3 いつもの朝、ですよね?
クラウディアは目を覚まし、そこがいつもの自分の部屋の天井であることに気づく。
「なあんだ、夢よね。どこからが夢なのかしら」
起き上がると、若干頭痛があるものの、なんら変わらないいつもの光景だった。サイドテーブルに置かれている水の入ったコップで水を飲むと、ふうとため息を吐く。何もない日常の幸せ、だ。さあ、今日は果たして何月何日なのだろう。
「クラウディア様。おはようございます。とはいえ、もう昼ですけど」
これもいつもと同じ光景だ。いつもなら朝の光景なのだが、今日は寝坊してしまったらしい。ノックの音とともに、侍女長のハンナが準備道具一式を持って入ってくる。
クラウディアは立ち上がり、鏡台の前に座る。
鏡に映る自分はいつもの自分だった。
はちみつ色の髪。母に似て、生まれつき緩やかにウェーブがかかっている。赤みがかった茶色の瞳。これは父に似た。昨日の夢に出てきた男の容姿と比べると、なんて平々凡々な顔立ちなのだろう。今まで自分の容姿についてどうこう思ったことはないが、あの男の前では誰でも霞んでしまいそうだ。
「クラウディア様、体調はいかがですか?」
「なぜか頭痛がするけど、元気よ。ありがとう」
「昨日はワインを飲んだらしいですからね。二日酔いというものでしょう。あなたはお酒も飲めないのに、どうして昨日は飲んだのでしょうね」
小言を言われるのもいつものこと、のはずだった。しかし、ハンナの言葉に違和感を感じる。
「ワイン、昨日?」
それはどういうことなのか問い直そうとした時だった。
「ああ、遅れました。おめでとうございます。クラウディア様」
「何が、おめでとうなの?」
ハンナは呆れた、という表情で、クラウディアの髪を梳かし始める。
「婚約ですよ、あなたの婚約。昨夜、屋敷は大騒ぎでございましたよ。みんな大泣き。カールなんて夜なのに旦那様と大旦那様の墓前まで報告に行ってましたよ」
「こんやく」
「あらまあ。覚えていらっしゃらないので?」
ハンナはベッドサイドに置かれたメッセージカードをわざわざ取りに行き、クラウディアに手渡した。
『体調はいかがですか。午後、そちらへ伺います。あなたの婚約者、テオ』
クラウディアは額に手を当て、項垂れた。
「やっぱり、私、婚約したのね」
ハンナはクラウディアの乳母でもあったため、遠慮というものがない。これだからお酒の飲み過ぎはダメなのですよ、と咎めるように言った。
「このテオ様というお方はわざわざ御者のところまで、ご自身であなたを担いできてくださったそうですよ。かなりの好青年だと聞きました。もう朝からみんな大騒ぎで大掃除ですよ。さあ、支度を終えたらすぐにみんなに話してほしいところですが、時間がありません。侍女たちを呼びますから、早くドレスに着替えましょう」
ハンナは廊下で待機していた侍女を呼び、4人体制で一気に湯浴みから化粧まで施される。
「昨日よりも、化粧に気合いが入っていないかしら」
鏡の前の自分は、昨日よりもやけにうまい具合に施されているような気がしてならない。「婚約者様にお会いするのに気合を入れなくてどうするのですか!」と焦っているらしいハンナからは怒りの声だった。
玄関ホールはかなり居心地の悪い場所になってしまった。やけに侍女達によって気合の入れられたクラウディアは、昨日会ったばかりの婚約者を待っていた。
その周りに使用人が全員揃っているのではないかという状況だ。もう呆れを通り越して、無の感情が襲いかかってくるのを感じていた。
使用人たちは、もう一刻も早くクラウディアの話が聞きたそうにしていたのだが、今は時間がないとハンナに叱られ、それならばと玄関ホールで一目婚約者を見てみようと、待つことにしたらしい。玄関を開けようと待機しているノートン家の家令の老齢のカールはその中でも特に浮き足立っているようだった。
カールによって玄関の重い扉が開かれる。
「こんにちは、婚約者様」
現れた主人の婚約者に、もう全員が魂を抜き取られていた。確かに昨日のクラウディアも驚いた。その美丈夫ぶりに。
今日のテオは、昨日とは違い濃紺色の前髪は無造作に前におろしており、昨日と比べれば色気は少なく感じさせるものの、爽やかな青年である印象だった。高級そうな白いシャツに、黒いジャケットを羽織っている。
「初めまして、テオ・ルグラン様。私、このノーマン侯爵邸の家令を務める、カールと申します」
カールは今にも泣き出さんばかりだ。潤んでいる瞳に敢えて触れないテオに婚約者殿に感謝したい。
「カール、初めまして。テオ・ルグランです。本日は急な訪問でしたが、ありがとうございます。こちらはリヒト卿。護衛を務めてくれています。」
テオの優しい微笑みに、メイド達が悲鳴を上げそうになっている。気持ちはわかるが、クラウディアからすれば、使用人の教育がなっていないと思われそうでハラハラさせられるばかりだ。
クラウディアはテオの後ろにいるリヒトへ目をやった。灰色の髪に、青色の瞳。がっしりとした体躯に無表情な顔。クラウディアを見ると、会釈をしてきてくれたので、クラウディアも会釈をし返した。
「我が婚約者様。昨日ぶりですね。お体のお調子はいかがですか」
「ありがとうございます。大丈夫です。貴賓室へどうぞ」
テオは「どうぞ」と腕を組ませる姿勢を見せると、クラウディアは恐る恐るテオの腕に掴まった。後ろから「きゃあ」という小さな歓声が聞こえたのは気のせいだ、と思いたい。
貴賓室で一通りのティーセットが置かれているのを見て、料理人の気合いが違いすぎる、とクラウディアは気づく。
テオの護衛であるリヒト卿、そしてヴァルトブルグ家の家令であるカール以外の人ばらいをした後、クラウディアは切り出した。
本日の目標は、相手に婚約破棄したいと思わせることだった。
素直にあなたから婚約破棄してくれませんか、と頼めば、その理由を問われることは間違いない。婚約を破談にした方が、全財産の半分を相手へ渡さなくてはならないと伝えれば、自分から破談にさせるはずがない。
もちろんクラウディアがいくら金の亡者とはいえ、昨日自分を救ってくれたテオから破談されたとしても、お金を受け取る気はない。しかし、向こうはお金が必要かもしれない。だから、向こうから破談したいと思わせるように、自然と持っていくことを目標としていた。
「昨日は、本当にすみませんでした」
謝るところが多過ぎて、こんな言葉では謝りきれていないような気もするが、まずはこの言葉を言わなくてはとクラウディアは決めていた。
テオは首を傾げて、「何のことでしょう」と言った。
見知らぬ女のプロポーズを受けてくれたこと、いきなりプロポーズした女が王子殿下に膝をついて謝り始めたこと、倒れた女をわざわざ侯爵家の御者のところまで連れて行ってくれたこと。
たった数十分の間なのに、してしまったことが多すぎました。
クラウディアはそう述べると、後ろに待機しているカールの心中を慮った。
家令のカールは、きっと驚いていることだろう。御者と付いてきた侍女からの断片的な情報しかなかったのだから、仮面舞踏会でクラウディアがしでかした失態など知る由もない。執事たるものいつでも無表情でなくてはならないから、きっと必死で平静を保っているのだろうが、今まで親代わりに育ててきてくれたカールの内心を思うだけで、さらにクラウディアの気持ちは重くなる。
「まず、プロポーズはお受けしたいと思ったのでしました。謝らなくて結構です。王子殿下たちへ謝ったことには、正直驚きました。クラウディア嬢は何をしてしまったのですか?」
テオはクラウディアの話を聞いても、強い動揺を見せることはないようだった。
テオからの問いにクラウディアは口ごもる。今までしでかしてきたことを思うと、素直に言うのは何とも言いづらいものだったが、これも嫌われるためだ、と重い口を開く。
「私は、王子殿下のことを激しくお慕いしていた期間がありました。その期間、王子にしつこく付き纏っていたのが事実です。またアイリス嬢に対しては、王子の想い人であるのを知って、お会いする度に本人に悪口を言いました」
「どのような?」
「そんなマナーでは王子の相手として力不足だ、とか、ただでさえ身分が低いのだから、もっと努力しろ、とかです……」
クラウディアの声はだんだん小さくなっていく。最後の方は消え入りそうな声だった。
ちなみに、カールはその辺りの話は知っている。王子殿下のことに執心していた間、頼むからやめてほしいと忠言されていたからだ。きっと、婚約者にばか正直に言わなくてもいいだろうにとカールは思っていることだろう。
「ははっ。だからアイリス令嬢は感謝もしていたのですね。結果的にあの2人を結びつける役割を果たしたとも言えるのだから、いいのではないですか?そうやって、素直に謝れることは大切だと思いますよ」
確実に嫌われると思ったのに、とクラウディアは驚く。テオは穏やかに笑いながら話しており、その話し方も無理しているようではない。本当に気にしてはいなさそうだ。
「お優しい心遣い、ありがとうございます」
「三つ目に関しては、当然です。婚約者が倒れて介抱しない者がいたら、愚か者でしょう。あなたが今日元気でいてくれてよかった」
こんな顔の整った男に、笑顔でこんなことを言われて、クラウディアは罪悪感で俯くしかなかった。テオのような容姿端麗な人間であれば、もっと良いところの貴族の令嬢からも声がかかってもおかしくはない。クラウディアのように貴族受けしない女なんて、逆の立場ならお断りだ。半ば無理やり婚約させてしまったと言うのに、なんて心の美しい人なのだろう。
「本当にお優しい方ですね。テオ様。こんな『金狂いのクラウディア』なんかに……」
「金狂い、と言うのはあなた自身のことですか?」
「そう、貴族の方々からは思われることが多いようで」
事実、全財産を没収されることが嫌だから、婚約したのだし、金狂いも否定できない事実である、とクラウディアは思っていた。
テオは少し考えているようだった。幻滅しただろうか、とチラリと顔を窺ってみるも、テオは特段気にする様子もなく、紅茶を一口飲んでいた。
ティーカップを置くと、テオは言う。
「私たち、お互いを全然知りませんよね。私は、貴女のことがもっと知りたいです」
「……と言いますと?」
クラウディアには、テオの意図することがわからない。
「貴女がどんな人なのか、好きなこととか、そういった些細なことでも、何でも知りたいのです」
一言で言うならば、お金が好きです。と言いそうになるものの、きっと求めているのはそういうことではないだろう、とクラウディアは口をつぐんだ。
婚約破棄のことばかり考えていたせいか、クラウディアはこの麗しい男テオがどのような人物なのかについてはあまり気に留めていなかった。初めて会った女のプロポーズを断らないのだから、おそらく優しく断れない性格であろうとは思っていたが。
「もしかしたら、もっと嫌になるかもしれませんよ」
「もしかしたら、もっと好きになるかもしれませんよ」
クラウディアの否定的な言葉に、テオは肯定的に返す。2人は思わず目を合わせて、笑い合ってしまう。
「テオ様が良ければ、この婚約期間はお互いを知り合う期間としましょう」
きっとその「私を知る」期間に、貴方は婚約を破棄したいと思うでしょうから、と心の中で続ける。だって、私の悪名は誰よりも高いのですもの。
「それでは、今後の計画を立てましょうか」
「クラウディア様、発言をお許しください」
2人の会話に入ってきたのは、先ほどまで涙ぐんでいたらしいカールであった。
「カール?どうぞ」
主人の会話に口を挟むなんてことは、優秀なカールは一度もなかった。しかし今日はどうしたことだろうかとクラウディアは許可する。
「ルグラン様が良ければ、その期間内はこの屋敷に滞在されるのはどうでしょう。お仕事の都合もあるでしょうが、きっとこの屋敷に滞在されることで、深く知ることができるでしょう」
クラウディアはこの期間、最低でも月に一度は会うくらいでも十分ではないかと思っていたが、カールはそうでもなかったらしい。
婚約するということは、この国では結婚が前提ということであり、お互いの家へ滞在することは問題視されることではない。とはいえ、2人は初対面に近いのに、お前は何を言っているのか、とクラウディアは慌てて「ちょっと、カール!」と叱ろうとした時だった。
「いいですね、カール。賛成です。私も仕事の都合でずっと滞在できるわけではありませんが、ぜひこの素晴らしい屋敷に滞在させてもらえればありがたいです。クラウディア嬢はいかがですか」
優しく微笑むテオ。グスッと鼻を啜り、潤んだ目でこちらを見てくるカール。
「………………部屋は別、で良ければ」
クラウディアは負けた。
斯くして、出会ったばかりの2人の新生活が始まったのであった。