第1話 幻影との邂逅(1)(挿絵あり)
「ねえ、この場は見逃してくれないかな? 僕ももう一眠りしたいし、きっと君たちの方が痛い目にあうよ」
目の前に立ちはだかる三体のゴブリンに向かって、クリスは両手を広げて呼びかけた。
ここはアルトファリア王国の中心部に近い、大きな森の辺縁。
すでに沈みつつある月が、辺りを銀色に染めている。
夜明けまではまだ少しある。
クリスは故郷を離れ、首都アルティアに向かう旅の途中で、木の根を枕に仮眠をとっているところだった。何かが草を踏む音が聞こえて目を覚ますと、すぐ近くをゴブリンが徘徊しており、運悪く身を隠す間もなく見つかってしまったのだ。
彼らはいわゆる「魔物」の中でも比較的小柄で力が弱い。人間でいえば、せいぜい十歳程度である。しかし、狡猾ですばしっこい上、武器を持ち、群れで行動するため、一人で相手にするのは厄介と言えた。
「キイーッ」
「キャキィーッキッ」
甲高く耳障りな叫び声が、周囲の静けさに吸い込まれるように消えていく。
緑色の短躯にぼろ布を纏った三体はじわじわと距離を詰めてきた。
何かの骨で作られたとみられる装飾品が、彼らの胸で触れ合う音をたてる。
威嚇するように掲げ持つ斧が、月明かりに鈍く光っている。
どうやら見逃してくれる気はないらしい。背は高いが細身で武器も持たないクリスは、彼らにとって脅威ではないのだろう。
「……そうか。なら仕方ない」
一つ溜息をついて、精神を集中し、魔幻語による呪文の詠唱を開始する。
ダメージを軽減する緩衝壁の術はすでに掛けた状態でいる。
『万物を清める炎よ、その力を我に貸し給うて……』
すぐに右の掌が赤く発光し始めた。見習いを修了したばかりのクリスでも使える数少ない攻撃呪文、火の玉だ。
「キキキイッ!」
それを見て、相手がただの村人ではないことを悟ったらしい。ゴブリンたちが慌てたように斧を振りかざし、一斉に襲い掛かってきた。
だが、彼らは一歩遅かった。
『……我が敵を焼き尽くせ!』
最後の句を唱え終わった瞬間、右の掌に火の玉が浮かび、周辺を淡いオレンジ色に染める。
「ハッ」
気合いとともに投げた火の玉は一直線に飛んで行き、狙い過たず真ん中の一体の胸に直撃した。
「ギャアアァァ」
炎は一気に燃え広がり、全身を覆った。ゴブリンは叫び声を上げて地面をのたうちまわる。
クリスは、それに構わず次の呪文を唱えた。残りの二体は、炎に巻き込まれそうになって一瞬怯んだものの、再び襲い掛かってきた。
「おっと」
左側から迫ってきた二体目が力任せに斧を振り下ろしたのを、体を引いてギリギリで躱す。刃がクリスの額をかすめ、前髪が数本切り飛ばされたが、空を切った。反動で相手が態勢を崩したところに、すかさず、蹴りを入れる。
「グゲッッ」
ゴブリンの体は軽い。腹を蹴り飛ばされて地面を転がった。
だが、その隙を突いて右から来た三体目が、斧を横に振るった。
「ぐっ」
体勢が悪く避けきれず、右脇腹に斧がまともに食い込む。緩衝壁が反応し淡く光る。
「くそっ」
苦痛で呻き声を上げながらも、クリスはそのまま斧を腕で挟み込んで相手を捕まえた。そして、今度は左手に火の玉を出し、投げる代わりにその顔に押し付ける。
「グギャァァ」
炎が業火となって上半身に燃え広がる。同時にクリスは斧を放し、後ろに飛び退いた。
断末魔の叫び声を上げ、三体目が地面に倒れる。
(あと一体……)
この間に、蹴り倒されていた二体目が立ち上がってやや距離を取り、隙を伺っていた。襲い掛かってくる様子はない。
彼らは知能が高い分、学習能力もある。離れていればかわせると判断したらしい。
それならばと、クリスは別の呪文を唱えることにした。両手を上げて詠唱を始める。
『大気に眠る水よ。我が捧げる祈りに応え、凍てつく氷柱となりて……』
周囲の空気が凍りつき、数本の氷柱がクリスの頭上で形成される。
「キイイッッ!」
予想外の術を見て焦ったのか、泡を食ったようにゴブリンが突っ込んできた。
『……仇なす者を貫け!』
最後の句を唱え、かかげた両手を振り下ろすと、風を切る音をさせながら猛烈なスピードで氷柱が飛んで行く。
ゴブリンはあわてて避けようとするが間に合わない。
体に次々と突き刺さる。
「グフッ……」
低い呻き声を漏らして、一瞬ゴブリンの動きが止まった。
そして、血を吐きながら、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
氷柱は空気に溶けていくように消えていく。そこからドロドロと血が流れ出る。
もはやピクリとも動かない。
結局、クリスは三体とも倒してしまったのだ。
「……だから、やめとこうって言ったのに」
地面に転がった魔物の成れの果てを見下ろして一息つくと、彼らの仲間がいないことを確認する。
辺りは再び静寂に包まれていた。
(場所を変えるか……、うっ、イテテ……)
旅人用の革カバンを拾い上げると、脇腹に痛みが走った。斧で斬られたところだ。
緩衝壁はダメージを軽減する術であり、分厚い布を何枚も重ね着している程度の強度がある。よって、ゴブリン程度の斬撃や少々の攻撃呪文なら、大幅に威力を軽減できるが、衝撃を完全には吸収することはできない。明日には、青あざになっているはずだ。
「全く、こんな大事な日に……」
恨み言を呟きながら、もう少し安全な場所を求めて移動しようとした時だった。
突然、背後で草をかき分ける音が聞こえた。
「えっ?」
振り向いた時には遅かった。新たなゴブリンが数体、茂みの奥から現れたのだ。
クリスも驚いたが、彼らも不意を突かれたらしく、こちらを凝視したまま硬直している。
一瞬、両者の間に奇妙な間が流れる。
だが、彼らは、草叢に転がっている仲間の死体に気づいた。興奮した奇声を発し、クリスを取り囲むように広がる。
(まずい……)
クリスの決断は早かった。戦って勝てる数ではない。だが、街道に逃げるのは無理だと判断し、即座に反転すると、背後にいた一体に猛然と突っ込んだ。
「キキィッ!」
完全に不意をつかれたのか、ほとんど棒立ちの状態で体当たりを食らい、地面に突き飛ばされる。
クリスは、そのまま脱兎のごとく森の中に逃げ込んだ。本来、森は、魔物のテリトリーであり、特に夜間は危険である。だが、選んでいる場合ではなかった。
「キイイッッ!」
「ケキャキャッ」
甲高い叫び声と、乱暴に草をかき分け迫ってくる音が、すぐに後方から聞こえてくる。おそらく八体のゴブリンがいたはずだ。
だが、状況はさらに悪化した。背後から風を切る音が次々と飛んできたのだ。
(くそ、弓矢か……)
矢が体を掠めるたびに、緩衝壁が反応し、自らを囲む淡い壁が現れては消える。やがて、その光も弱々しいものになってきた。ダメージを受けて、呪文の効果が切れつつある。だが、この状態では呪文を唱え直すことはできない。
そして、今度は、重い物が飛ぶ低い音が背後から聞こえてきたかと思うと、何かが自分の左肩をかすめたのを感じた。
「グ……ッ」
その瞬間、鋭い痛みが指先まで走り、思わずうめき声を上げる。目の前の木に石斧が突き刺さった。
(くそっ)
手に感じる生暖かさは間違いなく自分の血だ。緩衝壁が消えたのだ。だが、傷を見ている余裕はない。うずく箇所を右手で抑えて懸命に走りつづける。
やがて、前方の茂みの先に、開けたところがちらりと見えた。森を出れば逃げられる。クリスは、迷わず飛び込んだ。
だが……
(しまった……)
たしかにそこは、何もない開けた場所だった。しかし、その奥は見上げるぐらい高い岩壁であり、右も左も塞がれている。いわば、自然の袋小路に入り込んでしまったのだ。
慌てて反転し、森に戻ろうとした時には、手遅れだった。ゴブリンたちも、次々と駆け込んできた。
やむなく、クリスは岩壁を背に身構える。
「キャッキィーッ」
彼らは、弓を持つもの、石斧を持つもの、そして剣を持つものと様々だ。そして、もうクリスが逃げられないと見たのだろう、勝ち誇った声をあげながら、まるで網をかけるように左右に広がり、なぶるようにゆっくりと近づいてくる。
クリスも、押されるようにジリジリと下がる。だが、すぐに背中が岩壁に触れた。もはや逃げ場はない。
(こうなったら、正面突破するしかないか……)
火の玉を一発ぶち当てれば、一瞬でも奴らは怯むだろう。その隙に、多少のケガは覚悟の上で真ん中から突っ込み、無理やり森の中に逃げ戻るしかない。
そして、覚悟を決め、呪文を唱えようとした時だった。
いきなり真後ろからハーフローブの裾の辺りを掴まれ、グイッと引っ張られたのだ。
「えっ?」
クリスは意表を突かれ、バランスを崩して後方によろけた。自分の背後は岩壁で、人が入り込める隙間など微塵もなかったはずだ。それなのに、後方から引っ張られるなどありえない。
倒れそうになるのを踏ん張りながら、後ろを振り返ったクリスの目に飛び込んできたのは、洞窟のように奥に続く空間と、足元で自分を見上げている一匹の大型犬だった。耳が垂れ、顔つきは優しく、金色に見紛うほどの美しい薄茶色の毛並みである。首輪からぶら下がっている青い宝石が月に照らされて煌めいている。
「な、なんだ?」
突然のことに、クリスは戸惑った。岩壁だと思ってたものがいきなり洞窟の入り口となり、なぜか犬が足元にいる。状況の理解が追いつかない。
そんな彼に業を煮やしたのか、犬はもう一度、すそをくわえて引っ張り、彼を中に引き込んだ。
ゴブリンたちも突然のことに戸惑い警戒しているらしく、体を揺らしながら中の様子を覗きこもうとしている。急に洞窟の入口が開いた上に、彼らには中が見えないのだ。
クリスが一歩中に入ると、犬は彼に代わって外に出た。その体が、ようやく月の光に照らされてあらわになる。
ゴブリンが金切り声をあげて威嚇した。犬も対抗するように低い唸り声を上げる。
「……助けてくれるっていうのかい?」
クリスが背後から呼びかけても犬は反応しなかったが、全身の毛を逆立て、前傾姿勢になっているところを見ると、どうやらそのつもりらしい。
だが、いくら短躯のゴブリンとはいえ八体もいて、武器まで持っているのだ。勝ち目はない。
そして、その考えは彼らも同じだったらしい。
先頭の三体があざけるような奇声を上げ、犬に襲いかかった。
ところがその瞬間、思わぬことが起きた。
犬が大きく口を開けたかと思うと、両手を広げたほどの巨大な炎の玉を放ったのだ。
「えっ?」
炎の固まりはものすごい速度で飛んでいき、突っかかってきたゴブリンに直撃した。そして、近くにいた者まで巻き込んで激しく燃え上がらせた。
「な、なんだ……?」
あまりの激しさと眩しさに、クリスが手をかざす。
炎が消えると、三体が斧を振りかざしたそのままの姿勢で黒焦げになっていた。そして、グラリと揺れて地面に倒れる。その拍子に炭化した体がバラバラになった。
「おお……」
思わずクリスは息を呑んだ。犬が魔道を使えるなど聞いたことがないうえ、自分の火の玉と比べても相当に威力があったのだ。
一方、三体を消し炭にされたゴブリンたちはパニックになった。もはや、クリスには目もくれず、まるで恐怖に駆られたように犬に斬りかかる。
だが、今度は犬も大人しく待ってはいなかった。いきなり走りだして、振り下ろされる斧の間を稲妻のように駆け抜けると、最後方で矢を射掛けようとした一体に跳びかかって地面に押し倒し、腕に噛みついた。しかもそれは電撃になっているらしく、噛んだところから全身に電流が流れ、相手の体が白く発光した。
「ギャアアア」
断末魔の叫びをあげ、噛まれたゴブリンは激しく痙攣し、すぐに動かなくなった。いたるところからブスブスと煙が立ち上っている。どうやら感電死したらしい。
「キイーッ」
「キャキャッ」
残った者たちは、いきり立って一斉に犬に躍りかかった。
だが、犬は平然と彼らを見上げ、今度は、次々と口から黄色い光線を放った。
驚くべき正確さで額や胸を貫かれ、うめき声を残し倒れていくゴブリンたち。
それをクリスは、息をするのも忘れて見つめていた。そして、気が付くと、全員が死体となって地面に転がっていた。
初弾の炎の玉からほとんど時間が経過していない。まさに瞬殺である。
「す、すごい……」
犬は、周りを見回すと、満足したように入り口まで駆け戻ってきた。半ば呆然と見つめるクリスを見上げて意味ありげに吠えた後、脇を悠然と通り過ぎる。その姿は風格さえ漂っていた。
そして、洞窟の中を数歩進んでから、振り返ってもう一度吠え、また歩き出す。
「え? あ、ああ。ついて来いって言うんだね? わかったよ」
クリスは我に返って、後ろについていく。この犬の素性は分からないが、おそらく飼い主がいるのではないか、そして、もしそうなら、自分を助けてくれた以上、味方と考えるべきだろうと判断したのだ。
(犬が魔道を使えるなんて……。それに、ここは何なんだ……?)
少し動揺が治まってくると、ここが洞窟などではなく、明らかに人為的に作られたものであることが分かった。どうやら通路のようで、奥まで続いている。赤い光を出すランプのようなものが等間隔で天井に埋め込まれており、目が慣れれば不自由なく周りを見回すことができた。よく見ると、壁のところどころに、装飾品や額縁などが飾られている。
また、通路自体は、石や木など通常の建材ではなく、白っぽくて滑らかな特殊な素材で作られているようだった。犬の後を歩きながら端に寄って、コツコツと手の甲で叩いてみる。
(もしかして、これは……)
クリスは、この建造物に見覚えがあった。いや、この建物を見たのも入ったのも初めてなのだが、この明かりといい、壁や床の材質といい、特殊な建築様式自体に覚えがあったのだ。
(間違いない。ここは、旧文明の遺跡だ……)
旧文明。
それは、一万年もの昔にこの星に栄え、高度な科学力を誇ったと言われる太古の文明である。その遺跡が今もなお各地で見つかっている。
旧文明時代に話されていた『魔幻語』は、発声するだけで大きな力を持つと信じられ、現在の魔道のもとになっている。だが、その他のことについては、殆ど何も分かっていない。
ただ、クリスは、父親が考古学者であり、幼い頃から各地の旧文明遺跡に同行していたこともあって、これがその一つであると確信していた。
やがて、通路の奥に明かりが見え、クリスは建物のロビーのような広い場所に出た。
「こ、これは……」
眩しさに思わず手をかざす。
まるで、そこには光の広間ともいうべき空間が広がっていた。
この時代の大広間で見かけるような燭台の光ではなく、天井から部屋の隅々まで光が行き届き、しかも、春の日差しのように柔らかいものだった。まだ外は夜も明けていない、というより、ここが地中であることを忘れてしまいそうなほどである。
壁全体も何らかの方法で発光しており、まるで光が半透明の壁から透き通って見えるような印象を与える。
(なんだ、ここは……)
もともと光量がそれほどでもなかったのか、すぐに目が慣れてきて、全容が眼に入ってくる。
天井は高く、二階ほどの高さがあった。端にはソファと、壺や彫像などがいくつか置かれており、部屋の中心部には、胸の高さまである円柱型の装置がポツンと取り付けられていた。その円柱の上面は、何やら光る文字盤のようなものが見える。
もしここが旧文明の遺跡なら、一万年以上前に建築されたことになるが、ロビーは非常に保存状態がよく、まさに当時のままと思えるほど美しく清潔に保たれていた。
この時代の建物とはまるで異なるため、異世界に迷い込んだような錯覚を感じる。
だが、半ば魅せられたように、クリスが中央に向かって歩き出したそのときだった。突然、円柱のそばに女性が出現したのだ。
(えっ……?)
クリスは目を疑った。今の今まで誰もいなかったことは間違いない。それが、何の前触れもなくいきなり現れたのだ。テレポートかとも思ったが、その予兆すらなかった。
(こ、この人は……、一体……)
それは、クリスと同年代ほどの若い女性だった。美しい栗毛の髪を肩まで伸ばし、白いブラウスに、薄いグレーの上着とぴったりとしたスカートを身につけている。見たこともなかったが、おそらく、お仕着せの服装と思われた。そして、どことなく上品な雰囲気を漂わせて、姿勢よくまっすぐに立ち、微笑みを浮かべてこちらを見つめている。
(おかしい。……どこから現れたんだ?)
だが、彼女が飼い主なのだろう。犬の方は怯えもせず、むしろ尻尾を振って女性に駆け寄った。
女性には敵意はないように見える。釈然としないものを感じつつ、クリスも後についていくと、彼女がにこやかに話しかけてきた。
「いらっしゃいませ、お客様。私は、当施設のホログラム・コンシェルジュ、アリシアと申します」
そう言って、アリシアは深々とお辞儀をした。