黄色、丸
懐かしい匂いがしたので顔を上げると、彼が熱心に何かを描いていた。
「何を描いてるの?」
私は不思議に思って彼に声をかける。
だが彼にその声は聞こえなかったらしい。彼はずっと熱心に椅子に座って、こちらに体の正面を向けて、大きなスケッチブックに鉛筆を走らせている。ザラザラと紙の上を走る鉛筆の音が、ただ部屋に響く。
私はもう一度声をかけようかとも思ったけれど、一度集中すると、例え聞こえていたとしても返事をしない人だ。私はただじっと、目の前の彼の挙動を追いかけることにした。
彼はひたすらに描き続けている。鉛筆は止まらない。時々、隣の大きな机の上にある練り消しを取って紙に擦り付けるくらいで、それ以外にはこれといった行動はない。ひたすらに鉛筆を走らせ、練り消しを使い、そしてまた描きだす。
右足を上に組んで、左手でスケッチブックを支えているその様子がとても綺麗で、私は見惚れてしまっていた。
彼の手先も眼差しも、少し目にかかった前髪も飴細工みたいに透明で美しい。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
開けっぱなしにしていたベランダの窓から、ゴォっと春の柔らかい風が部屋の中に吹き込んできた。
窓辺に吊るしっぱなしになっている季節外れての風鈴がりんりんと鳴り、カーテンが優しく揺れて影を落とす。
バサバサバサと、机の上に置きっぱなしになっていた原稿が舞い上がり、私はあっ!と声を上げる。
「待って。」
紙を追いかけようと立ち上がりかけた時、そう声がして、私は言われた通り、動きを止める。
「、、もう少しなんだ。お願い。」
「もう少しって、何が?」
私は先ほどから気になっていた質問をするが、彼にそれは聞こえていたのかいないのか、また空中にほったらかしにされてしまった。
私はとりあえず言われた通りに座り直し、ベランダから吹き付ける薫風のゆらめきを手で捕まえる。そして彼に向けて、ふうーっと息を吹きかけてみる。
「何してるの?」
彼が興味深そうに、面白いものを見たといった感じで話しかけてきた。私はそれには答えず、ただ彼が描き続ける何が出来上がっていく様子を眺める。
そうして数時間が経ち、日が西に傾いてきた頃、
「出来たっ!」
と彼は嬉しそうに声をあげ、スケッチブックを両手で掲げる。その顔はどこまでも晴れやかで、無邪気な子供のような輝く笑顔に溢れている。
昼間の街の暑さを含んだ西陽が、部屋を鮮やかなオレンジ色に染めようとしていた。
少し暑い。そう思い、椅子から立ち上がって遮光カーテンを閉めに行く。
「あっ!待ってよ!閉める前に、」
そう言われて、私は立ち止まる。
「なーに?ずっと黙って座ってあげてたんだから、早く見せてちょうだい?」
「ふふっ。はい。これを君に。」
そう言って彼は両手で掲げたそれを、私の方へ差し出す。
そこには、人が描かれていた。
椅子に座り、右手にペンを持ち、一心に机を睨みつけている絵。いや、正確に言うと、机の上の原稿用紙を、だ。
私??
思わず、息が止まる。
彼はずっと、これを描いていたのか。
まるで、知らない誰かみたいに見える。
とても、現実離れした絵。
線は荒く、細かく、濃淡をはっきりとさせながら、時にぼやけさせながら、激しく静かに波打っていた。
この世の全ての光を集めれば、きっとこういう絵になるんだろう。
ぽっと、そこには光が灯っていた。
その光に焦がされて、私は信じられないくらいに恥ずかしくなり、嬉しくなり、胸がいっぱいになり、世界がぐわっと迫ってきた。
この世の全ての幸福が、今、目の前に現れた。
両手で包み込みながら受け取って、体の中に染み込ませる。
じんわりと温かくなって、私は光に包まれる。
彼とこの幸福を味わいたくて、私は声をかける。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
へらっ、とはにかむ笑顔で、彼は光を受け取った。