【荒崎海岸(ひめゆり学徒隊散華の跡)】
「なあジャンヌ、小池隊長、長野県の佐久市出身って、
比嘉さん言ってたよな。
俺の亡くなったおじいちゃん、佐久市出身だろ。
それに野沢中学って、なんか聞いたような気がするんだ。
もしかしたらおじいちゃん、同じ中学の後輩かもしれない」
「え! ほんと?」
「オトウさあ、毎年8月のお盆前に、墓掃除に行ってるんだ。
今年は仕事で行けなかったみたいだけど、
俺も何回か墓掃除に行ったことあるんだ。
家、お墓、多聞院さんと、長野の本家の墓地にも、
分骨してお墓があるんだ。
来年のお盆に、墓参りとか掃除があれば俺も行くから、
その時、小池隊長のお墓にもお参りしてこようかな」
「わ、いいな。私も行きたいな。
お墓のお掃除でもなんでもするから、お父様に、
私も連れて行って下さるよう、お願いしてもらえる?」
「え! ジャンヌも行くの?」
「オズぅ、ダメぇ?」
「いや、ダメじゃねえよ。
オトウ、ジャンヌが一緒に行きたいっていったら、
すげー喜ぶぜ。絶対。
それにオトウ、ジャンヌに美術館で、
おじいちゃんの絵、見せたいって言ってたぜ」
「ほんとう、嬉しいな。
あ、ごめんなさいモンチ」
ゴリが、こちらを見ながら、比嘉さんと話している。
「ジャンヌ、これで今日回れる慰霊碑は全部回ったな。
あとは次回だな。もう夕方だし」
「今日はありがとうモンチ。今度はジュリも誘ってね」
「なあジャンヌ。
今日比嘉さんに慰霊碑案内してもらって、
すげーよかったじゃん。
なんかさあ、慰霊碑で、看護隊のみなさんに会えて、
ほんとによかったな」
「ほんとに。比嘉さんに大感謝です」
「いえいえ。こちらこそです。
大橋さんはじめみなさんに、学徒隊の慰霊碑にお参りしていただいて、
とても素晴らしい供養になったと思います。
なにかみなさん、特別な高校生というか、高貴な感じがしますし、
言葉では言い表せませんが、
天使と天使を護る騎士団みたいに感じました」
「お誉めに預かり光栄です」
「俺たち騎士団ですか?」
ゴリも照れた顔してる。
「先ほど大橋さん、天を仰いで、
大天使ミカエル様がどうのとか仰ってましたよね?」
「はい。
大天使ミカエル様は、私を指導されている守護天使なのです。
私は大天使ミカエル様から、《平成の祈り》という祈りを授かりました」
「そうだったのですか。
やはり大橋さんは、特別な方だったのですね。
天からの使者みたいですね。
それで解かりました。納得しました」
比嘉さんは、ジャンヌの話を、素直に信じてるみたいだ。
普通は、はあ? 何言ってるんですか?
理解できません! ってなるんだろうけど。
ジャンヌは、階段の上の、本堂らしき建物を見上げると、
「最後にお参りしていきましょう」
階段を上がり、《平成の祈り》を捧げてきた。
階段を下りてくると比嘉さんが、
「積徳高女は、大正時代に当初、このお寺の庫裏で、
和裁とか家政を教えたいたそうです。
昭和になって、モノレールの美栄橋駅の近くに校舎を新築しました。
また本堂の裏には、二階建の立派な寄宿舎がありまして、
この建物は戦災でも残り、米軍が接収して使っていました。
花薗寮といいまして、遠方で、通学出来ない生徒とか、
離島出身者も多かったですから。
だいたいどこの女学校も、寄宿舎がありましたね。
離島で既に、帰省出来なくなった生徒さんたちは、
ほとんど学徒隊に参加したようです。
それから、ひめゆり学徒隊は、引率の教師がいましたから、
事情がある1、2年生でも、また、3、4年生に姉がいる生徒さんとか、
炊事の手伝いをしたりして、行動を共にした生徒さんもおられました。
ひめゆりの資料館には、そういった事情のある生徒さんで、
亡くなった1、2年生の方の写真も展示されています。
一高女では、学年ごとに髪型が決まっていて、
一年生はおかっぱでしたから、写真を見ると、
まだいたいけな小学生のようで、涙なしでは見られませんね」
「そうでしたか。
まだ中学生の年代ですから、悲惨でしたね。
次回、資料館で拝見させて頂きますね」
「大橋さん、次回慰霊に来られた時、これは私のお願いというか、
ぜひ大橋さんに、行っていただきたい所があるのですが」
「はい、もちろん行かせて頂きます。
比嘉さんのお望みなら、どちらなりと。
慰霊碑ですか?」
なんだろう?
比嘉さんのお願いかぁ。
ゴリと顔を見合わせた。
「はい。次回訪問を希望されています、魂魄の塔、
金城和信先生が、初めて建立した慰霊塔ですけど、
その先に、荒崎海岸という海岸がありまして、
そこでひめゆり学徒を率いた先生ら、10名が自決してなくなりました」
ジャンヌは合掌しながら、
「そうなのですか。ぜひご案内して頂けますか」
「ありがとうございます。
大橋さんに祈ってもらえたら、亡くなったみなさんも、
どんなにか喜ぶかと思いまして。
今日一緒に慰霊碑を回りまして、今ふと思いましたものですから」
「いえいえこちらこそ。宜しくお願いします」
「それというのも、ひめゆり平和資料館に展示されていますが、
一高女が胸につけた、校章の遺品を思い出しましてね」
「校章ですか?」
「はい。
一高女の校章は、白い百合の花があしらわれており、
学徒たちはみな、校章に誇りと愛着を持っていました」
比嘉さんは、自分の胸を指差しながら、ジャンヌの胸の校章を見て、
「大橋さんも付けていらっしゃる、それです」
ジャンヌも右手で、自分の校章に触れながら、
「私もこの校章、スクールカラーの古代紫があしらわれていて、
お気に入りなのですよ」
「古代紫ですか。素敵な色ですね」
「ありがとうございます。このリボンも古代紫なのですよ」
「そういえば、紫は最も高貴な色でしたね。
それも古代紫ですか。
いやー大橋さんにぴったりな色ですね。とてもお似合いですよ」
ジャンヌは喜びで、目をキラキラさせている。
「それから、ひめゆり学徒たちですけど、
6月18日に解散命令が出て、第三外科病棟の学徒たち以外は、
18日の夜から、次々壕を脱出していきました。
脱出にあたっては、それまで大切にしまっておいた制服に着替え、
これも、みんなが最も大切にしていた校章を胸に付けました」
「当時の高等女学校の生徒さんにとって、校章の重みって、
今以上に重たかったのでしょうね」
「それはそうですね。先ず、高等女学校へ行ける家庭の方が、
少なかったでしょうから。
それからみなさん、制服へも憧れがありましたね」
「心の拠り所っていうか、自分自身への誇りそのものだったんだな。
俺さあジャンヌ、あらためて校章見ると、古代紫、かっこいーよな。
俺、今までリボンばっかかっこいーって思ってたからさ」
「先生に率いられた学徒たちは、海岸線を逃げて行きます。
途中、足がすくむような断崖を進み、逃避行の苦しさから、
何度も先生は、学徒たちから自決を迫られましたが、
そのたびに励ましていました。
なんとしても、学徒たちを生かしてあげたかったのでしょう。
最後は荒崎海岸に追い詰められ、
米軍の銃の乱射を受けながら、手榴弾で自決しました。
米兵が現れたその時、至近距離から撃たれる直前、
左に避けた二人は無傷で、手榴弾を持って、自決しようとした瞬間、
友人に止められ、米兵が手榴弾を取り上げ助かりました。
銃を突きつけていた米兵が、銃を降ろすと、
一転陽気になり、スクールガール、スクールガールと、
無邪気にはしゃいでいる様子は、それまで鬼畜と教え込まれていた、
米兵の姿とのギャップに、意識が一変しました。
右に避けた先生のグループを見に行くと、
そこは鮮血を岩に染めた友人たちの姿で、
二人は茫然と泣き崩れるのでした。
米兵は、まだ生きている重傷者を、懸命に救助していました。
その人道的な姿には、また驚かされました。
6月21日のことでした。
そこでは結局、一高女7名と先生、卒業生、
二高女の生徒10名が亡くなり、
『ひめゆり学徒隊散華の跡』の石碑を岩に埋め込み、
その他、付近で亡くなった教職員、学徒たちも名前が刻まれ、
一緒に祀られています」
「わかりました比嘉さん。
またみなさんが、天界に昇られるようお祈りさせて頂きます」
「大橋さん、ぜひ祈ってあげて下さい。
話が最後になりましたけど、数年前に、
その自決した海岸の現場近くで、一高女の校章が、
64年ぶりに発見されました」
「そうだったのですか! 感激ですね」
「はい。
付近を遺骨収集されている方が、偶然岩陰に落ちていた、
金属の破片らしきものを拾ってみると、一高女の校章だったそうです」
「そうですか。
それでは天使となられた、ひめゆりの学徒隊のみなさん、
制服の胸に、校章がキラキラ輝いていらっしゃいますね。
きっと」
「大橋さん、きっとそうですよ。
私も大橋さんにお話ししてよかった。
なにか胸のつかえがとれた感じです。
いやーありがとうございます」
「またまた素晴らしいお話し、ありがとうございました」
「いやいや、私の思いつきで、またまた話しが脱線してすいません」
比嘉さんはゴリを見ながら、
「大田さん、私、何の話していました? すいません」
「花薗寮の話しでしたか……離島がどうのとか、帰れなくなったとか」
「ああ、そうでした。航海の話しですね。
それでも、制海権を奪われた船旅は、命がけでした。
魚雷で沈められた時に備えて、漂流出来るように、
甲板に材木を積んでおき、サメに襲われないよう、長い白い布と、
缶詰などの食糧が必需品として、身に着けて航海しました」
「いやー、よっぽどのことがないと、
怖くて船に乗れませんでしたね」
ゴリも顔をしかめている。
「学業の方は、昭和19年10月10日の大空襲以降、
高射砲の陣地とか、防空壕づくりだとかで、
県内の女学校の生徒は、勤労動員に駆り出され、
勉強どころではなくなりました。
看護教育は、昭和20年の1月25日に、
瑞泉学徒看護隊の首里高女と、でいご学徒看護隊の昭和高女の2校が、
トップを切って始まりました。
ひめゆり学徒隊の、一高女の生徒さん達の中には、
ライバル心もあってか、首里高女たちに先を越されて、
先生に自分たちも早く、看護教育を受けさせて欲しいと、
催促していた生徒さんもいたみたいです。
当時は皆、軍国少女になっていましたから」
「なんか、今から見ると、悲しいライバル心でしたね。
一高女は、トップ校としてのプライドもあったのでしょうね」
「モンチ、みなさんきっと、純粋に、お国の為に早くお役に立ちたい。
そのさきがけになりたいという思いだったのでしょうに」
「そうですね、大橋さん。
事実、生徒さんの中には、親の反対を押し切ってか、
後から南風原の野戦病院壕へ、直接駆けつけた生徒さんも、
何人かいましたから。
仲間も裏切れなかったのでしょうに。
なんといってもひめゆり学徒隊は、規模も大きく、
校長以下、引率教師もいて、先生の目がゆき届いていました。
派遣先も、第32軍直轄の陸軍野戦病院でした。
その他の学徒隊、白梅とふじの看護隊は、第24師団へ、
瑞泉とでいごの看護隊は、第62師団へ、
それぞれの野戦病院へ配属になり、
いずれも引率の教師は追い返されましたから、
心細かったと思います。
ふじ学徒だった大里ハルさんは、中国戦線で、
父を亡くしていました。
壕内で、父と同年代の重傷の傷病兵を看護している時、
亡くなった父と重なり、思わず泣いてしまいました。
それを見た衛生兵が、軍の中にあって泣くとは何事かと激怒し、
厳しく注意され、以後二度と泣かない旨の、
誓約書まで書かされたそうです。
そんな大里ハルさんも、終戦後、沖縄が落ち着きを取り戻した頃、
故郷の宮古島へ帰れることになりました。
小さな船には、学徒看護隊と、鉄血勤皇隊の生き残った人達と、
数人が乗り込んでいました。
港に着くと、大勢の人に出迎えられ、
地元に帰り、母と抱き合って再会を喜び合ったそうです。
母は毎日、朝から晩まで、
ハルさんの無事を祈っていたそうです」
「祈りは光となって、時空を超えて飛んでいきますから。
きっとお母様の愛念の光りが、ハルさんを包んで、
護っていたのでしょう。
ハルさんの三つ編みが、身代わりとなって助かったのですね」
「大橋さん、山口県の徳地というところに、
弾除け神社として、戦争中、多くの人が参拝した、
三坂神社という神社があります。
日露戦争の折、村の若者が、この神社で祈願を受けて出征したところ、
全員無事で帰還できたことから、有名になりました。
ですから、戦争中は全国から、出征した家族の無事を祈願しに来られ、
最盛期には、一日800名を超える参拝者を数えました。
最寄りの駅から神社まで、延々と列が続き、
奉納された写真も、2万枚を超えていたそうです」
「皆さん戦争に行かれた家族の無事を、藁をもすがる思いで、
切実に願っていらしたのですね」
「そうでしょう。
ですから、三坂神社は、山口県の田舎にありますから、
参拝に行くのも当時は大変だったと思います」
「そうした残された家庭の妻や、母は、
きっと毎日陰膳を据えていたのでしょうに」
「ジャンヌその陰膳ってなに?
ゴリ知ってた?」
「ああ。出征とか、旅行で不在の人の無事を願って、
ちゃぶ台ならいつも座ってた場所に、
その人の茶碗とか箸を据えるんだよ」
「そうね。陰膳は、愛念でもあり、祈りでもあるから、
やはり光となって飛んでいくでしょうから」
「そっかー、知らなかった。
昔はいい風習が残ってたんだな。
ところで比嘉さん。
三坂神社の弾除けの効果はどうだったんですか?」
「さあ、それは……生還者は沢山いらしたそうですが。
それなりの効果はあったと思いますが。
でも大澤さん、昭和19年の7月7日、
サイパンで日本軍が玉砕した日ですが、
三坂神社の拝殿の床が、参拝者の重みで崩れ、
同時に境内の大木が真っ二つに裂けたそうです」
「え! そうなんですか。
なんか、神様の光明と、
戦争の業火とのぶつかり合いみたいでしたね。
大木が裂けて、身代わりになったのかもしれませんね。
きっと、大木のお陰で助かった人もいたんでしょうに」
「出征する時は、歓呼の中で、万歳万歳で見送られましたけど、
生きて帰れとは言えぬ雰囲気の中で、家族の心中は、
やはり無事でいて欲しい思いだったのでしょう。
あ、話が脱線してすいません。
ハルさんの三つ編みが吹き飛んだ話しでしたよね」
「はい。
それにしてもハルさんは、お母様と再会出来てよかったですね」
「小池隊長も、父を亡くしていたハルさんを、
ことのほか気にとめていたようです」
「小池隊長の優しさというか、思いやりの深い方だったのですね」
「小池隊長も、自分には君たちと同じ年くらいの娘がいると、
看護隊のみなさんに話されていたそうですから、
父親代わりと思っていたのでしょう。
ハルさんの村では、生還を祝って、大宴会となったそうですが、
離島出身からの生還者は、港でも村でも、みな大歓迎だったそうです」
比嘉さんは、両手を挙げ、
沖縄の喜びの踊りのポーズをとってくれた。




