【サイモン・バックナー司令官】
駐車場に戻ると、小さなトイレがあった。
「ちょっと待ってて、俺トイレに行って来る。
ジャンヌは?」
「私は大丈夫。ありがとうオズ」
トイレから戻ると、比嘉さんから、この近辺の説明を受けていた。
俺が戻ると、早速車に乗り込んで出発だ。
「この近辺は、国吉といいまして、この先の真栄里地区と並んで、
日本軍が最後の組織的な戦闘を行って、壊滅した地区なのです。
先程の、白梅の塔の近くに、萬魂の塔という慰霊碑がありますが、
戦後、国吉の住民が、この地に散らばっていた遺骨を収集し、
供養したものです。
約4000柱祀られています」
「4000柱もですか。
白梅の看護隊のみなさんって、
戦場の真っただ中にいらしたんですね」
ジャンヌが合掌しながら、悲愴な顔で、外を眺めている。
車に乗って、少し進むと、
「ここ真栄里地区には、栄里の塔がありまして、
そこには同じように、地元の住民が遺骨を収集され、
約12000柱祀られています」
「それなら比嘉さん、この辺りは、死体だらけだったんでしょうね。
この景色からは、想像もできませんね」
「それで慰霊碑が多いんだな、な、ゴリ」
「大田さん、ずゐせんの塔の道を、海岸の方へ進みますと、
米須原というところがありまして、『平和創造の森公園』があります。
この地区も、米軍に追い詰められた日本兵と住民が、
海と空と地上から総攻撃を受けまして、屍が累々としていたそうです。
この米須原の地に、終戦の翌年の1月、米軍は、
真和志村民を、食糧増産のため移住させ、開墾にあたらせました。
当時はまだ、遺骨が散乱していましたので、
遺骨の収集を願い出ましたが、米軍は当初、慰霊の祭祀が、
反米感情等につながるのを恐れ、許可をしませんでした。
ところが開墾にあたり、次から次と遺骨がでてくる有様で、
再三の願い出により、やっと許可がでました。
その時、村長として、住民を説得して、
遺骨収集を進めたのが、小学校の校長をされていた、
金城和信(=きんじょうわしん)先生だったのです。
集められた遺骨は、35000体にものぼり、
2月に魂魄(=こんぱく)の塔と自ら名付けられ、
軍人、民間人、敵味方、国籍を問わず、祀られました。
この魂魄の塔が、沖縄での最初の慰霊塔となりました。
金城和信先生は、お嬢さんを二人、
ひめゆり学徒隊で亡くされていまして、
お嬢さんたちの足跡を探している中で、
今のひめゆりの塔の下にある、第三外科壕を発見されたのです。
そこでも学徒たち等の遺骨を収集され、
自らひめゆりの塔と名付けられ、墨書されました。
金城和信先生が『ひめゆり』と書かれた慰霊碑は、
今の慰霊碑の右手前にひっそりと残っています。
これが2番目の慰霊碑です。
「あ、私見ました。
石碑にひらがなで『ひめゆり』と書かれていた、
小さな石碑でしたけど。
あれが亡くなられた学徒隊の、お父様の書かれた、
最初の慰霊碑だったのですね。
今度来たときには、お父様もご一緒にお祈りさせて頂きます」
「そうです。
そして、その年の4月に初めて慰霊祭が行われました。
金城先生は続いて、沖縄師範の、
鉄血勤皇隊が自決した壕の近くに、
沖縄師範健児の塔を建立されました。
これ以降、各地に慰霊塔が建立されていったのです。
沖縄の戦後は、遺骨収集から始まっているのです。
遺骨の収集は、今でもまだ続いています」
「それじゃあ、沖縄の戦後は、まだ終わっていませんね。
俺は今度は、沖縄師範健児の塔にお参りしたいな。
いいだろジャンヌ」
「もちろんよモンチ。
私もお参りしたいわ。
女学生だけじゃ、片手落ちになるものね」
「ジャンヌ俺は、金城先生が初めて遺骨収集された、
魂魄の塔にお参りしたい」
「うんうん。オズ私も」
「みなさん嬉しいこと仰いますね。
そういえば大橋さん。
魂魄の塔には、晩年を遺骨収集に捧げられた、
金城先生の遺徳を讃えて、先生の胸像が建っていますよ」
「え、そうですか!
それなら金城先生にお会いできるのですね。
次に来る楽しみが増えました。
比嘉さん、ありがとうございます」
「いえいえ。みなさん。
今通ってきた真栄里には、この地で前線を視察中に亡くなった、
バックナー司令官の慰霊碑があります」
「バックナー司令官というと?」
「あ、大田さんもご存知ないですね。
沖縄戦の、米軍の最高司令官だった人です。
これがまた、日本にとって、というか、
沖縄にとって、惜しい人を亡くしてしまいました」
「比嘉さん、沖縄にとって惜しい人とは、
どういうことですか?」
「バックナー司令官は、アメリカ南部、ケンタッキー州の生まれで、
父は南軍の将軍として活躍しました。
司令官が生まれた時は、父はケンタッキー州知事だったそうです。
軍人としてのキャリアのなかで、ウエストポイント、
アメリカの陸軍士官学校の教官や校長まで務めた、
教育者でもあり、高潔な人柄で、みんなから慕われる、
人格者でもあったのです。
バックナー司令官は、沖縄侵攻の数か月前から、
投降のビラの準備をさせていました。
これは、心理作戦でもありました。
バックナー司令官は、当初から、
民間人と軍とを分離させて戦いたいと考えていました。
6月10日には、糸満あたりまで侵攻し、
日本軍を南部に追い詰めたところで、
すでに勝利を確信したと思います。
そこで、日本軍に降伏を勧告すべく、
直ちに日系兵士を司令部に呼び寄せ、降伏勧告文を、
バックナー司令官自ら起草し、日本語に翻訳させました。
6月10日、牛島司令官宛てに、この降伏文書を発信します。
同時に文書にもして、空からも投函されました。
日本軍からは、なんの反応もなく、12日、
同様の投降勧告の文書3万枚を散布し、
同時に投降ビラを20万枚散布しました。
投降ビラは、住民・兵士が潜む海岸沿いを中心に、
壕にもビラを大量に投げ込みました。
艦艇から海岸へ向けて、拡声器を使っての、
投降の呼びかけも実施しています。
また、バックナー司令官は、日系兵士を集めて、
特に沖縄出身者には、沖縄方言で、
がまに立てこもっている兵士や民間人に対しても、
投稿を呼び掛けさせていました。
又、『ヘルプ』と言ったら絶対撃つな、
という命令を徹底させました」
「そうだったのですか。
たしかにいい人みたいですね。
それで、投降ビラの効果はあったのですか?」
「大田さん、日本兵には、戦陣訓で、
『生きて虜囚の辱めを受けず』の教えが徹底されていましたから。
なかなか効果の方は、でも12日から17日までに、
300名弱の軍人が投降して捕虜になったそうです。
それが、バックナー司令官が亡くなってから、
米軍の対応が一変します」
俺は思わず身を乗り出して、
「え、どうなったんですか?
司令官はいつ亡くなったんですか?」
「米軍は、6月17日に、
国吉や真栄里地区の日本軍を制圧しました。
この戦闘で、日本軍の組織的な抵抗は終わりました。
翌日の18日に、バックナー司令官は、
真栄里に視察にやってきました。
前日に制圧されたばかりの、最前線への視察だったのです。
部下たちからは、まだ危険だから、
視察を止めるよう進言されても、聞き入れなかったそうです。
それでも、ヘルメットだけは、
一般兵士用のに替えることは、了承したみたいです。
真栄里地区に、小高くなってる場所があり、
そこに上がって眺めていたそうです。
バックナー司令官の視察は、
日本軍の砲兵隊にも識別されていまして、
ジープが数台停まって、将校たちが視察しているのが、
双眼鏡で確認されました。
砲兵隊は、そこに標準を定め、砲弾を発射しました。
午後1時15分頃だったそうです。
砲弾は、バックナー司令官の、近くの岩に当たって炸裂し、
飛び散った破片と岩石が、司令官の胸を直撃しました。
司令官は、現場で緊急手術を施しましたが、
10分後には息をひきとったそうです。
アメリカ軍で、司令官では最高位の戦死という、
前代未聞の出来事だったそうです。
放った砲弾は、アメリカ軍が持ち帰りましたが、
後に、砲撃を命じた日本軍の隊長が、
アメリカに返還を求め、返還され、
今は靖国神社に収められているそうです。
日本軍に対して、降伏を勧めるなど、
温情を示していたバックナー司令官の死亡は、
米軍を怒り狂わせました。
翌19日から、それまでの、投降を促す対応から、
180度方針転換されました。
米軍の全軍挙げての猛攻撃が始ったのです。
高女学徒隊も、19日の明け方、
ひめゆりの塔の真下にある、第三外科壕にガス弾が投げ込まれ、
生徒35名、教職員5名の他、
軍医、看護婦等多数が亡くなったのを皮切りに、
沢山の学徒たちが命を落として行きました。
司令官を殺された米軍は、復讐心に燃えさかり、
復讐の鬼と化しました。
それまで日本では、鬼畜米英と呼んでいましたが、
その仕業は、まさに鬼畜米兵となってしまいました。
特に、司令官が亡くなった、
真栄里地区や、隣の国吉地区への報復攻撃はすさまじく、
米軍は、バックナー司令官の視察が、
付近の住民の通報や協力によって、
砲撃されたと思い込んだのでしょう。
この国吉地区では、投降した民間人も、
男性は皆、銃殺されたりしましたから。
村の人口約470名のうち、
半分の200名以上が亡くなりました。
一家全滅の家も多数でまして、
いまだに無人の家が点在しています」
「え、アメリカの軍隊って、
キリスト教の国の軍隊なのに、
そのような残虐なこと、行ったのですか?」
「ジャンヌさあ、戦うときは、
キリスト教も仏教も関係ねえよ。
相手は復讐に燃え盛って、
すっかり理性を失ってしまってるんだから」
「そこが戦争の恐ろしいところだよ。
平和な時には考えられない、
恐ろしいこともしてしまうのさ」
「そうね、だから戦争は、してはいけないのね。
オズやモンチの言うように、
人間が、人間でなくなってしまうのね」
ジャンヌは合掌しながら、
「それでは比嘉さん、
国吉でお亡くなりになられた方は、
先程仰られた、萬魂の塔に、供養されているのですね」
「そうです。
今日は、女子学徒のお参りだけかと思いまして、
ご案内しなかったのですが……」
「いえ、お気になさらないで下さい。
今度来るときに、そういった慰霊塔も、
お祈りさせて頂きますね」
「そうですか、亡くなった御霊たちも、
さぞかし喜ばれるでしょう」
「ジャンヌ俺もお祈りしたい。
悲惨だよな」
「みなさん、悲惨な話の最後、
続けてもいいですか?」
「はい、お願いします。
俺たち、聞いておかないと。なあ」
ゴリが後ろを振り向いた。
ジャンヌは頷きながら、
「比嘉さん。お話し続けて頂けますか」
「そうですか、それでは。
日本兵も民間人も、みんな逃げ場を失って、
海岸沿いに追い詰められました。
海と地上から、人の気配のするところは、
砲弾や銃撃が雨あられと降り注がれ、
日本軍民間人見境なく殺されました。
ですから海岸沿いは、死体だらけだったそうです。
6月23日の、牛島司令官の自決と、
司令部の崩壊によって、やっと米軍も、
殺戮の鉾を収めました。
その日から、再び投降作戦に転じ、
日系兵士による投降の呼びかけもあり、
軍民問わず、続々と投降していきました」
「そうだったんですか。
なるほど。
バックナー司令官の死によって、
多大な犠牲者が出たんですね。
比嘉さんのお話しで、よく解かりました。
確かに惜しい司令官でしたね」
「ジャンヌさあ、バックナー司令官も、
自分の死後、米軍が、自分の思いに反して、
住民も含む、大量殺戮は、非常に不本意だったろうにな」
「そうね。オズの言うとおりでしょうに」
比嘉さんは、車を端に寄せて停めると、
ドアのポケットから、ビニールファイルをめくると、
「あ、ありました。
これがバックナー司令官が発した降伏勧告文です。
どうぞご覧になって下さい」
ゴリがファイルブックを手渡された。
「これ、私のガイドのアンチョコなのです。
今までに、かつて沖縄戦を戦った方々も、
沢山乗せてきて、いろんなお話を聞いてきましたから。
それから新聞の記事とか……」
「ゴリ、読んでみてよ」
降伏勧告
敬愛する第32軍司令官 牛島満中将閣下へ、
衷心より降伏を勧告いたします
① 貴殿の部隊は、勇猛果敢によく戦かわれました。
又、貴殿の指揮ぶりには、我々の賞賛するところであります。
② 貴殿と私は、軍歴において、その長きにわたり、
歩兵の戦術を学び、研究し、研鑽を重ねてきた、
同じ歩兵畑の将帥として、密かに心を寄せてまいりました。
しかるに、貴殿の軍隊は今、悲惨な状況に置かれ、
援軍の望みのないことは、ご承知の通りです。
ゆえに、日本軍の敗北は、もはや時間の問題と考えます。
これ以上の抵抗は、大部分の将兵を失うことになり、
このことは、貴殿も御承知の通りです。
③ 現在、我が米軍は、沖縄本島全域をほぼ押さえ、
既に、日本本土への空爆基地として活用されています。
貴殿の使命は、日本本土防衛のため、
本島の航空基地の使用を阻止することと考えますに、
既に貴殿の役割は終わっておられます。
これ以上の抵抗は、本土防衛上無意味であり、
終戦後、日本の再建を担うために、最も必要とする若者たちを、
無駄に死なせてしまうことになります。
④ 指揮官たるものは、
常に部下の将兵の幸せを考えねばならぬことは、
歩兵の将帥として、貴殿は理解されておられると思います。
既に勝敗が決定されている戦においては、
将兵の命を救うことが、将帥の執るべき使命でもあり、
尊敬に値するものであると考えます。
⑤ 私は、勝利を確実にするまで、攻撃の手を緩めません。
しかしながら、我がアメリカ合衆国は、世界の民主的で、
人道的な文明国の一員として、
勝敗の決している戦において、
相手をせん滅させることは望みません。
よって、貴殿は直ちに休戦の交渉に入るべきと考えます。
⑥ 既に私は、貴殿と交渉する準備を整えております。
交渉には、下記のように対応願いたい。
本書面を受け取られた翌日の、午後6時に、
貴殿の陣地内の、最も西海岸に近い場所で、
地上及び空からよく見えるように、白旗を大きく掲げて下さい。
同時に、6名以下の代表者を寄こして下さい。
代表者は、直ちに我が司令部に案内し、
そこで名誉と秩序をもった休戦案を提案いたします。
又、貴殿からの提案は、貴殿の名声及び、
階級を尊重した取り扱いをいたします。
⑦ 貴殿は、日本の戦国時代に、落城の前に、城兵を救うために、
城主がとった行為を想起する必要はありません。
貴殿は、人道的に、将兵を救う道をとるべきと考えます。
⑧ 尚、この電文の公式の書面は、英文によるものです。
1945年6月10日
第10軍司令官 サイモン・バックナー
第32軍司令官 牛島満中将殿




