カクセイキョウ3
頭の片隅でささやかれる朝六時半ですと時刻を告げる声を聞いて、日向明は目を覚ます。
「電脳化して一番助かった事は、寝坊をしなくなったこと、かなー」
ぐっと伸びをしながら上体を起こして、まずは服を整える。
そして、屈伸をして、間接を丁寧にほぐす。
この習慣が付いたのは一年半前に事故にあってからだが、今ではすっかり体になじんでいる。
体を動かすごとに、頭の中に残っていた霧がゆっくりと晴れていく感覚が気持ちよい。
それまでは陸上部に所属していたのだが、決まった時間に起きるのが何よりも苦手で、朝はただ辛いだけの時間という印象しかなかった。
だが、体を引き締めてくれるような夜気の残る空気は、気持ちよく起きる事が出来れば心地よくて、その点だけは救われている。
「レディ、連絡は?」
ベッドの上で開脚をしながら上体を倒し、日向は電脳に用意されている生活補助用疑似知性のレディへと話しかける。
生活補助用疑似知性と、感じが並べば難しい印象になるものの、脳内メイドと一部で呼ばれる事を鑑みれば、何を目的とした機能かは分かり易い。
「涼介様から、一件」
「内容は?」
「『今日は兄貴と会うから少し遅れて行く。すまないけど、一人で登校して欲しい』です」
「了解って返しておいて」
「かしこまりました」
水野涼介と日向は、公園デビューの頃からの幼なじみだ。
小学校の時に子供らしいからかいに反発して離れてしまい、それ以来しばらく疎遠だったが、事故がきっかけで再び交流が生まれて、今ではその頃よりも一緒に居る時間が長いかもしれない。
「ドクターへの報告はいかがいたしますか」
「今日も問題なし、でいいよ。曇りだけど、調子は悪くないから」
事故で腱をきった右足を、特に重点的に調整する。一時は義肢にする事も勧められたほどの重傷だったのだが、今ではなんとか、日常に不便が無い程度には回復している。
それでも、陸上部に戻れることは、もう二度とないが。
その事実を知って荒れていた日向を支えてくれたもの涼介だ。
普段は頼りないが時々小姑のように口うるさくなる幼なじみは、事故でしばらくまともに歩けなくなっていた日向を根気強く支えてくれた。
そして、それなりに回復した今も、気遣って一緒に登校しようとしてくれる。
「かしこまりました。次回の診察は一週間後です」
「前日に再度通知を設定」
「かしこまりました」
涼介には、いくら感謝しても足りないほどの好意をもらったと日向は思っている。
けれどこの後に学校で会った時には、情けない顔をしながら、一緒に登校できなかった事を謝って来るんだろう。過保護で、そして気にしぃだから。
そんな涼介を想像して、日向は小さく笑ってしまう。
男子の平均より、身長だけは幾分か大きな体を縮こまらせて謝る様子は、叱られてしょげる犬のようなのだ。
それをどうやって元気づけるか考えるのは、なんとなく、日向にとって楽しい。
<テス、テス……>
首に付けていたネットと電脳を繋ぐコードを引き抜いて、代わりに補聴器ガジェットを装着する。
これも、事故の影響だ。
事故で一度やぶれた鼓膜に関しては再生手術が成功したのだが、突発性難聴という病気が誘発されて、結果として日向に音が戻って来る事はなかった。
走れない事は何度も死にたくなったほど悔しかったが、我慢できた。
歩きにくいのも、歩けないわけではないので、耐えられた。
けれど、音が無いのはそれにもまして大変だ。
いや、正確に言えば音はあるのだが、いっそ無い方が良かったと思うようなものなのだ。
失聴や難聴と言うと、無音が続くと思われがちだが、日向の場合は雨の音に似たノイズがずっと耳に残っており、それだけを寝ても覚めても聞き続ける事になる。
そのつらさは、同じ音を聞き続ける拷問があるというほどだと言えば、伝わるだろうか。
<あーあー。本日は晴天なりっと。やっぱり、いつになっても慣れないな……>
首輪のようにも見えるほど堅苦しい、デザイン性に欠けるチョーカーの形をした補聴器ガジェットから、かつて感じていた物とは違う自分の声が、数コンマ遅れて電脳に届けられる。
今では少しおしゃれな補聴器もあり、日向も最初はソレを使おうとしていたものだ。
だが、失聴や難聴にも個性があり、完全にオーダーメイドにしても、日向に適応する補聴器はないといわれてしまった。そして、それまで拒んでいた電脳化手術を受けて、無いよりはマシだと選ぶ余地無くそんな補聴器を付けている。
聞こえないよりは、聞こえた方がいい。年頃の女子としては些か気になっても、音が聞こえない事は、時にたやすく命の危険いつながることもあるのだ。
またあんな痛い思いはしたくない。
これでも電脳が発達する以前に比べれば、ずっとマシなのだと自分に言い聞かせて、補聴器ガジェットの音質調整を完了する。
<……リアルにリスクを背負っても、か>
事故で多くの物を失った日向にとっては、時にリアルよりもリアルな世界なのだ、レイズは。
かつてのように存分に走り回る事ができて、音の不自由を感じること無く会話が出来る。
その幸せに、限度を忘れて飲み込まれる自分がたやすく想像出来るほどに、レイズでのヒナタというもう一人の自分は、日向の中で大きな割合を占めている。
<それでも、みんなに心配させたくないしね>
ぐっと、強く拳を握って、着替えを始める。
ゆっくり体をほぐしたので、すでに七時近い。
そろそろ駅に向かわなければ、高校に遅刻する時間になっていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
<はい、そ……、次……を中心にやりますので、教科…………お願いします>
<きりー……い>
チャイムが鳴って午前の授業が終わった教室。その一番前の教団に近い場所で、日向と涼介は隣同士になっている互いの席を寄せ合って、黒いコードを使って互いの電脳を直結する。
基本的に、電脳を直結するという事は、相手に対して自分の脳をさらけ出すことに近いため、あまり行われる光景ではない。
プライベートな部分はセキュリティの奥にあるが、セキュリティがあればそれをクラックする手段があるのも、数世紀前から変らないからだ。
他にも、二人だけの秘密の会話をおこなっていると公言するようなものだ、という事もある。
そのため、一般的には仲の深い恋人がこっそりとするような――あるいは、周囲に仲を見せつけるためにするような行為なのだが、二人のそんな光景を見ても騒ぐクラスメイトはいない。
日向の耳が聞こえないため、電脳を通じた会話をするのが、実用的で必要な行為だと認められているのからだ。
そして、そんな周囲に聞こえない電脳のコードを通じてどんな会話をしているのか。
「ふふ、なんかサイバーパンクだよね。チューブ入りの昼食」
色気や食欲からは遠く離れた、むしろ日向が趣味の悪さをさらけ出すような内容だった。
それぞれのカバンから昼食を並べると分かる。色とりどりおかずが詰まった弁当箱とおにぎりのセットと、三秒チャージと描かれた『食料』が、それぞれの食事だ。発言の通り、三秒チャージが日向の昼食で間違いない。
もちろん、往年のSF作品のように天然の食料が高騰しているという理由から、三秒チャージのチューブが一般的な食事という事は当然、ない。
人なつこい柴犬のような顔の涼介だが、今ばかりは食欲の失せたような表情を日向に向ける。
「俺にはお前の喜ぶポイントがわからねぇ。なんだよ、昼飯が三秒チャージでニヤニヤする女子高生って、どんながっかりな生き物だよ」
「僕たちは未来に生きているのだ、だよ」
サイバーだのパンクだのという物に興味のない涼介としては、はなはだ不健康にしか見えない。
「……そういや、昨日の件は何だよ」
対応に困って話しをそらすあたり、自分もがっかりな生き物だという自覚がない涼介の前で、日向は満足そうに吸い付いていたチューブから唇を離す。
「何って?」
「あの大立ち回りだよ」
「普段通りだったでしょ。まあ、狩りに行った先で剣が折れちゃってたから、手がかかったけど」
「ああ、だから魔法と足技だけで……って違う、そっちじゃない」
スナップの効いたツッコミを入れつつ、涼介がクビを振る。
ちなみに、電脳を通じた会話は周囲に聞こえないので、今の涼介は、事情を知らなければ無言で見つめ合ったあとにいきなりツッコミを入れた危ない人にしか見えない。
「ヒーロー気取りかって事だ。お前は金の樹じゃないんだ、人に恨みを買っても、守ってくれる組織があるわけじゃない。人目が多いところで派手な事はするなよ」
「悪を成す人が目の前に居る。それを止めるために理由がいるかね?」
「お前が気取る時は、まともに答える気が無い時だ」
「さすが幼なじみ」
「わかりたくねぇよ……つか、ほれ、これ食え。隣で食い終わって居られると食いにくい」
「あはは、ありがと」
日向が食べ終わるのを待っていたのか、未だ手を付けていなかった弁当箱を開いて日向に渡した涼介は、おにぎりの方から口を付ける。
日向にしても慣れたもので、多少申し訳なさそうなそぶりは見せるが、おいしそうに涼介の食事を味わって食べる。抵抗はあるが、これで日向が固辞すれば、涼介が悲しそうな顔をするのだ。手を付けないわけにはいかない所である。
<お前の家も大変だよな>
「ん? ごめん、ちょっと聞こえなかった」
涼介が、電脳では無く音声として言葉にした内容は、日向には伝わらない。
多少なら唇も読めるが、それは音声も聞こえた上で、補助となる程度で、観察していてようやく理解の足しになる程度だ。
「なんでもねぇよ」
しかし、涼介の不機嫌な様子から、聞こえなかったヒナタでもあまり踏みいるべきで無いと察する事はできる。
「……そういえば、今日は人が少ないと思うんだけど。そろそろインフルエンザ? 先生の話とか相変わらず聞こえにくくてさ」
「ああ、何度言ってもすぐ戻るからな……病気もあるかも知れないが、ケンカして事実上の停学らしい。レイズで何回か遊んでたメンバーだけど、そういう事する連中に見えなかったのにな」
<へ?>
考えても居なかった涼介の言葉に、日向の口から思わず変な声がこぼれる。
慌てて当たりを見回し、周囲に気にしている人が居ないことを確認してから、日向は涼介に話しの続きを促す。
音が聞こえなくなってから、日向は頻繁に声量を間違えるようになって、面倒に巻き込まれた。
それ以来、日向は声を出すたびに、周囲を気にするクセがついてしまったのだ。
以前は女子の友人に囲まれて、笑顔で賑やかに会話していた姿を知っている涼介としては、今のヒナタがあまりに忍びない。
「一応ここも進学校だろ? 前代未聞の事態だって、職員室で騒いでたらしい。大変だよなー」
だから、大変な話をあえて、ゴシップのように趣味悪く語って、日向の気をそらせる。
「どこで聞いたの?」
「クラスの隅で、騒がしく秘密の話しをしている女子から」
「……やっぱり、聞こえないのは不便だ」
小さく電脳に流れ込んだ言葉を、涼介はあえて拾わない。
そんな本音が流れた事すら、日向自身に気づいて欲しく無いと。
「とりあえず、しばらく前から、そいつらが荒れてたらしい。金がないとか、集会がどうとか言ってたのを聞いてた連中がいるみたいなんだ。ちょっと馴れ馴れしいと思う時があるけど、ケンカで停学するなんて連中じゃないと思ってたんだがな」
「……」
涼介の説明的な言葉に、日向の反応は薄い。
普段からゴシップで盛り上がるような性格では無いので、すぐに興味を失ったらしいと判断して、涼介は別の話題に移る。
「そういや、そいつらからさ、良い狩り場があるって教えてもらってたんだけど、モンスターが多くて一人で行くには厳しいらしい。一緒に行かないか?」
「涼介、じゃない、リーンでも戦闘に専念すれば、戦闘タイプのベータテスターなんだから、大半の場所はソロでいけるでしょ?」
日向も涼介も、共に一般公開される前のテスト期間から、縁があってレイズの世界にいるのだ。
現在公開されているフィールドで、ステータスが足りない思いをする場所はほとんど無い。
「それを言うなよ。俺は俺の楽しみ方でやってんだ」
それでも戦闘力に不安があるというのは、涼介が積極的な戦闘を行うようなステータスの組み立てをしていないからだ。
データを重視する人間からすれば、とても中途半端で、ゲームをする気がないとしか思えないような組み立てに見えるだろう。
「知ってる。そういうところは好きだから」
ただ、もう一つの自分になれるレイズという場所でなら、良い生き方だと日向は思っている。
その気持ちを込めて肯定しただけなのだが、涼介の返答は盛大な咳だった。
気管に米粒でも入ったのか、必死そうにむせる幼なじみの背中を、日向はかつての日のように撫でながら謝る。
「でもごめん、それは今度にして欲しいな。しばらく金の樹に協力する事になりそうで」
「危ないのか?」
未だに軽く咽せながらも、電脳では器用に問いかけてくる涼介の頭に、日向は安心させるように手を置いて笑う。
「ゲームなんだから、危険で安全でしょ」
「……俺も協力」
「しないでいい。するのなら、ちゃんと金枝銀葉のクエストをクリアして、心理検査に合格して、サポートマスターとして誘われてからにしてね」
「あれ、一ヶ月近くかかるじゃん」
ようやく咳が引いたらしい涼介が、心底嫌そうな顔を見せる。
ストーリー性があり、基本的に楽しいクエストではあるのだが、拘束時間の長さと手間の多さから、途中で放り投げられる事がもっとも多いクエストでもある。
「リアルなら五日間でしょ」
そんな長いクエストだが、リアルでの生活に支障が出ない程度には収められている。
レイズの中でまる一日過ごしても、リアルでは四時間しか過ぎていないという、どんなプログラムを書いて実装したのか分からないシステムがあるのだ。
だから、ゲーム内で一月かかるクエストも、実際はもっと短い時間で済む。
それでも、社会人にとっては長いが、二人はまだ学生だ。長期休暇を使えば出来ない話では無い。
「冬休みに取るかなー」
「うんうん。それでさ、一緒にレイズの平和のためにボロ雑巾みたいになろうよ」
「……や、それ、マズくね?」
本気で眉をしかめる涼介を、冗談めかして笑う日向がからかう。
二人の昼休みは、今日も平和に過ぎていく。