7、秘密のメイドと夜想曲
白い木蓮の花がこぼれ咲く午後である。
閑静な高級住宅街を縫うレンガの坂道の頂上に咲くその花は、まるで春の空に憧れて枝に集まった小鳩たちのようで、静かなブルーの中でういういしく肩を寄せ合い、風に吹かれていた。この坂を上り終えた先に東郷様のおうちがあるらしい。
「林檎お姉ちゃん、遅いですよー!」
「さ、桜、待ちなさい・・・」
やわらかな日差しの中、坂を上っているのは三人の少女たちだ。
リリーさんと桜ちゃんはさっさと坂を上っていくが、運動嫌いの林檎さんは遅れがちである。つい先ほどまでは坂の下の教会から聞こえてくる讃美歌の豆知識などを得意になってしゃべっていたのに、今はもうメガネを失くしたミイラみたいな情けない動きしかできなくなっている。
「あらあら♪」
リリーさんは駅前のビル街を一望できるガードレールのそばで、二人を振り返りながら微笑んでいたが、林檎さんに手を貸すために坂を下り始めた。リリーさんのブロンドヘアーは今日も太陽みたいに美しい。
三人が東郷様に会いに来たのにはワケがある。
今から数時間前、高校生の月乃と日奈はそれぞれに妙な策略を用いて互いにスキンシップをとろうと試みたが完全に失敗した。ハシゴから落ちてきた月乃の下敷きになっていたリリーは、月乃より先に保健室で目を覚ましたが、その際寝ぼけて「う~ん、日奈様、作戦はうまくいきましたかしら~?」と口を滑らしたのだ。桜と林檎は、日奈様とリリーさんが共謀していた事をその時初めて知ったわけである。
「ここからは私たち三人で協力しましょう!」
「そうね♪」
恋人ともっと仲良くイチャイチャしたい、という願いが一致しているのに関わらず、互いに緊張しまくっている月乃&日奈カップルにハッピーになってもらうため、三人は学舎の前で会議を開いた。
「やはり東郷様たちに相談してみましょう」
麓の街へ行けば尊敬する先輩たちの意見が聞けるはずである。東郷様と西園寺様は現在同棲しているので両名のアドバイスが貰えるはずだ。
「・・・でも、月乃様も先輩に相談するって言ってましたよ。タイミング被ったらどうします?」
桜ははんぺんを撫でながら言った。
「あら!? 日奈様も東郷様のおうちに行かれるはずですわよ!」
リリーは桜ちゃんの頭をなでなでして言った。
「何!? お二人より先に街へ行かなくては!!」
林檎はそのあいだに割り込んで声を上げた。
こうして三人は麓へ向かうスクールバスに駆け足で乗り込んだのだった。
「この家のはずですわよ」
「わぁ~!」
庭師が何人いても足りないような立派なイングリッシュガーデンが、春を爛漫と咲かせて三人を迎えてくれた。バラにはまだ時期が早いが、スイセンやチューリップ、アネモネなんかが陽だまりの中で仲良く香りを振りまいている。
「さっそくお邪魔しましょう」
いつの間にか背筋を伸ばし、いつもの冷静な表情を取り戻した林檎さんはインターフォンを探し始めた。しかし、東郷様のおうちは豪邸のくせに境界を塀で囲っていないのでピンポ~ンの場所が不明である。仕方ないので三人は玄関ドアまで向かってみることにした。
「こんにちは。突然で申し訳ありません」
林檎はドアをノックしてみた。
「東郷様? 西園寺様? いらっしゃいますか?」
「はーい」
想定と少し違う明るい声が聞こえてきた。林檎たちはこの声の主を記憶の中に探ったが、心当たりはない。三人が首を傾げながら顔を見合わせていると、やがて玄関ドアが開いた。
「はーい! どちら様ですかっ?」
「え」
「え」
衝撃である。現れたのはフリフリのフリルがたっぷり付いた可愛いエプロン姿の西園寺様だったのだ。四人はめでたく言葉を失って石像のように立ち尽くした。
「ははは、それは驚いたろう」
東郷様はコーヒーを淹れながら朗らかに笑った。
恥ずかしそうに顔を赤らめている西園寺様は、相変わらずのエプロン姿で東郷様の後ろに立ってうつむいている。
「美冬は近ごろずっとこんな調子さ」
「や、やめてってば・・・」
西園寺様は声を震わせながら遠慮がちに東郷様を睨んだ。
卒業後の二人はその才知を活かすため、大学に通いながらこの家でとある研究に没頭しているのである。その活動は国内外の教育機関にまつわる謎を解き明かすという、ベルフォール女学院出身者らしいクレイジーな内容であるが、中心は東郷様であり、西園寺様は大抵いつもアシスタントなのだ。
西園寺様は初め、クールな顔で得意の料理をし、人形のような動きで掃除洗濯などを頑張っていたが、高校時代に経験できなかった家事の楽しさにハマり、いつの間にか明るいメイドさんになっていたのだ。そもそも西園寺様が無表情なお嬢様になったのはベルフォール女学院の戒律が原因であり、小学生の頃の彼女は口数こそ少なかったものの、好奇心旺盛な子猫みたいな明るい少女だったのだ。ゆえに先ほど林檎さんたちが見た西園寺様は、ある意味彼女の本来の姿と言える。
「林檎さんたちも・・・来るなら来ると電話の一本でもくれたらどうなの・・・?」
西園寺様はそう言って赤い顔をプイッとそっぽに向けた。本当は久々に後輩たちに会えてとても嬉しいのだが、照れ隠しをせずにはいられないのだ。
「ほら、メイドさん。リリーくんたちにこのコーヒーをお出しして」
「・・・私はメイドじゃないわ」
「でもそれらしいエプロンをしているが」
「これは・・・あなたが勝手に買ってきたのよ」
「嬉しそうに着たのは美冬だが」
「も、もう・・・!」
幸せそうな二人である。
「なるほど。月乃くんたちも相変わらずだね」
東郷様は林檎さんたちが打ち明けた相談話を終始笑顔で聞いていた。
「話は分かった。月乃くんは日奈くんともっと仲良くしたい。日奈くんも、もっと月乃くんと仲良くしたい。という事だね」
「はい。小学生の小桃としてでなく、高校生の月乃様としてでです」
「なるほど」
客間はダークブラウン基調のおしゃれなカフェのようだが、蒸気船の設計図やらリアルな白馬の人形などが、やや雑然と飾られていて、ちょっと不思議な空間である。
「自然に二人きりになって、ロマンチックな時間が過ごせるような方法を考えよう」
ポニーテールの東郷様はキリマンジャロの湯気の中で遠い目をした。
「うん。いいことを思い付いたよ。これなら上手くいきそうだ」
「本当ですかっ」
さすがは東郷様である。猫舌の桜ちゃんがコーヒーをふぅーふぅーして、ひと口も飲まない内に案を思い付いてくれた。
「キミたちの協力が不可欠だ。今から言う指示をしっかり記憶してくれ」
「はいっ」
林檎さんたちは身を乗り出した。
「な、なるほど・・・大胆な作戦ですね・・・」
東郷様の案は経済面と規模でかなりぶっ飛んだものだったが、全てが順調にいけば、確かに目的は達成できそうだった。
「私たちの役割が重要ですわね。頑張りましょうね♪ 林檎さんっ」
「さ、触るな・・・」
「お姉ちゃん♪」
「桜まで・・・! 放しなさい!」
睦まじい様子の三人を見て、東郷様はますます笑った。メイドさん風の西園寺様も、林檎さんが両側からつつかれたりむぎゅっとされたりするのを、自分のことのように照れくさく幸せに思い、微笑んだ。
さて、ついでであるから、この三人の普段の様子についてお話したい。
リリアーネ、林檎、そして桜の三人は、ちょっぴり奇妙な生活を送っている。月乃たちと同じようにヴェルサイユハウスの最上階で暮らしている彼女たちは、三人で一つの大部屋を使用しているのだ。最近のベルフォール女学院は恋人同士で同室の申請をすることも珍しくないが、三人部屋はちょっと特別である。
例えば、昨夜の様子を見てみよう。
「はい、これはタネも仕掛けもない普通のステッキです!」
「わー! すごいわぁ♪」
「まだ何もやってませんよぉ!」
入学式後に新入生を集めてマジックを披露しようと企む桜ちゃんは、シャワー上がりのリリーさんの前でその練習中である。
「桜、またそんなに散らかして・・・片づけるのはいつも私じゃないの」
真面目な林檎さんは窓際の学習デスクで新学期の予習をしている。
確かに勉強は大事だが、可愛い後輩たちが入ってくる入学式を二日後に控えていながら、クールな態度を崩さないのはちょっと不健全である。こういう日は一緒になってはしゃぐのが正解だ。
「そういう態度なら・・・」
桜ちゃんに目で合図したリリーさんが、そーっと林檎さんの背後に忍び寄った。
「林檎様ぁああああ♪」
「わああああ!!!」
林檎さんはくすぐりに弱い。
「はぁん♪ 林檎様ったら、お勉強のしすぎで肩がこっちゃったみたい!」
「な、なにをする!」
美しいリリーさんの手により林檎さんはふかふかの赤いベッドの上へ押し倒された。本気の抵抗とは思えない謎のジタバタの隙間を縫って、リリーさんは覆いかぶさるように林檎さんに抱き着いた。
「お勉強しすぎは体に毒ですよぉ♪ 林檎様ぁ♪」
「は、放せえっ!」
リリーさんは林檎さんの首筋から肩のあたりに優しく噛みついて、ひざで林檎さんの内ももをなでなでした。お風呂上りのリリーさんはパリの化粧品店みたいな不思議な甘い香りで、押し付けられた彼女の温かいおっぱいが林檎さんの体を火照らせた。
「わぁー・・・」
「ちょ、ちょっと桜! 見てないで助けなさいっ」
桜ちゃんはリリーさんが時折目の前で見せてくれるオトナの世界に興味津々であり、顔を赤くしてキュンキュンしながら二人の様子を見守っている。
「こ、こぉらリリアーネ! ちょっと! ひゃあっ」
嫌がっているようにも見えるが、林檎さんが幸福であることは言うまでもない。いつもいつも挑戦的に自分の恋心をもてあそんでくる小悪魔リリーさんを好きになってしまった彼女の人生は、なんとも因果なものだが、彼女の恋心は決して裏切られないから大丈夫である。リリーさんは周りがイメージするほど軽い女でないし、林檎さんの幸せを誰よりも祈っている子なのだ。だからこうして双子の姉妹を一緒にして暮らしているのである。桜ちゃんの存在を抜きにして、林檎さんの幸せは完成しない。
「桜ちゃん、お姉ちゃんの肩、揉んであげて♪ 」
「は、はいっ!」
桜ちゃんはベッドに上がり、仰向けに寝ている林檎さんの腰のあたりに上からぎゅっと抱き着いた。
「ちょっと、桜ぁ! あなたはどっちの味方ですか! それに全然肩を揉んでいません!」
「ごめんなさあーい♪」
桜ちゃんは嬉しくってぎゅうぎゅうお姉ちゃんに抱き着いた。桜ちゃんにとって姉妹の不和は人生に刺さったトゲみたいなものだったから、こうして感じられるお姉ちゃんの温もりがたまらなく愛おしいのだ。林檎さんがロワール会を裏切る選択をした一番の理由が、自分のためだったと気付いてからの桜ちゃんは、いつもお姉ちゃんのそばを離れないのである。双子の姉妹の絆はやっぱり永遠だ。
「林檎様~♪」
「お姉ちゃーん♪」
「お、重いいい!」
若山林檎十七才、両手に花の乙女である。
「それにしても、西園寺様にそんなご趣味があったなんて」
「・・・学園の皆に言いふらしたらイヤよ」
「可愛いですよぉ! 西園寺様ぁ!」
「も、もう! 桜さんまでっ」
客間で談笑する五人の耳に、ここで不意に飛び込んできたのはインターフォンの音だった。
「おや、またお客さんかな?」
「あ! 言い忘れていました! 私たちのあとに、月乃様や日奈様が来るはずなんです!!」
林檎たちはコーヒーカップを手早く片づけ、日光の眩しい裏庭に掃き出し窓から脱出した。ブッシュローズの陰にしゃがめば見つからないはずである。
「あら・・・?」
お留守かしら、と高校生モードの月乃は思った。
東郷様のおうちはここで間違いないし、ガーデンに立つ白いネコ置物の鼻先という非常に難易度が高い場所にあるインターフォンも見抜いたというのに、玄関から返事がないのだ。月乃はもう一度インターフォンを押してから、玄関に近づいてみた。
ちなみに月乃は午前中に一度小学生モードにされてしまったが、保健室で気絶状態から目覚めた時にはもう高校生に戻っていたのだ。祈っちゃった自覚がある日奈様が再び祈ってくれたお陰なのだが、こうも頻繁に変身しているとスケジュールとかが複雑になるので勘弁して欲しいところである。
「あのー」
「今いきますわ」
玄関の中から鈴が鳴るような美しい声が聞こえてきて、月乃の胸は高鳴った。
「あら、月乃さん。お久しぶりね」
上品に微笑みながら顔を出したのは、黒いワンピース姿がカッコイイ西園寺先輩だった。
「西園寺様! ご無沙汰しておりますわ!」
高校時代と変わらず、お人形のようにクールな西園寺様の雰囲気に月乃は感動した。
「当ててあげようか」
月乃が西園寺様と向かい合って客間の椅子に腰かけると、カウンターキッチンの向こうの東郷様がコーヒーをドリップしながらそう言ってきた。東郷様も相変わらず王子様役みたいな素敵な女性である。
「当てるって、何をですの?」
「キミが訪ねてきたワケさ。きっと日奈くんに関する悩みなんだろう?」
「え!」
東郷様の超能力的な察知パワーに感動した月乃は、恥ずかしくて頬を染めた。
「あら、日奈さんの事? もしかして、小桃に変身していないと手も繋げないとか、そういう事かしら」
「そ、そうなんです・・・お恥ずかしいですわ・・・」
「あなた達らしくて可愛い悩みね」
「いえそんな・・・」
西園寺様にまで見抜かれてしまって月乃は下を向いたが、彼女の視界の片隅にちょっと気になるものが映り込んだ。それは旅館のラウンジにあるような高級椅子の上に置かれたフリル付きの衣装で、英字新聞が乗っているから全貌はつかめないが、西園寺様や東郷様がとても着そうにないキュートな服だ。月乃は細かいところを見逃さず自分のお嬢様道の糧にしていく女なので、疑問を疑問のまま放置することができない。
「あの、そこにあるフリフリの衣装はどなたのですの?」
月乃は何気なくそう尋ねたのだった。
西園寺様の表情は完全に固まった。彼女は緊張して目を合わせてくれない子犬のように月乃の視線をかわしてゆっくり首を回し、ロココ風の暖炉に目をやった。
「いいお天気ね・・・」
「え、あ、そうですわね。風も気持ちいいですわ」
西園寺様はうまく誤魔化したのだった。
やがて東郷様がコーヒーの香りと一緒に高級そうなカップを持ってきたが、このタイミングで三組目のお客様が登場するのである。
「こんにちはー」
ドアを優しくノックする音が気のせいなのか本物なのか月乃が判断しかねているとすぐ、親しみ深いあの人の声が玄関から聞こえてきたのだった。
(ひ、日奈様!? ど、どうして日奈様がここに!?)
月乃は背筋がゾクッとして冷え、同時に全身が熱気に包まれたようだった。恐怖と恋情とを合わせて体感できる機会はちょっと珍しい。
「あ・・・言い忘れていたが、実は日奈くんも来るらしいんだ」
と東郷様が教えてくれた時には、もう月乃は裏庭の陽だまりに飛び出していた。裏庭はかなり広いので身を隠す場所は選び放題だ。
背中に抱き着いてくる太陽の温もりと、躍るような草の匂いの中で、月乃は客間をいっしんに覗いていた。現れた日奈様はやっぱり最高に美しく、彼女の肌は日陰になっている室内でほのかに輝いて見えるほどだった。彼女がいれば懐中電灯はいらない。
月乃は耳を澄ましてみたが、ガラス戸に遮られた日奈様たちの声はさすがに聞こえてこず、その代わりに近所のプラタナスの大木を撫でる風の音が彼女の耳を優しくくすぐった。なんだかミツバチが日なたで居眠りでもしてそうな、うっとりするような春の静けさだ。
ふと、その静けさの中に、人のささやき合うような気配が紛れ込んでいることに月乃は気が付いた。花の妖精でなければおそらく人間なのだが、庭園の草花に紛れ込んで身を隠すなど、さすがに怪しすぎる。月乃は自分のことを棚に上げて、怪しい気配の主を抜き足差し足で探し始めた。日奈様の安全を脅かす芽を摘むのも月乃の毎日の仕事だ。
「きゃあああああ!!」
「ひいいいいいい!!」
お互いに想像以上に近い場所にいたらしい。家の中にまで聞こえるその叫び声は、月乃と桜ちゃんのものであった。
「勢ぞろいしちゃいましたねぇ・・・」
バレてしまった以上仕方がないので、全員が客間に集合した。月乃は日奈様に会わせる顔がないが、なぜここにいるかは秘密のままなので、ギリギリ平静な表情は保てている。月乃と目を合わせた日奈様が、口をきゅっと閉じたままの照れ笑いをして、小さく頭を下げてきたので、月乃の鼓動は本気の餅つき大会みたいに速くなった。ちなみにお餅そっくりの白ウサギのはんぺんちゃんは当然のようにここまでついて来ており、今は桜ちゃんの頭の上ですやすや眠っている。
こうなったら東郷様の家に来た理由を互いに言い出さず、お庭の美しさや西園寺様の相変わらずのクールさなどを話題にして談笑するしかない。月乃は西園寺様の前髪の美しいパッツン具合を称賛するセリフを考えて口を開こうとしたが、リリーさんの言葉に遮られた。
「あら、もう四時ですのねぇ」
リリーさんは林檎さんの太ももを指先でくすぐりながらつぶやいた。リリーさんは24時間なにかしらエッチな事をしている。
東郷様は柱時計を見ながら何か考えていたが、やがて妙な提案をしてきた。
「そうだ、今日は皆ここに泊まっていったらどうかな」
「えっ」
東郷様が田舎の親戚みたいな事を言いだした。彼女はやっぱり考え事のサイズが普通の人と違う。
「明日は入学式当日ですが・・・」
「なおさら良い機会だ。たまには皆で語り合おうじゃないか」
林檎さんは式の準備の心配をしているが、もう桜ちゃんはノリノリだった。
「東郷様たちのおうちに泊まっていいんですか!」
「ああ。この家は二人暮らしには少々広すぎるよ」
月乃は超高速で日奈様の表情をチラ見してから考えた。まだ相談事が全く出来ていないし、久々にお会いできた西園寺様ともっとゆっくりたっぷりおしゃべりしてみたい気がしてきたのだ。このまま「じゃ、そろそろ帰りま~す」と言って皆で帰ってしまったら、本当に何をしに来たのか意味不明である。
「・・・お言葉に甘えて、今夜はここに泊めて貰うべきかも知れませんわ」
月乃がそういうと、さすがの林檎さんも反対はしなかった。再び瞳を高速で動かした月乃は、日奈様の笑顔を視界の隅にとらえてほっとした。月乃はとにかく日奈様の笑顔のために生きている。
夕食は二階の大部屋で食べることになった。
そこは教室くらいの広さがあり、三面を覆った巨大なカーテンと長いソファーがとてもリッチな印象で、ここがリビングでいいんじゃないかと思えるほど立派な部屋だった。
壁や天井のランプは金色に燃えて食卓を照らし、その光は銀のフォークに反射して壁に黄金の虹を掛けた。月乃はその虹をぼんやり眺めながら、まるで別の世界に迷い込んだかのようなふわふわした感覚に包まれていた。
「お待たせしましたー」
西園寺様が明るいメイドさんみたいな口調で料理を運んできたので月乃は一瞬ビックリして振り返ったが、そこにいた先輩の顔はいつも通りクールだったので、気のせいに違いないと思った。西園寺様はミスの修正が早い。
料理は西園寺様と日奈様が作ってくれたので、美味しくないわけがなかった。一部、桜ちゃんが手伝った料理があり、それがどれなのかは秘密らしいが、グラタンの中にぐにょぐにょした謎の紫色の物体が紛れ込んでいたのでバレバレである。月乃はフォークを使って上手くその物体をはじっこによけておいた。月乃は命が大事である。
「そうだ、アコーディオンでも弾こう」
ごはんの途中で東郷様は立ち上がった。西園寺様の料理が大好きな東郷様は、冷めたら美味しさが半減する料理を優先して食べ終えたらしく、お皿に残っているのはアボカドサラダと、例の謎の物体だけだ。
「ねえ礼、カーテン開けたら?」
西園寺様が小さな声で助言した。礼というのは東郷様の名前である。
「そうだね。みんな、少し減灯するよ」
何が始まるのかと、月乃たちはワクワクした。ちなみに日奈様は月乃の左隣に座っているが、ちょっとだけ距離があるため月乃の鼓動は落ち着いている。
「ほら、ごらん」
テーブルの燭台以外の電気を消した東郷様は、部屋の三面を覆う大きなカーテンの一番左端を掴んで、右端に向かってゆっくり歩いていった。
とても不思議な光景であった。
惑星の裏側の暗闇を観察していた宇宙船が、いつの間にかその星の端っこまで来ており、視界の一方から一気に宇宙の輝きが開けたような瞬間だったのだ。
「わぁ・・・」
カーテンの向こうに顔を出したのは一面のまばゆい夜景だった。
学園の北山教会堂に上った時に見えるものとは一味違う、都会の夜がきらめくダイヤモンドになって窓いっぱいに広がった景色である。「わお~!」と興奮した様子で窓に駆け寄ったリリーさんのせいで、その景色は二つに割られたが、黒いシルエットになった彼女の背中からは、普段のアホみたいにうるさくてエッチでどうしようもないリリーさんのカラーが見えなくなっており、なんだかとても美しかったので、月乃は悪い気がしなかった。
「すっごーい」
「素晴らしいですね」
桜ちゃんと林檎さんも窓に駆け寄った。林檎さんの大きな帽子が、今夜は一層UFOみたいに見える。
ソファーに残された月乃は日奈様と西園寺様に挟まれる形になっているので、急に緊張してきた。
「さてと」
東郷様は部屋の隅の木椅子に腰かけてアコーディオンを弾き始めた。月乃も大好きなノクターン第二番である。
ノクターンの世界はピアノの澄んだ音色でしか表現できないという先入観を月乃は持っていたが、ノスタルジックなザラつきと伸びやかな温もりが幾重にも重なって弾むアコーディオンの音は、思い出のアルバムをめくる時の気持ちのような秋色の純粋さを月乃の胸に響かせた。いつの間にか月乃は遠い昔の記憶の世界にいざなわれていった。
何の自由もない幼少時代に培われた月乃の徹底的な美意識とひねくれた根性は、月乃をある意味で不幸にした。多くの子供たちが経験した楽しい遊びやイベントを知らない彼女は、とにかく幸せそうな他者への嫉妬と、自分の殻に閉じこもって美を追求することに忙しかったのだ。月乃に不足していたのは、作為のない純朴な美とおおらかな慈愛だ。
そこに現れたのが日奈様である。月乃に欠けた全てを持つ、女神のような存在だ。月は自力だけでは輝けず、太陽という尊いパートナーに照らされて初めて満ちる・・・窓の外でたくさんの星に囲まれた満月を見て、月乃はしみじみとそう感じたのだった。
「そう言えば月乃くん。キミは日奈くんともっとイチャイチャしたいんだったね」
アコーディオンを弾き終え東郷様が、食卓に戻りながら不意にそう言った。月乃はビックリしたというよりも、むしろポカンとした顔で東郷様を見た。
「月乃くん、違ったかな?」
「な、な・・・」
月乃は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「なにをおっしゃってるんですか! でででたらめですわぁっ! ももう、東郷様ったら冗談がお上手ですことっ!」
内緒でその相談に来たというのに、日奈様本人の前でそれを言うなんてどうかしている。目を回しながら必死に誤魔化そうとしている月乃を見て、東郷様はちょっと笑った。
「ごめんごめん。言わないほうがいいとは思ったのだが、実は日奈くんからの相談事も同じ内容だったから、いっそ打ち明けてしまおうと思ったんだ」
「え?」
月乃は思わず振り返った。ランプの明かりの中で日奈様は恥ずかしそうにうつむいている。月夜の人魚姫のような美しさだ。
「両想いなのは分かっているのに、高校生状態のキミが格好良すぎて、イチャイチャできないんだそうだよ」
月乃は状況を理解するのに少し時間を要したが、やがて彼女の全身は火が点いたように熱くなった。
「あ、ついで言うと、林檎くんたちが来た理由も同じだ。キミたち二人の恋の進展が、彼女たちの願いさ」
東郷様はシャランシャランとアコーディオンを鳴らしながら打ち明けた。桜ちゃんは照れたように頭をかいている。
「というわけで、これから会議を始めようと思う」
「か、会議ですの・・・?」
「議題はズバリ、どうすれば高校生状態の月乃くんと日奈くんがイチャイチャできるかだ」
「やりましょう!」
リリーさんと桜ちゃんはノリノリである。
自分の思惑や運命が裸にされてまな板に載せられたような気持ちの月乃はひどく照れ、動揺したが、愛する日奈様も同じ状況なのであり、仲間たちの善意の馬車が、自分の望む地へ向かおうという時に、乗り込まない理由はない。
「会議と言っても、私が考えた作戦はさっきそこの三人には話したんだ。あれで良ければ、月乃くんと日奈くんにも全て伝えよう」
おかしな事態になったものである。言わば、本人らに予告した上で仕掛けるドッキリみたいな感じだ。
「・・・お、教えて下さい! その作戦! 私と月乃様がもっと仲良くなれる作戦を」
ちょっぴり潤んで熱っぽい日奈様のその声が月夜の部屋に響いたのは、それからまもなくのことだった。




