8 ヴァルトブルグのためじゃなくて
数日後、仕事のためにテオが去り、屋敷はまた静かになったように感じられた。たった2人の増減なのに、ここまで屋敷の雰囲気が変わるように感じるとは。クラウディアはその変化に驚いていた。
テオたちが戻るのは、おそらく2週間後くらいだろう。仕事に片がついたら連絡してくるのがいつものことだった。
クラウディアはカレンダーを見る度に、次はいつテオが来るのだろうと考えてしまうことが多いことに気づいていた。仕事をするのはいつもと変わらないはずなのに、何か足らない感じがするのもわかっていた。1人でとる食事が、何か虚しく感じるのもわかっていた。
しかしそんな気持ちになるのは何故なのか、深く考えることまではなかったのだった。
「カール、どうしたの?」
執務室にいたクラウディアは書類から目を外し、焦りながら部屋へ来たカールへ目をやる。
「早馬が今来まして、今からフェリクス様がいらっしゃるとのことで」
「え?フェリクス?」
「フェリクス様です」
クラウディアは聞き直す。その名が、聞き馴染みがあるものの、信じられない人物だったからだ。
フェリクス。フェリクス・フォン・ヴェーラー。この前クラウディア達が会った、親戚のヴェーラー公爵の長男で、クラウディアからすれば兄のような存在の人だった。クラウディアも憧れる優秀な人で、学生時代は優秀な貴族の子女しか入れない隣国のアカデミアに留学していたほどだった。しかし、ここしばらく外務の仕事で隣国へと派遣されていたはずだった。クラウディアも一年ほど会えていなかったのに、いきなりとは。
いきなり訪問してくるのではなく、きちんと早馬を送ってくるところがフェリクスらしい、とクラウディアは笑った。
「フェリクスが来るなら、貴賓室にお茶を用意してくれる?」
「かしこまりました」
親戚の兄なのだから、そこまで気負う必要もない、とクラウディアは伸びをした、のだが「フェリクス様がいらっしゃいましたー!」と走りながら部屋へ呼びに来た侍女に、2人して慌てて部屋を出たのであった。
「クラウディア!」
玄関ホールで立っていた男は、大きく腕を広げた。クラウディアは、それに応えるようその腕の中に収まる。
「大きくなったな、元気していたか?」
「元気よ。フェリクスも元気そう」
軽いハグをし、クラウディアはフェリクスの顔を見上げる。フェリクスはヴェーラー公爵にそっくりの亜麻色の髪色に鳶色の瞳をしているが、目の形だけは公爵夫人に似て、穏やかだ。
親戚のクラウディアの前では、話し方もかなり砕けていてぶっきらぼうにも聞こえるが、安心して話すことができた。
「さあ、話してもらおうか。クラウディア。なぜ俺がここまで早馬を飛ばしてきたかわかっているよな」
そして似ているのは容姿だけでない。ヴェーラー公爵の明晰の頭脳も、フェリクスは見事に受け継いでいる。このフェリクスには、幼い頃からクラウディアはどうしても勝てる気がしなかった。
クラウディアは気まずそうに、「……はい」と答えるしかない。
おそらく婚約のことだろう、とクラウディアにはわかっていた。フェリクスは昔からクラウディアのことを気にかけてきてくれていた。だからこの度‘婚約が決まって、さぞ驚いたに違いなかった。それもあの仮面舞踏会での婚約に。
貴賓室の人払いをし、扉を少し開けておく。未婚の男女が2人きりになってしまう時のマナーだ。
「父上から少し話は聞いたけれど、おそらくそれは全て事実じゃあないよな。俺にはきちんと話してくれ、クラウディア」
ソファーへ座ったフェリクスは、少し厳しい表情で、鳶色の瞳を向かいのクラウディアへと向けた。クラウディアはフェリクスのことを尊敬しているが、この表情のフェリクスはどうも苦手だ。全てを見透かされそうな気がしてしまう。
「だいたい、……スベテ、事実デスヨ」
「嘘つき。もうお前は基本嘘をつけないんだから、そうやって無駄なことをするのはやめるんだ」
長い付き合いだから、クラウディアの表情を見ただけで、どう思っているかよくわかってしまうのだろう。
「先に確認しておこう。クラウディア。お前は王子に執心だった、とハンナからも聞いている。あの仮面舞踏会の日も、王子に告白するのだと、みんなが止めるのも聞かずに出掛けて行ったんだったよな」
「……はい、そうです」
あの仮面舞踏会の日。クラウディアは「愛の日」だから今日で決めるのだ、と意気揚々とこの屋敷を出た。カールやハンナはもちろん全力で止めてきたが、それを無視して。
「それで、なぜかその日帰ってきたら、違う男と、それも平民と婚約して帰ってきた」
「……おっしゃる通りです」
仮面舞踏会を見送った者の立場からすれば、そう見えるはずだ。たった一晩で考えをころりと変えてしまった、と。
「おかしいよな、クラウディア。その男、初めて会った人間だろう?屋敷の誰もがその男を知らないんだから」
フェリクスが言いたいのは、あれだけ王子に執心していたクラウディアが初対面の男と婚約をして帰ってきたという事実は、明らかに不自然だということなのだろう。
きっとこの前ヴェーラー公爵も同じことを思っていたのだろう。それでも若い男女だから何があってもおかしくはないと考えて、その不自然な部分を見ないことにしたのかもしれない。だが、フェリクスは細かいところを突いてくる。
「何があったんだ、クラウディア。その男と婚約する前後に」
じっと見つめられ、クラウディアは蛇に睨まれた蛙の状態だ。どこからどう話そうかと黙っていると、テオは小さくため息を漏らす。
「目がキョロキョロしてるぞ、クラウディア。いいか、正直に話すんだ」
フェリクスには敵わない……クラウディアは観念して、少しずつ話し始めるしかない。
「ワインで倒れている間、王子に全財産の没収を命じられた夢を見た、と」
「はい……」
「それで、全財産を没収されないために、自分のことを知らない男に告白してその場を逃れようとした」
「はい……」
「王子たちからは許されたが、もう婚約させられていて後には引けない状態になった、とな」
「はい……」
もうクラウディアは縮こまるしかない。フェリクスはきちんと弁えている人だから、このことを誰かに他言することはないとは思うが、表情からしてそれでも呆れられていることは間違いない。
「それで、婚約者とは婚約破棄できずにいまだにそのままなんだな?」
「そう、なんだけど……」
「だけど、なんだよ」
このフェリクスの言い方だと、自分が婚約破棄を望んでいるように聞こえてしまうが、今はその気持ちがよくわからなくなっている。しかしそれをどうフェリクスに伝えればうまく分かってもらえるのか、自分自身の気持ちも整理できていないのだから、どう言い様もなかった。
「よくわからなくて」
クラウディアはただそれだけを呟く。フェリクスはハーっと大きなため息をついた。
「まあクラウディアのことだ、どうせ自分を知れば嫌われるはずとか思っていたけど、向こうが言い出さなくてそのままにしているんだろ?」
クラウディアの自己肯定感がどん底であることを知っているフェリクスはそう言った。
「そうなんだけど……」
それは事実で、この前まではどうせすぐに婚約破棄してくるだろうと思っていたけれど、でも、今は……
今は、何?今は私、何を望んでいるの?
クラウディアはフェリクスの言葉に自問自答をするものの、残念ながら時間内にその答えは出てこなかった。
「手伝ってやろうか?向こうから婚約破棄を訴えてきて、それでいて平和に婚約を破棄できるように」
今、フェリクスの言葉に「お願いします」といえば、きっとフェリクスはその賢い頭脳で最も良い行動をしてくれるのだろう。それはわかっている。でもクラウディアは「お願いします」とは即答できなかった。
クラウディアの答えが来ないことに、フェリクスはため息をつく。
「クラウディア、あの時知らない男となんて婚約なんてしなくてもよかったんだよ。俺と婚約することになった、とか言って後で連絡とって帳尻合わせればよかっただろ?」
「それは全く頭になかったです……」
「あ、そう」
クラウディアは目から鱗の考えだったが、その時はフェリクスのことなどかけらも頭になかったのだが、しょうがない。フェリクスは少し不服そうな顔をしている。怒らせただろうかとクラウディアは顔を窺った。
「平民と結婚して、そいつに爵位をやるのか?そこはどう考えているんだ?」
爵位の継承問題。それはいまだにクラウディアを悩ませるものだった。クラウディアがヴァルトブルグ侯爵代理である所以。それはクラウディアが女であることだった。
クラウディアが10歳の頃、侯爵である父、そして継承するはずだった兄を亡くした。この国では男しか爵位を継承できない決まりになっているが、ヴァルトブルグ家には継承できる男はもういない。爵位を返上するか、ヴェーラー公爵へと譲るよう迫られていた。
しかしヴェーラー公爵の口利きもあり、クラウディアが結婚をし相手に爵位を渡すか、その子供に爵位を渡すまで、クラウディアが侯爵代理となり、ヴェーラー公爵が監督するという形で収まったのだ。
つまり、もし結婚をしたらヴァルトブルグ侯爵を、テオに譲るという可能性がある。
「正直あんまり、考えていなかったわ」
クラウディアは、つぶやく。今のこの生活で一杯一杯で、テオに爵位を譲ることなんて、頭になかった。
「俺は直接そいつと会っていないからわからないが、よく知らず婚約して、どうしようもない奴に爵位を取られる可能性だってあったんだぞ」
「でも、テオは……そういうのに興味がなさそうだし、私のことを知らずに告白を受けてくれて……だから爵位狙いの人間ではないと思うの」
「そうやって言っている時点で、絆されてしまっているんだよ」
クラウディアが周りの貴族たちから「金狂い」と嘲笑されようが、今まで必死で守ってきたヴァルトブルグ侯爵領。それをこの前まで見ず知らずの、平民に渡すことになるという重みをクラウディアは理解しきれていなかった。
でもテオは爵位目当ての人ではないはずだ、とクラウディアはこの2ヶ月ほどで感じているし、テオ自身も爵位の話に触れたことさえない。興味がないのかもしれないし、もしかしたら平民だから爵位を貰い受けるという考えも頭にないのかもしれない。
「俺は一ヶ月の休みを取れたから、お前の婚約者がここに来るときにまた来る。どういうやつか、きちんと俺自身の目で見ないと、安心できない」
クラウディアの目を見て、フェリクスは言った。この目をするフェリクスにはどう言っても反論できない。クラウディアは黙って頷いた。テオのことを知ってもらえば、フェリクスも安心するに違いない。
とはいえ、フェリクスの仕事は激務だとヴェーラー公爵からも聞いていた。それなのにヴァルトブルグ侯爵の継承権のために一ヶ月も休みを取ってもらうとは……。クラウディアは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「フェリクス、ごめんなさい。ヴァルトブルグ領のために……一ヶ月も休みを取るなんて、大変だったでしょう」
「いや、ヴァルトブルグのためじゃなくて……」
フェリクスはクラウディアの瞳をじっと見た。
「?」
「ヴァルトブルグのためじゃなくて、それは……」
フェリクスは何か言いたそうにしていたが、途中でやめてしまう。
「まあ、いいや。向こうからここに直行してしまったから、一度公爵邸に戻るよ。また来るから」
首を横に振ると、フェリクスはクラウディアの頭を少し乱暴に撫でたのだった。
そうして、フェリクスは風のように現れて、そして風のように去っていったのだった。
クラウディアはどうすればフェリクスがテオのことを理解してくれるのだろうと、見送りながら考えていた。