海を目指して
こんなことしている場合ではないことは僕が一番よくわかっている。
そんな気がする。
現実を直視することなんてできない。
そこには希望のかけらすらないから。
そこにストーリーは流れる。
四苦八苦。
なぜゆえに僕たちは生きているのだろう。
生まれてきたのだろう。
意味なんてない。
年老いても若くないもない彼の視線の先にはなだらかな下り坂が延々と伸びている。
ため息が漏れる。
それは深呼吸に失敗した時のような苦しげな音漏れだった。
彼はその坂を下っていく自身が無かった。
天井を伝う照明の電源を見つめる。
卓上に転がる携帯電話の点滅と振動が暴力的に彼の注意をひきつける。
「ねえ。私、海に行きたい」
「海か。でも明日の天気予報、傘マークがついていたけれど」
「それでも私は海に行きたいの」
いつだって彼は彼女に反論できなかった。
二人の間には何らかの力学が生じている。
鎌倉時代の神風がいつだって時宗の味方をするように、それはいつでも彼女を支持するようだった。
窓の先に広がる空に雲は一かけらもなかった。
梅雨の天気予報は一年の中で一番難しいという話を前に聞いたことがある。
そもそも昨日の天気予報は雨だったのだろうか。
その問いかけに対する明確な回答を持ち合わせていない彼は、眠りに落ちようとする意識をなだめながら洗面台へと向かう。
彼は丁寧に髭を剃り、それからサングラスをかけて家を出た。
彼はステアリングを握り、隣に彼女が腰かけている。
彼女はルーフに備え付けられたサンバイザーを下ろし、そこに備え付けられた鏡で化粧の乗り具合を確かめながらスピーカーに耳を傾けている。
二人が住む町に海はない。
そのかわりに歴史と大学が大量に存在する町だ、二人は地方から進学する為にその街に移り住み、そして出会った。
それから七年の月日が流れた。
二人がお互いに興味を失うのに七年の月日が必要とされた。
そう言い換えてもいい。
彼は両腕をステアリングに添えている。
左手は小刻みにそれを叩いている。
「智は海に行きたくないんだ」
「そんなことはない」
彼は慌てて言葉を返した。
すでにそれが手遅れだということに気付きながら。
「嘘つき」
彼女の言葉は刺すようだった。
カーラジオからはキリンジのエイリアンのメロウな旋律がながれている。
それは愛し合う二人のための音楽だった。
沈黙は重く車内は妙な静けさで満ちている。
中古のアルファロメオは不機嫌そうな低い振動を立てながら高速道路を抜けて県道に出る。
あと20分もすれば目的地に到着するとナビ上には表示されている。
このようなタイミングで喧嘩をするのは非常にまずいと彼は考えた。
彼女の正確ならここで車を降りて帰ると言い出しかねない。
彼は四方に拡散している意識の標準を彼女だけに集約しはじめる。
「そうじゃなかった」
彼女は全身の力を失うようにシートにもたれかかる。
その仕草から深い落胆がにじみ出ている。
「それはどういう意味?」
「海に興味がないのじゃなくて、智は私に興味がないのよね。それだけ」
「それは違う」
「違わない」
彼女は苛立たしげに顔を背ける。
車の速度が落ちてゆく。
ボンネットの下から乾いた音が聞こえる。
彼女が彼に何かを語り続ける。
全てを終わりにしたかった。
車が白煙を吹き上げはじめてようやく彼は車を止める。
白煙をあげるエンジン。
焼けるような暑さのお陰でボンネットを開けるのにも工夫が必要だった。
やがて彼はボンネットを覗き込むのをやめ、ロードサービスに電話をかける。
彼は全ての動作を丁寧に行った。
そうしないと右足の骨が折れるまで車を蹴り飛ばしたいという衝動に負けそうだった。
携帯をポケットにねじ込み、男は空を見上げる。
太陽は天頂からアスファルトを焦がしている。
彼は車に戻り彼女に事の顛末を伝える。
彼女は静かに頷いて車を降りる。
じりじりと汗は染み出し額を伝ってから地面に黒く染める。
二人は無言のままにレッカー車を迎え、そして見送った。
「ごめん」
「どうして智はそうやってすぐに謝るの?」
彼はもう一度謝りかけて言葉を止める。
「もう嫌。こんなこと。私が智を責めて。智が私に謝る。」
「咲は悪くない」
「そんなこと言われなくても知っているわ。それでもいつも嫌な気分になるの、智の気持ちとか私の気持ちとか考えると。それが嫌なの」
苛立たしさを押し殺すように発する穏やかな口調で彼女はそう言い、
「もう私たちだめなのかもしれないね」
彼女はそういってから口を閉じた。
(もう私たちだめなのかもしれないね。)
彼女が口にした最後の一節は乾ききっていた。
なにも考えられないほど無性に腹が立ってくる。
自分自身の情けなさと彼女に対する腹立たしさがないまぜになった腹立たしさだった。
それは多分、彼女に初めて出会った時に抱いた感情を思い出させた。
それにしても蒸し暑い。
彼にとって人生史上最低の一日だった。
蝉の不快な不協和音が聞こえないことがせめてもの救いだった。
「どこに行くの」
彼女が彼の背中に声をかける。
彼は彼女をおいて歩き始めていたのだ。
そして彼は振り向く。彼女をまっすぐに正面から見つめ、口を開く。
「海だよ」
県道を走る車が二人の横を通り過ぎるたびに二人は熱風に吹かれた。
二人は今、坂道を下っている。
道路標識によると、この県道を下りきれば国道に出るらしい。
そしてそこに海が広がっているはずだ。
二人の間に会話はなかった。
すでに気力は底をついていた。
彼らを前進させるのは二人の純粋な意思のみだった。
緑の多い道はやがて住宅地に変わり、道の傾斜が緩やかになっていく。
さらに進むと大きな商業ビルも遠目に現れ、電車と線路の摩擦音さえ聞こえてくるようになった。
歩き続けるうちに視界の透明度が増してゆくような感覚を覚える。
不機嫌そうに隣を歩く咲の横顔さえも愛おしく思える。
それは彼が初めて知る類の心地よさだった。
「なあ」
と彼がいう。
「なぁに」
と彼女が尋ねる。
「俺さ、やっぱり咲がすきなんだ。だから、できればこれからも一緒にいたい」
彼は祈るような目で彼女を見つめた。
彼女が大きくため息をつく。
そこに僅かな空白があった。
それは彼にとって今まで味わったことのない重厚な空白だった。
そして彼女が口を開く。
「わかりきったことを今更言うのね」
「そこは私も智のことがやっぱり好きなのとか言おうよ」
「本当に大事な言葉は本当に大切な時まで取っておくものでしょ」
彼女はつんと前を向く。
そして抑揚を欠いた声で彼に話しかける。
「智はあくせく働くの。私のために」
「まじで?」
「そして私に尽くすの」
「ごめん、さすがにそれはお断りする」
彼女が立ち止まる。
つられて彼も立ち止まる。
向き合う二人。
そして彼女が口を開く。
「私の話を最後まで聞くの?止めるの?」
「聞くのだろうね俺は」
「私が怒って、あなたが謝るの」
「うん」
「それでまた私が怒る」
「うん」
「そんなやり取りが本当に嫌になるまで繰り返されるの」
「うん」
「私はあなたから離れることを考える」
「うん」
「そこまで追い詰められてようやく、私はあなたから離れられない確かな理由を思い出すの」
言葉の最後に歓声が混じる。
それは注意していないと聞き逃してしまいそうなほど、か細い喜びの声だった。
それにつられるように彼は咲を見つめ、彼女の視線の先を辿る。
海だ。
海が見えた。
最初に駈け出したのは咲だった。
そして彼もかけていく。
それが彼の役割だった。
これまでも、これからも。