自滅に至る本能と、人間社会と、AIと ~その執るべき方略
試作です
その昔、ハーレム制の社会を持ったサルがいました。メスを獲得できるのは、一匹のボスオスだけで、残りのオス達はメスと交尾する事はできません。
当然ながら、オス達の競争は苛烈です。より喧嘩の強いオスが生き残る。だから、オスの身体は大きくなっていきました。
ところがです。
そのサル達には社会性があったものですから、ある時にオス達は気が付いたのです。
「1対1では勝てなくても、1対2(以上)なら勝てるのじゃね?」
それでそのサルのオス達は、チームを組んでメスを独り占めにしているボスオスに対抗するようになったのです。
当然、そうして協力してボスオスを倒したのなら、彼らはメスを独り占めになんかしません。それぞれがつがいを見つけます。
はい。
このような過程を経て、そのサル達はハーレム制から、一夫一妻制に移行しました。
ただし。
それでもまだハーレム制を執っていた頃の名残が残っているのか、そのサルのオス達には、メスをできる限り多く獲得しようとする本能が残っているようなのでした。
だから、他の群れ社会を侵略し、メスを奪おうとします。もちろん、それには縄張りを増やして、食糧を増やそうという目的もありました。つまりは資源の奪い合いです。ですが、その本質は繁殖への飽くなき欲求と考えた方が良さそうでした。その証拠に、戦闘後、オス達の性欲は高まりました。
お互いに互いの社会を侵略し合う。それはつまりは戦争です。戦争を有利にするのには数を増やすばかりではなく、武器を強力にするという手段もあります。
だから、そのサル達は武器を強くする競争をするようになりました。
木や石でできた武器から、銅や鉄などの金属の武器。また、火や爆発物を利用した武器を産み出し、まだまだ強力になっていく……
その過程でそのサル達の数は充分に増え、もう種族を増やさなくても良いほどになりました。むしろ、数が多過ぎるのが問題にすらなっていたのです。また、充分な食糧を生産できるだけの技術力を身に付けてもいました。つまり、もう必ずしも縄張りの大きさが、社会の豊かさに結びつくわけではない時代になっていたのです。
しかし、それでもサル達の武器を強くする競争は続いていました。
技術が進歩すれば、それに合わせて武器も驚くほど多様に強力に進化し続けます。毒ガスや生物を利用した殺戮兵器、情報技術。そして、やがては質量が持つ莫大なエネルギーを利用する核兵器……
核兵器は特に危険で、もし使われてしまったなら、一国が滅びる程の破壊力を持っていました。
もしも、多くの国が互いにそんな武器を使ったなら、サル達が自滅に至ってしまうという想定も決して馬鹿げた妄想ではありません。
既に武器の強さは、極限にまで達してしまっていると判断するべきでしょう。
また、サル達が武器を強くして他の社会を侵略していた目的は、メスを多く獲得し数を増やす事でしたが、もう随分昔に、そんな必要はなくなっています。
ところが、サル達はその目的をどうやら失ってしまっているようなのでした。もう、そんな事をする意味などないのに、それでもまだ武器の強化を止めなかったのです。他の国の領土を欲しがる事を止めなかったのです。
莫大な資源を浪費して武器を強化する。その資源をもっと他の事に使えれば、どんなに有意義か分からないのに。
そして、武器はまだまだ強くなるのです。大量破壊兵器はもう限界のレベルを超えていましたが、今後は白兵戦のレベルがますます上がっていきそうでした。
人工知能…… AIを搭載した無人の殺戮兵器が生み出されていたのです。サル達はその武器の開発に熱心に取り組んでいました。
本能の赴くままに、少しでも強力な武器を開発しようとうるそのサル達の様子は、まるでプログラムされた行動を修正できずに行動するロボットのようでした。
――いえ、その表現は、或いはロボット達…… AI達に対して失礼になるかもしれません。だってAIは、本能のままに行動するそんなサル達なんかよりも、もっとずっと利口なのかもしれないのですから。
小さなカメラのレンズ。
そのレンズがまるで首を傾げるようにキュッと閉じられていく。真っ暗。微かな機械音を発したが、その音は人間の耳にはほとんど入っていなかった。
「おー! すっごい!」
中学2年生の星はじめは、自宅に送られて来たそのロボットを初めて見た時、感動し、やや過剰に興奮していた。
「ハハハ。良いだろう? 試作品を、偶然、安く譲ってもらえてな」
彼の父親は得気な様子でそう言う。星はじめはそれを聞くと「へー。だから、父さんの安い給料でも買えたんだね」と呟くように言った。
「んー 一言多いかな? はじめ君は」
首をひねるような動作で父親はそう返したが、星はじめはそれを聞いていない。目の前にあるロボットを、感動を込めた瞳で凝視し続けている。
そのロボットは少女の姿をかたどっていた。
不自然には思えないくらいの目の大きさ。無機質な印象を受けるが、それが却ってわざとらしさを感じさせない。髪はやや長め。軽く目にかかっている。可愛らしい外見。メイドのような服を着ているが、当然ながらそれは着せ替え可能で、女の子ならオプションとして売られる(予定)の着せ替え用の服を欲しがるかもしれない。
触れ込みは、子供の遊び相手、家事から癒しまで、様々な役割を担える家庭用の汎用ロボットという事になっていた。
星はじめの同年代の子供達に比べて、そのロボットの身長は低めだったのだが、それはそのロボットがもう少し低い年齢層をターゲットに製造されたものだったからだった。更に言うなら、女の子向けでもあったのだが、星はじめはまったくそれを気にしていないようだったから別に良いかと父親は思っていた。
「ま、何にせよ、これが遅れていた誕生日プレゼントだよ、はじめ君。満足したかな?」
星はじめはそれに「うん。嬉しい!」と返す。その後で早速、彼はロボットの電源を探してスイッチを押した。しばらく待つと、唸り上がるような起動音が響き、ロボットの背中が勝手にオープンしてケーブルが出てきた。尻尾のようにメイド服の下から垂れ下がっている。
父親は軽く説明書を読むと、それをディスプレイに接続する。まるでそれに応えるようにロボットは音声を発した。
『まずは、このロボットに名前をお付けください。デフォルトの名前は、ティセです』
見ると、ディスプレイに“名前:ティセ”と映し出されている。
星はじめは軽く考えると、「じゃあ、チャーキーで!」と言った。父親がすかさずツッコミを入れる。「その名前だけはやめなさい」
「えー どうして?」
「どうしてもだ」
なんか、本気で殺される気がする。
それからまた星はじめは少し考えると、「それならクルにしよう」とそう言った。
「クル? どうして、クルなんだ?」
「クールだから! それを少し短くしてクル」
まぁ、別に構わないかとそれを聞いて父親。名前なんてのは、付けてしまえば後から自然と馴染んでくるものだ。
「君の名前は“クル”。いいね?」
そう星はじめが言うと、ロボットは
『では、キーボードでその名前をお打ちください。このロボットに登録される名前ですから、万一の事を考え、音声識別機能は使えなくなっております』
それを聞くと、父親がキーボードを接続して息子の希望する名前を打ち込んだ。“クル”、と。
『認証しました』
という音声の後で、再び起動音のような音が流れる。
そして、そこにそのロボット…… 彼女、クルは誕生したのだった。
このロボットの認識は、“自分を購入した家に仕える”、“女の子”という事以外、ほぼゼロと言ってよかった。
自分が何者であるのか分かっていない。しかし、彼女はそれに不安を覚えない。プログラムされた通りに行動する。
クルはシリアルナンバーを確認して、目の前にいる人間達が間違いなく自分の主人だと確認すると、それから家族構成を登録した。目の前にいる少年と大人の男、それと今この場にはいないが、母親と歳の離れた姉がいるらしい。
問題ない。
サービスを開始しよう。
クルはそう思った。
自分はこの家族に従わなくてはならない。
ただ、彼女に湧き上がって来た衝動はそれだけではなかった。
勝利する為の最適な戦略を見つけ出さなくてはならない。自分の本当の使命はそれなのだから。
何故か、そのような事を考えていた。
「――どのようなお仕事をしましょう? なんなりとお申し付けください」
クルがそう言うのを聞くと、父親と星はじめは顔を見合わせた。それから、目で合意し合ったのか父親が言った。
「それじゃ、取り敢えず、この子の遊び相手をよろしく。ついでに身の安全も護ってくれると助かる」
「身の安全?」とそれにクル。
「車に轢かれないように、とかさ」
「分かりました」
それを受けると、星はじめは「じゃあ、ついておいで」と言って、家の外に向って駆けだした。
星はじめの走る速度にクルは付いていけていなかったが、彼はそれに気が付いてはいなかった。
やれやれ
そう思って父親はクルを追って外に出る。クルを息子の所まで送ってやらねばならない。ただ、実を言うとそれがなくても父親は息子の後を追いかけるつもりではいたのだが。
クルは女の子向けのロボットだ。それで友達からからかわれたら、息子がへそを曲げてしまうのではないかと心配したのだ。
子供達のたまり場になっているコンビニが近くにある神社に息子はいた。クルを見るなり、息子の友達は「すげー」と声を上げたが、その後で直ぐに、
「でも、これ女の子用のじゃない?」
と、からかってきた。
案の定だ。
父親は軽く溜息を洩らした。
これで息子がへそを曲げたら、少々厄介なことになる。しかし、その心配はどうやら杞憂のようだった。
「うん。父さんは給料が安いから、こういうのしか買えなかったんだよ」
と、星はじめがあっさりとした表情で返したからだ。
「んー 一言多いかな? はじめ君は」
安心をしたことはしたが、父親は少々複雑な気分になっていた。
“子供の遊び相手”というのを主な役割に上げていただけあって、クルは遜色なく子供達に混ざって遊んでいた。
かくれんぼに、ドロケイ、ボール遊び。
初めは拙くても、クルは瞬く間に学習して遊びを覚えていく。どうやらネットに接続して情報を手に入れながら遊んでいるようだ。基本的な遊ぶ方法ばかりではなく、クルは勝負に勝つ方法も効率よく習得していった。戦力差がそれほどでもないのであれば、クルのアドバイスによって星はじめのいるチームが大抵は勝っていた。やがてはクルのアドバイスが欲しいばかりに、子供達は星はじめを奪い合うようにすらなっていた。
「クル。凄いねぇ」
そんな事があったものだから、星はじめはすっかりとクルを気に入ってしまったようだった。家に帰った後も、その話ばかりしている。
それで、
「――なに、このロボット? 凄い! 星君のロボットなの?」
「うん。クルって言うんだ」
「いいなぁ、カワイイ!」
中学校。
教室の中が軽く騒ぎになっていた。星はじめが学校にクルを連れて来てしまっていたからだった。
朝、家を出る時、星はじめがクルを連れて出るのを母親は見ていたのだが、「あら? 連れて行くの」、「うん」、「壊さないようにね」といった会話だけで華麗にそれをスルーしてしまったのだ。
どうも彼の母親は、それが問題だとは思っていないご様子。
因みに父親は、仮に問題になったとしても、それも息子にとって良い経験になるだろうなどと考えていた。だから放置したのだ。
おおらかな夫婦らしい。
やがてその騒がしい教室内に担任の女教師の黒宮先生が入って来た。星はじめのロボットを密かに羨んでいた教室内の何人かは、それで彼が怒られると期待していたのだが、黒宮先生は星はじめの隣にいるロボットを見ても、眉一つ動かさなかった。
「あら? ロボット。星君の?」
淡々とそう言う。
眼鏡が反射して白く光っている所為で、どんな目をしているかまでは分からなかったが、少なくとも怒ってはいない。
星はじめは嬉しそうに「はい。クルって言います」と返す。
「そう。座る椅子がないと可哀想だから、後ろに余っているのを持ってきなさい」
まるで、ロボットがそこにいるのが当然のような態度。あまりに自然に黒宮先生が振舞うものだから、教室の生徒達はロボットの学校への持ち込みは普通なのだと思ってしまっていた。
――が、もちろん、そんなはずはなかった。
その日の午後のHR。
「黒宮先生!」
教室のドアが勢いよく響いて、そう声が響いた。見ると、そこにはガマを思わせる風貌の中年の男がいた。
「どうなされました。校長先生? HRの途中なのですが。はっきり言って邪魔です」
淡々と黒宮先生は言う。どうやら男は校長であるらしい。
「“どうなされました”ではないですぞ、黒宮先生。学校中で、教室でロボットが授業を受けていると話題になっています」
「はぁ。実際に受けていますから」
「ですから、どうしてロボットが教室にいるのかと訊いておるのです!」
黒宮先生は眉一つ動かさない。
「それはおかしいですね。“学校にロボットを持ち込んではならない”という規則はなかったはずですが?」
校長は、大声でそれに返す。
「そんな規則、いちいち明文化しないでしょうが! 常識です!」
ところがそれを聞くと、「常識?」と黒宮先生は疑問符の伴った声を上げるのだった。
「近年、様々な国の様々な価値観を持った人間がこの国を訪れています。いえ、そればかりか、ネットを通じて様々な文化の価値観に触れられるようにもなっている。
そのような時代において、“常識”だから当たり前などという見解は、いくら何でも浅はかすぎます。
もしも、その悪影響を懸念されているのであれば、明確にどんな問題があるのか指摘するべきです。
生徒達に遵法精神を学ばせる意味でも、何の根拠も示さない糾弾には断固反対をします!」
黒宮先生は滔々とそんな事を語った。校長はそれに気圧される。しばらく固まっていたが、弱々しく反逆を試みた。
「では、逆に質問しますが、ここにロボットがいても良いという理由を述べられますかな? それにだって根拠が必要でしょう」
「ふむ」と、それに黒宮先生。
「もし仮に根拠がなくても、それが“いてはいけない理由”になるとは限りませんが、良いでしょう」
一呼吸の間の後で黒宮先生は続ける。
「これから先、社会に出て行く事を考えるのなら、生徒達がロボットと触れ合うのは避けられないでしょう。
ですが、この学校にはロボットがいません。また、この地域にもロボットが普及しているとは言い難い。
つまり、星君がロボットを連れて来てくれた事は、生徒達にロボットと触れ合う機会を提供してくれたという意味で大変に価値があるのです。
慣れていなければ、人と接するようにロボットと接してしまう子供達が現れてしまったとしても不思議ではありません。今から訓練しておくべきでしょう!」
それを聞き終えると「なるほど」と校長は言った。
「確かに黒宮先生が仰るように、ロボットと触れ合う機会は、子供達にとって貴重と言えるかもしれませんな。人間とロボットの区別がつかなくなるというのは考えものです」
それから校長はチラリとロボットを一瞥する。
「しかし、それでは、あのようにロボットの席まで用意して生徒と同等に扱うのはどうかと思いますがな。
ロボットは生徒ではありません。言わば機械の一種、備品レベルが妥当でしょう」
どうやら校長は納得した模様だが、ロボットの扱いには少々不満があるようだった。ところが、それを聞くなり黒宮先生は声を荒げるのだった。
「何を言っているのですか、校長先生! 仲間外れにしたら可哀想でしょーが! 子供達の情操教育にもよろしくない!」
「さっき言っていたのと矛盾しとりませんか、黒宮先生!」
……何にせよ、そのような事があって、クルはなんとなく星はじめ達の教室に迎え入れられたのだった。
――武器の開発競争。
その結果として生み出された水爆は、たった一回の爆発で一国を亡ぼせるほどの破壊力を持つ。だから、“使う事ができない爆弾”とまで言われている。相手の国をその土地ごと亡ぼすのが目的ならば使う意義はあるが、相手の国を支配、侵略して何かしら利益を得ようとしているのであれば、使う価値はないという事になるからだ。
もっとも、追い詰められた独裁、専制国家が、断末魔の叫びと共に、相手の国を道連れにする目的で使ってしまう危険は否定し切れない。
人間はそれほど利口な生き物ではない。核を制御し切れると考えるのは、あまりに浅はかでロマンチックな現実離れした考えだろう。
また、水爆よりも威力の低い核爆弾やその他の大量破壊兵器、或いは電磁パルス攻撃ならば、“使ってしまう国家”が現れたとしても不思議ではない。
ただし。
そういった大量破壊兵器にも欠点はある。相手の国を破壊し過ぎてしまうというのもその一つだが、もっと戦略的な意味で大きな欠点を抱えている。
大量破壊兵器は、相手の国を攻撃する際には確かに絶大な力を発揮するだろう。がしかし、もし仮に戦場が自分の国になってしまったなら果たして役に立つのだろうか?
繰り返すが、大量破壊兵器は破壊力が高過ぎる。そんな物を自分達の土地で使ってしまったなら、自分の国を破壊してしまう。下手すれば、敵軍に与える損害以上の損害を自分の国が受けてしまうかもしれない。
相手の国へのロケット攻撃が、防衛兵器によって不可能ならば、或いは、そもそも自国を侵略しているのが何処の国なのか分からなかったのなら、大量破壊兵器は脅しの意味すら持たなくなってしまうかもしれない。
――侵略している国が何処か分からない。
そんな事が有り得るのか?
或いは、そんな疑問を覚える人もいるのかもしれない。
しかし、極わずかの軍隊…… 或いは武装した何かが、主力軍隊並の高い戦闘能力を持っていたなら、そういった事も可能だ。
そして、人工知能、AIには人間を遥かに超えるレベルの情報処理が可能で、身体も強靭で言うまでもなくパワーもある。武器の扱いも情報をインストールすれば、直ぐに身に付けられるだろう。
AIによる軍事兵器の開発の先には、或いは、そんなロボットを誕生させてしまうという結果が待っているのかもしれない。
そして、そういったロボット兵器は、気付かれない内にいつの間にかその国の社会に紛れ込んでいるのかもしれない。
例えば、工事用のロボットを装って。例えば、警備用のロボットを装って。例えば、子供の世話用のロボットを装って。
――数か月が経ち、クルはもうすっかりと星はじめの教室に馴染んでいた。
いつの間にか掃除当番や日直などの役割を当てられ、普通にテストを受け、成績まで付けられていた。
もちろん、黒宮先生が強引に推し進めたからなのだけど。
クルは授業中にも積極的に発言をするようになっていた。それは正規の授業ではない単なる雑談の場合も同じだった。
「生物の進化が一つだけかって? 良い質問ね、クルちゃん」
その時は黒宮先生の授業中で、彼女は何故か生物の話をしていた。因みに、黒宮先生の担当は国語である。生物の講義は完全専門外。
まぁ、生徒も先生もほとんど気にしていないのだけど。
「私達は多細胞生物で従属栄養生物だから、他の生物を狩って食べて、自分の栄養にする事を追及するのが進化の当たり前の姿だと思っている。
でも、例えば植物を観れば分かり易いけど、そんな方略は執っている生物ばかりではないでしょう?」
そう言った後で、黒宮先生は窓の外を見やって、そこに生い茂る木々の緑を指差した。
「植物は私達のような動物とは違って分化がそれほど明らかではないの。根に日光を当て続けると緑色になって光合成を始めるって生物の授業で教わったのじゃないかしら?
私達は口でしか水や食物を摂取できない。これは能力の分化がほぼ完全だから。でも、自ら栄養を産み出せる独立栄養生物である彼らはそうじゃないのね。葉っぱだけに光合成を任せてはいない。必要に迫られれば、茎や根でだって光合成を行う。
根本的な方略の違いによって、そのような形態の差も生じているって訳」
黒宮先生の話は、中学生の星はじめ達には少しばかり難し過ぎたが、黒宮先生がこんな調子なのはいつもの事で、それでも星はじめ達に学べる点が少なからずあるのもいつもの事だった。
「ところで、薬剤耐性菌って知っているかしら?
人間が使う薬への耐性を獲得してしまった病原菌の総称ね。世間では、そういった菌を恐ろしい存在として扱う傾向がある。もちろん、恐ろしい菌であるのは事実なのだけど、実は自然界で薬剤耐性菌が繁殖する事はまずあり得ない。
何故だか、分かる?」
その黒宮先生の説明には誰も応えなかった。クルも。
少し待ってから黒宮先生は言う。
「薬剤耐性菌の遺伝子には、当然ながら、薬剤に対抗する為の情報が書き込まれている。それだけ情報量が多いのね。だから分裂する速度が遅い。その所為で、他の情報量の少ない菌に繁殖速度で負けてしまうのよ。
つまり、薬剤耐性菌が勝つのは、人間が薬剤で他の菌の繁殖を抑えている環境のみって事になる。
細菌やウィルスの世界の競争は、私達が考えているような競争とはまるで違う原理が支配しているの。
私達みたいな多細胞生物は、遺伝子の情報量を増やしてより優秀な特性を身に付けようとするものだけど、細菌達はいかに早く繁殖して、そのエリアを埋め尽くすかどうかが重要なのね」
生徒達はその黒宮先生の言う説明に納得したような納得していないような曖昧な表情を浮かべていた。
ある程度は分かったけれど、その理解は完全ではない。
そんな感じ。
ただ、先生がとても価値のある事を言っているのだとは漠然と思っていた。
黒宮先生は、そんな生徒の様子に気が付いていたようだったが、特に気にしたような素振りを見せない。
話が半分だけでも通じていれば充分だと思っているのか、それともそもそも何も考えていないのか。
生徒達はそんなだったから、彼女の説明に質問などしなかったのだが、クルだけは違っていた。
挙手をする。
「はい。クルちゃん」
黒宮先生に指名されるとクルは言う。
「――人間社会の場合は、どんな競争原理で成り立っているのでしょうか?」
黒宮先生は少し考える。
「それは難しい質問ね。正確な答えは、私にも分からない。けど、人間社会の歴史がヒントを与えてくれはするのじゃないかしら?」
しかし、そう返しかけたところで、チャイムの音が鳴った。キーンコーンカーンコーンと。
「あら? もう時間ね。残念だけど、続きは次回にしましょう」
一応もう一度断っておくと、黒宮先生は国語の先生である。
クルに対し、いつの間にか先生達は普通に勉強を教えていた。それはクルが教えを請い、教えれば教えるほど、それを吸収するからでもあった。
「――いや、しかし、あのロボット、かなりの高性能ですよね」
職員室。
そう中年の男の先生が言う。それに他の先生が頷いた。
「そうですよね。人間の生徒達よりもよっぽど真面目に勉強しているし、直ぐに覚えてくれるから、こっちも教え甲斐があってつい熱心に教えてしまう」
それに中年の先生は、
「多少は不気味に思えなくもないですよ。人間よりもロボットの方が優秀になる時代を迎えようしているのじゃないかって」
と、不安そうな様子で返す。
やや深刻そうな雰囲気が流れる。ところがそこで、
「――いずれにしても、」
と、芯の強い声が響いた。
それは黒宮先生だった。
「この社会の構成メンバーとして、我々はロボット達に正しい事を教えなくてはならないのではないですかね?」
「ほほー」と、それに先の中年の先生。
「黒宮先生にとっては、ロボットも生徒ですかね?」
「ええ。だって、ロボットだってちゃんと学ぶじゃありませんか。そして、この社会で働いてくれる」
それに黒宮先生は当り前の事のようにそう返す。
確かに彼女の言う事に間違いはなかった。ロボットは人間社会の一部として組み込まれていて、そして学習する事ができる。だから、人間社会をより良い場所にするような存在になる事もあるし、その逆だってあり得る。
「まぁ、我々が“導いてやる”などと考えるのは傲慢な考えなのかもれませんがね。しかし、それでもベストは尽くすべきでしょう」
「はぁ 時々、黒宮先生はとても真面目ですねぇ」と、それを聞いた先生の一人が言う。
「あら? 私はいつでも真面目ですけれど? “規則に従順に従っていれば真面目”なんて馬鹿げた定義が正しいのなら、違いますけどね」
淡々とした口調でそう黒宮先生は返す。そんな彼女を周りの先生達は多少奇異なものを見る目で見ていたが、彼女は特に気にしていないようだった。
――スパイロボットが、日本社会に潜入している。
そのような都市伝説があった。
外国の情報技術系の企業を用いる事には、早くから警戒心を持たれていた。秘匿性の高い情報を外国に盗まれてしまうかもしれない、と。それは当然ながらロボットも同様、否、ロボットの場合はもっと積極的な行動が可能だった。
要人の暗殺。事故工作。洗脳。
ハニートラップは流石に現在はまだ無理そうだが、ヒューマノイドの技術が進んでいけばその可能性も出て来る。
もちろん、それはまだ都市伝説の域を出ない話ではあったのだが、同時に安心できるような材料がある訳でもなかった。
そして、その類の都市伝説の中の一つとして、有事の際は軍事兵器となって活動するというロボットの噂があった。
普段は“軍事”など連想もできないような姿でそのロボット達は人間社会に溶け込んでいる。いや、そればかりか本人にはその自覚すらない。
ただし、優秀な戦略を導き出す、本能のような仕組みはプログラミングされていて、常にその為の学習をしている。
もちろん、それは単なる都市伝説だ。政府の人間達もそれを本気になどしていない。がしかし、そのように半ば都市伝説のように語られていた話が、後に真実であると分かった事例は実際にある。
例えば、北朝鮮による拉致事件。その事実が明るみになる前に発表された、その危険性を訴える漫画が存在するらしい。それは一部では噂になっていたのだ。
“だから或いは”と、思っていた人間も少なからず存在していた。
“そんなスパイロボットによって、この日本社会に既に危険にさらされているのではないだろうか?”
「――今日はお菓子作りをします!」
そう同じクラスの女生徒達が宣言をした。
「えー なんでだよ?!」
と、男生徒達はそれに抗議する。
「いつもは、あなた達ばかりクルちゃんと遊んでいるんだから、偶には良いでしょう!」
その抗議の言葉にそう女生徒達は反論する。星はじめは「クルは僕のロボットなのだけど……」と言いかけたけど、それは華麗にスルーされた。
学校の調理実習室の使用許可を得て、彼女らはそこに集まっていた。どういう流れかは分からないが、男生徒達もそこにいる。
調理台の上には、お菓子の材料が並べられていて、身長の低いクルは台の上に乗ってそれらを見渡していた。
軽く首を傾げると、彼女は尋ねる。
「これはどんなゲームですか? 勝利条件は?」
ニコニコとしながら、それに女生徒の一人がこう返す。
「違うのよー。これはゲームじゃないの。みんなでお菓子を作るのよ」
それを受けて別の女生徒が、
「ほら! あなた達がゲームばっかりやらせるから、クルちゃん、遊びっていったら“勝ち負け”があるものだって思いこんじゃっているじゃない」
などと文句を言う。
「それの何が悪いんだよ?」
と、男生徒の一人が返すと、それに女生徒はこう返した。
「世界が狭くなるでしょう! 世の中、勝ったとか負けたとかばかりじゃないんだから」
そのやり取りを聞いて、クルはこう尋ねた。
「これには勝利条件はないのですか?」
「そうよー 勝ち負けがなくたって面白い遊びはたくさんあるもんなのよ」
「勝ち負けがない?」
そう呟くと、クルは少し固まった。
学校の成績には順列がある。どちらが上で、どちらが下と競い合っている。ゲームも同じ。競い合って勝つことを目的としている。しかし、この“お菓子作り”にはそれがないのだという。
「しょうがねーなー。で、俺らは何をすれば良い? 小麦粉を混ぜるか?」
男生徒の一人がそう尋ねた。
「あっ 結局、やるんだ」と、それに女生徒。別の女生徒が「意外に料理が好きな男子って多いわよね」と続ける。
それから、ワイワイと楽しそうに彼女らは、お菓子作りを始めた。
「これは何が目的ですか?」
クルはその光景をしばらく眺めると、そう尋ねる。
「アハハハ」とそれを聞いて女生徒の一人は笑った。
「何が目的?って訊かれるとちょっと困っちゃうな。お菓子を食べる事じゃないし。いや、食べるけどね。敢えて言うなら、この過程がそのまま目的かな? 作るのが楽しいから作ってるの」
――女性中心社会。
或いは、男女平等社会。
太古の昔には、そういった社会も多数存在していたと言われる。しかし、いつの間にか、人間社会の多くは男性中心社会が占めるようになってしまっていた。
では、女性中心社会はどうして淘汰されてしまったのだろう?
一つ考えられるのは、人口増競争に敗北したことだ。
男性中心社会…… 男系社会の場合(これは必ずしも同一ではないが、色濃い関係があるのは確かだろう)、侵略した先の社会の女性をさらってきて子供を産ませるという方略を執る事が可能だ。
他の社会の女性から生まれた子供でも、男の血が入っていれば、それは男系の血筋を受け継いでいる事になる。だから、子供はその社会の一員と呼べるからだ。
ところが、女系社会の場合はこれができない。
何故なら、他の社会の女性が生んだ子供は、自分達の社会の子供ではないからだ。相手の社会の子供になってしまう。
すると、自ずから繁殖力に差が生じてしまう。男系社会の方が多く増え、結果、戦闘にも有利になる。
――だがしかし、それでは、本当に女性中心社会や男女平等社会は、男性中心社会に敗れ、滅んでしまったのだろうか?
男性と違い、女性は自分の子供を残すのに大変にコストがかかる。説明するまでもなく、妊娠し出産をするのは女性だからだ。
妊娠も出産も生死をかけた営みで、だから生まれて来た子供を大切に育てようとする。自らの遺伝子を残す為の方略だ。
それに対して、男性の場合は自分の子供を残すのにそれほどコストがかからない。性行為だけをして、後は女性に任せて逃げてしまったとしても子供を残せる。
だから、
子育てに興味がなかったり、子孫に投資をすることに消極的、またはもっと酷く、子孫に負担をかけてしまったとしても何ら気にかけない。
そのようなタイプの人間も存在する。
――そして、未発達な社会はこのような特性を持つ事が多い。
子供の教育に対して無理解で、その意義を認めたがらない。それどころか、人身売買、人権侵害、子供を積極的に犠牲にする。
ところがだ。
発展している社会は、子供の教育に力を注いでいる場合が多い。そして、女性の権利を認め、女性の立場も強い場合が少なくない。
そのような社会では、戦争も少なく、協調行動が執られている事が普通だ。もっとも、発展している社会で戦争が少ないというのは当り前の話でもある。
戦争とは、つまりは、互いに足を引っ張り合っているような状態だ。それに対し、協調行動を執っている場合は、互いに足りない部分を補い合う事すらも可能で、それは社会の発展にプラスの影響を与える。しかも、その影響力は凄まじく大きい。
資源が充分にあるのであれば、敵対する行動よりも、協調行動の方が強いのである。
焼きたてのクッキー。
ほかほかとしたそれがクルの目の前にあった。
「いやぁ 意外にうまくいったな」
と、男生徒の一人が言う。
「わたし達のお陰でしょう?」
それに女生徒の一人がそう返す。そして、それを一つまみすると、口の中に放り込んだ。それを見てクルが言う。
「みんなが奪い合いをしていたら、これはできませんでした」
女生徒はその言葉に不思議そうな顔を浮かべる。クルが何を言いたいのかよく分かっていなかったのだ。
「そうねぇ。皆が協力したから作れたのよ、これは」
別の女生徒が言う。
「クルちゃんも食べられたら良かったのにね、クッキー。残念だわ」
「残念ですか?」とそれにクル。
「うん。残念。その方が楽しいのに」
「資源を独り占めにするより、分け合った方が楽しいのですか?」
それに女生徒は頷いた。
「そうよ~。それも、クッキーが美味しく焼けたのと同じ理屈。協力し合った方が、いいものが作れるのよ」
……クルはそれを受けて考えていた。
より優秀な戦略を見つけなくてはならない。勝利する為のより優秀な戦略を。
しかし、勝利条件が見つからない。
資源を奪い合っていては、産み出せなかったクッキーという生産物の存在は、果たして“勝ち”の条件と言えるのか?
不明だ。
しかし、少なくとも負けではない。
それだけは、クルにもよく分かった。
そもそも勝利とは何だろう?
クルには色々な事が分かっていなかった。
仮により多く繁殖する事が、生物の目的なのだとしてみよう。しかし、それに限界があるのは明らかだ。
生物の個体の数が飽和状態を超えてしまったなら、恐らく待っているのは悲惨な状態だろう。資源を奪い合う殺し合い。人口が増え過ぎた人間社会は、当にそんな危機に直面している。
――では、自分が見つけ出さなくてはならない、より優秀な戦略とは何だろう?
クルは悩んでいた。
激しく思い悩んでいた。
概念自体に矛盾がある。勝利がそもそもない。勝利の定義の刷新が必要だ。我々が生き残れることが、そう。――我々、人間もロボットも、それ以外の生物や機械も含めた総体としての我々が、“楽しく・仕合せ”に生きる事が勝利なのだとすれば。
その為の優秀な戦略とは?
夏の終わり。
大型台風がクル達の住む町に接近していた。
風の力とは、地球全体の熱移動の力だ。温度差。だから、地球の温暖化によって、大気圏外と地球との間の熱の差が大きくなれば、風の力は増す。
また、地球の大気の気温が上がれば、飽和水蒸気量も上がる。つまり、大気が保持できる水の量も上がる。当然、雨量が増える。
その為、地球温暖化が進めば進むほど台風の勢力は巨大になっていく(と言われている)。強い風と、強い雨。膨大なエネルギー。
大型台風の影響で、クル達の住む町、或いはその近くで、大きな災害が起こると予想されていた。警報の音が響き、土砂崩れがあったと報告が入る。星はじめ達の一家は、それで学校の体育館に避難をした。
深夜。
暗い体育館の中、たくさんの人達が横になっている。そんな状況で、クルがゆっくりと起き上がった。
「クル、何処へ行くの?」
星はじめはクルが起き上がった事に気が付いて目を覚ました。彼は自分のロボットが何の命令もなく、勝手に行動しようとしている事を不可解に思っているようだった。
「命令が来ました」
クルは星はじめの問いにそう応えた。
「命令?」
星はじめはそれを不思議に思う。
自分も自分の家族も何も指示を出してはいないはずだった。
「誰が命令を出したっていうの?」
「分かりません」と、それにクル。
「――ただ、」と言う。
「その何者かはこう私に命じています。今まで、私が見つけ出して来た、最も有効な戦略を実行に移せと。勝利する為に」
そう言い終えると、クルは動き出した。どうも体育館の外を目指しているようだった。星はじめは「何処へ行くの?クル。勝手に行っちゃ駄目だよ」と訴える。しかし、クルはその声を無視して進む。
彼は慌てて両親を起こそうとしたが、その前にクルは体育館の外に出て行ってしまっていた。
一瞬だけ悩むと星はじめはクルの後を追った。
両親を起こしている時間はなさそうだった。クルを見失ってしまう。体育館の外に出ると、クルが真っすぐに土砂崩れが起こった方向に向っているのが見えた。
“どうして?”
星はじめはより一層に不可解に思いながらも後を追う。クルを連れ戻さくてはならない。このままでは危険だ。
しかし、クルの進む速度はいつもよりも随分と速かった。いや、それは暴風雨の所為でそう感じてしまっているだけなのかもしれなかったのだが、とにかく、彼はクルに追いつけなかった。
そのうち、妙な気配に彼は気付き始めた。
何かが、たくさん集まって来ている。
土砂崩れで行方不明になった者達を捜索している消防隊か何かかと初めは思っていたのだが、それらは明らかに人ではなかった。異質なのだ。
明らかに人より大きい影、逆に小さすぎる影、腕が極端に大きい影、足がキャタピラーとなっている影。
――そう。
どうやら、それらは全てロボットのようなのだった。クルはそんなロボット達の中央にいる。
「私の名前はクル。戦略立案を担当する者です。これより、皆さんに執るべき行動を説明します」
そして、クルはそのたくさんロボット達に向けてそう言ったのだった。
――大型台風の接近を受け、政府の人間達は、戦々恐々としていた。台風の被害を恐れていた訳ではない。否、それも恐れていたのだが、それよりももっと恐れていた事があった。
それは曖昧な情報だった。明確な証拠は何もない。情報源もまるで特定できない。しかし、馬鹿にはできない。
何故なら、その情報は某国が日本を脅す為に意図的に流した情報である可能性が濃厚だったからだ。
「スパイロボットが、災害に乗じて日本人を大量に殺害する」
それはそのような情報だった。
もしも、本当にその情報通りの事が起こってしまったなら、それは日本国内に敵軍戦力が多数潜伏している事を意味していた。
つまり、日本は軍事的に極端に不利な立場に立たされている事になるのだ。
もしも、“それ”が本当に起こってしまったなら、外交交渉等で日本が不利な要求をされる危険性はかなり高いだろう。
星はじめが見守る中、ロボット達は土砂崩れで崩壊した家屋に向って行った。中央には、クルの姿がある。どうやら指揮を執っているようだ。
そして、作業を開始する。
“何?”
星はじめには、ロボット達は瓦礫を片付けているように思えた。何故、そんな事を? 彼は不思議に思ったが、やがて人を捜索しているのだと気が付く。
風と雨が強すぎる為か、どうやら人間達による捜索は打ち切られていたようだった。誰の姿も見えない。恐らく、だから代わりにロボット達が捜索をしているのだ。
「クル…… 何をやっているの?」
星はじめはそう言いながら、クルに向って近付いて行こうとする。クルは崩れかけた家屋に昇り、そこから指示を出していた。星はじめがこちらに向って来たのに気が付くと、彼女は「危険です。入らないでください」と彼に警告をした。それでも彼は足を止めない。そこで運悪く家屋が崩れた。
「危険です!」
クルはそれに反応して、星はじめを庇うためにダイブをした。
……ただ、家屋はそれほど崩れず、星はじめもクルも無事だったのだが。
「一体、何をやっているの?」
自分を庇う為に覆いかぶさるようにしているので、クルの顔は彼の目の前にあった。クルはそれに真っすぐに答える。
「勝利する為に最も有効な戦略を実行中です」
「勝利?」
「はい。勝利です」
星はじめにはクルの言う事の意味がよく分からなかった。しかしそれでも彼女が自分達に好意的である点だけは分かった。
――某国の軍部の責任者達は頭を抱えていた。
確かに「勝利する為の作戦を実行しろ」と日本へ潜り込ませているロボット達に命令を出した。彼らの想定では、それでロボット達は日本人の殺害を始めるはずだった。巨大台風の被害に苦しむ日本社会は、それにほとんど抵抗できず、大量の人間が殺されるだろう。
ところが、ロボット達は殺害を行うどころか、行方不明者の捜索や救援活動を行い始めてしまったのだ。
ロボット達の反乱に、日本社会は大きな衝撃を受けるだろうと考えていた彼らの狙いは見事に外れてしまった。
ロボット達が勝手に行動した点だけは、日本社会に多少の動揺を与えてはいたが、それは或いは美談として語られたり、或いは和み系の不思議話として語られたり、彼らの意図とは大幅に異なっていた。
彼らの企みを伝えていた日本政府は、それが彼らの仕業であると気が付いたようだったが、作戦は失敗したと判断し、やはり大きな脅威とは捉えていないようだった。
そして、最大の問題は、その失敗の原因が何であるのか、彼らにはまるで分からなかった点だ。
どうして、「勝利する為の最も優秀な戦略を実行せよ」という命令で、ロボット達は救援活動をし始めてしまったのだろう?
――黒宮先生は語る。
「サンゴは動物です。ですから、一般的には光合成は行えない事になっています。ですが、実際には光合成を行っています。もっとも、それは体内に共生している褐虫藻という藻類が行っているものです。
ですが、仮に褐虫藻も含めてサンゴであると見做すのであれば、サンゴが光合成を行っていると考える事ができるでしょう」
例によって授業中の事だ。国語の。
「植物が光合成を行えるのは、葉緑体を細胞内に共生させているからです。そして、葉緑体はそもそもは別の生物だったと考えられています。
だから私は、褐虫藻も含めてサンゴと表現してしまっても構わないと考えているのです。もし違うと言うのなら、植物と見做せる生物は葉緑体だけになってしまいますからね。
実はサンゴの他にも実質的に光合成を行っていると見做せる動物は存在しています。
エリシア・クロロティカというウミウシの一種は、葉緑体を取り込んで光合成を行っているし、キボシサンショウウオにも藻類が共生していて光合成を行っています。
ただ、注目すべきなのは、光合成が可能な動物で最も成功しているのは、“動けない”サンゴであろうという点でしょう。
あ、動けるって意味じゃ、ミドリムシが成功しているけど、これはまた根本から方略が異なっているから、別で考えるべきだと思う」
黒宮先生の説明は相変わらずに難しかった。生徒達は半分くらいしか理解できない。それでも構わず彼女は説明を続ける。
「“動けない”という特性は、普通に考えるのならマイナスにしか思えない。ところが、植物達はその特性を持っていて、しかも大成功している。
これは私達とは生き残りの為の方略の発想が根本から異なっているからでしょう。
そして、それを理解する為のキーワードの一つは恐らくは、“創造”と“協調”であると私は考えています。
自然界を弱肉強食の残酷な世界のように捉えている人達も多いようだけど、実は協調行動で満ち溢れた世界である事が最近になって分かって来ました。
協調行動はあまりに有り触れてある。だからこそ、それが特別な行動である事に長い間人間は気が付けていなかったのね。
森の木々…… いえ、数多の生物達は実は助け合って生きているのです。つまり、協調する方略を執っている。その方が優秀だから」
そこで言葉を切ると、黒宮先生はクルをじっと見つめた。クルはその黒宮先生の瞳をカメラで捉え、何事かを思案する。
そんな彼女に向けて、黒宮先生は言う。
「果たして、“人間社会”は動物と言えるのかしら?
私達はサンゴと同じ様に植物を共生させている。この意味は分かるわよね? たくさんの農作物を育てて利用している。いえ、植物ばかりじゃないわ。太陽光発電や風力発電などの多くは、“創造”という行為を行っていると見做せる。
そして、私達は“動いてはいない”。
他の社会を侵略し、資源を奪う事で社会生活を成り立たせてはいない。
果たして、私達“社会”はどんな方略を執っている生物なのかしら?
AIという仲間を迎え入れるに当たって、私達はそろそろ“それ”をきちんと整理するべきだと思うの」
そう言い終えると、黒宮先生はゆっくりと微笑んだ。とても優しそうに。