第一話 転生する
第一話 転生する
頬を撫でる風で俺は意識を覚ました。
目に映るのは真っ青な空と零れ落ちそうな雲。
あまりの心地良さに俺は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出し空気の美味さに驚く。
都会暮らしの俺にしたら、早朝に吸う空気の冷たさくらいが美味さを感じる一瞬だった。
それとて煙草を吸い続け、不摂生に生きてきた五十三の俺には、今吸った痛いほどの清々しい空気に違和感を感じ、横たわっていた体を起こし辺りを見渡す。
(おいおい…何処だよここは)
会社のPC画面の壁紙みたいな雄大な風景が目の前に広がっている。
そこで俺は、自身の身体の違和感にも気付いて慌てて体を弄ると、五十三のオッサンでは有り得ないスベスベした感触が伝わり、目に映る手足が、体が多少メタボな見慣れた俺の体では無いのを理解して愕然とした。
俺は脳をフル回転させ現状を把握しようとした…が、結局弾き出した答えは有り体に言えばチープな答えだったのだ。
転生
厨二病とは縁もなく生きてきた筈の俺にも思い当たる位、転生と言う言葉は一般的に使われている。
書物、映画、テレビ等を始め、宗教の中にも使われる転生と言う言葉はそれなりにメジャーだ。
これが異世界転生となると最近社内でも若い社員の言う所の、ライトノベルと言うジャンルの書籍のかなり多くの作品に使われているワードらしい。
若者文化を知る為に俺もライトノベルを…と若干ネット小説を漁った俺が考えた末の結論に、転生を出す程俺は困惑していたのだ。
「お疲れ様でした部長」
定時で終わった業務に満足し会社の門を超えた所で、部下の長峰に声を掛けられた。
「ああ、ご苦労様」
「あの、部長少し御相談が有るのですが…お時間平気でしょうか?」
「かまわんが…君は車かな?」
「いえ、電車通勤です」
「そうか、なら丁度良い。駅前に行き付けの店が有るからそこで良いかな?」
「は、はい」
昭和から平成、そして令和と元号が変わり大手には届かないが、そこそこの商社に努めていると様々な人間と出会う。
それは部下を持つ立場になってからより顕著に感じるところだ。
自分に合わない職場に留まる意味が無いらしく、昨今では直ぐに退職願いを出す人間が多くなって来ている。
多分それぞれに考え抜いた結果として退職願いを出しているのだろうと思いたいのだが、どうやらちょっと気に入らない事があれば何ら改善の意思も行動も起こさず、名刺の如く出す者が増えてきているようだ…と課長職に居る者からよく聞く相談事だ。
テーブル席に座り、ビールを一口飲み椅子に座る長峰を見る。
この長峰と言う若者は直接の部下では無いのだが、入社四年にして社で進めている大きなプロジェクトに加わる程有能な男だ。
(さて、どんな相談だろうな…)
直接の上司では無いので辞表を手渡される事は無いだろう。
プロジェクト関連の相談だろうか?
長峰はビールを飲み干し、意を決したように口を開いた。
「部長、実は私此の程結婚する事になりまして」
「ほう、それはめでたい」
「じ、実は部長に仲人をお願いしたいのです」
「…なに」
長年会社勤めをして来て、俺に仲人を頼んできた人間は初めてだった。
これは俺が気難しいとか言う理由では無く、俺自身が未婚で有るのが理由である。
中堅の商社とはいえ、部長職の立場にいる男が未婚者なのは珍しく、過去には色々と好ましく無い噂も立てられたのだが、現会長の一言で部長昇格した経緯がある。
仲人役は大概既婚者と相場が決まっているようなので、俺に仲人役を頼む者は現れなかったのだ。
「何故俺なんだ?君なら直接の上司の田島君に頼むのが筋だろ」
「はい、そうなのですが…実は田島課長は近々離婚されるそうなんです」
これは俺の耳にまだ入って来て無かった情報だったので軽く驚く。
「そうか…で、何故俺なんだ?俺は未婚だぞ?」
「あ、既婚者とか未婚者とかは余り私は気にしませんし…逆に未婚者で役員にまでなった部長に仲人をしてもらう方が嬉しいです」
「相手の女性はどうなんだ?」
「ちゃんと部長の事を話しましたし、彼女の御両親も部長ならばと」
「ん?相手のお嬢さんの御両親は俺の事を知ってるのか?」
長峰は肯く。
「実は彼女の御両親は白沢社長なんです」
俺は食べていた枝豆を喉に詰まらせ咳をする。
「だ、大丈夫ですか部長!」
「大丈夫…」
俺はビールを飲み枝豆を流し込んだ後、フーッと一息吐き改めて長峰を見る。
(いや、なかなか驚かしてくれるやつだな…)
「そうか、社長が良いと言うなら断る理由などないな」
俺がそう言うと長峰がホッとした様な顔して枝豆に手を伸ばした。
そう、確かこの辺りまでの記憶がある…
それが何故この場所に、この姿でいるのか理解出来なかった。
転生ならば俺は死んだ事になるのだが、その記憶が無いのだ。
即死に繋がるような身体的病気は持っていなかったし、車が店内に飛び込んで来て即死…とかは店の造り上有り得なかった。
(原爆が……)
馬鹿馬鹿しい想像が頭を過ぎるが、記憶が無いので余りそれに時間をかけるのも無駄であろう。
俺は軽くジャンプする。
(身体が軽い…かなり若い肉体だな、多分10歳程かな…)
着けている衣服は見た限りそれ程高価な物には見えない。
(転生って赤子からじゃ無いのか?)
俺はふと重要な事を思い付き、ズボンの中に手を入れホッと息を吐いた。
余りの肌のスベスベ感に自分の性別が分からなかったのだ。
女性に何ら含む所がある訳じゃないが、五十三年間男として生きて今更女になりましたとか、俺のボンクラ脳では対応出来るとは思えない。
次に確認しなければならないのは此処が何処なのか…だ。
ふとズボンのポケットに何かが入っているのを感じ、手を入れて出してみるとスマートフォンタイプの携帯端末だった。
見覚えない機種だったので、勝手に電源を入れて良いものかと躊躇したが、携帯端末ならどこかしらに連絡が付く可能性がある為、敢えて電源を入れてみる。
画面が淡く光るとホーム画面に2つのショートカットが置いてあった。
一つはメール管理アプリ、もう一つは冒険者の手引と言うアプリのようだ。
携帯端末の画面をあれこれ操作してみたが、その他のアプリが現れることも無く、不思議な事にバッテリー残量表示や時間、電波状態を示すマークも見当たらなかった。
(玩具…なのかこれは?)
試しに冒険者の手引と言うアプリのショートカットをタップしてみたがアプリが起動しない。
(やはり玩具かな…)
メールのショートカットをタップすると、アプリが開き画面にメールの受信トレーだけが表示された。
受信トレーに一通のメールがあるようだが、はたして見て良いのかあれこれ悩んだ末に、俺は誰の物かもわからない携帯端末のメールを開くことにした。