【鶴岡八幡宮②《静御前》】
「ジャンヌ、静御前は白拍子だったけど、
母の磯禅師も白拍子だったんだ。
白い水干に細太刀を差し、烏帽子をかぶって男装で舞ったんだ」
「男装で舞うなんて、タカラジェンヌみたいね」
「おう、タカラジェンヌになるためには、
宝塚音楽学校を卒業しないとなれないけど、白拍子も、
貴族の屋敷に召されたりするから、和歌とか、
それなりの教養も身に着けないといけなかったんだ。
磯禅師の『禅師』は、白拍子に与えられた、
階級の呼称でもあってさ、母も一流の舞姫だったんだろうに」
「それなら静御前は、舞の才能は、お母様から受け継いだのね」
「おう、遺伝だろうな。
当時京都に干ばつが続き、今の二条城の近くに、
神泉苑ってあってさ、
『善女龍王』という龍神さんを祀っているんだ。
その昔、弘法大師がここで、雨乞いの祈祷を行った所なんだけど、
後白河法皇が、高僧たちに雨乞いの祈祷をさせても効果なく、
白拍子100人を集めて雨乞いの舞いを舞わせたんだ。
それでも効果なく、最後に、静御前が舞い始めたら、
雨が降りだし、三日三晩雨が降り続いたそうだ。
後白河法王は感激して、
静御前を『日本一の舞姫』と絶賛されたんだ」
「龍神さまも感応される、素晴らしい舞だったのね」
「ああ、ジャンヌなぁ、この神事に、義経も招かれていてさぁ、
舞も容姿も抜群といわれた、静御前を見染め、
後日、後白河法皇から、堀川御殿と静御前を与えられたんだ」
「そうなの、男の人なら、みんな見染めてしまいそうね。
美男と美女の、劇的な出会いだったのね」
「でもな、義経は、小男で、
イケメンの逆だったみたいだぜ」
「そうなの? でも義経って、
昔から判官びいきとかいって、人気あるわね」
「静御前にとって、堀川御殿での生活は、
幸せの絶頂だったろうに。
母の、磯禅師も一緒の生活で、
侍女の中に琴路という、豪商の娘がいてさぁ、
気だてが良くて、静御前は妹のように、
磯禅師は我が娘のように可愛がるんだ。
でも、義経の絶頂は長くは続かず、頼朝との溝は深まり、
頼朝の不審は頂点に達し、義経に刺客を放つんだ。
義経は追い詰められ、後白河法皇から、
頼朝追討の院宣が出されたけど、旗揚げすれど、
兵も集まらなかったんだ。
形勢不利と見た後白河法皇は、今度は逆に、
義経追討の院宣を頼朝に出されてしまい、
福岡へ向けて逃げ出すんだ」
「今まで、後白河法皇の院宣のために、
平氏など、どれだけ多くの方が亡くなったり、
悲惨な目に遭ってきたことか……」
ジャンヌはちょっとプリプリしてるみたいだ。
「頼朝も、後白河法皇のことを、大天狗といってたよな。
京都から九州へ都落ちする時、静御前も義経に同行し、
尼崎から船に乗ったけど、嵐に遭い座礁し、
船団が散り散りになって、わずかな伴を連れて、
吉野へ逃れるんだ。
義経たちは、山伏に身を隠し、大峰山を越えて行くんだけど、
役行者が開いた大峰山は、女人禁制のため同行できなかったんだ。
11月のことで、吉野山は雪に覆われていたそうだ。
そこで義経は、静御前に家来を付け、
沢山の財貨等を与え、都へ帰したんだ。
だけど、途中で家来たちに、財貨類を奪われ、
雪の山中に放り出され、彷徨ってるところを捉えられたんだ」
「静御前、吉野山まで一緒に来て別れるなんて、
辛かったでしょうに!
それに、家来に裏切られ、
雪の吉野山を、一人で彷徨うなんて……」
「でも掴まって、助かってよかったよな。
憐れんだ僧たちに、丁寧に扱われ、充分静養し、
12月に、京都に駐留していた、政子の父の、
北条時政のもとへ送られて、取り調べられたんだ。
吾妻鏡では、年が明けた1186年1月29日、
鎌倉から、義経の行方が判らないので、
静御前を直接訊問したいから、鎌倉へ送るよう、
時政へ書状が届くんだ」
「ねえオズぅ、吾妻鏡も調べてくれたのね」
「おう、図書館で借りてきたんだ」
「ありがとうオズぅ、嬉しいー。大変だったでしょ」
「いやー、俺、好きだからさ。それからなぁ、
3月1日に、静御前と磯禅師が鎌倉入りして、
安達家の屋敷に預けられたと、書かれてるんだ。
3月22日に再度訊問を受けるんだけど、この日の記述に、
静御前が、義経の子を妊娠しているので、出産後、
京都へ帰すことを、告げられているんだ」
「え? 静御前、赤ちゃん授かっていたんだぁ。
忘れ形見になるのね。よかったぁー」
「え、ジャンヌ頼朝だぜ!
生まれたのが男の子だったら、生かしておくはずないじゃん」
「え? 男の子が生まれたの?」
「うー、まだ先の話しだよなぁ……」
せっかくジャンヌの目が、喜びに輝いたのに、
また曇らせちゃった。
結果は後で話そう。
「それから4月になって、静御前が舞を舞うんだけど、
4月8日の記録にあるんだ」
「え? 吾妻鏡にも載っているの?
それなら静御前って、本当に舞を舞ったのね。
私、伝説か、物語かと思っていたの」
「いやー、ホントの話なんだ。
4月8日
『二品(頼朝)と御台所(政子)、鶴岳宮に御参、
次を以て静女を廻廊に召出さる、
是舞曲を施さしむ可きに依りてなり』ってな。
でも、舞を舞うのを、病気を理由に、
ずっと嫌がっていたんだ。
追討を受けている、豫州(義経)の妾として、知れ渡っており、
敵の面前で我が身を晒すのは、大いなる恥辱であると。
でも政子がな、そのうち都へ帰ってしまうだろうから、
静の舞を観られないのは非常に残念だって、
頼朝にさかんに勧めたんだ。
最後は『八幡大菩薩にご覧頂くのだ!』っていって命じて、
舞台に引っ張り出されるんだ」
「静御前も、神様にお見せするからって言われたら、
断れないわね」
「おう、だけどなあ、舞台に出てきても、なお嫌がるんだ。
『座に臨みて猶固辞す、然れども、貴命再三に及ぶの間、
憖(=なまじひ【無理に】)に白雪の袖を廻らし、
黄竹の歌を発す、左衛門尉祐経鼓つ』ってな」
「わーオズぅー、臨場感あるぅー。
白雪を廻らしてって、よく巫女さんが着る白い衣装でしょ。
素敵ぃー! 情景が目に浮かんでくるわ」
「鼓を打った、左衛門尉祐経って、
工藤祐経のことで、元北面の武士を務めたんだ」
「北面の武士って、西行もそうだったのよね」
「そうそう、北面の武士は、院の警護をする、
SPみたいなもんだけど、条件がチョー厳しくてさ、
先ず武芸に秀でてるのが前提で、
それにイケメンでなきゃダメなんだ。
それから、和歌とか、
歌舞音曲にも通じてないと務まらなかったんだ」
「文化的な教養も身に着けないといけないのね。
それで西行も、和歌の素養のある、
エリート武士だったんだぁ」
「おう、しかも工藤祐経は、工藤一臈(=ろう)と呼ばれ、
二臈三臈と階級を表し、北面の首席だったんだ」
「武士も宮廷に仕えると、階級の表現も優雅になるのね。
じゃあ、一臈さんなら、静御前の伴奏者は一流だったのね」
「ああ、それから、畠山重忠が銅拍子といって、
シンバルみたいなものを担当したんだ」
「うんうん、それで日本一の舞姫の、
舞台の役者は揃ったのね」
「次の2曲目からがクライマックスなんだ。
『静先ず歌を吟じ出でて云ふ、
よし野山 みねのしら雪 ふみ分て
いりにし人の あとそこひしき
次に別物の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云ふ、
しつやしつ しつのをたまき くり返し
昔を今に なすよしもかな
誠に是社壇の壮観、梁塵殆んど動く可し、
上下皆感興を催す』ってな」
「オズ感激ぃー! 静御前やったわね。
4曲も歌って、舞ったんだぁ。
ねえオズぅ、
『梁塵殆んど動く可し』ってどういう意味なの?」
「ああこれかぁ。
『梁塵(=りょうじん)を動かす』っていって、
中国の諺から来てるんだ。
昔中国に、声が清らかで、歌の巧い人がいて、
歌うと梁の上の、積もった塵まで動いてしまうという、
故事によるんだ。
歌声の素晴らしいたとえだよ」
「そうなんだぁ。そんなに素晴らしかったんだぁ。
鎌倉の武将たちを、感激させたのね」
「おう、でもなジャンヌ、歌い舞い終わったあと、
頼朝が激怒するんだ」
「え? 何で?」
「頼朝は、
『八幡宮の宝前にて、芸を捧げる時は、
関東の万歳などを祝うべきである。
なのに場所もわきまえず、反逆の義経を慕ひ、
別れの歌を歌うなどけしからん!』ってさ」
「わーひどーぃ!
静御前可哀いそーぅ」
「そしたら政子が、
『私も貴方が流人として、伊豆に流されてきて、
私と契りを交わしましたけど、
父は平家を恐れて、私との仲を引き裂こうとしましたね。
だけど、私は貴方を慕って、暗夜に迷い、
大雨に打たれながらも、貴方の所に参りました。
また、貴方が石橋山の合戦に出陣した際、
独り伊豆山に留まって、貴方の生死も判らぬまま、
日夜心配で、魂も消え入りそうでした。
そのことを云えば、今の静の心中も同じです。
静が、豫州との長年の誼を忘れて、
恋ひ慕わないのであれば、貞女の姿ではありません……
ですからどうか、静を誉めてあげて下さい』って、
必死に頼朝にとりなしたんだ。
そこで頼朝の怒りも収まり、用意しておいた、
褒美の着物を授けたんだ」
「政子が庇ってくれたんだぁー。
やはり女性の味方なのね。
よかったわね静御前」
「ああ、回りは、義経を追討している敵に囲まれ、
好奇な目に晒される恥辱を受けながら、
義経を慕う心情を、歌い舞う姿は、
鎌倉武士たちに大きな感動を与えたんだ」
「さすが日本一の白拍子なのね。
神様を感動させ、雨を降らせる位の歌声と舞いは、
鎌倉でも再現されたのね。
でもオズぅ、静御前の義経を慕う気持ちって、一途なのね。
だから、頼朝公の前でも、愛する義経のことを歌えたのね。
私、静御前尊敬しちゃう」
「おう、俺も。
尊敬っていうか、賢いんじゃねえかなって。
静御前が歌った歌なぁ、本歌があってさ、
古今和歌集の
『み吉野の 山の白雪 踏み分けて
入りにし人の おとづれもせぬ』と、
伊勢物語の
『いにしへの しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな』
から取ったんだ」
「そうなのぅ。
さっきオズが教えてくれたけど、白拍子って、
和歌に精通していたり、教養を身に付けていないと、
務まらないのね。
でも、ここでの静御前の舞って、劇的で感動的だったのね。
私、タイムマシンに乗って、その時のシーン、観てみたいわ」
「いやー、俺はなぁ、ジャンヌの舞を観てみたいな。
紫の袴はいて、雪のような真っ白な水干をまとって舞う姿、
観てみたい。
ジャンヌの声清らかで、歌も巧いじゃん」
「え、私?
私日本舞踊とか、習ったことないし……」
「なあジャンヌ、一途っていったら、大姫と似てねぇ?」
「え? 大姫って、あの常楽寺の、木曾義高の許嫁?
頼朝公の長女でしょ。うんうん、似てる似てる」
「その大姫なんだけど、静御前が八幡様で舞った翌5月、
邪気を退治するため、14日間、南御堂と呼ばれた、
勝長寿院に籠るんだ。
勝長寿院は、頼朝が、父義朝の菩提を弔うために建てた寺で、
今はもうないんだ。
大姫は、満了日の前夜に、静御前を召し出して、
舞いを鑑賞してるんだ」
「え、オズ、南御堂に籠って邪気を払うって、
大姫は何歳になっていたの?」
「えっとー、義高が殺されたのが、二年前だから、9歳かぁ」
「まだ9歳の子供が、寺に籠るの?
それはきっと、義高公の菩提を弔っていたのね。
9歳の子供が、お寺に籠って、
亡くなった許嫁のために供養を続けるなんて、
大姫って、並の女の子じゃなかったのね。
もうその頃から、強い意思で、
ずっと義高公を慕い続けていたのね。
凄いわねー!」
「そっかあー、大姫すげー意思力だな。
静御前も、大姫の願いには、素直に応じているんだな」
「静御前と大姫って、愛する人をお互い、
頼朝公に殺されたり、追われたりして、共鳴したのでしょうに!
だから静御前も、大姫のために舞いを舞って、
慰めたかったのでしょうに」
「ジャンヌさあ、静御前と大姫って、
お互い心を寄せあっていたんじゃないかなって」
「そうね、きっとお二人で、お父様の頼朝公の悪口を、
散々言い合って、意気投合していたのでしょうに」
「それからさぁ、大姫が、南御堂に籠る数日前、
鼓を打った工藤亮経と、何人かの武将が、
酒をもって静御前の宿舎に押し掛けるんだ。
母の磯禅師が舞いを舞ったりしたけど、
静御前は、決して舞いを舞ったりしなかったんだ。
酒宴の中で、酒に酔った武将が、
静御前を口説こうと迫るんだけど、その時、
悔しさで大泣きしながら、
『豫州は、鎌倉殿の弟で、私はその妾です。
御家人の身分で、なんで普通の男女のように扱うのですか!
豫州が追悼を受けていなければ、
あなたと対面することすら出来ないはずです。
ましてや私に……関係を迫られるなど……』」
「わあーオズぅ、静御前って、泣きながらでも、
よく言ったわね」
「おう、御家人の分際で、無礼であろう! ってとこだろ。
本人目の前に、直接言えるってスゲーよな」
「ええ、頼朝公の前でも、周りはみんな敵の中で、
愛する義経を思う歌を、堂々と謡えるくらいだから。
さすが日本一の舞姫ね。
又、義経の恋人として、迫ってくるいやらしい男の人に、
弱い立場にあっても、それなりのプライドを貫くって、
素晴らしいわね」
なんかジャンヌには珍しく、多少興奮ぎみに、大いに共鳴している。
「でもなジャンヌ、静御前はその数ヵ月後、
閏7月29日に、男の子を出産したんだ」
「まあ大変、男の子だったら、殺されてしまうのでしょう?」
「ああ、静御前が、京都に帰れず、鎌倉に留め置かれていたのも、
生まれてくるのが、女の子だったら与えるが、
男の子だったら取り上げて、殺されることになっていたんだ。
早速頼朝の命で、赤ちゃんを取り上げにくるんだ。
静御前は泣き叫び、赤子を包み伏して、
数時間も抵抗するんだ」
「それはそうでしょうに。
必死に抵抗するわよね」
「母の磯禅師が、これ以上の抵抗は、静御前の身の危険を察知し、
なだめて赤子を取り上げて、使者に渡すんだ。
それで赤子は、由比ヶ浜に棄てられたんだ」
「まあ、おかわいそうに!」
「吾妻鏡では、
『静敢て之を出さず、衣に纏ひて抱き伏し、
叫喚数刻に及ぶの間、安達頻りに譴責す、
礒禅師殊に恐れ申し、赤子を押取りて御使に與ふ』ってな。
政子も頼朝に取りなしたけど、叶わなかったとあるんだ。
それから、出産後の体調も回復し、
二ヶ月後の9月に、静御前と磯禅師は、
京都へ帰って行くんだ。
その時、大姫と政子から、
餞別に沢山の財宝を贈られたとあるんだ」
「お詫びの気持ちもあったのね。
大姫と静御前って、年齢が離れていたり、
大姫が幼かったけど、二人の心は通い合っていたのでしょうに。
大姫も、きっと心を許していたでしょうから。
オズぅ、そのあとどうなったの?」
「それがなあ、色々な伝説が生まれてな、
東北の平泉に逃れた義経だけど、
義経を頼って東北に向かい、
途中で義経の死を知り、身を投げたとか、
全国各地に、静御前の墓とか伝説があるんだ」
「え? 全国に?」
「ああ、吾妻鏡では、静御前に関する、
その後の記述はないんだ。
でも母娘、一旦京都に落ち着くんだけど、
義経は逃亡中で、探索の目も厳しく、
母の磯禅師の故郷の讃岐へ帰るんだ。
そこで母娘、四国霊場の寺を巡り始めるんだ。
義経を偲びながら、屋島とかの源平の戦跡に近い寺を巡り、
戦で命を落とした人々や、
縁者の供養をしながらの旅だったんだろうに。
第87番札所の長尾寺で、そこの住職と出合い、
出家の道に入るんだ。
二人は得度を受け、剃髪後、静御前は宥心尼、
磯禅師は磯禅尼と、それぞれ法名を授かるんだ。
それから、お寺の近くにささやかな庵をむすび、
信仰の生活に入るんだ。
暫くして、以前、堀川御殿に義経と暮らしてる時、
侍女だった琴路が、静御前の噂を聞きつけて、
慕ってやって来るんだ。
しばし三人の生活が続いたある日、長尾寺に参詣の帰り、
母の磯禅師が、寒さで行き倒れ、亡くなるんだ。
その翌年には、静御前も病を患い、24歳の短い生涯を閉じ、
鎌倉を出てから、6年の歳月が経っていたんだ。
悲観した侍女の琴路は、静御前が亡くなった一週間後に、
後を追うように、近くの池に身を投げたと、
伝えられているんだ。19歳だったと。
池の近くには、静御前と琴路の墓があり、
長尾寺には、静御前の剃髪塚と、
本堂には、位牌が在るそうだ」
「ちゃんと供養されていたのね。私安心したぁ。
ねえオズぅ、でも静御前のお墓って、全国にあるんでしょ?」
「ああ、どこもそれらしい伝説があってさ、
香川県にだって、庵跡の近くに、願勝寺というお寺があって、
そこにも静御前のお墓があるんだ」
「お墓があれば、みんなお参りするでしょうから、
供養になるのね。
静御前も、全国各地で、お墓にお参りされる人がいて、
喜んでいらっしゃるわね、きっと」
「おう、神社の勧請と一緒だよな。
埋葬されてなくても、やっぱ墓は墓でいいんだな。
そうだよなジャンヌ」
「ええ。お祈りして差し上げたら、
愛念となった光りが届くから」
「そっかー、でもなジャンヌ、
静御前なぁ、一年に一回、この舞殿で輝くんだ」
「え? オズどういう意味?」
「毎年4月に、『鎌倉まつり』ってやるんだけど、
初日の日曜日、パレードとかあるけど、
何といってもハイライトは、3時からこの舞台で、
『静の舞』っていって、静御前が舞を舞うんだ」
「え! 『静の舞』が観られるの?」
「ああ、毎年凄い人だけどな。
最終日の日曜が流鏑馬なんだ」
「観たい観たい!
来年の話しね、オズ忘れていたら教えてね」
「おう、鎌倉市の広報に案内されるよ」
「ありがとうオズぅ、忘れずにチェックするわね。
当日、静御前も、お母様も、天国から降りて来られるわね」
「おう、きっと亡霊じゃなくって、天使として舞い降りるぜ」
「そうね、舞われる方と一体になられたりして。
楽しみねぇー」
「ジャンヌちょー嬉しそうじゃん。
静御前の話しはこれでおしまいだけど、
俺、いろいろ調べた甲斐あったな」
「オズありがとう。大変だったでしょ!
私、感激で興奮しちゃった。
ねえオズぅ、静御前って、短い生涯だったけれど、
京都の神泉苑で、雨を降らせた舞も、
素晴らしかったでしょうけど、
一番輝いた時は、後世まで名を残した、
この八幡様での、義経を慕う舞だったのね」