月夜の出奔(挿絵あり)
(そろそろ時間ね……)
カトリア王国の首都ルーンヴィルの中心に位置するオルベール王宮。その西翼棟にある自室で、カトリア王国第二王女にして第四位王位継承権者、パルフィ・アマリア・カトリアートは、予定より少し早く目を覚ました。まだ夜明けまでは間があるために、部屋の中は暗く、薄ぼんやりと灯る小さなランプが、王女たる自分の豪華な寝室を照らしているだけである。
本来なら、まだぐっすり寝ている時間である。しかし、今日これからの事を考えると、胸が高鳴り、眠気は一瞬で消え去った。すぐに、天蓋付きの巨大なベッドから抜け出すと、裸足のままふかふかの絨毯を窓まで歩く。カーテンを少しめくって窓の外を見ると、満月がすでに中天を降りかけていた。
約束の時間までにはまだ少しある。
パルフィは、カーテンを元に戻し、そのまま急ぎ足で、寝室に隣接する衣装室に入った。衣装室といっても、王女のために作られた部屋である。中は広々として華麗な装飾が施され、一体どれだけの衣服が収納されているのか分からないほど様々な棚やクローゼットが壁に沿って立ち並んでいた。
普段、自分の着る服は侍女が取り出して、自分はこの部屋で着せてもらうだけなので、パルフィ自身は直接衣装を取り出す機会は少ない。しかし、部屋の主として、ある程度はどこに何が収納されているのかは知っている。何度か見当違いの引き出しや開き戸を開けたあと、お目当ての服をいくつか引っ張り出して着替えた。
そして、寝室に戻り、ベッドの脇を通って、今度は反対側のドアから、自分の書斎兼居間に入る。ここもまた王女にふさわしく、豪華で大きな部屋であった。奥には、復古調の書斎机が窓を背に置かれ、部屋の中央にはテーブルとソファ。そして、いくつかの棚には、彫刻が並べられていた。壁と高い天井には美しい装飾が施され、天井から吊り下げられたシャンデリアには、いくつかのろうそくが常夜灯として灯されており、その光で装飾自体も揺らめいていた。
だが、そんな幻想的に見える光景も今のパルフィにはまったく目に映らない。すぐに書斎机に向かうと、引き出しから封筒を取り出して、すでに書き終えている手紙を確認する。
(お父様、お母様、パルフィはしばらく修行の旅に出ます。親不孝な娘をどうかお許しください。もっと修行を積んで、立派な幻術士になって帰ってきます。どうか、それまで探さないでください……)
何度か読み返し満足すると、手紙を封筒に戻し、封をして机に置いた。
そして、手元の呼び鈴を鳴らす。
チリンチリン
さほど大きい音ではないが、すぐに、次の間に続く扉を軽くノックする音が聞こえ、カチャリとドアが開いた。
「夜分に失礼いたします。姫さま、いかがなされましたか?」
お仕着せの侍女の服装で入ってきたのは、パルフィより数才上の若い女性であった。夜更けというのに寝ていた様子もなく、時間をはばかってか声を潜めてはいるが、にこやかな表情である。
だが、パルフィが完全外出モードで着替えているのに気がついたようで、すぐに顔を曇らせた。
「姫さま、もしかして……」
「ああ、クレア、そうよ。ちょっと今夜もまた幻術の練習に行きたいの。付き合ってくれる?」
それを聞くと、一瞬、クレアは心配そうな、そしてなぜか悲しげな表情になったが、すぐに微笑んだ。
「またでございますか。今宵は少々気温も低いようですし、風も強ようございます。朝になされましては?」
「いいのよ。どうしても復習したいことがあるのよ。それに、すぐに済むわ。何回か呪文を掛けて練習するだけだから」
「さようでございますか。それでは、お供いたします」
「こんな夜更けにすまないわね」
「滅相もございません。姫さまにお仕えするのが勤めでございますから。では、今日はもう少し温かい格好をご用意しましょうね。裏張りのあるガウンがございましたでしょう。いま、お持ちいたしますわね」
クレアは、そのまま衣裳部屋に行き、真紅の豪華なガウンをを抱えてやってきた。そして、それをパルフィに羽織らせる。
「ありがと。じゃあ、行くわよ」
「かしこまりました」
パルフィはクレアを従えて部屋を出て、しんと静まり返る王宮内をひたひたと歩く。王宮の中でも王族の居住区に当たるところは分厚い絨毯が敷き詰められているため、足音もしない。パルフィもクレアも無言で、ただ衣擦れの音が聞こえてくるだけだ。等間隔で壁に取り付けられた小さなランプが灯っているので、この時間でも歩くのに支障はない。
長い回廊を歩いていると、時折、当番の小姓や他の侍女とすれ違う。彼らは、この時間に王女の姿を見て驚いたようだが、すぐに壁際に寄って丁寧に礼をする。パルフィはそれに鷹揚に頷きかけ通り過ぎる。
一階に下りて、いったん中庭に出たあとそこを通り抜け、西の通用門から広大な外庭園に出ようとしたところで、門の警護に当たっている当直の兵士たち三名ほどに出会った。
兵士たちはパルフィを見ると、すぐに直立不動の姿勢になり、右手を胸に当て頭を深く下げて礼をする。
「姫さま、今宵もお出掛けでございますか」
かぶとに房飾りのついた、位の上のものらしい一人がパルフィに声をかける。パルフィは兵士たちの身に着けている鎧が、自分直属の親衛騎士団のものだと気が付いて、兵士たちに微笑みかける。
「あら、今夜もあなたたちが警護についてくれているのね」
「はい。本来なら今夜は別の騎士団が当直の予定でしたが、変更があったそうで、今晩も私どもが警護のお役目をいただいております」
この兵士たちにとっては、パルフィは王女であるだけでなく、自分たちの直接の主でもあり何度もそばで仕えている。その態度は恭しく、言葉遣いも至極丁寧であったが、親しみのこもったものであった。
「そう、それはご苦労様。じゃあ、門を開けてもらえるかしら」
「かしこまりました」
これを聞いて、すぐに他の兵士が門に駆け寄り、扉を開け放つ。ギギギと鉄製の扉が開かれる音が辺りに響く。王宮は丘陵地の上に建てられており、門の向こうはなだらかに下る道が続いていた。
「それでは、我らもお供つかまつります。殿下のご守護に一個小隊を連れてまいりますので、今しばらくお待ちくださいませ」
「いいえ、今日はこのクレアだけでいいわ。あなたたちは、ここで待っていてちょうだい」
「恐れながら、なにぶんこの夜更け。王宮の敷地内といえども、お連れが侍女殿お一人だけでは、危のうございます」
「いいのよ、今日はすぐに終わるから」
「し、しかし……」
兵士は動揺したように口ごもった。いくら王女の命令でも、こんな夜更けに王女を侍女一人だけのお供で歩き回らせるわけには行かない。彼らがどうしようかと顔を見合わせたときだった。
「何事だ、騒々しい」
おそらく、門が開く音を聞きつけたのだろう、中庭の奥から、立派な鎧をつけた背の高い騎士が、兵士数名を引き連れて歩いて来た。
「だ、団長」
兵士たちは、その姿を見て安堵した様子を見せる。それは、親衛騎士団の団長を務めるティベリウスであった。20台半ばでこの要職を任されるとあって、精悍な顔つきと百戦錬磨の風格が漂っていた。
「おお、これは、パルフィ殿下。今夜もまた、修業でございますか」
ここは引き受けるとばかりに兵士たちにうなづきかけてから、パルフィに王女に対する礼をし、微笑みかける。現れたときの、まじめで堅物の印象を与えるような表情とは異なり、パルフィに対するその微笑は、意外な柔らかさと、そして親愛の情を感じさせるものだった。
「あら、ティベリウス、あなたもいたのね。ご苦労様。そうよ、ちょっと練習しようと思ってね」
「さようでございますか。では、また、お供つかまつります」
「そ、それが、団長、殿下は今夜は護衛は必要ないとの仰せで……」
「何と」
ティベリウスは、パルフィに何かを言おうと口を開きかけた。だが、その後ろで控えていたクレアが、ティベリウスに対して何かを伝えようとするような、目配せをした。それに気がついたのか、一瞬硬い表情を見せたが、すぐに何事もなかったかのように微笑んで、またパルフィに話しかけた。
「さようでございましたか。それでは、私どもはここでお待ちいたしますゆえ、御用があれば、お呼びください」
そう言って、ティベリウスは深々と頭を下げる。
だが、それを聞いた他の兵士たちが目を剥いた。
「だ、団長」
「し、しかし……」
「そ、それでは殿下の御身が……」
兵士たちは次々と懸念の声を上げたが、それも無理はない、ティベリウスたちはパルフィ直属の親衛騎士団であり、パルフィの安全が国王の守護よりも優先されるのだ。それが、この夜更けの外出に侍女のお供だけで行かせるとはあり得ない話である。しかも、数日前、パルフィが初めて深夜の修業に出かけると言ったとき、強硬について行くと言い張ったのは、実は、ティベリウス本人だったのだ。
だが、彼はそんな兵士たちの不安の声にも耳を貸さず、
「王女殿下。くれぐれも、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
と言って、マントを翻し片膝を地面につけ、王女に対する正式な礼をした。それは、単に王宮の敷地内で練習するのに出かけるだけにしては、やや仰々しいものであった。そのため、このティベリウスの振る舞いに周りの兵士も驚いた様子を見せたが、団長自らが膝をついて礼をしているのに、自分たちだけが突っ立っているわけにはいかないと思ったのか、あわててティベリウスの後ろに膝をついて同じように頭を垂れた。
「我らは、パルフィ殿下の親衛騎士団、殿下がどこにおられようとも、必ずや参上しお守り申し上げる所存にございます」
「あら、ご丁寧にありがとう。いつも頼りにしてるわよ。じゃ、ちょっと行ってくるわね」
パルフィは、うなずきかけ、身を翻し、歩き出す。クレアも一礼していそいそとついて行った。
残されたティベリウスは、面を上げてパルフィを見つめた。
「姫さま。どうかご無事で……」
そうつぶやくティベリウスの声には、懸念と、そして寂しさの響きがあったのだった。
一方、西の門を出た二人は、クレアを先導役に、なだらかな道に沿って丘陵地を下っていた。左手には小さな湖、アルル湖が見える。満月の光を受けて湖面が美しく輝いているため、深夜にもかかわらず、湖の周りもぼんやりと明るかった。
だが、クレアはそれでも足元が暗いと感じたのか、呪文を唱えると鬼火を二つ出した。
火の玉は、クレアのそばをふわふわと浮き、辺りをオレンジ色に照らしながらまるでクレアとパルフィを案内するかのように先導していく。
カトリア王宮に勤める侍女は幻術のたしなみが必要とされていた。この鬼火のような実用的な目的と、いざとなったときに、国王一家を守る最後の盾として務まらなければならない。クレアも、ランク2相当の術が使えるのだ。
この数日間、パルフィは夜更けにこのようにして、幻術の練習と称して王宮を抜け出していた。初日は、このような深夜にうら若い王女が徘徊するなどもってのほかということで、クレアも難色を示し、ティベリウスもついてくると言い張り、結局、数十人が付き従う大事になった。
カトリアは隣国アルトファリアとは異なり、小国でしかも、まだ新しい国である。それほどしきたりなどが厳しいわけでもなく、どちらかというと諸国の宮廷に比べて自由闊達な雰囲気であったが、それでも、王女が深夜にろくに供回りも連れずうろつきまわるのは感心しない行いではあった。
しかし、同時に、カトリアは幻術の国でもあり、カトリア王家はその元締めのようなものであった。カトリア王家は、代々幻術士の家系である。というよりも、千年以上も前に希代の幻術師が興した家系であった。そのため、アルトファリアから独立し、カトリア王国を建国した後も、王族は幻術士としての訓練を積むことになっていたのである。
幻術の技には月の光を要するものも多々あるため、月夜に幻術の練習を行うのは、実際には珍しくない。このこともあって、パルフィの深夜の徘徊も、「幻術の訓練」と言えばそこまで不審がられることもなかったのだ。
とはいえ、この数日間にわたるパルフィの『深夜の修行』は、幻術の訓練が目的でなどありはしなかった。その本当の目的、それは、今夜、今ここでカトリアを出奔するための準備だったのだ。
数日前から練習と称して深夜に王宮を抜け出しては、すぐに戻るということを繰り返していたのは、周りを油断させるためだった。その甲斐あって、二、三日前から、心配性のうるさ方、これは、主にクレアとティベリウスのことだったが、も反対しなくなり、今日に至っては、クレアだけで出て来れたのだ。
(これなら、うまく行きそうね……)
家出の最大の障害になりそうな、ティベリウスたちを置き去りにすることに成功して、パルフィは安堵していた。さすがにランク1の腕前で、百戦錬磨のティベリウスと親衛騎士団の精鋭たちを出し抜いてこの国から出られるとは思ってない。そのための下準備であったのだ。あとは、このクレアを振り切って、約束の場所に行くだけだ。
だが、そうはいっても、まだ油断はできない。自分がランク1の幻術士であるのに対し、クレアはランク2である。この後も慎重にことを運ばないと、たくらみが露見してしまう。万が一、手間取って、ティベリウスたちが駆けつけるようなことにでもなったら、それこそ、これまでの苦労が水の泡である。
「姫さま、また例の東屋でよろしゅうございますか?」
先導していたクレアが振り返って、尋ねる。ここまでの進み具合とこれからの段取りに没頭していたパルフィは我に返った。
「あ、ええ。そこでいいわ」
「かしこまりました。ご案内いたします」
丘陵部を下ったところ、湖のそばの少し小高くなったところに来ると、屋根だけで壁のない東屋があった。だが、外庭園にしつらえた眺望用の東屋とはいえ、大理石や黒曜石をふんだんに使った比較的大きく立派なもので、屋根の下には湖や周囲の景色を楽しむことができるよう、床を囲むように長いすが備えられていた。
そして、ここからは湖がよく見える。湖面が月の光を反射して美しくきらめいていて月光を使う術を練習するにはうってつけの場所であった。しかも、約束の場所からも近い。パルフィはこの数日、ここで練習していたのだ。
「じゃあ、クレア、あなたはそこに座って待っていてね」
「かしこまりました。それでは、失礼いたします」
クレアは、丁寧に礼をすると、長いすの一つに腰掛け、パルフィの練習を見守る。
パルフィは、東屋から少し離れたところに立って早速練習を開始した。もちろん、これも見せかけではあるが、きちんとやらないと怪しまれる。パルフィは真剣に呪文を唱え、次々と術を繰り出した。
しばらくして、頃やよしと見たパルフィは、クレアを振り返った。
「ねえ、クレア、ちょっと、後ろを向いていてくれる? 秘術を使うから誰にも見られたくないのよ」
「かしこまりました」
クレアは長いすに座って、パルフィの様子を見ていたが、その言葉に体をずらして反対側を向き、パルフィに背を向けた。背を向けさせられることに何の疑いも抱いていないようだった。
「これでよろしゅうございますか?」
クレアが背中越しに、パルフィに確認する。
「ええ。それでいいわ……。えいっ」
パルフィは、呪文を唱えて、全くの無防備なクレアの背中に向かって、右手の人差し指を突き出した。その瞬間、一条の光が指先から放たれ、クレアに直撃し、体全体が一瞬淡い黄色の光に包まれた。そして、クレアは、物も言わず、力が抜けたかのように体をぐらつかせ、やがてドサッという音と共に長いすに倒れ込んだ。
パルフィは、すぐにクレアに走り寄り、呪文の効果を確認する。クレアは、目を閉じてすうすうと穏やかな寝息を立てていた。パルフィは、催眠呪文をかけたのだ。自分よりランクの高いクレアに呪文が効いていることに安心して、張り詰めていた気を緩める。これで、もう自分を引き止める者はいなくなったのだ。
「……クレア、ゴメンね。ホントはあなたにこんなことしたくなかったんだけど……。朝までここで眠ってて」
パルフィは、クレアをかかえてもう少し楽なように長椅子に寝かせてやる。
クレアは、パルフィのお気に入りの侍女だった。幼少の頃から常に親身になって自分に仕えてくれているのを感じていたし、身分をわきまえながらも、ダメなものをダメだときちんと意見してくれ、王女としての勉強がいやになって落ち込んだときも励ましてくれた。そして何より、気が合った。このため、パルフィはクレアに多大な信頼を置いていたのだ。そのクレアに、害はないとはいえ、背後から催眠呪文を撃ったことに罪悪感を感じながら、自分のガウンを脱いでクレアにそっとかけてやり、クレアのそばにしゃがんだ。
「しばらく会えないけど、元気でね、クレア。今まで、ありがと」
胸に合わせてやったクレアの両手をぎゅっと握りしめ、そう告げると、パルフィは立ち上がり、湖に向かって走っていった。
後には長いすに横たわるクレアが残るのみである。
だが、パルフィが去った直後、催眠呪文をかけられたはずのクレアに不思議なことが起こった。閉じた目からあふれんばかりの涙がこぼれてきたのだ。同時に、押さえようとして押さえきれないような嗚咽の声がクレアから漏れる。
「うっ、ううう……」
そして、クレアは我慢できなくなったかのように目を開け、半身を起こした。
両手で涙をぬぐいながら、周りを見渡し、すでにパルフィがいないことを確認し立ち上がる。その弾みで、かけられていたガウンがずり落ちそうになるのを受け止める。前方を見ると、月の光の中、走っていく人影がかすかに見える。パルフィだった。
「姫さま、邪魔をするなと申しつけていただければ、わざわざこのようなことをなさらずとも……」
クレアは、パルフィの呪文には掛かっていなかったのだ。そして、あえて掛かったふりをしたのだった。
侍女の中でクレアだけは、このようになるかもしれないと、数日前に国王から直々に聞いていたのだ。そして、その際は無理して引きとめず、パルフィを行かせてやるように言われていた。
この数日間、パルフィは毎日この時間に幻術の練習に出かけていたが、普段どおりに自分が服を取り出して寝間着から着替えさせていた。しかし、今日だけは、自分がパルフィの居室に入ったときには、パルフィは完全に着替えていて、何か決意に満ちた顔つきをしているのが見て取れたのだ。そして、その瞬間、パルフィが今日カトリアを出るつもりであることが分かったのだ。
また、親衛騎士団のティベリウスも事情を聞かされていたのは間違いなかった。だからこそ、パルフィと自分だけを行かせたのだろう。そして、なればこそ、あのような別れの挨拶をしたのだ。
どういう理由でパルフィが国を出ると決めたのかは知らない。しかし、一旦王宮を出る以上、長期にわたって帰ってこないだろう。自分が12歳で宮廷に上がったとき、まだパルフィは5歳だった。そのときから、パルフィ専属の侍女として毎日10年以上にわたって仕えてきた。この間、会わない日は稀に里帰りが許されるときだけで、ほとんどなかったのだ。家族と過ごすよりもはるかに長い時間を、自分より7つも年下の王女のそばで過ごして来た。クレアはパルフィのお気に入りの侍女であったため、どこに行くにも同行していた。そして、それがクレアの誇りでもあり、王女と侍女という身分ではあるが、心のどこかでは本当の妹のように深い愛情を感じていたのだった。だが、もう当分姿を見ることもない、次にいつ会えるかも分からないのだ。クレアは、ぽっかりと大きな穴が心に空いたような気がして、ガウンをまるでパルフィ本人であるかのように胸に抱きしめ、涙を流しながら、パルフィがかけていった、果てしなく続く外庭園の先を眺めていた。
「姫さま、どうかご無事で……」
そして、この成り行きを報告するために一人東屋を離れたのだった。
一方、パルフィは、広大な外庭園を急ぎ足で歩き、湖の反対側にある待ち合わせの場所に向かっていた。湖の周りを半分ぐらい回ったところで、約束の相手がすでに自分を待っているのが見えた。慌てて自分も駆けていく。
「先生。お待たせして申し訳ありません」
長い杖をついてパルフィを待っていたのは、幻術の師アルキタスだった。アルキタス老師は、幻術の国カトリアの中でも特に偉大な幻術師といわれており、パルフィの家庭教師として宮廷に仕えていた。幼少の頃から、パルフィの幻術の練習は全てアルキタスが取り仕切っていたのだ。
だが、当のアルキタスは、まるでパルフィにはここに来てもらいたくなかったかのように、顔を曇らせ、ため息をついた。
「殿下……。来てしまわれたのですな」
「ええ」
「出奔すれば、もう、そう簡単には戻れませぬが、それでもよろしいのですかな。せめて、次の満月を待たれてはいかがじゃろうか?」
アルキタスは、パルフィから家出の決心を打ち明けられ、そして、そのためにある呪文を唱えるように要請されていた。それは、あまりに巨大な力を必要とするため、老師といえども満月の光のエネルギーを必要としたのだ。つまり、今日を逃せば次の満月まで待たなければならないことになる。
「先生、あたし、もう決めたんです。今のままじゃここにはいられません」
「じゃが……」
「いいえ、先生。あたしは立派な王女になるために修行の旅に出るのです」
パルフィの決意に満ちた顔つきを見て、アルキタスは再び大きなため息をついた。
「さようか……もう、これ以上、お止めしても無駄のようですな。では、やむを得ませぬ。お望み通りテレポートいたしましょう。お覚悟はよろしいかな?」
「はい。いつでも」
「なら、まいりますぞ。行き先はアルティアでしたな?」
「ええ、……お願いします」
老師はうなずいて、二歩ほど後ろに下がってパルフィから距離を取った後、印を組んで呪文を唱え始めた。パルフィが淡い光の玉に包まれる。アルティアまでの距離をテレポートさせるのは相当な幻術の力が必要である。幻術の国カトリアにあって当代最高の幻術師と言われるアルキタスを持ってしても満月、しかも、近地点に近い満月の光が必要なのだ。
「先生、いままで本当にありがとう。あたし、あたし……行ってまいります」
だんだん透き通っていくパルフィ。
「元気で暮らしなされ。修行にも身を入れられるのですぞ」
「はい。先生もお元気で……」
パルフィは涙を指で拭いながら、うなずいた。
そして、淡い光が消えるのと同時に、パルフィの姿も消えてしまった。後には、満月の光に照らされて美しく浮かび上がる湖が残るのみである。
「……」
アルキタスは、しばらくの間パルフィの行く末を案じるかのような、不安げな表情で、パルフィが消えた空間を見つめていた。
そのとき、アルキタスの後ろで、別の強い光が球形状に発光した。
振り返ると、光が消え、ふたりの人影が現れた。テレポートして来たのだ。
それが誰かを確認し、居住まいを正す。
「これは、国王陛下、それに、王妃陛下まで。このようなところまでお越しにならずとも、いまご報告に参ろうと思うておりましたが」
現れたのは、現カトリア国王クロヴィス四世ならびに王妃のマリアであった。パルフィの両親である。
クロヴィスは年の頃は50才ぐらい、髪には白いものが混じり始めているが、がっしりした体つきで、聡明な目を持ち国王の威厳が感じられる。王妃マリアの方は、まだ50には達していないようで国王よりも若く見え、王妃としての気品の中にも愛情深さが感じられたが、おそらくこの一件が身に堪えているのだろう、やや悄然とした表情である。
ふたりは老師のところまで歩いてきた。
「いや、構わん。わしたちも影から見送りたかったのだ。侍女から報告を受けて、ここまでテレポートさせたのだが、遅かったようだな。あれは、もう行ってしまったか」
「は。今し方、アルティアにお送りしたところにございます」
「あの子は何か、言っていましたか?」
涙に潤んだ目で、王妃がアルキタスに尋ねる。
「いえ、特には。ただ、立派に修行して帰ってくると……」
「そう……、本当に困った子ね。家出などせずともよいでしょうに」
王妃がハンカチを持った手で目頭を抑えた。
「その通りだ、王女の務めも果たさず、出奔するとは、まったく……」
国王が深いため息をつく。
しばらく、誰も口を利かなかったが、ややあって国王がアルキタスに問いかけた。
だが、それは意外にもこの件とは関係のないものだった。
「アルキタス」
「は」
「あれは、果たして、覚醒を抑えることができるだろうか?」
「殿下にはこのことは……」
「ある程度のことは伝えてある。だが、覚醒したらどうなるかまでは、まだ伝えておらぬ」
「さようでございますか」
「して、そなたの見たてはどうなのだ?」
「そうですな。まだ、微かな兆しが見える程度でございますゆえ、2年、いや3年は、よほどのことがない限りは」
「そうか……、3年か、これはやはり短いと見るべきであろうな」
「覚醒を抑える、あるいは、覚醒しても暴走しない力を身につけるには、楽観はできぬかと」
「……そうか」
「あの子は、これからどうするつもりなのでしょう?」
王妃のほうは、3年後の問題よりも、パルフィの現状のほうが気になるようだった。
「伺ったところでは、アルトファリアでマジスタになられるおつもりとか」
「マジスタ……」
アルキタスの答えに、ややショックを受けたのか王妃は不安な表情で両手を握りしめた。
「マジスタか。それは良いかもしれぬ。命の危険には晒されるが、その分成長は速かろう」
「でも、あなた、パルフィは大丈夫でしょうか。そんな危険な仕事、あの子が危ない目に遭うのではないかと思うと、私は……」
「だが、あれにはできる限り成長してもらわなければならぬ。やむを得まい」
「御意。今の殿下に必要なのは、心技体の向上でございますれば、ある意味ではこれが最善かと」
「そう……。そうなのですね」
王妃も、これが一番よいのは分かっていたのであろう、それ以上反論することもなく、ただ、心配そうに、アルトファリアに続く空を見上げる。
「うむ。わしもそう思うて、今回の出奔を許したのだ。だが、あれもわが国の王女、本来なら密かに護衛をつけてやりたいところだが、悟られるであろうな?」
「殿下はカンの鋭いお方。しかも、いまはお力が低くとも、幻術の潜在能力は希代の幻術士と比べても遜色ございませぬ。間違いなくお気づきになられるでしょう」
「ならやむを得ん。あれには1人で頑張ってもらう他ないということだな」
「陛下、お言葉ではございますが、パルフィ殿下は1人ではございませんぞ」
「ん?」
「マジスタは通常数人のパーティーを組んで行動致すもの。おそらく、殿下も仲間を見つけられ、共に行動することになりましょう」
「そうか。そうであったな。それでは、いかにいい仲間を見つけられるかも大きいということか。だが、人を見抜く力は王族には必要な素養の一つ。アルキタス、たしかに、出奔しての修業は役に立ちそうだな」
その言葉にアルキタスはうなづいた。
「それにしても、解せぬ。なにゆえに国を出ようなどとと考えたのだ。あれも、王女としての教育は受けておるはず。国を治めるという神聖なる義務を放置して家出など、このような事情でもなければ到底許されることのない所業だ」
「殿下は、このままでは王女失格だと悩んでおられましたが……」
「何をいう、あれはあれで真面目に取り組んでおったではないか」
国王は腑に落ちぬという様子である。
「おそらく、何か深いお悩みがあったのかと存じます」
「何を悩んでいたのかしら……」
「それは、なんとも申し上げられませぬが、今回のご出立もそれが原因かと」
「まあ良い、それはまた連れ戻したときに聞くとしよう。今は、一刻も早く覚醒に備えてもらわねばならぬ。それにしても、内憂外患とは、まさにこのことだな。頭の痛いことだ」
国王が首を振った。
「外患……、またガーラントに何か動きが?」
「ああ、北方で村人が数人やられたという報告が入った。今月に入ってもうすでに5件目だ」
「彼奴らの狙いはやはり聖石でしょうな」
「うむ。それしかあるまい。奴らも、村人を数人殺すために、わざわざ神々の山脈を通ってこんなところまでは来ぬだろう。だが、このタイミングで、聖石を強奪しにくる以上、あちらも魔王の封印が弱まっていることを知っているはずだ」
「魔王の復活だなんて、恐ろしいこと……。もう何百年にもわたって何事もなかったのに」
王妃が両手でハンカチを握りしめる。
「ああ。ガーラントの奴らめ、大戦から数百年が経過して、まだ魔王の復活をたくらむとは、あきらめの悪いやつらだ。『聖石の管理者たち(ストーンキーパーズ)』の一国として、わが国も代々このような事態には備えては来たが、まさか、わしの代でこうなるとはな。まあ、これも天命と受け取るしかあるまい」
そういって、まるで、それが皮肉であるかのように、フッと笑った。
「まあいい。今は娘の話だ。アルキタス、パルフィにはしばらくは自由にさせておくが、また折を見て呼び戻すつもりだ。あれにも出席してもらわねばならぬ行事もある。そなたもそのつもりでいてくれ」
「は」
「それにしても、王女が家出とは、心苦しいことよ。娘を持つ親というのは、平民でも国王でも同じで、気苦労をするものだな」
そのころ、パルフィは、亜空間トンネルの中をひたすらアルティアに向かって飛んでいた。 半ば黙認される形で家出が成功したとはつゆ知らず、自分の計画がうまくいったことに安堵し、そして、ひとしきり、王女の身分で家出をしでかしたことに動揺や後悔を感じた後は、さっさと立ち直って、今度はしてやったという気持ちになっていた。窮屈な王宮暮らしを離れ、これから一人で生きていくことに、気が大きくなっていたこともあるだろう。
(もう少しなんかあると思ったけど、ちょろいわね。あたしがカトリアを出たと知ったら、お父様もお母様も驚くかしら。あたしとしては、むしろお兄様とお姉様の驚く顔も見たかったけど、ふふふ。まあ、しょうがないわ)
家族の驚き慌てふためくところを想像して、パルフィはニヤニヤしながら、亜空間を飛んでいた。
亜空間トンネルとは言っても周りは漆黒の闇であり、その中を浮いた状態で出口目指して飛んで行くのだ。
「この辺りね……」
そうつぶやいて、外を確認すべく、一旦停止して念を込める。するとなぜか自分の足元に穴ができて、そこから外の光が入ってきた。
(ああ、もう何やってるのよ)
こんな高度な呪文の制御など、ランク1の身の上でできるわけがないのだが、自分の目の前に穴を作るつもりだったパルフィは、足元にできた空間の穴に不満の声を漏らしながら、その場に浮いたまましゃがんで穴から顔を出した。だが、不満な気持ちも、その景色を見て吹き飛んだ。そこから見えたのは、美しいアルティアの街並みだったのだ。ちょうど丘の上に出たらしくそこから見下ろす形で、街が見えている。
(ここが、アルティアか……。へえ、けっこうきれいだわね)
これまでアルティアどころか、カトリアの外に出たことがなかったパルフィにとっては、これが初めての外国である。しかも、魔道大国アルトファリアということで、期待に胸が躍る。
亜空間から首だけ出して、ここで自分の新しい生活が始まるのだとわくわくした気持ちで物思いにふけっていると、横に人の気配を感じて、振り向いた。すると、ひょろっと背の高い優しそうな青年が、なぜか自分を見つめて固まっているのが見えた。
「あら、こんにちは」
「うわあっ」
「キャッ、な、なによ」
青年が、急に大声を出し飛びずさったので、びっくりして、その弾みでバランスを崩し、亜空間の穴から転げ落ちた。
「きゃあ」
ドサっという音とともに尻もちをつく。
「あいたたたた」
したたかに尻を打って、痛みに顔をゆがめながら見上げると、青年が呆然としてるのが見える。
「あ、亜空間移動だったのか……」
その青年は、まだ驚きから立ち直れないようだったが、パルフィが単に亜空間から顔を出していただけだと気がついたらしい。
「ちょっと、あなた。急に大声出さないでよね」
「だ、だって、君が、首だけ出すようなことするから……」
「ちょっと様子を見るためにのぞいてただけじゃない。だいたい、首が宙に浮いてるぐらいでそんなに驚くなんて、あなたおかしいんじゃないの?」
「え、いや、ちょ、ちょっと待ってよ、そんなの驚くに決まってるんじゃ……」
「何言ってんのよ。あたしの住んでるところなんて、こんなの毎日なんだから、だれも驚かないわよ」
「ぶっ。そんなばかな……」
「……」
「……」
これが、パルフィとクリスの初めての出会いであった。
そして、それからおよそ4ヶ月の時が過ぎた。




