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雨の滴る

作者: だじ
掲載日:2026/02/15

「しばらくは、やみそうにないね。」

 濡れた自らの体には目もくれず丁寧に楽器を拭く彼がつぶやいた。

「そうだね、まぁ仕方ない。こういう日もあるよ。」

 髪と荷物を拭き終わった私はそれを脳に焼き付けるかのように静かに眺めている。

今、私たちは山を越えてこの旅の目的地であった街へ向かっている途中。突然の雨に降られて目の前にあった洞穴へ入ったところ。洞穴はそこまで大きくはなく、生き物が棲家にしている気配もなかった。

「うーん…、今日中に街に着きたかったんだけどなぁ。」

空を見上げ残念そうに彼は呟く。

「この雨じゃあ、山道は危ないってことぐらい私にも、もうわかるよ。焦らず甘えずが山越えのルールなんでしょ。」

 私はこれまでの旅の中で彼から学んだ教えを使ってからかってみる。

「ふふ、君もいうようになったね。わかった。今日はもう諦めてここに泊まろうか。」

 彼は顔に苦笑いを浮かべている。

「りょーかい。ちょうど良い雨宿りできる場所があってよかった。」

 私はそれを見て喜びつつも心にあるモヤモヤを感じる。このモヤモヤは目的地に近づくにつれ大きくなってきている。正体は不明。

「何か残ってたっけ。」

彼は楽器をようやく拭き終えたようでついでとばかりに自らの髪を乱暴に拭いている。

 私は一旦モヤモヤを無視してカバンの中を確認してみる。

「んー、パンが丸々二つ、ソーセージは一袋、魚は一匹。あっチーズもまだあるよ。」

「おっ、いいね。じゃあ今日で最後だし贅沢に全部いっちゃおう。そのチーズを溶かして、つけて食べようか。」

 私はその提案に従い食材を全て鞄から取り出す。それからナイフで食べやすい大きさにカットしていく。

彼は道中集めた木々を取り出し、慣れた手つきで火を起こしている。

「干した魚とチーズって合うのかな。楽しみだ。」

 彼がボサボサの髪で上機嫌そうにしている姿を見て安心する。

「よし、火がついた。鍋と台をとってくれるかい。」

 私はカバンからそれらを取り出し渡す。彼からの丁寧な感謝を受け取る。なるべくいつもの様子を心がけて。

 雨が滴っている。



「はい。うーんもうちょっとだね。…よしっもういいかな。じゃあこれで完成です。」

 彼は得意げに笑っている。私はそれを無意識に眺めてしまう。

「どうかした?まだお腹空いてない?」

どこまでも優しい彼の気遣いに対し、ずっと自分のことばかり悩んでいる私は申し訳なくなる。

「いや、別に。ただここまでくる道中、空腹に耐えていた自分に感謝してるだけ。」

 でも本当のことは言えなくて誤魔化す。

「はっはっは。確かに、ちょっと節約しすぎてたかもね。まあ今日こんなに豪華な晩御飯になったんだから結果オーライってことで。」

 彼は誤魔化すように笑っている。

「さぁ。冷めて固まっちゃう前に食べちゃおう!」



「「いただきます」」二人揃って手を合わせる。

 まずスタンダードにソーセージを手に取り、つけてみる。美味しい。

「うん、美味しい。…あれ、そういえば前にもこんなことあった気がするな。」

「…そうだ。僕らが出発した次の日の夕飯。みんなにたくさんの食料を分けてもらったからって言って、こんな感じでほとんど一気に食べたんだ。それでその後、節約に苦しむことになるんだけど。懐かしいなあ。少し前のことなのに随分昔に感じる。」

「ふん、私はあの時こんなに一気に食べていいのか聞いたのに、足が早いものは食べないとってあなたが言ったから。旅が始まってから学んだ最初のことだわ。あなたのいうことをそのまま信用してはいけないってこと。」

「ははは、そうだっけ。ごめん、ごめん。でもあの夜、君は楽しそうだったね。」

「そりゃあね、初めてだったもの。あんなに豪華な食事は。」

「そうだったねぇ。」

彼はどこか遠くを見つめてつぶやいた。

「君は強くなったね。初めて会った時は小枝のような腕をしていて触れれば簡単に傷つきそうで。本当はね不安だったんだ。君を連れ出すのは。やっと君の敵はいなくなって村のみんなからも受け入れられて。君は、このまま村で生きていく方がいいんじゃないかって。」

「でも君の目は村には目もくれず夢の方を向いていて。すごかったなあ。みんなの驚く顔。思わずわらっちゃった。」

 私はうまく答えられず頷くことしかできない。

「君はこれからどんな風に成長していくんだろう。どんな子と仲良くなるんだろうね。すごく楽しみだよ。」

 私は溢れそうになる何かを誤魔化すため口いっぱいにパンを頬張る。

「応援してるよ。ずっと。」

「うん」

 私にはそれ以上の言葉を返せない。

 彼は私を見つめている。私はそれに応えられない

 雨の滴る音が聞こえる。彼は何も話さずにこちらを見ている。

 彼は何を考えているのだろうか。私になんで期待してくれるのだろう。私は彼が思ってるようなすごい子じゃないのに。自分の思い一つもわからず話せないお馬鹿なのに。

 しばらくの間、雨しか聞こえない時間が流れる。

「ふふ、なんだか最後のお別れみたいだね。まだ街まではしばらく一緒に歩くのに。」

「そうだ。魚だ。せっかくだし食べてみないと。」

 彼は何も話さない私を気遣ったのか、話を変える。乾燥した干し魚にチーズをたっぷりつけ大きな一口で頬張る。

「おお、偉大なる発見だ。美味しい。ほら食べてみて。」

 正直あまり美味しそうに思えないが彼の押しに従い食べてみる。

「おいしっ。」

 チーズの塩辛さと干し魚独特の甘さが絶妙なバランスでマッチしている。

「でしょー。これはいい発見だよ。はっ。」

 彼は慌てた様子で立ち上がる。そして舞い降りてきたって感じで急に楽器を取り出し歌い出す。この度で何度も目にした光景だ。彼曰く歌が勝手に溢れてくるらしい。こういう時は放っておくに限る。

「ああ、いいね。雨とチーズと干し魚。なんて面白い組み合わせなんだっ!」

 私はそんな彼を見ていると安心する。いつもの畏まった丁寧さなんて消しとばしてただ自分の興味に従う。私はそれをただ眺めている。


 しばらくして満足したらしく楽器をしまい畏まった彼が戻ってきた。

「ごめん、ごめん。つい楽しくなっちゃった。」

「別にいいよ。いつものことだしね。それより残りさっさと食べちゃお。」

「うん。やっぱりおいしい。」

 二人で残っていたパンやソーセージを食べ、それでも食べきれず少しだけ明日の朝食の分として残し、手早く片付ける。

「ふう。まだ早いけども、もう寝ようか。お先にどうぞ。」

 彼が先に見張り番を請け負ってくれたので私はありがたく寝支度をする。といってもベッドやフカフカの布団があるわけでもないので布を敷き、荷物を枕にするくらいのもの。

「じゃあ、おやすみ。また後で。」

 彼に挨拶をして私は寝転ぶ。以前指摘されて気づいたが彼曰く私はどうやら寝つきがいいタイプらしい。言われてみればいつも数分で眠りにつける。ただ今晩はいつものように眠りにつくことができなかった。理由は自分でわかってる。モヤモヤが消えないからだ。

 寝返りを打ったふりをして彼とは反対の方を向く。そうしてこのモヤモヤを考えてみることにする。私は何を望んでいるのだろうか。彼はあの日、私を村から連れ出してくれた。彼はいつも私のことを褒めるけど彼がいなければあの村から離れることなんてできなかったと思う。ましてやその後、彼がいないと旅の途中で私はあっさり死んでしまっていただろう。だから彼には感謝しても仕切れない。

じゃあ私は彼と共にこのまま旅を続けることで恩を返したいのだろうか。違う。彼が望んでくれているのは私が夢を叶える未来。そのために彼が古い友人に頭を下げてどうにか学校に入れるようにしてくれたらしい。だからこそ私は学校で学び、夢を叶えることこそが彼への恩返しの第一歩だろう。では私は彼に恋でもしているのか。それはわからない。もちろん彼は歳の差なんて関係ないくらい素敵な人だ。強くて賢くて何よりも優しい。でもあの狭い世界で生きてきて親以外の他人とは一切関わってこなかった私には恋という感情はまだ見つけられていない。でもこのモヤモヤは恋とは違うとなぜか感じる。

ではこの気持ちはなんなのか。感謝でも恋でもない。こんな気持ちは今まで持ったことがない。うーん…、わからない。でも今わかっていること。それは、彼は旅を続けるべきってこと。そして私は私の夢を求めないといけないってこと。だからこのモヤモヤは今の私には不要。このよくわからない気持ちはしまっておくべきなんだろう。

はぁ、難しい。今夜は眠れそうにない。

そんなことをずっとぐるぐると考えているとあっという間に交代の時間になったらしく彼が起こしてくれた。

私はまるでまだ寝ぼけているかのような顔を作りながら起きる。大丈夫いつものようにできてる。

彼はおやすみとだけ言ってすぐに眠りについた。私は焚き火をぼーっと眺めながらこの気持ちを考え続けた。

そんなことを数回繰り返し迎えた朝はまだ小雨が降っていた。

私は目を覚ますため近くの川で顔を洗い体を拭く。帰ってきた頃には彼が朝食の準備を済ませてくれていた。

昨晩少しだけ残しておいたチーズと片手サイズのパン。ナイフで薄くスライスされたチーズがパンに乗せてある。

「さ、ご飯にしよう。これを食べたら山を越えないといけないから少し急ぎめにね。山を越えたらもうすぐに街だよ。」

私は彼が差し出してくれたパンを受け取り手を合わせて食べ始める。いつもならゆっくり味わって食べる私だが今日はどうにも味がわからなかった。

すぐに食べ終わった私たちは荷物をまとめ、火の後始末をし洞窟を出る。

ここからはひたすら山道を登っていくのみ。彼を先頭に力を振り絞って登っていく。昨日中腹まで登っていたため一時間ほどで山の頂上についた。

「ほら。見えるだろう。あそこがランテッドの街だよ。ほらあの高い塔。あれが君がこれから通う学校さ。」

 真っ赤なレンガで建てられた塔は今まで見てきたどの建物よりも大きく立派けどいまいち気持ちは湧いてこない。せっかく夢にまで見た学校がやっと見えたのに。せっかく彼が教えてくれているのに。どうにも頭が回らない。何も返せない。

 彼は何も気にしないと言った様子で私を行こうかと誘い山を下っていく。道中この景色や周辺の植物、街の名物の話を彼はしてくれていたが私には頷くだけで精一杯だった。


そんな状態で山を下っていくとあっという間に街の関所に到着してしまった。彼は鞄から通行手形を二枚分取り出し、お金を支払う。彼の持っている手形はランクが高いものらしくいつも関所はすぐに通過できる。

「ほら。ついたよ。ここがランテッドだ。この通りをまっすぐいくと街の中心にさっき見えた学校がある。人が多いから逸れないようにしっかりついてきてね。」

「うん。」

 私は頭が回らないながらもどうにか頷き彼のいう通り後ろをトボトボ歩きはじめた。周りを見てみると道の左右にはたくさんの露店が所狭しと並んでいる。魚や野菜などの食料品から衣類、ナイフなどの武器など種類は様々。そして道の真ん中には豪華な馬車たちが走っている。私は初めて経験する量の人並みの中で目を回しながらも横切る人々を避ける。彼に言われた通りにしようと思ったが歩いていくので精一杯。

 そうして数刻。やっと人の波が切れかかったところで気づく。私が見ていた彼の背中がなくなっている。周囲を見回してみてもいつも見ていた彼の姿が見当たらない。それどころか周囲の露店も無くなっている。どうやら逸れてしまったみたいだ。

 そう気づくと急に不安が心の中に侵食してくる。知らない街、知らない人たちの中で私は彼から逸れてしまった。彼は忠告までしてくれていたのに大勢の人に怯え、モヤモヤに支配され逸れてしまった。そう考えるとどんどん怖くなってくる。

 このままではダメだ。私は一旦道の端に寄り彼が探し出してくれるのを待つ。しかし一向に現れない。どうやらちょっとやそっとではなく完全に逸れてしまったようだ。

 ならば、彼と合流するためにどうすればいいだろうか。私は彼が先ほど言っていた話を必死に思い出す。しかしそのほとんどを聞けていなかったため覚えていない。何かないか、何かこぼしてないか。何度も会話をどうにか考え、塔のことを思い出す。そうだ。塔だ。私たちはそこに向かっていたのだから、そこに迎えばいつかは彼と会えるかもしれない。

 そう考えた私は近くの露天にいる優しそうな老婆から商品を購入し道を尋ねた。するとどうやら私は目指していた方向と全く違う方にきてしまっていたことを知った。

 全く。昨日からずっと変だ。私は。いつもならこんなミスしないのに。ああ彼は怒っているだろうか。忠告したにもかかわらずそれを聞かず逸れた私に愛想を尽かしていないだろうか。どうにも不安になってくる。それだけは嫌だ。私は彼の期待を裏切りたくない。不安に蝕まれながらどうにか老婆の説明の通りに歩き、もとの道に戻る。これでひとまず大丈夫。あとは一旦塔に向かってみよう。

 そう考えなるべく人を避けるため通りの端の方を歩いていると、先ほどは気づかなかった一つの露天が目に入る。店頭には私と同じくらいの年齢の少年が立っていて不慣れな様子で目をぐるぐるさせながら接客を行っていた。

「ありがとうございましたー。」

 どうにか対応できたらしく少年は頭を下げてお客さんを見送る。そして後ろを振り返り座って見ていた父親らしき人に話しかける。

「なんで急に一人でやらすんだよ。せめて横に立ってくれたらいいのに。」

 それに対し父親は笑っている。

「はっはっは。まあまあ。なかなか上手くできてたじゃないか。」

「あれでか?注文を聞き間違えて迷惑かけたし釣り銭だって間違えたのに。」

 再度父親は笑う。

「はっはっは。でもこれで何ができないのか苦手なのかわかっただろう。じゃあ次は簡単。今の問題点を直せばいいんだ。

「それができたら、困ってないよ。」

「大丈夫。できるまでこうして馬鹿にしてやるよ。」

 二人は仲良く喧嘩している。

 私はそれを見ていて不意に口から言葉が溢れる。

「いいなぁ」

 口に出てからそれに気づく。何を口にした?私は彼らを羨ましいと思ったのか?確かに親と子は仲が良さそうだしそれは私にはなかったものだ。でも今の私には彼がいる。私の師であり生き方を教えてくれた彼が。不満など一切ない。そのはずなのに私は何を求めているのだろう。

 私が私から急に溢れたよくわからない感情について混乱し始めたとき、どこからか声がした。

「おーい。ルー。おーい。」

 彼の声だ。どうやら私を探してくれているらしい。周りより一回り背が高い彼は群衆の中でも目立っている。私は急いでそこに向かう。彼も私に気づいてくれているらしく手を振っている。

 人の合間を縫ってようやく合流できた私を彼は連れて道の端に寄る。私はすぐに口にする。

「ごめんなさい。指示を聞かず逸れちゃって。」

 私は失望されることを怖がりながらも私を探してくれていた彼に謝る。

「いいんだよ。むしろこっちこそごめん。もっと君が後ろについて来れているかみるべきだった。」

 彼は私のことなんて一切責めずむしろ気遣ってくれる。私もそれに返さないといけない。

「ごめんなさい。そしてありがとう。」

 そういうと彼はにっこりと笑って頷く。

「さてじゃあ今度こそ学校に向かおうか。次はこの道じゃなくて、もう少し人の少ない道で行こう。さっきはすこし急ぎすぎた。」

 そういって彼は手招きをし大通りから外れた住宅街のような路地に入っていく。私は今度こそ逸れてしまわないように彼の背中を追う。

 何度か道を曲がりつつ、しばらく歩いていると大きな広場に出た

「さあ、ついたよ。ここがこれから君が通う学校だ。綺麗でかっこいいだろ。」

「うん。すごい」

 私はさっきのように、もやもやに支配されないよう気をつけて彼を見ている。

 すると学校の敷地から一人の老人が向かってきた。

「よう。よく顔が出せたな馬鹿野郎。」

老人は彼を見て眉間に皺を寄せる。

彼が困ったような顔をしているから、老人はおそらく話に聞いていた彼の友人だろう。しかし友人の久々の再会というには刺々しい言葉を放つ。

「数十年ぶりに連絡よこしやがったと思ったら、その子が例の子かい。」

 老人は私を一瞥しめんどくさそうに話す。

「ああ。ルーだ。」

 彼は私の背中を押す。私はなるべく丁寧に挨拶をする。

「初めまして。ルー・アルバです。」

 老人は嫌そうに私を睨みつける。

「ったく。散々迷惑かけて逃げておきながら、なんとも都合のいいやつだ。」

 老人は彼も睨みつける。

「その件は本当にすまない。」

「今更何を。もう取り返しつかないんだよ。お前の顔は見たくないんだ。話は終わりだ。」

 そういうと老人は私の手を掴み引き寄せた。

「言っておくが、こいつがどうなろうが俺は知らないからな。それでもいいんだな。」

「ああ。話はすでに済んでる。あとは頼んだ。」

「ふん。じゃあもうおしまいだ。さっさと行きな。」

 老人は彼を再度強く睨みつけ手で追い払う。

「ああ。ありがとう。」

 そう言って彼は老人に頭を深く下げると私の手をとり目線を合わせて話す。

「じゃあね。ルー。僕が力になれるのはここまでだ。あとは君次第だからね。大丈夫。君はすごいんだから、必ず成し遂げられるよ。」

 彼は私の手を一度いつもより強く握り締める。そして私の目を見て手を離し、立ち上がるとそのまま歩きだす。

 私は一瞬思考が停止してしまう。その間にも彼はどんどん遠ざかっていく。その背中を見て気づく。これでもう終わり?ずっと二人で来たのに。最後はこんなにあっけないの?私はそんな別れが怖くなり、老人の静止を振り切って彼を追ってしまう。

「待って。リシュー。もう少しだけ。待って。」

 私はどうにか追いつこうと一生懸命に走り彼の名を呼ぶが一向に止まってくれる気配がない。

 確かに彼とここで別れることは覚悟していた。それが夢のためだって。さっきの会話を見るに二人には何か事情があって彼はすぐに去らなければいけないんだろう。でも少しだけ。少しでいいから。立ち止まって振り向いて。そして何かいつもみたいに私が頑張れるように魔法をかけて。

 そう願った瞬間気づく。ああやっとわかった。そうだったのか。私の中にあるこのモヤモヤの正体は。感謝でもなく恋でもない。もっと幼稚なもの。でも私にとっての初めての感情。私は彼に見守っていて欲しいんだ。今までのように私を褒めたり注意したり励ましたり。あの露店の親子を羨ましくなった理由が今ならわかる。私は彼にあの親子のような関係でいてくれることを求めているんだ。すぐ近くで成長を見守っていて欲しいんだ。まるで本当の父親のように。ああ、私は怖いんだ。これからが。そして寂しいんだ。彼が隣でいつもの優しい笑顔でいてくれないことが。ああどうすればいいのか。これから私はあなたなしで生きていなかければいけない。でも私は到底あなたなしでは生きていけない。

「待って。リシュー。」

 走りながらまともに息も吸わずに出した声は嗚咽のようで彼には届かない。背中が遠くなっていく。あの大きくて温かい背中が。

 その背中を見つめているといつの日か、私が恐怖で腰を抜かし彼の背中に背負われて帰った時に話した時を思い出した。



「そんなに怖かったのかい。」

「そりゃそうよ。あんな崖を下るなんて。私そんなやり方教わってないもん。」

「はっはっは。君は素直だね。でもねルー。僕は君に崖の登り方を教えただろ。だからできるんだ。だって逆のことをするだけなんだから。」

「そんなこと言ったって、急にできないよ。」

 幼い私は不貞腐れている。

「確かに崖を下ることは難しいしとても危険だ。今日だって僕がいなかったら危なかったかもしれない。でもね、ルー。僕は君とずっと一緒にはいられないんだよ。君は君の人生を、僕は僕の人生を生きていかなければいけないのだから。今は二人の人生がたまたま重なっただけなんだ。だから、これから一人で挑戦してどうすればいいのかわからなくなった時は君自身が考えいてくしかないんだよ。今まで学んだこと、経験したことからなるべく正確に予測する。そして対策を立てる。君にはそれをしないといけない時がきっと来るんだ。だからこそ。君には身につけてほしいんだ。僕がいなくても一人で生きて生ける方法を。そのための知識や技術はぜーんぶ君にすでに教えたよ。だからあとは君次第なんだ。君なら大丈夫だよ。ルー。」



 そうだ。そうだった。すでに彼は私に彼の全てを教えてくれているんだ。どんなところでも生きる手段や常に気をつけるべきルール、人生の楽しみ方まで。そうだ。これからの私の人生は私次第なんだ。私は彼なしで生きていかないといけないんだ。彼に恩返しできるようになるためにも。全て持ってる!

 そう考えるとこれまでの全ての不安、寂しさ、弱さがが一気に消し飛んだように肩が軽くなった。そうして深呼吸する。これで本当に言いたいことだけが思い浮かんだ。私が今、彼に伝えておきたいこと。

「リシューーーーーー!今までありがとうーーーーー!私、自分で考える!私はもう大丈夫。いつかあなたに誇れる私になったら会いにいくからーーーー!だから今はいい!ありがとう!」

 なるべく大きな声で。出したことがないくらいの大きな声で伝える。恥ずかしさなんて気にしない。ただ彼に伝わるように。

 するとリシューはこちらに振り返らないまま、ただ右手を真上に思いっきり上げてくれた。

 よかった。これでよかった。全部伝えられた。これでもう大丈夫。モヤモヤも不安も悔いもない。

 そう思うと私は彼の小さくなっていく背中を追うのをやめ、振り返る。そして老人の元に戻る。

「今日からよろしくお願いします!」

 いつの間にか小雨は止み、日差しが塔の窓を通り抜け私に差し込んでいた。どこからか陽気な鳥の鳴き声が聞こえる。私は覚悟を決め前を向いていた。


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