10、雨宿り
カーテンの隙間から漏れる朝日が眩しかった。
今日もカッコイイ高校生の姿で目覚めた月乃は寮のキッチンダイニングの厚いカーテンをしゅるしゅると開けて、まっさらな光の中でグッと伸びをした。
「んーっ」
中間試験があったせいで近頃はずっと肩や腰が緊張していたので、久々にゆったりとした朝を迎えられて嬉しいはずなのだが、月乃の気分はちょっぴり冴えなかった。
自分の体が一時的に小学生に戻ってしまうという悪夢のような出来事からおよそ十日が経つが、戒律をしっかり守り姉小路日奈様や北山教会堂にはしばらく近づかないという保健の先生と一緒に考えたちょっと頼りない微妙な対策が功を奏したのか月乃の体はずっと平穏無事である。
しかし月乃はどうしても日奈様への恋心を消し去ることが出来なかった。授業中でも、ランチ中でも、試験勉強中でも、お風呂に入っていても、彼女への気持ちは募るばかりだったのである。
「はぁ・・・」
恋する気持ちを上手く抑えることができれば彼女と会っておしゃべりしても平気なのかもしれないのだが、この溢れんばかりの恋心を制御する方法がサッパリ思い浮かばず月乃のハートは乱れている。まだ小学生になってしまった原因が恋だと決まったわけではないが、いずれにしても硬派なお嬢様を目指す月乃にとっては大きな障害なので何らかの対策は必要である。
「おはよう、月乃さん」
寝起きの西園寺会長がキッチンダイニングにやってきた。今朝は月乃の方が先に目覚めたようである。
「おはようござますわ」
「今日はいいお天気ね」
「そうですわね」
会長は意外と可愛い部屋着をいつも身につけており、黒や紫を基調にしているからシックな印象だが、これがもし白やピンクだったらただのお姫様である。
「それ、なんですの?」
「玄関のポストに届いてたわ。セーヌ会からの手紙よ。あっちの会長はしつこいから」
月乃にとって会長と言えばロワールの西園寺会長ただ一人なのだが、この学園にはもう一人悪の生徒会長がいるのだ。月乃はセーヌの会長の顔すら知らないが、きっと女海賊みたいな悪そうな風貌をしているに違いない。
「今年こそ体育祭を開催しろとうるさいのよ」
「体育祭ですの?」
「そうよ。ベルフォールに明るいスポーツの祭典なんて似合わないのに、困った人達だわ」
傷を負ってはならないという戒律もあるので学園の生徒たちは必要以上の運動に消極的であり、月乃も勉強にはかなり自信があるのだがスポーツの成績はイマイチだから運動会の類いは好きではない。
「ま、なんとかしてみるわ」
「わたくしも出来る限りお手伝いしますわ」
「ありがとう。伝統の破壊そのものを楽しんでいる無法者たちにロワール会は決して屈しないわ」
会長は厳しい口調でそう言ってから、無表情のままフリル付きの黒いエプロンを身につけた。
「今朝はホットケーキにしましょう」
表情ひとつ変えずに仕事と私生活のメリハリをつけるすごい先輩である。
サン・ベルフォール女学院の校風が慎ましやかなのは生徒たちの多くがロワール会に憧れているからに他ならない。確かに白いリボンのセーヌ会は会長と姉小路日奈の魅力が凄まじく、彼女たちのファンは相当数存在するが、戒律を守ろうとするロワール会の正当性は誰の目にも明らかなので、セーヌに対する愛を公に語る者は今のところ少なく、それどころか自分の雑念を振り払うようにセーヌメンバーの前ではツンツンした態度を取る少女もいるためロワール会がかなり優勢であると言える。しかし今年に入って生徒たちの間でセーヌ会人気が急速に盛り上がりつつあることも事実なので、学園全体が一度でもセーヌ会を支持する空気になったら戦況があっさりひっくり返ってしまうおそれもあるから決して油断はできないのだ。
そこで、ホットケーキの生地をフライパンに流し込みながら月乃はひらめいた。自分は風邪を引いてるんだとつぶやきながら生活していたら本当に体調が悪くなりそうだし、自分はなんて健康なんだろうと言い続けていれば不思議と長生きできるみたいな話も聞くから、セーヌ会はなんて極悪な集団なんでしょうと公言し続ければ、そのメンバーである日奈様への想いも次第に薄まっていくかも知れないのだ。日奈様が良い人であることは月乃もよーく分かっているのだが、それくらいしないとまともに生活が出来ないのだから仕方が無いし、美しすぎる日奈様もわるいのである。自己暗示に近い方法で膨らみすぎている恋心を上手く抑え、尚かつロワールとしての務めも果たせる素晴らしい作戦かもしれない。
「会長! わたくしひらめきましたわ」
「生地が焦げるわよ」
「あ、はい」
とにかく今はセーヌ会と対立する意思を堂々と示す機会を探すべきである。
さて、実は今日はちょっとしたイベントの日だった。
昨日までに返却された試験の答案が集計され、総合成績の順位が発表されるのだ。しかもその発表は大聖堂入り口前の掲示板に貼り出されるという容赦ない形式で行われるらしいので生徒たちの注目度は高い。
「桜様、発表はやっぱりお昼休み以降ですの?」
「え、なんの話ですか?」
「成績発表の話ですわ・・・昨日もそのことでおしゃべりしたじゃありませんの」
「あ! そ、そうでした。はい、お昼に貼り出されるので、お昼休みか、放課後に確認しに行きましょう」
若山桜ちゃんは情報通のくせに物忘れが激しいところがある。
月乃は幼稚園児の頃から英才教育を受けてきた超頭脳派お嬢様なので定期試験はいつも好成績である。月乃の勉強のモチベーションは向上心によるものではなく低い点数を取って恥をかきたくないという後ろ向きな精神によるものだから、その姿勢は真の学びの探求者からはお叱りを受けるものかもしれないが、月乃は何かを追いかける時より追いかけられている時のほうが力を出せるタイプの女なのだから仕方が無いのだ。
4時間目の世界史の授業を日奈様のことと成績発表のことを交互に考えてそわそわしながら過ごした月乃は、授業終了のチャイムと同時に桜の席に向かった。ちなみに桜ちゃんの席は月乃の斜め右前である。
「あ、月乃様、お昼はどこに食べに行きますか」
「大聖堂ですわ!」
ごはんより先に二人は成績発表の会場に向かった。
1位をとっていたらどうしよう、そんな緊張感すら味わう程月乃はテストの結果に手応えがあり、特に今回は最初の試験であるためか自由に記述する問題ではなく記号で解答するものが多かったため、解いていて楽しかったくらいである。総合1位になったら西園寺様に褒めてもらえますわねと月乃は思った。
ベルフォール大聖堂には既に多くの生徒が集まっており、体操服のまま広場に来ている子までいる。南入り口の掲示板の前に貼り出されるらしいので、月乃はそこから10メートルほど離れたお洒落な街灯にもたれてクールなポーズをしたまま発表に備えた。急に女優さんみたいな格好をするので隣りの桜ちゃんもビビっている。
「発表でーす」
掲示係の3年生が巨大な白い紙を抱えてやってきた。生徒たちはざわめきながらそちらに傾れ込んでいくが、月乃はポーズを崩さなかった。わたくしは試験の結果になんて興味ありませんのよというアピールである。
丸められた紙の上部が画鋲で留められ、シュパーっと広げられた瞬間、生徒たちのざわめきは歓声に変わっていた。
「つ、月乃様!」
「あら、なんですの?」
月乃はどんな時でも冷静である。
「見てください! 月乃様、総合成績2位ですよ!」
2位・・・それは月乃に最も縁がある順位である。小学生の時の背の順は前から2番目、運動会の駆けっこは毎年2位、ピアノコンクールも銀賞、おまけに実家の住所が二本木町2丁目2番の2である。
「い、1位は誰ですの・・・?」
自分で確認すればいいのに月乃はもうクールなポーズを崩すタイミングを失っている。
「あ・・・姉小路様です!」
月乃は思わず天を仰いだ。2位と聴いた瞬間からなんとなくそんな感じがしていた。日奈様はあんなに遠慮がちで優しい瞳をしているのに、誰よりも一生懸命勉強をする人だったという事実が月乃の胸を震わせた。自分が人生を掛けて悩んでいる恋の相手が、やはり凡人ではなかったと分かって月乃は正直嬉しかった。
集まっている生徒たちは正義のロワール会メンバーの細川様がライバルポジションの姉小路様に一歩及ばず負けてしまったことを非常に悔しがっている様子であるが、中には学園の美少女2人がワンツーを独占していることに素直にキュンキュンしている子もいるようである。月乃はむしろ後者の仲間だが、自分がロワールの一員であるという自覚が彼女を動かした。
「こ、今回はわたくしの負けみたいですわね」
月乃がなにか発言するのを待っていた生徒たちは目をキラキラさせて振り返った。
「全力は出したつもりだったけど、この学園で初めての試験だったから油断してたのも事実ですわ。これくらいやっておけば1位なんて取れるわと思っていましたのよ。驕りだったみたいですわね」
自分がセーヌ会と対立しているんだということを公言するチャンスを即日入手してしまったのだから月乃はラッキーである。厄介な恋の魔力に少しでも抗うための自己暗示のお時間だ。
「でも次は絶対負けませんわ! えーと・・・姉小路だか油小路だか知りませんけど、学園の風紀を乱すセーヌ会のメンバーをわたくしは絶対に許しませんのよ」
ちなみに姉小路も油小路も京都市に存在する通りの名前である。
「次は必ず、わたくしが1位を取ってみせますわ!」
広場は歓声に包まれた。笑顔は禁止だというのにみんな大興奮な様子である。
恋心さんどうかこれで静まってください、姉小路日奈様は一応悪い人ということになってるんです、好きになっている場合じゃないんです、お願いします・・・降り注ぐ拍手と期待の眼差しの中で月乃は必死で自分に言い聞かせた。
「姉小路様はここに来てないの?」
「さっき西大通りを歩いて行かれたらしいわよ」
生徒たちがなにやら日奈様の所在を気にし出した。そういう流れは勘弁してくださいねと月乃は思った。
「細川様! ぜひそのお覚悟、姉小路様に直接お伝えするというのはいかがでしょう!」
「きっと盛り上がりますわぁ~」
そう、生徒たちは日常の盛り上がりしか考えていないのである。月乃の心は今非常にデリケートなゼリーみたいな足場の上でバランスを取っているのだから、どうかそのゼリーを無邪気につんつんしないで頂きたいところである。
「月乃様、民はそのように申しておりますが!」
隣りの桜ちゃんまでもが乗り気になっている。完全に引っ込みがつかなくなってしまった。
「そ、そうですわね。日奈様・・・じゃなくて、姉小路様に直接お会いして一言言ってこなきゃダメみたいですわね」
心の準備が全然出来ていないが、月乃は今日じゅうに日奈様に会ってロワール会をナメちゃいけませんわよと言って来なければならなくなったのだ。
月乃は放課後が来るのが憂鬱だったが、考えているうちに少しずつこの事態の捉え方が変化してきた。
たしかにまだ恋の熱を冷ませていないのに彼女に直接会ってしまったら仮説通りまた天罰が下るかもしれないが、先程の決意のスピーチを終えて勢いに乗ってる今なら、恋心など抜きで、公務の気分で日奈様とおしゃべりが出来そうな気もするから、最近ずっと溜め込んでいた日奈様に会いたいという欲求を満たし、そして小学生の姿になったりせずに彼女と普通に話ができたという自信をつけるチャンスかも知れない。
「大変なことになってしまいましたね、月乃様」
「べ、別に・・・大変じゃありませんわ。行きましょう」
「はいっ」
放課後、月乃が桜ちゃんを誘って廊下に出ると、既に生徒が大勢集まっていた。ロワール会の熱心なファンはフットワークが軽いのが特徴だが、ホームルーム終了のチャイムが鳴ってすぐ廊下に出た月乃の先回りをするためには時間か空間を操るなんらかの魔法が必要である。
「み、皆様、よく聴いて下さるかしら」
コホンと咳をして月乃は廊下の生徒たちに告げた。
「これは両会のプライドを懸けた大切な舌戦になりますの。必要な集中力は定期試験の比ではないわ」
「おお・・・」
「だからわたくしたちだけで行かせて下さい。かなり危険も伴いますからね」
「なるほど・・・」
何がなるほどなのか月乃自身よく分からなかったが、どうやら皆納得してくれたようなので月乃はマネージャー的存在の桜ちゃんを連れて学舎を後にした。
「ねえ桜様。日奈様がいる場所に心当たりはありませんの?」
日奈様という呼び方に桜は一瞬妙な表情をしたが、すぐにいつもの情報通の顔に戻った。
「んー、姉小路様はいつも人目を避けるように真っ直ぐセーヌハウスへと帰宅されるようですね」
あの人のことだから学舎の正面玄関から出るようなことはしないだろうなと月乃は思った。
「では・・・そのセーヌハウスとやらに向かってみましょう」
「そうですねっ」
大聖堂広場から真っ直ぐ南下する南大通りは人の往来が凄いので、日奈様が利用するのは西向きの大通りである可能性が高いと踏んだ二人は、とりあえず西に進んで行くことにした。姉小路様が暮らすセーヌハウスは、マドレーヌハウスよりさらに南西に下りた場所にあるらしい。
ちなみにこの学園を大きく4つの区域に分けて上空から時計回りに紹介すると、北東部は月乃が住むロワールハウスや巨大なヴェルサイユハウスがある『真面目な寮エリア』、下にいって南東部はグランドや運動部関連の棟が並ぶ『スポーティなエリア』、その左の南西部は以前月乃がお世話になっていたマドレーヌハウスや今回目指すセーヌハウスがある『にぎやかな寮エリア』、そしてその上にある北西部は図書館などが並ぶ『お勉強エリア』である。
西大通りしばらく歩いて左折した月乃は、気づけば自分が一度も足を踏み入れたことがない街並の中にいた。生徒たちは帰り際にも関わらず道端でのんびりバトミントンをしたり、手をつないでお散歩したり、路地でアコーディオンをファンファン鳴らしたりしている。
「なんだか・・・この辺りは雰囲気が妙に明るいですわね」
南大通り周辺も賑やかなカフェが建ち並んでいて明るいのだが、そことはまた違った自由な空気があり、家の中で放し飼いにされてる文鳥と、空を自由に飛び回るハトポッポみたいな差があった。ちなみにこの例えで言えば北のロワールハウス周辺の生徒たちの雰囲気はまさにカゴの中の鳥である。
「んー、月乃様や西園寺様が全然いらっしゃらない場所なんで皆油断してるのかも知れませんね」
桜が言う通り、月乃の存在に気づいた生徒たちは恥ずかしそうに制服の乱れているところを整えてピッと背筋を伸ばした。これがロワールパワーである。
「いいんですのよ、そんなに緊張しないで」
月乃が一度は言ってみたかった台詞である。
「はい・・・細川様」
生徒たちはなぜか嬉しそうである。年頃の乙女たちなので緊張感の無い場所ではついはしゃぎ過ぎてしまうが、みんなロワール会が支える硬派な伝統に憧れているのだ。そりゃ月乃くらい変人じゃなければ年中無休でお嬢様は出来ないだろう。
「みなさん! これからロワール会の細川月乃様は、セーヌ会の姉小路様に戦いを挑まれにいきます」
「そうなんですかっ?」
なんか少し違う気がしたが、生徒が集まってきているので月乃は後に引けなかった。
「そ、そうですのよ。だから姉小路様の居どころに心当たりがある人は教えて欲しいんですの」
「姉小路様なら、その小さな川沿いの道から寮に戻られることが多いですよ。でも私たちが追いかけようとするとパッと走っていなくなってしまうんですよねぇ」
なぜ追いかけるのか。
ちやほやされることに生き甲斐を感じる月乃と違い、日奈はモテること自体に抵抗がある恥ずかしがり屋さんなので、成長の過程でそのような健脚を手に入れたのだろう。月乃も脚の長さだけで言えば日奈様に負けておらず、歩く早さもキリンさん並みなのだが、運動のセンスが体に追いついていないため100メートル走などは遅い。
「とりあえずそっちに向かってみますわね。ありがとう、みなさん」
月乃はわざと大股に歩いて自分のスタイルの良さをアピールしながら川の左側に沿って続く道へ入っていった。こういう小さな努力の積み重ねが人をお嬢様にするのである。
川沿いの道は裁縫用具店や画材屋など、カフェやレストランに比べれば地味な店が多かったが、その建物はみんな色とりどりで、ピンクやライトブルーのパステルカラーの壁面が肩を寄せ合うように並ぶさまは、点々と花をつけるアジサイたちと相まってなかなか可愛くて幻想的である。
「この辺りはみんなフランスの・・・えーと、コルマールっていう街がモデルみたいです」
「そうですのね」
確かに面白いなぁとは思うが月乃はやっぱりロワールハウスのような怪しげな黒い洋館が好みである。
ちなみにこの小川は全て人工的に造られており、流れるプールみたいにこの辺りを循環しているから、もしアヒルの人形か何かを川に落としてしまっても丸一日待っていれば同じ場所に戻ってくるので安心して頂きたい。
左手に見えていたマドレーヌハウスの大きな屋根が見えなくなった頃、桜が辺りをキョロキョロし出した。
「もうすぐのはずなんですけど、どの路地を曲がるのかちょっと分からないんですよ」
「あの角を左だと思いますわよ」
「どうしてご存知なんですか?」
セーヌハウスはこちらという標識が目の前にあるからである。
目的地が近づいてきていよいよ月乃の緊張は高まってきた。セーヌ寮の前で待っていれば100パーセント日奈様に会えるのである。毎晩ベッドの中で会いたい会いたいと思い焦がれ続けている日奈様にどんな顔をして会えばいいのか分からないし、桜ちゃんがいる手前しっかりと「今回の試験はよくもやってくれましたわね、次は負けませんのよ!」みたいなことも言わなければならないし、そして戒律を破らぬよう細心の注意を払っていれば日奈様に会って会話しても大丈夫だという証明も済ませようという三段仕込みのプレッシャーである。
天に祈るわけでもないが、月乃は歩きながらなんとなく空を見上げた。朝はあんなに明るかったベルフォールの空が冬の朝の窓みたいに冴えない色で曇っている。お天気の神様が月乃の行く末を心配しているのかも知れない。
「なんだか降ってきそうですわね」
「なにがですか?」
「・・・雨ですわよ」
「あ、それなら大丈夫ですよ月乃様。毎日天気予報をチェックしているわけではありませんが、今日は折り畳み傘を鞄の中に忍ばせておりますので」
「あら、しっかりしてますのね」
「はい。降ってきたら一緒に入りましょう」
と言いながら得意気に鞄を開けた桜は顔色を変えた。
「どうしましたの?」
「私、すっかり忘れてました」
「あ・・・まあ、まだ雨も降ってないですし平気ですのよ」
「そうではなくて、これです!」
桜は鞄から学級日誌を取り出した。
「に、日直でしたっ!」
桜は月乃にペコペコ謝りながら大慌てで来た道を引き返していった。私用に付き合わせてしまったのは月乃のほうなので少し申し訳ない気持ちで月乃は彼女の背中を見送った。
さて、幸か不幸か月乃は一人になった。
月乃は全てのプレッシャーから逃れてこのまま帰ってしまいたいという強い衝動に駆られたが、やはり日奈様に会って自分の体の調子を確かめなければならないという使命感と、彼女の顔が見たいという純粋な欲求が負の衝動に打ち勝ってしまったため、再びゆっくり前へと歩みだした。
しかしその時、ちょっと待ってねと言わんばかりのタイミングで月乃の額と頬にひとすじの冷たい感触が走ったのだった。
「あ・・・」
ついに雨が降ってきたのだ。レンガ道にぽつりぽつりと染み込んでいく雨粒はあっという間に仲間を増やし、街を包み込んでいった。傘を持っていない月乃は慌てて頭の上に鞄を乗っけたり、更にその上にハンカチを乗せたりしていたが、やがて雨宿りをするという発想に至り、辺りを見回した。少し戻った川沿いの分かれ道に、この時間は営業していない様子のカフェテラスがあり、その屋根の下を借りられそうである。月乃は早くも出来始めた水たまりをピチャピチャと跳ねて避けながらカフェに向かっていった。
このような屋根はオーニングと呼ばれるものらしく、布だかビニールだか分からない謎の素材によって月乃は雨水の世界から抜け出すことに成功した。
「濡れちゃいましたわ・・・」
カフェの中は電気すら点いておらず入店できそうにないので、月乃は諦めて雨が弱まるのをその場で待つことにした。
川沿いのアジサイの葉を打つ雨音は、なんだか疲れていた月乃の心を心地よく包み込んでくれた。どこかの建物からかすかに聞こえてくるギターの音や、風に乗ってくるノスタルジックな土の匂いも月乃の愛しい孤独の時間に花を添えている。
白くぼやけていく南の山肌を月乃が遠い目で眺めていると、さらさらと涼し気な雨音の中に、水を蹴る軽やかな靴音がフェードインしてきた。すっかりリラックスモードの月乃は反応が遅れたが、誰かが来たのならしっかりとお嬢様の姿勢にならなくてはと思い立ち、数あるレパートリーの中からスカートのCMをしている時のモデルさん姿勢を選択しポーズをキメた。
が、ポーズをとった瞬間月乃の胸の中で打ち上げ花火がポーンと炸裂するようにある強烈な予感がフラッシュした。
(まさか・・・)
この学園に来てからというもの、月乃の予感は驚異の的中率を誇っているが、その予感が湧いてくるのがあまりにもイベントの直前であるためそれを活かして対策していくのは困難である。
近づいてきた靴音は、月乃と同じカフェの下で止まった。カフェが曲がり角にあるため、上から見たオーニングは「へ」の字をしているからお互いのことが偶然見えない配置である。
高鳴る鼓動を持て余す月乃は、同じ屋根の下で雨宿りするその少女がこちらに気づく前にさっさと退散しようかと抜き足差し足をし始めたが、壁に立てかけられていたお洒落な折りたたみの椅子に鞄が少し当たってしまい、椅子は空気が読めないくらい楽し気に「カランッ♪」と音を立てた。
まずい・・・そう思った月乃がおそるおそる振り返ると、曲がり角からその少女がこちらを覗き込んでいた。月乃の予感通り、雨宿りに来たのは姉小路日奈様だった。
「こ、こんにちは・・・」
しばし沈黙したのち、日奈のほうから口を開いた。
「・・・こんにちは・・・ですわ」
月乃は下を向いて少し鞄を左右に揺らしながら小声で答えた。日奈からしてみればなんでこんなところにロワール会の月乃様がいるのか訳が分からないはずなのだが、彼女は何も尋ねずにゆっくりと月乃に近づき、お互いの距離が1.5メートルくらいになるところで立ち止まった。
「雨・・・ですね」
「・・・そ、そうですわね」
月乃は体が熱くて頬がじんじんした。何をしゃべったらいいか、そして何をしたらいいかサッパリ分からない月乃は、ただ甘くとろける時間の中に身を任せるしかなかった。お互いの香りとかすかに届いてきそうな体温を胸の奥で感じながら、二人は静かな雨音をじっと聴き続けていた。雨はロワール会やセーヌ会といった二人の立場と、それに付随する多くの見栄や重圧を洗い流してくれているようで、二人きりの屋根の下にはただ純粋な恥じらいだけがほっこり咲いていた。このままずーっと雨が止まなければいいのにと月乃は思った。
つまり月乃が本日試みた自己暗示作戦は、焼け石に二階から目薬を垂らすみたいな、あまりにも回りくどくて効果がない頑張りだったということである。セーヌは悪い人たちなんだ、姉小路様に恋なんかしてはいけないんだと自分に言い聞かせるてもすぐに恋を止められるわけではないことが分かったのは本日の月乃の大きな収穫である。
そしてもう一つ、月乃は自分の身に関する大きな確信を手に入れることになる。
日奈様の横顔が見たくてチラチラと彼女の方を盗み見ていた月乃は、後ろ手に持っていた鞄を先程の折り畳まれた椅子に再びコツンと当ててしまった。椅子はやっぱり空気を読まずに「カラカラカシャンッ♪」と愉快な調子で鳴きながら、今度は完全に地面に倒れ込んでしまった。
月乃と一瞬目を合わせた日奈様はなぜか照れたように少し笑いながら、倒れた椅子に歩み寄ってきた。自分が倒した椅子なのだから日奈様のお手を煩わせるわけにはいかないと思った月乃は、おやつを見つけた時のネコみたいな素早い動きで椅子に手を伸ばした。
が、月乃は肝心な時にドジをする娘なので、椅子のはじっこを妙な角度で踏んづけてしまい、バランスを崩してそのまま前に倒れてしまったのだった。
「あっ」
次の瞬間、月乃の顔の前には日奈様の胸の白いリボンがあった。右の手首はそっと支えられ、左手に至ってはきゅっと握られている。転びそうになった月乃を日奈様が助けてくれたのだ。
「・・・大丈夫?」
中腰状態の月乃の頭の上から、かつてないほどの近距離で優しい声が聞こえた。事態を飲み込む前に反射的に顔を上げた月乃はそこに見た光景に完全に心を奪われてしまった。夢にまで見た大好きな姉小路日奈様のお顔が目と鼻の先にあり、その向こうではダイヤモンドのように美しい雨粒が、降っているのか昇っているのか分からない不思議なスローモーションで輝いて見えたのである。息を飲む光景に月乃は言葉を失ったまま、ぴったりと動きを止めてしまった。表面だけが雨のせいでしっとりと冷えているが中はポカポカ温かいような生々しい日奈様の指先の感触を左手に感じて月乃は頭がシビれてゾクゾクしてしまった。
そして、その時が訪れたのである。
大量のウサギのぬいぐるみの中に紛れ込んだ本物のウサギみたいな、一度意識してしまうと全ての感覚がそちらに向いてしまうような強い存在感で、雨音の中に教会の鐘の音が混ざって聞こえ始めたのだ。おそらく月乃にしか聞こえないベルの音である。
月乃が慌てて立ち上がって日奈から飛び退くと、日奈はビックリして綺麗なお目々を丸くした。
「大丈夫、ですか?」
「はい。あの・・・また・・・さよならですわ!」
そう言い残して月乃は雨の中を駆け出した。
月乃がこの時確信したのは、自分の身に不思議な現象が起きる原因は恋心にあり、少なくともきっかけは恋する気持ちが一定レベルを越えた瞬間であるということである。10日以上何事もなかったのに日奈様に急接近して頭がくらくらした途端にこれなのだから間違いないし、となると戒律を破った罰で小学生になってしまったという仮説が非常に有力になったということである。こんなんじゃいつまで経っても日奈様とまともにおしゃべりが出来ない。
月乃は唯一本件の秘密を共有している保健の先生に頼るべく保健室に向かって駆けたが、鐘の音が自分の間近に迫っていたので途中で諦め、川沿いのアジサイの陰に身を隠した。もう全身びしょ濡れである。
「ま、また小学生になってしまいますの・・・?」
なぜ自分だけが戒律を破った時に罰を受けるのかその理由がサッパリ分からなかったが、とにかく月乃は早くに高校生の体に戻って来られるよう、手を合わせて指を組み、ぎゅっと目を閉じて祈ることしか出来なかった。
月乃はあの時と同じ激しいめまいの世界へ落ちていきながら、まだ左手に残っている日奈様のぬくもりを離さず、すがりつくようにしっかり抱きしめていた。