憧れの君
次に目覚めた時には、ログハウスだった。ベッドから起き上がると整頓された部屋にこざっぱりとした荷物が置かれている。テーブルには一本だけ中身が減っているセブンスターのソフトケース。と、レザー素材のレッグバッグと麻の布袋。国民から長年支持されている有名なロールプレイングゲームの宿屋って確かこんな感じのデザインだったな、と思った。
窓から外を見ると枝葉が見え、鮮やかな緑が広がっていた。他の建造物は見当たらない。ここは二階の部屋で、どうやら町では無いらしい。町から町への道中にある旅人御用達の宿屋なのだろうか。現代で言うところの宿泊施設付きのパーキングエリアのようなものか。
自分の持ち物を確認。ありがたいことに裸ではなくなり、コスプレじみたデザインの服装になっている。髪は櫛が入れられてサラサラになり、事後の汗ばんだ肌はさっぱりしている。鏡を見るとノーメイクで、顔面の造形も変わっていないが、三日前にできたニキビはきれいになくなっている。そのせいか十代の時よりも若々しく見えた。これが「その世界を生き抜くのに不自由しない容姿」なら、とりあえず飛び抜けた美人でなくとも、毎日ドすっぴんでも文句は言われないということだろう。いい世界だ。
布袋は重く、中を開くと金貨や宝石が入っている。初めて見るものだが、「小金貨一枚=一万リドー」という通貨単位が頭の中に出てきた。一円=一リドーで、日本の物価が基準なら余裕で連泊できる所持金がある。とりあえず本当に金の心配はしなくていいようだ。
当面の生活費が手元にあることを確認すると、閨珠はぼふんとベッドに横になった。嘘みたいな話。嘘みたいな場所。嘘みたいな状況。だけど、異世界に来てしまったのは本当のようだ。
それはつまり、自分は本当に死んでしまった、ということなのだろう。
「……」
死んだことに実感もへったくれもないが、今までの自分を全部なくしてしまったことに多少なりの喪失感が出てきた。これまでなんとなくSNSで他人事のように眺めていた社会も、生活費を稼ぐためにしてきた仕事も、家族や人との関係も何もかも、ここでは一切何も引き継がれていない。元々、何か強い目的を持って生きてきたわけではないけれど、ここまで気持ちよく帳消しにされると、人生に意味なんてないんだな、と思ってしまう。その考えは中学生の頃に頻繁に頭に巡っていた悩みとピタリと一致して、思春期の頃の悩みって悟ってるなあ、と思えて笑えた。そんなことを考えたからといって突然一念発起もしないが、今まであまりにも惰性に生きてきたな、と少し反省はした。
「夜逃げみたいなもんか」
誰に言うでもなく、ぽつりとそんな独り言を言った。当然返事はない。
最近多いとあの優男は言っていたが、これまで転生した先人たちも同じような状況で見ず知らずの土地に送り込まれたのだろうか。そんなことを気にしても、会えないならただの空想にしかならないが。
閨珠は起き上がり、タバコに火を点けた。そうしてから灰皿がないことに気付いて辺りを見回す。ベッドサイドの花瓶の脇に、ラーメン屋でにんにくを入れているような壷があり、中を開けるとタバコの灰と吸い殻が放られていた。灰皿というよりは香炉に見えるが、構わずその中に灰を落とす。ふー、と長く息を吐き、壁よりも遠くを見つめながら閨珠はタバコを短くしていく。外の葉擦れの音と、階下の人の声が聞こえる。火がフィルターにかかる前に押しつぶして消した。
そこでようやく気持ちにも目が覚めてきた。閨珠は腰を上げて部屋の外に出た。ドアを開けると真正面に壁があり、左右に伸びる廊下がある。左が突き当たりなのを確認した後、右に進んだ。突き当たりを更に右に進み、角にある階段を下っていくと食堂が見えた。何組かがテーブルに着いている。彼らを見ると「戦闘パーティー」というのがわかった。そしてこの世界には銃刀法違反なるものが存在しないということもよくわかった。しかし、自分の要望通りに転生ができていることは既にわかっている。「今まで経験した以上の危険がない」要望に則り、少なくとも理不尽に因縁を付けられたり、通り魔に遭ったりすることはないと確実にわかっているので怖気付かずに済んだ。階段を下りる閨珠に、テーブルの間を行き来する少女が気付いた。
「閨珠さん、おはようございます! よく眠れましたか?」
「ああ……」
はつらつとした明るさで話しかけてきた。ブロンドの髪をポニーテールに結い上げて、人懐っこい印象の子だ。初対面だが、ここでも男に要望した「その世界を生き抜くために必要な知識」というのが生きるらしい。既に数日その娘と交流したかのように、彼女の名前を知っていた。
「最高によく眠れたよ、『リティア』」
パーティーの間を通り抜け、カウンターに腰掛ける。カウンターには口ひげを蓄えたふくよかな中年の男が調理をしている。メニューは頭上にボードが掲げられており、閨珠はそれを見上げた。前世界では喫茶店で見かけたことのあるインテリアデザインだ。初めて見る文字だが読めたし、その名称の料理がどういった見た目で、どんな味をしているのかまでわかった。
リティアが小皿に豆を載せて運んできてくれて、その時に注文した。前世界で言うなら、トーストと目玉焼きとサラダのモーニングプレートにコーヒーという内容だ。この世界の言語は基本的に以前と同じだが、物の名称は若干異なるらしい。文字は記号に近い。コーヒーが出てくるまでに豆を食べる。素朴な味だが美味い。ほんのり塩味が効いてる。
ふと、周りから視線が寄越されていることに気付いた。カウンターに肘を掛けて頬杖をつきながら背後を振り向くと、それに気付いた視線がすぐに逸らされる。一番近いテーブルに着いているパーティーで顔がよく見える位置に座っている男をじっと見ていると、食事に向いていた視線がちらと閨珠を見て、目が合った瞬間に再び食事に向く。その様子に、どうやら彼の中で自分は魅力的な女性であるらしいと察した閨珠は、目が覚める前にあの男に言った要望を思い出した。
その世界を生き抜くために必要な美しさ。
セックスできる相手の保証。
彼の視線はそういうことか。この西洋ファンタジーの世界では自分の顔はエキゾチックな雰囲気なのだろう。それなら誰かで試してみなければならない。どれほどセックスの難易度が下がっているのか。
そう考えていると、リティアがコーヒーを出してくれた。それと一緒にチョコチップスコーンが置かれる。
「サービスです」
はにかんだ笑顔でそう言ってくれるリティアは、憧れの先輩を前にした女子さながらであった。