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6、挑戦

 

 桜貝のような、神々しい桃色の朝焼けである。

 爽やかな白い窓辺に揺れるレースのカーテンは、朝露が光るフリージアの香りにふんわりそよいでおり、夢から覚めた最初に目に映る光景としては、かなり平穏でハッピーなものであるに違いない。


「んー・・」

 その窓辺でたった今、お布団の温もりの中から目覚めようとする幼い乙女がいた。小学生の月乃である。

「んん・・・朝ですの?」

 頬をなでるそよ風に寝ボケてそう尋ねた月乃は、目をこすりながらもぞもぞと寝返りを打ったが、不意に耳元で美しい声を聞く事になる。

「おはよう、小桃ちゃん♪」

「ひっ!」

 月乃は完璧に日奈様に添い寝されていた。

 同室の日奈様とはいつも一緒のベッドで寝ているのだが、朝は大抵日奈様のほうが早起きであり、月乃が目覚める頃にはダイニングに香ばしいトーストの匂いが漂っていたりするものである。

「朝だよ、小桃ちゃん♪」

「わ、わかってますわ・・・おはようございます・・・」

「おはよう♪」

 日奈様の優しい指先が月乃の柔らかい頬をむにむにつついた。

 どうやら日奈様はいつも通り一足先に目を覚ましたのだが、隣りで安らかな寝顔を見せる幼い恋人がたまらなく可愛かったので、朝焼けが窓辺で輝くまでじっと彼女を見つめていたらしいのだ。月乃は恥ずかしくって布団に潜り込んでしまった。

「どうして隠れちゃうの?」

「んっ・・・わ!」

 日奈様の温かい手が月乃の脇腹を滑り、背中に回り込んだかと思うと、彼女の小さな体は日奈様にむぎゅうっと抱きしめられていた。ネグリジェ越しに密着した大きくて柔らかくて温かいおっぱいが、月乃の全身を内外からゾクゾクさせる。月乃の理性は最後の抵抗をするため、迫ってきた日奈様の美しい瞳から顔を背けた。

「あれ、そっぽ向いちゃうの?」

 月乃は返事をする代わりに顔を赤らめながら、ぬいぐるみのネコのような謎の無表情をした。相手は宇宙一の美少女なので、完璧主義者の月乃の対応もぽんこつである。

「じゃあ、ここにキスするね」

「んっ・・・! あっ!」

 お姉様の柔らかくて優しい唇が、月乃の耳元や首筋に幸せなキスをくれた。その圧倒的な恋の刺激は月乃の小さなハートに大きな波紋を幾重にも投げかけ、彼女の理性を抗いようのない恍惚の世界に落としていく。

「お姉さまっ、す、ストップ! ストップ・・・!」

「かわいいですよ・・・月乃様・・・」

「うっ!」

 肌と肌が触れ合う感触は温かくてすべすべで、やみつきになっちゃうくらい気持ちがいいものである。昨夜も晩くまでイチャイチャしていたはずなのに、日奈様は時間を忘れて月乃と朝のスキンシップを楽しんだ。えっちなお姉様をもつと大変である。

「月乃様ー、日奈様ー! 参りましょー!」

 廊下から桜ちゃんの明るい声が聞こえてくる頃、月乃はもうすっかり日奈様に甘えるだけの子ネコちゃんになってしまっていた。助かった、と月乃は思ったのだが、日奈様は月乃を抱きしめたまま放さない。

「はーい! 追いつくので、先に行ってて下さぁい」

「分かりましたぁ!」

 続行である。結局月乃は日奈様に全身優しくちゅっちゅされてしまった。おしとやかで最高に美しい日奈様がこんなに積極的な女性であることは、誰にも知られていないヒミツである。

「じゃあ、そろそろ行こっか」

「うぅ・・・」

 すっかり骨抜きにされた幼い月乃は、ようやくベッドから下りることが出来たが、体中が火照って足がふらふらしてしまった。

「大丈夫? 小桃ちゃん」

「・・・大丈夫じゃないですわ」

「もしかして、イヤだった?」

「イ、イヤじゃないです! その・・・うぅ・・・」

 むしろすっごく幸せです・・・そのセリフはシャイな月乃の奥歯にしがみ付いてとうとう声には出せなかったが、日奈様はそのメッセージを星空のような深い瞳で受け取り、眩しく笑った。

「それじゃ、行こっか。みんな待ってるよ」

 日奈様が祈りを捧げれば、次の瞬間月乃は高校生モードに大変身である。



 大変ラブラブな二人であるが、実はそれぞれに悩みを抱えていた。

(日奈様・・・わたくしが小学生の時しかキスしてくれませんわ・・・)

 庭園のアーチを抜けながら、白い制服たちに挨拶されるお姉様の背中を見て、月乃はちょっぴり寂しい気持ちになった。日奈様は高校生モードの月乃とはあまりイチャイチャしてくれないのだ。

(私・・・高校生の月乃様とイチャイチャ・・・出来ないなぁ・・・)

 月乃様のクールな気配を背中に熱く感じながら、日奈も頬を染めていた。彼女にとって月乃様は世界一硬派なカッコイイお嬢様であり、特に修学旅行から帰ってからの月乃様はお姉様度が増しているから、小桃ちゃんにするような馴れ馴れしいスキンシップをする勇気がなかなか出ないのである。両想いなのは間違いないのに、実にもどかしい状況だ。



 午前中のカフェテラスには若緑の葉洩れ陽が幾筋も降り注いでおり、そのあいだをダージリンとキリマンジャロの甘い香りが踊っていた。

「気持ちいい風ねぇ♪」

 リリーさんの眩しい金髪が風に泳いでいる。学園トップの美少女たちを見に集まった周囲の生徒たちは、その輝きに心を奪われた。

「ようやく強い風も収まりましたね。昨日は凄かったですから、今日くらいが丁度いいです」

 桜ちゃんは姉の林檎さんにピッタリ肩を寄せてご機嫌な様子である。

「・・・桜、もう少し離れなさい」

「えへ♪」

 寄りかかってきた妹のおでこが肩にちょんと当たって、林檎はくすぐったいような恥ずかしいような、幸せな気持ちになった。

「強風で中断してましたけど、入学式の準備は今日から再開ですね」

 生徒会長の日奈様が手帳を確認しながら言った。ちなみに昨日までの強風は驚異的で、ヴェルサイユハウスのバルコニーで干されていた桜ちゃんの掛け布団がどこかに飛んでいってしまい、「私の布団が吹っ飛んだんです!」と本人が嬉しそうに報告して回っていたくらいである。桜ちゃんはどんな事にも感動できるピュアな子だ。

「ではわたくしは、大聖堂の装飾を指揮しますわ。サクラソウの鉢も並べなおしますの」

「お願いします」

 副会長のような働きをしている月乃は、作業が煩雑な大聖堂を敢えて仕事場に選んだ。迷った時は困難な道を選ぶというのがお嬢様の生き方であり、尊敬を集めるコツでもある。

「じゃあ私、月乃様のお供をしまぁす!」

「え・・・桜一人では心配です。私もお供します」

 若山姉妹が月乃の配下になった。林檎さんに任せておけば大抵の作業はうまくいくので月乃は内心喜んだ。

「ということは私は日奈様と、ですわね♪」

「ええ、まあ」

「私たちは広場のアーチを完成させますわ♪」

 リリーさんが日奈様の腕を馴れ馴れしく抱いたので、月乃は化け猫みたいな目で彼女を威嚇しておいた。二人きりにしておくとマズいので、月乃はこっそり保科先生を差し向けておくことにした。保科先生はどんな要請にも応えてくれる便利屋である。



 袖まくりをして日奈たちの前に現れた保科先生は、やる気満々だった。

「なるほど、広場にゲートを作るんだね」

「そうなんです」

「よぉし!」

 先生は率先してトンカチと釘を手にとると、白衣を風になびかせながら脚立に上った。入学式前日ということで、新入生もだいぶ学園に到着しており、遠慮した様子で式の準備を遠巻きに観察しているから、ここで格好つけておきたいようだ。

「痛ぁー!」

 しかし、ものの一分もしないうちに先生は自分の指をトンカチで叩いて保健室送りになった。先生は背が高くてバスケットも得意であるから、真面目に診察をして時折運動部員にアドバイスなどをしていれば普通にモテるのに、余計なことをするから近所の愉快なお姉さん止まりなのである。

「先生、大丈夫ですかね・・・」

「保健の先生に任せておきましょ♪」

「あの人が保健の先生ですけど」

「自給自足ですわネ♪」

 心配する日奈を尻目に冗談を言いながら、リリーさんは手早くトンカチを使ってゲートを完成させてしまった。有能なお嬢様ばかりが集まる学校の先生は苦労が多い。

「日奈様ぁ、入学式、上手くいくといいですわね♪」

 華やかだがどこか凛としたリリーさんの笑顔を見て、日奈はもう少しばかり彼女に心を開いてみようという気になった。もちろん日奈とリリーさんは親友だが、恋に関する具体的な悩みを相談することは初めてとなる。

「あ、あのう・・・」

「どうなさいましたの?」

「少しご相談があるんですけど」

 高校生の月乃様とイチャイチャ出来ない・・・ちょっと恥ずかしいこの悩みを、日奈は打ち明けてみることにしたのだ。



 さて、その頃月乃と若山姉妹は、二十数名の生徒たちを連れて大聖堂の内部にサクラソウの鉢を並べていた。

 サクラソウは公立の小学校の入学式などにも参列するくらいメジャーな春の花だから、伝説のお嬢様学園であるベルフォール女学院の式にわざわざ選ばれるべき装飾ではないかも知れない。が、サクラソウの魅力を舐めてはいけないのだ。

 プリムラ、雛桜、化粧桜などというスーパー可憐な別名を持ち、古くはギリシャ神話やシェークスピアのロマンス喜劇に登場して、江戸時代のヒマな武士階級の女性たちにも愛されたこの花は、数えきれないほどの春を華やかに彩り見守ってきた新生活応援の妖精である。可愛い文房具と大差ない謙虚な存在感で大聖堂の通路に並んでいながら、その実態は過去にも未来にも枝を広げて春のBGMを優しく奏でる大輪にほかならず、「見た目よりも中身」というお嬢様精神を持っている者にほど、美しく見えるという魔法の装飾花なのだ。


「月乃様、いかがですか。曲がっていませんか」

 几帳面な林檎さんは床に這いつくばったりしながら鉢の位置を丹念にチェックしていた。彼女は初め、スカートをはいた乙女がしゃがんだり這ったりするのは良くないとして、これをためらっていたが、桜ちゃんが率先して床に手をついて作業しているのを見て気が変わったのだ。

 ちなみに大聖堂での作業にはいつの間にかウサギのはんぺんちゃんが加わっており、月乃の靴に前足を乗せたりしていたずらしてくる。

「月乃様。・・・月乃様? 聞こえていますか?」

「あ! な、なんですの!? 日奈様のことなんか考えてませんわよ!!」

 日奈様のことを考えていたらしい。

「月乃様・・・なにか日奈様のことでお悩みですか?」

「なな! な、悩みなんてないですわああ!!」

 悩みがあるらしい。月乃は恋愛に関する嘘だけ異常に下手である。

「私たちでよろしければ伺いますよっ」

 桜ちゃんが駆け寄ってきて月乃の背中にくっつき、彼女の小さなあごを月乃の肩にのせた。桜ちゃんの胸がぽよんと月乃の背中に当たる。

「い、いえ・・・その・・・別に、大した事では、うぅ・・・」

 今いちハッキリと物を言わない月乃を見て、林檎さんはちょっと魔が差した。大変珍しい事なのだが、いたずらをしてしまいたいような気分になったのだ。

「どうなんです? お悩みなら、伺いますけど?」

 林檎さんは桜ちゃんの真似をして月乃の背後に回り、桜ちゃんとは反対の肩から顔を出してあごをのせたのだ。林檎さんの帽子は月乃の頭にちょこんとぶつかって床に滑り落ちたから、月乃は同じ顔をした美少女二人にサンドイッチされた状況になっている。

 月乃と同じく超硬派でクールな女性である林檎さんが、明らかに自分に心を開いて懐いている様子に月乃は妙なドキドキを感じた。両方の肩がなんだかくすぐったいし、周りで作業していた生徒たちも手をとめて熱い眼差しを送ってくるので、ここは素直に白状しておいたほうがいい。

「きゅ、休憩にしますわ!」

 みずみずしいお嬢様ボイスを大聖堂に響かせた月乃は、ペンギンの飼育員のように若山姉妹を両腕で抱きしめ、パイプオルガンに続く階段の陰へ二人を連れて行った。

「じ、実は、その・・・ちょっとご相談が、無いわけでは無いんですのよ」

「やはり」

 月乃も胸の内を仲間と共有することにしたのだった。



「わぁお・・・!」

 リリーさんは故郷のフランス情緒たっぷりな欧米リアクションで応えた。

「日奈様に足りないものは勢いですわ! やむにやまれぬ恋の衝動に身を預け、思いのままに恋人を抱きしめるの♪」

 それが出来れば苦労しない。

 日奈とリリーさんは教室を密室にして二人きりの相談タイムにしているが、廊下の窓やベランダでは少女たちが押し合いへし合いしながら二人の会話に聴き耳を立てている。

「んんんー! それにしても、あの日奈様がそんな事を悩まれるなんて・・・!」

「そ、その、あんまり大きな声出さないで下さぁい・・・!」

 日奈は顔を赤くしながら苦笑いである。教室の窓は全て高級な複層ガラスで出来ているが、あくまで断熱用なので、大きな声を出すと廊下に丸聞こえである。

「でも奥手な日奈様には難しいかしらねぇ。私だったらすーぐ押し倒しちゃいますけど♪」

「そ、そうですかぁ・・・」

 日奈は相談する相手を間違えたようである。

「・・・勢いを得るには、どうすればいいでのしょう」

「そうですわねぇ、あ! 誰かに相談してみるっていうのはどうかしら!」

 思いもよらない素晴らしいアイディアである。

「どなたに相談すれば・・・」

「それはもう人生の先輩方よ。東郷様か西園寺様ね!」

 なるほど、と日奈は思った。しかし先日卒業されたばかりの先輩たちにわざわざ会いに行って尋ねる質問にしてはいささか私的すぎるというか、下らない話題のように感じられて日奈はちょっと恥ずかしく思った。

「東郷様ならきっと勇気を下さいますわ♪ 思い切って後ろかぎゅうっと抱きしめる勇気さえあれば、あとは成り行きでなんとかなるものですからネ」

「思い切って後ろから・・・?」

 まるで通り魔である。

 話の内容はともかくとして、リリーさんの笑顔がひまわりのように眩しかったから、日奈はなんだか励まされてしまった。東郷様たちに頼る前に、もう一度だけ月乃様に挑んでみる気になってきたのだ。

「あら! もしかして、その気になりましたの?」

「え、ええまあ・・・後ろから思い切って、ですよね」

「そうですわ! そうっと近づいて、突然襲いますのよ!」

 犯罪である。

 とにかく日奈はリリーさんに背中を押されて月乃様を探し出した。今回の試みが失敗した場合は大人しく東郷様に会いに行く所存である。



「わああ~・・・!」

 桜ちゃんはウットリしながら歓声を上げた。

「そ、それはまた・・・奇異な事を悩まれますね」

 林檎さんも頬を染めて膝を抱えた。月乃たちは大聖堂の隅っこの階段の下で寄り添い合っておしゃべりをしている。

「べ、別に・・・! 日奈様ともっとイチャイチャしたいとか、そういう事じゃありませんのよ! た、ただその、高校生状態のわたくしに遠慮している日奈様を見るのが忍びないんですの!」

 月乃はつい大きな声を出してしまった。10メートルほど離れた青銅の長椅子では、一緒に作業をしてくれている生徒たちが読書したり膝枕したりして休んでいるので静かにしないと全部筒抜けである。

「そういえば、お二人ってあんまり手を繋いだりもしてないですよね」

「え!」

 そりゃ人前で手など繋げるはずがない。

「そ、それは、そうですわ・・・。別に繋ぎたいわけじゃないですし」

 月乃は急に硬派ぶり出した。今更恥ずかしがっても仕方がない。

「ロワール会が解散した時のパレード以来、もしかしてチュウしてないとかですか?」

「うっ・・・!」

「裏を返せば、小桃に変身してる時はキスなさってるんですね・・・」

「うう・・・!」

 妙に細かい推理を姉妹にされてしまって月乃は顔が真っ赤である。

「と、とにかくわたくしは・・・高校生の細川月乃として、日奈様からもっと信頼されたいんですわ」

 言葉を選べばこんなにカッコ良く相談できるわけである。

「もう充分信頼はされてると思いますけど、う~ん、そうですねぇ・・・」

「誰かに相談してみてはいかがですか?」

 これはまた名案である。

 とにかく彼女たちは月乃に感情移入しすぎており、自分らが今相談を受けているという自覚がないのだ。

「ど、どなたに相談すればいいんですの。リリー様はトンチンカンな事言ってくるに違いないですのよ」

「西園寺様なんていかがですか!」

 桜ちゃんが目を輝かせて言った。

(さ、西園寺様・・・!?)

 月乃が憧れる永遠の大先輩である。

 西園寺様は月乃のクールな要素を抽出して培養したような究極の硬派お姉さんなので、ラブラブになる方法を尋ねる相手には不適当なようにも思えるが、元ロワール会の月乃にアドバイスが出来るのは彼女しかいないのかも知れない。

「西園寺様・・・ですのね」

 月乃は久々に西園寺様の穏やかな声が恋しくなった。

 が、まだ四月なのにOBの先輩を頼っていくのも少し恥ずかしいし、肝心の相談内容が「西園寺様ぁ! 日奈様がチューしてくれませんのぉ!」ではアホかと思われる可能性もある。月乃は考え込んでしまったが、一方若山姉妹はノリノリである。

「西園寺様にお土産を買って行きましょう!」

「リリアーネの愚行をリストアップして西園寺様にご報告します」

 立ち上がってスカートをひるがえしながら可愛く体操をする桜ちゃんを、月乃は慌てて制した。

「ちょ、ちょっとお待ち下さる!?」

 お風呂場で桶を落とした時のように、月乃の軽やかな声が大聖堂に響き渡った。月乃はボリュームの調整が下手である。

「ええと・・・」

 月乃は声を落とし、七夕の笹の葉が揺れるような囁き声にチェンジした。

「もう一回だけ試してからにしますわ・・・」

「た、試す、とおっしゃいますと!?」

「しーっ!」

 桜ちゃんの声も湯桶のように大きい。

「月乃様、私名案を思い付きました」

「あら林檎様、教えて頂けます?」

 林檎さんの案ならおそらく月乃も実行可能なものであるに違いない。月乃は身を乗り出した。

「日奈様とチェスをしてみてはいかがでしょう」

「チェ、チェスですの?」

 林檎さんはクイーンの駒が描かれた黒いTシャツを着てヴェルサイユハウスをうろつく事があるくらいチェスを愛好しており、月乃やその他頭脳派同級生によく勝負を挑んだりしているのだ。ちなみにそのTシャツ、絵柄が気に入ったという理由で二番街のお店で購入したのだがサイズが合っておらず、華奢な林檎さんが着るとワンピースみたいになっている。

「・・・つまり、日奈様とわたくしがチェスをして、仲良くなれということですの?」

「いえ、チェスはテーブルを挟んで理性で競い合う遊びですので、そのままでは恋の発展は難しいです」

 帽子を外した林檎さんは真剣な顔で月乃の耳に唇を寄せた。

「まずチェスを始める前に水をコップに入れて二杯用意します。何しろ頭脳を使う競技ですからね、ご存知の通り脱水は脳の敵ですよ」

「は、はい・・・」

「それから二人で向かい合って腰かけます。屋外のテラスがいいですね。そして日奈様が水をこぼすまでひたすらチェスを指して下さい」

「え?」

「月乃様が水をこぼすわけにいかないでしょう。あなたは元ロワール会のプリンセスなのですからね。いいですか? 日奈様がコップを倒したら、落ち着いて『あら、冷たいけれど、平気ですわ』とおっしゃって下さい。そうすれば確実に日奈様は『大丈夫ですか!?』と言ってハンカチを手にあなたに駆け寄ってきますので、彼女にスカートなどを拭いてもらっているうちにすかさず盤上の駒を動かしてください。日奈様が『本当にすみません』などと言って顔を上げたら、月乃様は女王の表情でこうおっしゃるんです。『チェックメイト!』と」

 意味不明である。

「却下ですわ・・・」

「わかりました」

 林檎さんの独特の世界観を理解するのは難しい。


 しかし、その後の桜ちゃんの助言により月乃はちょっぴりイイ作戦を思い付いた。

 まもなく日奈様と合流する時間なのだが、彼女が通ると思われる場所で月乃が小さなハシゴに上り、転倒するフリをして日奈様に抱きしめてもらうという作戦である。とりあえず触れ合いさえすれば、それがきっかけで今日以降イチャイチャできるだろうという魂胆だ。

「少し曲がってますわねぇ・・・」

 少々緊張している月乃は、入学式の立て看板を手直しするフリをしながら日奈様を待った。安全を考慮してハシゴは一段だけしか上っていない。

(月乃様、頑張って下さいね・・・!)

 桜ちゃんと林檎さんとはんぺんは、大聖堂の扉の隙間から月乃を見守っている。月乃は広場に背を向けて作業しているので、日奈様が来たタイミングでゴーサインを出すのは若山姉妹の仕事だ。


 大聖堂に向かって大通りを歩く日奈も、ひどく緊張していた。

(そーっと後ろから・・・だよね)

 犯罪すれすれの手法で、大好きな高校生モードの月乃様を抱きしめちゃおう大作戦である。

「私が後押しして差し上げますからね♪」

「お、お手柔らかにお願いしますね・・・」

「ついでに、今夜いっぱいキスさせて下さいって約束してくればいかが?」

「出来るわけないですから!」

「あらあら、お顔が真っ赤♪」

「もう!」

 上手くいくか怪しいものだが、勢いとタイミングはリリーさんが舵取りしてくれるらしいから安心である。日奈が恋をステップを一段上がるためには、仲間の力が必要なわけだ。

「あっ・・・」

「いましたわね♪」

 二人は月乃様を発見した。大聖堂の南口の手前で、つややかなポニーテールを揺らしながらハシゴに足を掛けて作業している。美しい彼女の周りにはたくさん生徒がいてその仕事ぶりを見守っているから大変恥ずかしいが、後ろからぎゅっとして逃げ去ることくらいできるだろう。昼に一度抱き付いておけば、夜に二人きりになった時も出来る可能性があるのだ。

(月乃様・・・気づいてらっしゃらないのかな?)

 日奈はそーっと恋人の背中に近づいていく。


(き、来ましたわ・・・!)

 月乃は桜ちゃんの動物的ジェスチャーの意味はサッパリ分からなかったが、林檎さんの身振りからそれを察した。月乃はここぞというタイミングで後ろにひっくり返り、日奈様の胸に飛び込むのだ。

(こんな大勢の前で・・・日奈様のお胸に・・・うぅ・・・)

 自分はなんでこんなバカな事をしているのだろうかと、月乃は今更ながら非常に恥ずかしくなったのだが、もう後戻りはできないし、ここは勇気を出さなければならない。これはわざとでなく事故なのだと月乃は自分に言い聞かせた。


 一方、日奈の足取りは不自然なほどゆっくりになっていく。

(つ、月乃様・・・)

 確かに日奈は以前、月乃様にキスをしたが、あれは戒律が廃止された伝説の日の事である。小学生モードに変身してくれていれば平気でちゅっちゅできるのだが、高校生の月乃様に抱き着くのはやはりハードルが高い。

 なんといっても相手は本学園最高のお嬢様なのだ。髪は星座から降ってきた銀の雨みたいに美しいし、肌は山野の初雪のように輝いていて、その言葉はいつも流れ星のごとく日奈のハートを涼やかに射抜いてくる。中身は小桃ちゃんと同じで人間らしく温かい女性なのだが、その精神が湛えられた器が、一般人のものと違い気品がありすぎる。

(ど、どうしよう・・・!)

 不安と緊張のせいで日奈はいつのまにか両手を胸の前で合わせていた。

(小桃ちゃんに変身してくれれば、こんなこと平気なのにぃ!)

 日奈がそう思った次の瞬間、様々な事が同時に起こる。

「日奈様! 今ですわ♪」

「わっ!」

 日奈がリリーさんに背中を押され、それと同時にハシゴの一段目にいた月乃が両手をひゃーっと上にあげてわざとらしく日奈たちのほうに倒れてきたのだ。しかしドキドキが最高潮に達してしまった日奈はそれに気づかず目を閉じ、「や、やっぱり無理ですっ!!」と叫んで逃げていってしまったのだ。

「え?」

「え?」

 深い青空に月乃の意識がスローモーションで泳いだ。

 一連のハプニングは、月乃とリリーさんが折り重なって目を回しているというちょっとシュールな光景で幕を下した。突然ひっくり帰ってきた月乃の下敷きになったリリーさんは不運だが、普段の行いの悪さを考えればこのクッション役はお似合いである。

「月乃様ぁー!」

「リリアーネ!」

 若山姉妹は周囲にいた他の生徒たちと一緒にすぐに二人に駆け寄った。二人とも気を失ったまま夢でも見ているのか、氷の上のアザラシのようなリラックスフェイスである。これは新一年生には見せられないなと思った林檎さんは二人の顔を小さな背中で隠しておいてあげた。有難い気遣いである。

「あれ!? いつの間に小桃ちゃんに!?」

「月乃様!?」

 いつの間にやら月乃は小学生に大変身していた。逃走直前の日奈の気持ちが祈りとなって天に通じてしまったのだ。

「チェックメイトか・・・」

 今回の挑戦は見事失敗だったわけである。

 高校生モードの月乃が日奈様とイチャイチャできる日は来るのか、神のみぞ知るこのチャレンジの結末は、桜ちゃんに抱かれてスヤスヤ眠る幼い小桃ちゃんの小さな手のひらの中である。


 

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