忘れられないある夏の日
夏の終わり、突然姿を消した友の最後の言葉は「ビビディ・バビディ・ブウ」。大人になった僕は山手線のホームで彼と再会し、その呪文の意味を思い出す。
遠くで雷が鳴っている。ヒグラシの声が聞こえる。
僕らは団地の小さな公園のシーソーに乗っていた。
ギーコ、ギーコ。たわいもない話が続いていた。
その日に何を話していたかなんて覚えていないが、いつも通りの、ありふれた夏の終わり、秋の始まりだった。
ギーコ、ギーコ。いつまでも続くと思っていた時間でもあった。
日暮れが音もなく近づいてくる。
ゴロゴロ、と雷もまた近づいてくる。
雨の匂いが忍び寄ってくる。
僕らは急き立てられるように、公園に放り出してあったカバンを手に取り、家へと駆け出す。
途中の自転車屋の角、いつもの僕たちの分かれ道で、あいつは別れ際に「ビビディ・バビディ・ブウ」と呟いた。
僕は「なんだそれ」と言う間もなく、あいつは「じゃあな」と右手を上げて去っていった。
翌日、あいつはいなくなった。家族と共に。
僕も含め、あいつの友達だった連中はみなショックを受けた。
残された僕らには、あいつとあいつの家族に何があったのか、何も聞かされなかった。
何か良くないことが起こったのだろうということは、子どもなりにも容易に想像できた。
そして僕の中には、あいつの「ビビディ・バビディ・ブウ」という言葉だけが残された。まるで何かの呪文のように。
僕はその言葉とあいつの記憶を心の奥底に沈め、中学生、高校生、大学生と年を重ねていった。
あいつのことなど、すっかり忘れ去るには十分な時間だった。
その日、僕は仕事で疲れ果てた身体で山手線のホームにいた。
反対側のホームに、どこかで会ったことのあるような人物が立っていた。特徴的な肩の動き、そして特徴的な天然パーマ。
記憶の奥底から、あいつだと思い出すまでに、ずいぶんと時間がかかった。
あいつは子どもをあやしながら、綺麗な女の人と楽しそうにしゃべっていた。
そして電車が入ってくる少し前、あいつは顔を上げ、僕の方を向いた。
はっとした表情とともに、懐かしい、照れた顔をしやがる。
あの日のように右手を上げた瞬間、あいつのいるホームに電車が滑り込んでくる。そして、僕のホームにも。
僕は満員電車に押し込まれながら、頭の中で呟いてみる。
「ビビディ・バビディ・ブウ」
あれは、一期一会、再会するための呪文だったのかもしれない。




