5 罪悪感、でも少しだけ嬉しい
クラウディアとテオの生活は、特別なことは何もなかった。
朝に時間が合えば一緒に食堂で朝食をとる。その後クラウディアは執務室で仕事をして、テオも持ってきた仕事を部屋でしているらしい。クラウディアは通して仕事をしてしまうタイプだったので、昼は一緒に食べないことが多かった。夜は一緒に食堂で食事をとり、話をする。その後は部屋の前で別れる。
クラウディアにとっては、気楽なものだったが、婚約者同士であるというよりはまるで、ただの同居人のようだった。
婚約ってこんなもの?とクラウディアは思うが、一度も婚約したことがないし、婚約した人と話をしたこともないのでクラウディアはこれが通常なのかさっぱりわからなかった。
テオと話すのも、だいぶ緊張がなくなってきた。ハンナは「友人だと思えば」と言っていたが、そこまでではないものの、いちいち緊張しなくてもいいのは楽であった。
テオから破談する気配はなさそうだが、クラウディアは何か自分から行動を起こすべきなのか決めかねていた。
「本当に、大丈夫ですか?」
クラウディアは本日何回目かの質問をテオに投げかける。
「大丈夫ですよ」
「具合が悪くなったらすぐに言ってくださいね。帰りますから」
そのやりとりも何回目かだ。
今日はクラウディアが領地の視察に行く日だった。ヴァルトブルグ侯爵領は農業や酪農業が盛んな場所である。肥沃な大地は、小麦の産地として名が通っており、その大地で生まれた草で育った家畜達も評判が良い。しかし農業は、天候に左右されやすいという難点がある。クラウディアにとってそれを解決することが目下の課題であった。
いかんせん田舎であるから、馬車道も王都と比べると良いとは言えないし、さらに家畜特有の匂いもある。クラウディアにとってはもう慣れたものだったが、テオのようにおそらく良い家の生まれであれば、快適であるとはいえないだろう。
それゆえに、テオが視察についていくというのをクラウディアはとても不安に思っていた。
本日のクラウディアの服装は、動きやすく汚れてもいいような古いドレスと、つばの広い飾りもない帽子だった。テオも汚れるかも知れないと伝えると、とても楽そうな服装にわざわざ着替えてきた。
「とても楽しみなんです。貴女の領地を見るのが」
「そう言っていただけると、私も嬉しいです」
領地を褒められて悪い気はしない。テオはいつだってクラウディアに対して褒め上手だった。
お尻が痛くなるような凸凹道を、侯爵家の馬車は走っていった。
「クラウディア様ー!」
外から声が聞こえて、御者が馬を停止させ、馬車のドアを開ける。クラウディアはテオを気にせず、外へ出る。ここで、テオに外に出るか聞けば、きっとテオのことだ、わざわざ外へ出てきてしまうだろうから。
声の主は、小麦の作業していた農夫で、クラウディアの顔見知りだった。農夫は一度帽子を取り、クラウディアに挨拶をする。
「こんにちは。どうですか?小麦の調子はいいですか?」
「今年はだいぶいいですね。肥料を少し変えたのがよかったのかも知れないです。今年はさらに期待できそうですよ」
農家の男にもクラウディアは気軽に話しかける。
「あれ?そちらの男性は?」
いつの間にか、外へ降りて来ていたテオに気づいた男は、驚いた表情を浮かべる。それはそうだろう、こんな眉目秀麗な男はそういないだろうから。
「こんにちは。私は、クラウディア嬢の婚約者です」
「!!!」
まさかの自己紹介をしてしまったテオを、クラウディアは驚いた表情で見つめたが、テオはニコニコいつもの柔らかい笑みを浮かべたままだった。
「く、く、クラウディア様の婚約者ぁ!?」
男はかなり驚いた様子で、「おーい!みんな、クラウディア様が大変だ!」と仲間を呼び始める。その慌てた様子に近くで農作業をしていた人々が続々と集まってきてしまった。
「クラウディア様が、婚約だって!」
「なんとまあ!あんなに小さかったクラウディア様がねえ」
「大人になったもんだ、嬉しいねえ、嬉しいねえ」
「今日は酒を飲むかなあ、めでたいめでたい」
「先代の侯爵様もさぞお喜びだろうに」
クラウディアを小さい頃から知る農民達は感無量の様子で、クラウディアとテオを交互に見ていた。クラウディアはまさかこんなに祝われるとは思っておらず、顔が赤くなるのを感じる。テオは笑顔のままだ。
「お似合いじゃあないか。クラウディア様、よかったですねえ」
「クラウディア様のようにお優しい方はなかなかいないから、羨ましいな!旦那」
「クラウディア様が貴族じゃあなかったら、うちの息子と結婚させたかったのに、残念だねえ」
農民達の言葉遣いは丁寧なものではなかったが、クラウディアにとっては何よりも嬉しい言葉だ。しかし、同時にこの婚約はおそらくもう少しで破談になるであろうと思うと、申し訳ない気持ちになってくる。
「私も、クラウディア嬢と婚約できてありがたいです。素敵な女性ですよ」
お世辞だろうか、テオは平然と言ってのけてしまう。全く褒められ慣れないクラウディアは、口をパクパクさせることしかできなかった。
一通り祝われた後、馬車でまた次の農地へと向かう。行くところ行くところ、そのやりとりが続句ことになってしまった。流石のテオも疲れただろうと、クラウディアはテオに声をかける。
「テオ様、大変でしょうから、外へ出なくてもいいんですよ。農家の人たちも、目上に対する言葉があまりよくないですし……」
「いえ。私も婚約者を自慢できるので嬉しいです」
あまりにリップサービスが凄すぎる。クラウディアは、顔を真っ赤にして俯いた。
「行くところ行くところ、クラウディア嬢に好意的な領民ばかりで、驚きました。素晴らしいですね」
「そういう田舎だからですよ」
都会の方ならば、人口が多いので領主のことをあまり知らない人間も多いだろうが、ここはそこまで人口が多くない。そのためクラウディアが直接会って話せる機会も多かった。
「貴女は欠かさず領地の視察に出て、様子を見ていますよね。税を作り出すのは人の力なので、そこに住む人たちからの信頼は大切なことだと思っていますよ」
テオが感心したように言うのを聞いて、クラウディアは意外でしょうがない。
「……テオ様は、女が領地視察に行くことが、嫌ではないのですか?」
今までこのことで何度呆れられてきたことか。無駄なことばかりして税さえ集めれば良いのだと、何度遠回しに罵られたことか。
こうやって肯定的に認めてくれることが、クラウディアにとっては信じられないに等しい。
「侯爵である貴女の仕事でしょう?何が嫌なんですか?」
「今まで、そう言ってくれた人がいなかったので……びっくりしてしまったんです」
テオは窓の外の広大な小麦畑を見た後、再びクラウディアの目をじっと見た。
「こんなに慕われる人を見て、嫌がる理由がわかりません。婚約者であることを誇りに思うくらいですよ」
クラウディアは、顔が赤くなるのがわかる。こういうことに不慣れだからに違いない、と自分に言い聞かせる。こんなに心臓の音がうるさく聞こえるのも、褒められ慣れていないせいだ、と。
「えっと、あそこに見える塔のようなところが、小麦を保管する場所で……」
クラウディアは、テオの温かな視線にいてもたってもいられず、外を指さして誤魔化したのであった。
「ここが、ヴァルトブルグ家の品種改良研究所です」
本日の目的地である一般の家屋よりも大きい建物の前で、クラウディアはテオに言った。
クラウディアは馬車から降りると待ち侘びていたように男が立っていた。
「こんにちは、シュルツさん」
クラウディアはそのひょろりとした白髪混じりの中年の男に挨拶をする。
「おお、クラウディア様。お待ちしておりました。こちらの殿方は?」
「こんにちは、初めまして。クラウディア嬢の婚約者です」
シュルツと呼ばれた男は、農夫達のように驚き、そしてテオを大歓迎する。そのやりとりに、クラウディアもいい加減にしてほしい……と思いながらも、その時間が過ぎ去るのを待つしかない。
「ここの施設はどんな施設なんですか?」
テオが建物の中を見渡しながら聞いてくる。この中には、さまざまな小麦がプランターの中に植えられていた。
「この施設は先先代の侯爵様が考案された、さまざまな小麦を掛け合わせて、新しい種類の小麦を作り出すという研究施設なんです」
シュルツが代わりに答える。
「……それは新しいですね、素晴らしい」
テオはその小麦を見ながら感服したよう呟いた。
「婚約者様、こちらをご覧ください。こちらの小麦は今研究中ですが、倒伏しにくい品種に改良しているのです。ほら、風雨で倒されるが多いですから。またこちらはですね、害虫に強いようにしているんですけどね」
シュルツの説明に気合が入っているのは気のせいだろうか。クラウディアは苦笑いで説明を一緒に聞いていく。テオはとても関心があるようで、まじまじとその小麦を見つめていた。
この国では品種改良というのはまだまだ普及されていない考えだった。祖父である先先代の侯爵は品種改良というよりもまずは肥料を研究したいとこの研究所を設立した。その後それを父が引き継ぎ、今度は新しい小麦の開発をしようとしていた。
そしてクラウディアがもっと幼い頃、小麦が倒れることや害虫に弱いことなどに頭を悩ませていたクラウディアの父に、思いつきで掛け合わせて新しい小麦を作れないかと言ったことがこの品種改良研究所の新たな始まりだった。
品種改良して小麦を作ることは、一朝一夕に完成というわけではない。長期的な見通しを持てるようにヴァルトブルグ家がその施設を管理し、研究し続けていた。
「このような小麦が流通すれば、農民ももっと良い暮らしができるでしょうね。まだまだ課題はあるけれど」
クラウディアが独り言のように呟く。
農民の暮らしはまだまだ良いものとは言えない。ヴァルトブルグ領では、農民への支援もあり、食べるものに苦労しなくはなってきたが、それでも主食である小麦のパンはまだまだ高級品で、ライ麦などを混ぜたパンが多い。
クラウディアにとっては、美味しいものをお腹いっぱい食べられる環境こそ、ヴァルトブルグ侯爵家の目指す領地であると思っていた。
「クラウディア様の目は、一歩先を見ていますからね」
シュルツはクラウディアの独り言に答えた。そしてテオを見て、話し始める。
「失礼な話ですが、この国の貴族でクラウディア様の考えについていける方はいないと思っていましたよ。『金狂いのクラウディア』なんて通り名をつける愚か者しかこの国の貴族にはいないと思ってましたから。だから婚約者様のお目が高い」
クラウディア・ヴァルトブルグ侯爵代理の二つ名、『金狂いのクラウディア』。シュルツは貴族ではないものの、裕福な家庭の生まれで貴族に近いため、その噂を知っていつも憤慨していてくれている1人だった。
「シュルツさん。テオ様は、貴族ではないのよ」
「ああ、そうでしたか。それでも素晴らしいことです。婚約者様、クラウディア様を大切にしてくださいね。おめでとうございます」
シュルツは、テオが貴族であるかないかはさほど問題に感じていないようだった。シュルツは、改めてクラウディアたちへ祝福の言葉を述べ、手を差し出す。
テオはその手を取って、
「ありがとうございます」
と返した。
今日、何度目の祝福の言葉だろうか。素直に喜んでくれる人を騙しているような罪悪感、そして少しだけ嬉しくもあった。自分のことを大切に思ってくれている人が、こんなにたくさんいるのだと、クラウディアは実感できる。
しばらく研究施設での小麦の成長具合を確かめた後、クラウディアたちは馬車で帰宅する。
黄昏時の黄金色の小麦畑は何よりも美しい。クラウディアは帰りの馬車の窓から外をじっと眺めていた。
「クラウディア嬢、今日は貴女の素晴らしさを知ることができた良い日でした」
クラウディアに話しかけるテオの金色の瞳も、小麦畑のように夕日で煌めいているようだった。クラウディアはなぜかその瞳を直視できず、顔を車窓へ向けるしかなかった。
「そんなことはないです。テオ様にこの土地の良さがわかってもらえたら嬉しいです。私、この景色がとても好きなんです」
「私も、この景色が好きになりました」
婚約を破棄してくれるのだろうかなんて考えは、この時限りはクラウディアの頭の中からは消えていたのに、クラウディアは気づくことはなかった。
クラウディアは少しでも馬車が到着するのが遅くなればいいのに、とぼんやりと考えていたのであった。