、入学前から噂に聞いて憧れていた月乃様、日奈様カップルを幸福にする作戦に加わるのは、とても光栄な事であり、一体感をもって皆で力を合わせる最初のイベントでもあるから、楽しくないわけがないのだ。


「それじゃあ皆さん、はんぺんの安全のためにも、全員であの子を追いかけましょう! 入学式は中断ですわ!」

 そう宣言したリリーさんは、一応日奈様を振り返って「それでいいですかしら?」と尋ねた。生徒会長の日奈はもちろん頷いたが、照れ隠しのためか舞台袖に目をやった。そこにいるのは月乃である。

 なんだか呼ばれた気がした月乃は、制服と顔をしっかりお嬢様モードに整えてから舞台に姿を現した。一人の人間が十七年間極めたお嬢様フェイスというのは大変威厳があり、美しいものであるが、月乃が小学生の小桃ちゃんに変身できちゃう事は新入生の間でももう有名なので、一部の生徒たちは月乃のカッコ良さよりも、むしろ内に秘められた可愛さに注目しちゃっている。

 月乃はリリーさんからマイクを受け取った。

「そういう事ですので、皆さん。はんぺんを追いかけましょう」

 生徒たちは「はい!」と一斉に返事をした。

 ここにいる全員が自分の恋の協力者であるという事実に、月乃は今更ながら恥ずかしく思ったが、クールな表情だけは必死に保っておいた。隣りにいる日奈はちょっぴり微笑みながら前髪を整えるフリをして、じっと月乃を見つめるのだった。



「皆さん! 今からこの階段を上っていきますわよー♪」

 リリーさんの先導で、生徒たちは東口の階段付近に集合した。

 大聖堂のてっぺんには鐘楼と呼ばれる、ヴェネツィアのサンマルコ広場にあるような塔が、にょーんと空に伸びてくっついているのだが、頂上まで上るのは、なかなか大変なのだ。はんぺんは塔の一番上に逃げ込んだという設定である。

「はんぺんを最初に捕まえた生徒には、商品としてはんぺんが盗っていったメロンパンを差し上げますわよ!」

 先生のメロンパンである。

「それじゃあ、いきましょー!」

 号令と共に、生徒たちは一斉に階段を上り始めたのだった。


 さて、ここからがこの作戦の肝である。

 青空色の眩しい窓が見える度に、階段はかまぼこ型の踊り場に出るのだが、その床には必ず紙切れが数枚落ちているのだ。それは授業で使われるミニ漢字テストや、フランス語の読解プリントだった。

「これは・・・はんぺんからの挑戦です!」

 桜ちゃんはこう分析した。

 つまり「人間どもめ、メロンパンを返して欲しけりゃこの問題を解いてくるぴょん!」ということらしいのだ。はんぺんの設定はもう天才ウサギである。

 ウサギに喧嘩を売られてしまったら仕方がないので生徒たちは律儀に問題を解いていき、解けた者から先に進んでいくことにしたのだが、このプリントがやけに難しく、徐々に生徒たちは脱落していったのだ。そりゃ習ってもいないスペイン語の問題とか、リリアーネさんの好きな紅茶の種類は何でしょう、みたいなふざけた質問まであったから解けなくても無理はない。

 そして、これら勉学と無駄知識のふるいに掛けられて残るのが、月乃と日奈の二人なのだ。

「ぐぬう・・・これは難しいです・・・!」

 月乃と日奈以外にも、林檎さんや数名の優等生たちが塔の最上部の一歩手前までたどり着いていたのだが、彼女たちの健闘もここまでのようである。『月乃様の今日の朝食は何だったでしょう』という問いに、月乃カップル以外で答えられる者がいたとすればそれはヤバい子である。

「私たちはここまでのようです。月乃様、日奈様っ!」

「は、はい」

 林檎さんはこれまでのわざとらしい演技とは少し違う、丁寧なおじぎをして言った。

「あとはよろしくお願い致します。がんばって下さい! ではっ」

 残っていた数名の優等生も月乃たちに祈りのポーズで敬礼して林檎さんのあとに続き、楽しそうに階段を駆け下りていった。全ては予定通りなのである。

「二人だけに・・・なっちゃいましたね・・・」

 ささやくように日奈が言った。月乃は平静を装いながら「そそそ、そうですわね」とだけ言って階段を上がった。



 鐘楼に出たとたん、二人は夕空の輝きと爽やかな風に全身を包み込まれた。

 熱心に問題を解いていたせいで時間を使い、いつの間にか日は暮れかかっていたのだが、今日はまた格別に美しい夕焼けだった。学園の最も高所である鐘楼から望める360度の大パノラマは、目が覚めるような壮観である。西の空を焦がし始めた太陽の色が、のんびり漂う雲たちを不規則に染め上げ、昼のブルーと夜の紫の間で輝いているから、まるで月乃たちは七色の巨大なシャボン玉の中にいるような幻想をいだいた。今にもはじけて消えてしまいそうな奇跡の一瞬を大好きな人と共有出来て二人は幸せである。

「綺麗ですねぇ・・・」

 涼しい風に吹かれて髪を揺らしながら、日奈が言った。あなたのほうがもっと綺麗ですわよと月乃は思った。


 月乃の体の三倍くらいある西洋風の大鐘が目立ちすぎていて存在感がないが、鐘楼にはちゃんとウサギがいた。ただし、それはぬいぐるみであった。

「手紙がついてますわ」

 月乃はぬいぐるみを拾い上げてメッセージを呼んだ。

「月乃様、日奈様、引っかかりましたね。全ては私たちの計画通りです。お二人には、二人きりのスーパーロマンチックタイムをお過ごしいただきますので、お覚悟を。林檎、桜、リリアーネより。ですって」

 月乃が手紙を読んでいる間、日奈がそっと顔を寄せてきて一緒に手紙を覗き込んだので、月乃は頬が熱くなった。

「なんでしょうね。ロマンチックタイムって」

「さあ・・・」

 ここに二人で来て、手紙を読むことまでは打ち合わせ通りなのだが、この後のことは二人とも全く知らない。まあ、仮に何も起きなくても景色は充分素晴らしいから、ここに座って二人で語り合うだけで良いデートになりそうである。



 大聖堂上りからリタイヤしてきた生徒たちは、予定通り学舎の屋上や、各寮の最上階のバルコニーなどに移動した。ここからならば鐘楼の様子も、そしてこれから起こる素敵なイベントも見逃さない。

「先生ー!!」

 一番大勢が集まったのはやはり、学舎の屋上である。双眼鏡を使って大聖堂広場や尖塔の様子を見守っていた白衣の保科先生のもとに、生徒たちは駆け寄った。

「どうですかぁ! 様子は!」

 そう言って桜ちゃんが先生に抱き着くと、一二年生の仲間たちもそれを真似して抱き着いた。元来女好きだがそれを表に出さぬよう必死に理性の白衣を身にまとっている保科先生にとっては、なかなか幸せなひと時である。

「あー、えーと、たったいま月乃ちゃんたち、てっぺんに着いたみたいだね」

「着きました!? 確かですか!?」

「えーと、うん、いるいる!」

「了解でーす!」

 桜ちゃんが振り返り、屋上にいたバレー部員たちに合図をすると、部員たちは一斉にバレーボールを真下に放り投げたのだった。


 一階昇降口の公衆電話前で待機していたリリーさんとその他十数名の仲間たちは、落ちて来たバレーボールの音を聞き逃さなかった。

「来ました!」

「よーし、連絡連絡♪」

 リリーさんは綺麗な指先で素早くダイヤルし、どこかに電話を掛けたのだった。



『ちょっとここで座りませんか』

 その一言が口から出て来ず、月乃は赤い顔でもじもじしていた。

 これだけたくさんの生徒たちの協力により、二人きりのロマンチック時間を得たのだから、さっそく並んで座り、肩をくっつけたり、手を握ったりしたいものだが、ここで勇気が出ないのが月乃ちゃんなのである。

 日奈のほうの気持ちも同様で、伝説の硬派美少女である月乃様に甘えるためには、まだ勢いや勇気が足りないのだ。あともう少し、ほんの少しの後押しがあって、お互いを意識するエネルギーが外部に向けば、それが仲良しチャンスになるはずなのだが、何かドラマチックな奇跡でも起きてくれないものか。足元の白い石床に舞い込んだ真新しい桜の花びらを見つめながら、日奈は祈るような気持ちだった。



 が、大丈夫である。祈りが通じるのがベルフォール女学院であるし、奇跡が起こるのが青春時代だ。



 温かい桃色と澄んだ葡萄色のグラデーションを見せる南の空のキャンバスが、流れ星のようなかすかな気配で縦に割れたかと思うと、その白い線のてっぺんにヒマワリのような大輪が咲いたのだった。

「え!?」

「ひぇっ!!」

 月乃がちょっと間抜けな声を上げて驚いたのは、その大輪に一歩遅れてドォンっという重い破裂音が胸に響いたからである。

「は、花火ですよ! 月乃様!」

 しかもその花火、ちょっと普通ではなかったのだ。

 同じ場所で二発目、三発目が上がったかと思うと、次は東の山際から、そして西の空へと続き、背後の北山からもドドーンと打ちあがってきたのである。

「はわぁ・・・」

 四方に輝く花火はやがて八方から打ち上がるようになり、学園は完全に夕空の花火に包囲されたのだ。まるで学園全体が、夢色に輝く花束になったようである。



 全ては東郷様たちのパワーだった。

 東郷様と西園寺様は卒業生たちに呼びかけ、学園周辺の全ての自然公園を貸し切りにし、プロ仕様の花火の発射台を設置したのだ。卒業生たちは、月乃さんや日奈さんのためならと、海外を含めたあちこちから集まってくれた。これら全ての準備を一日でこなすには、抜群の才覚といっぱいのマネ~が必要であるが、東郷様は持っているのだ。

「上手くいくといいが」

 廃遊園地のセンチメンタルな広場で頭上の花火を見上げながら、東郷様はつぶやいた。日が暮れきっていない絶妙な時間帯の花火は、花火そのものの輝きを遠慮がちにするが、広い空の色に花を添える役割が出来るため、今日のような彩り豊かな美しい夕焼けの日には最高の演出である。

「きっと上手くいくわ」

 西園寺様は東郷様の横顔にささやいた。家から一歩出ると西園寺様はメイドさんではない。

「ねえ礼・・・」

「なんだい」

「あなたはいつも、他人の幸せばかり考えているのね」

「そうかな」

「そうよ」

 花火が咲く度に輝く東郷様の瞳を、西園寺様は無表情のままじっと見つめた。

「他人の笑顔のために傷ついたり、大勢のために悪役になったり・・・自分の人生を何だと思ってるの? あなたの悪いところだわ」

「たしかに。美冬の言う通りだね」

 笑いながら頭をかく東郷様に、西園寺様はそっと寄り添った。

「・・・でも、あなたのそんなところが・・・好きよ」

「あ・・・」

 東郷様が何か言う前に、西園寺様は彼女にキスをした。



「あ、あの・・・!」

 花火に背中を押された月乃はいよいよ意を決し、ドドーンという破裂音の合間に口を開いた。

「す、座ってあげてもいいですわよ・・・一緒に・・・!」

 日奈はこの一言を心底待っていたように、すぐに照れながらうなずき、二人はどちらからとも無く、鐘楼の石段に腰を下ろした。石段はちょっとひんやりして気持ちいい。

 学園で最も見晴らしがいい場所から望む花火は、二人の五感とハートをとりこにし、時間をスローモーションにした。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、咲きやまない鮮烈な夕空花火であり、ちょっと身を乗り出すように下を覗き込めば、小さくなった学舎や寮が、その窓に空の光を映して着飾っているのが見える。

「すごい・・・綺麗ですね」

 日奈がささやいた。多くの仲間が協力してくれた事を象徴するような無数の色どりが、二人の胸に染みわたったのだ。



「ねえ、月乃様・・・」

 しばらくすると、潤んだ声で日奈が言った。

「な、なんですの・・・あっ!」

 日奈は自分の左に座る月乃の肩にそっともたれ掛かったのだ。月乃がひどく動揺した事は言うまでもない。それは単に、大好きで大好きでたまらない日奈様のほっぺが、自分の肩にむにっと接触したからでなく、日奈様が自分を信頼して上半身の体重をかけ、心身をゆだねてきたからであった。月乃が小学生モードの時は、こんな事全くないのである。

 日奈にとってこれは、必死に勇気を出しての行動でなく、心の声に従った、あくまで自然な行動であった。普段は互いを美の女神として尊敬し合い、憧れ合っている月乃と日奈が、赤裸々に愛を表現し合うために必要だったのは、実は勇気ではなく素直な気持ちだったのだ。大勢の思いやりの手によって仕上げられた天空のアートは、第三者的美として二人の前にそびえ立ち、二人を人間の子たらしめたので、日奈の心は不要な足かせを外され、自由になったのである。

「月乃様・・・」

「なななんですの?」

 月乃はひどく緊張していた。しかし、これほど派手な花火が四方八方から打ち上がり続けている今なら、学舎の屋上にいる生徒たちの双眼鏡がこちらを見ていない気もしたので、その点では本当に大助かりだった。超硬派な月乃のハートすら、今はちょっぴり翼が生えていると言って過言でない。

「私、月乃様が私に甘えて下さるの、凄く嬉しいんです。小桃ちゃんになってる時の月乃様は・・・小さな天使ですよ」

「あ・・・う・・・!」

 月乃は恥ずかしくって返事ができない。小学生に変身してる時の彼女はとにかく甘えん坊で、日奈様が料理をしてる時などに後ろから意味もなくぎゅっと抱きついたり、黙ったまま前に立って髪をとかしてもらおうとしたり、日奈様からちょっとでも離れてると眠れず、夜中にこっそりしがみついてきたり・・・なかなか可愛い事をしちゃっているのだ。それは自分が高校生のお嬢様であるという自覚に混乱を来した場合に生じる、恋の欲求のスイートな噴出である。

「でも、ね、月乃様」

「は、はい」

 花火の音は鳴りやまない。

「私は・・・高校生の時の月乃様にも甘えてもらいたいんです」

 日奈はそっと月乃の手を握った。

「・・・頑張り屋さんの月乃様。私が・・・月乃様のお姉様になってあげますから、安心して、いっぱい甘えて下さいね」

 月乃の胸は何か温かいもので満ちていった。この人に会えて良かった・・・そんな気持ちが月乃の目からあふれてきて、星のように輝いた。日奈様の愛により潤んだ月乃の視界で、夕空花火はその美をいよいよ極めたようである。

「でね・・・月乃様」

「はい・・・」

 全身が脈打つじんじんとした感覚に手を焼いて、月乃は返事をするのに精一杯だ。

「私、お願いがあるんです」

「ななんですの」

 日奈は月乃の手をきゅっと握り直して言った。

「私も・・・月乃様に甘えていいでしょうか・・・」

「わ・・・うぅ!」

 日奈は月乃の肩に頬ずりした。

 ある意味で、姉小路日奈は月乃以上に孤独な少女だったと言える。美しすぎるがゆえに親友がおらず、ついでに苗字のせいもあって幼い頃からずっと「お姉ちゃん」扱いである。日奈だって一人の乙女なのだが、誰かに甘えたい気持ちはずっと心の奥深くに鍵を掛けてしまっておくほかなかったのだ。

「高校生の月乃様に・・・私甘えたいんです。・・・ダメですか?」

「い・・・あ・・・」

 さあ、月乃はお姉様になれるだろうか。

「しょ、しょうがない日奈様ですわね・・・。別に・・・いいですのよ・・・」

 月乃はそっぽを向いて答えた。どちらに目をやっても、そこは美しい花火の世界だ。

「ありがとうございます・・・」

 日奈は潤んだ声で礼を言うと、さらに月乃に密着して月乃の首に小さなキスをした。

「うっ・・・!」

 日奈のキスは魔法のキスである。日奈にキスされた人にしか分からない事だが、ゾクゾクとした桃色の快感が一瞬で全身を二周も三周も駆け回り、体が後ろにひっくり返っていくような、落ちていくような、それでいて浮かんでいくような奇妙な感覚に包まれ、幸せすぎて頭がくるくるぱぁになっちゃうのである。こんなに興奮しちゃうこと、きっと他にないのだ。

「ありがとうございます・・・ありがとうございます・・・」

「ん・・・あっ・・・ひゃあ!」

 日奈は何度も何度も礼を言いながら、月乃にキスした。最初は首筋ばかりだったが、それがほっぺにいき、やがて唇のすぐ横まできた。日奈はちょっとだけ間を置いてくれてから、唇を重ねてきた。ちゅっと触れ合うだけのキスだが、あまりの幸福に月乃は左に倒れてしまった。ほとんど押し倒される形である。

「月乃様・・・」

「うぃっ!」

 日奈はそのまま滑り込むように月乃の胸に顔をうずめた。それにしても月乃はさっきからアホみたいな声しか出していない。

「月乃様・・・月乃様・・・」

 日奈は月乃の胸にほっぺを押し当てたりして、実に幸せそうである。その様子は人に甘える子猫ちゃんそっくりで、月乃はひどくあせった。

「月乃様・・・大好き・・・大好きです・・・」

「ひゃあ・・・!」

 まさか日奈様がこんなに甘えん坊になるなんて、月乃は夢にも思っていなかったわけだが、よく考えると小桃モードの時も押し倒されて胸などをちゅっちゅされているので、だいたいいつもと一緒である。違うのは日奈の心だ。

 日奈はしばらく月乃に抱き着いてくぅんくぅんと鳴いて甘えた。大好きな大好きな月乃お姉様のおっぱいが、日奈の心を解きほぐしたのだ。

 花火はどんどん打ちあがる。

 日奈は泣いてるのか笑っているのか分からない顔で月乃のブラウスのボタンを上から外し、ブラジャーにそっと唇を押し当てた。

「ひ!」

 月乃は抵抗しようとしたが、彼女はこの時すでに海上を漂う昆布みたいに無力になっていたので、逆に日奈の頭を抱きしめるような格好になるだけだった。日奈は前髪を月乃の胸元にさらっと滑らしながら腕を月乃の背中に回し、ブラジャーも外してしまった。

「月乃・・・お姉様・・・」

 日奈はいつも小学生モードの月乃としかイチャイチャできなかったから、かっこいい高校生の月乃の胸をはっきり見たのは初めてだった。月乃様の、滅多に人に見せないくせに異常に深い優しさ、それを象徴するような、ピュアピュアホワイトのふわふわおっぱいだった。こんなに素敵な果物は、この星に他にないだろう。

 日奈はそっと、その果実にキスをした。

「んにゃっ・・・!」

 月乃が自分の一番内面を日奈様にプレゼントした瞬間である。仰向けにひっくり返ったままの月乃は、花火の空に自分のハートが打ち上がっていっちゃう感覚に包まれたのだった。



「上手くいきましたかねぇ!?」

 はんぺんの頭を撫でながら花火に歓声を上げていた桜ちゃんが、思い出したように大聖堂を振り返って言った。学舎の屋上に集まった大勢の生徒たちは、ほとんどが花火に夢中だ。

「ん~見えないけど、きっと上手くいってるでしょ!」

 保科先生は双眼鏡を鐘楼に向けて言った。ちなみに打ち上げ花火を双眼鏡で鑑賞すると迫力が増す上に、宇宙船の窓から見ているような不思議な感覚を味わえるが、花火会場が近い場合どこに咲くか予想するのが逆に困難なので、扱いには技術と勘とノリを要する。

「少なくとも、私たちの役目は大成功でしたわ~♪」

「・・・気安く私の頬に触れるな」

 リリーさんは林檎さんのほっぺを後ろからむにむに触りながら花火を見上げていた。ふざけているようだが、リリーさんは花火の合間に時折何も言わずぎゅっと抱きしめてくれたりするので、林檎さんは少々照れている。

「しかしまあ、これが私たちからの恩返しですね。月乃様と日奈様には・・・大変お世話になりましたし、これからもお世話になりますから」

 林檎さんのつぶやきに、皆がうなずいた。



 空には月が昇り始め、夕焼けは夜の輝く闇に席を譲った。いよいよ空は打ち上げ花火たちのステージである。

「月乃様・・・幸せ?」

「うん・・・うん・・・」

 二人はベルの前で向かい合い、優しく優しくぎゅうっと抱きしめ合っていた。幸せすぎて頭がふわふわ、体がふらふらしている月乃の精神は、いつの間にか日奈様以上に甘えん坊になっていた。もう月乃は自分が今高校生モードなのか小学生モードなのか良く分からなくなっている。

「私も・・・幸せです・・・」

「うん・・・」

「月乃様・・・ずっと一緒だよ」

「うん・・・うん・・・!」

 そして二人は甘いキスをしたのだった。

 作戦は大成功である。これで今夜から二人は月乃が小桃ちゃんモードになってなくてもイチャイチャできそうである。今後も月乃が小学生に変身させられ、日奈お姉様のラブラブ攻撃にさらされる事は言うまでもないが、愛情表現の場が二倍に広がったというわけだ。めでたしめでたしである。

「月乃様。最後にひと仕事、しましょうか」

「え?」

 日奈は鐘を仰ぎ見て微笑んだ。

「一緒に、やってくれますか?」

 そう言って石段を上り、手を差し伸べた日奈様の笑顔が眩しくて、月乃はまた涙があふれてきたのだった。



(月乃ちゃん、この学校の生徒たちはみんないい子たちだよ)

 保科先生は花火の輝きの向こうに、初めて出会った時の月乃の顔を思い浮かべながら、深い感傷に浸っていた。それにしてもこの花火は一体何発用意されているのか。

 するとその時、花火の炸裂音とはまったく異質な、雲を割り、闇を照らすような澄んだ金属音が生徒たちの耳に舞い降りてきた。結婚式場で聴かれるような、心洗われる大聖堂のベルの音である。鳴らしたのは月乃様たちに違いなく、今回の作戦が上手くいった事を少女たちは直感した。

「新入生の皆さーん!!」

 星の彼方から吹いてきた夜風が、鐘楼にいるはずの日奈様の明るい声を学園中に届けてくれた。

「ご入学、おめでとうございまーす!」

 ガランガラーンという鐘の音が花火の夜空いっぱいに満ちていく。

「桜様ぁー! 林檎様ぁー! リリー様ぁー! ありがとうございますわー!」

 月乃の声もそれに重なって響き渡る。

「保科先生ー! 東郷様ぁー! 西園寺様ぁー! ありがとうございまーす!」

「皆さーん! ありがとうございますわぁー! ついでにはんぺんもー!」

 屋上の生徒たちはその声に応えるようにキャアキャアと歓声を上げ、潮騒のような大きな拍手をしたのだった。


 ベルフォール女学院創立以来、こんなにも色と音が溢れた瞬間は初めてである。螺鈿(らでん)を散りばめたように輝く月夜の星座、透き通る闇を泳いで笑顔を咲かす一面の花火、胸を熱く鼓動させる炸裂音、大歓声に降り注ぐ祝福のベル・・・これらの奇跡が、暗くて冷たい、無表情な黒の時代を、全て思い出のものにしたのだった。


 月乃と日奈は力を合わせ、大聖堂の鐘を何度も何度も鳴らし続けた。

 この愛と自由の鐘の音が、日本中に、世界中に響き渡る事が、月乃たち全員の願いなのである。

 

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