Memory 6 覚えのない手帳
配属二日目の朝。僕は騒がしく朝を告げる目覚まし時計を叩いて黙らせ、起床した。冷水で顔を洗って寝ぼけた頭を覚醒させ、首に貼られた大きな絆創膏を剥がす。傷は浅かったため、もう血は出ておらず、かさぶたが出来て塞がっていた。
キッチンに向かい、昨日の内に買っておいた甘めのシリアルに牛乳を注ぎ、朝食を済ませる。最後に砂糖多めの甘いコーヒーを喉に流し込み、歯を磨いてブラックスーツに着替える。全てをプログラミングされたロボットのように無駄なく進行し、支度を調えた。そうして僕が家を出たとき、時刻はまだ始業時間よりも一時間ほど早かった。
勘違いしないで欲しいのは、やる気に溢れているわけではないということだ。僕はものぐさで怠惰な人間だけれど、決して不真面目ではない。何か予定があると、それに絶対に間に合うよう、余裕を持って行動してしまう。僕は『予定』や『計画』というものを狂わせたくない。昔からそういう性分だった。中学生の頃は部活も入っていないのに毎朝一番乗りで登校し、教室で独り勉強をしていて気味悪がられたこともあったくらいだ。
とは言ってもそれは学生時代の話であって、今ではせいぜい十分前行動といった程度だが。今日こんなに早く家を出たのには、ちょっとした理由があったからだ。
本庁へと出勤して記憶捜査第二係室に入ると、まだ誰も出勤しておらず、部屋は暗かった。照明を点けると、僕はさっそく自分のデスクへ腰掛け、ポケットから一つの手帳を取り出す。警察手帳ではない。それは昨晩、引っ越しの段ボールを物色していた時に見つけた、不思議な手帳だった――
初勤務を終え、軽く買い物を済ませてから自宅に帰った、昨日の夜。僕は生活必需品だけでも引っ張り出そうと引っ越しの段ボールの山を物色していた。
手始めに食器類でも――と手当たり次第に段ボールを漁っていた僕は、二つ目の段ボールの底に埋もれていた妙な物を見つけた。
それは古い手帳のようだった。薄汚れた赤茶色のカバーをしていて、表紙がボタン留めされている。
「何だろう、これ」
こんなもの僕は持っていただろうか、と不思議に思った。適当に荷物を詰め込んでしまったから記憶にないような古い物が紛れ込んでしまったのかもしれないが、不可解なことに、この手帳については欠片も思い当たる節がなかった。
本当に僕のものなのだろうか――そんな疑問さえも抱きながらその手帳を手に取った、その瞬間だった。
ストロボを炊いたように、脳裏にこの手帳の姿がフラッシュバックした。それは遙か昔の、まるで前世の記憶のような気さえしてしまった。
どういうことだろう。全く覚えはない。けれどこの手帳は、確かに僕のものだ――そんな確信めいたものが芽生えた。
開いてみると、そこには外縁の枠だけが設けられた硬い厚紙のページが続いていた。見る限り何かを記入するような項目はなく、どうやらただの手帳ではなさそうだった。というより、これはもしかして――と僕はもう一度段ボールを覗き込んだ。すると、タバコの箱ほどの大きさをしたシルバーのアルミケースが目に入った。それを開けてみると、やはりそこには僕の予想通り、ジグソーパズルのピースが入っていた。どうやらこれは、手帳の形をしたパズルということらしい。
そして何故だか僕は、そのパズルにどうしようもなく、惹き付けられた。
――あれから気になって仕方なかったため、暇つぶし程度にやってみようと考えて持ってきたのだ。早めに家を出たのもそのためで、家でやるよりも遅刻の心配のないよう職場でやってしまおう、という算段だった。こういう夢中になる要素のある遊びは時間を忘れて取り組んでしまう危険が潜んでいる。
僕はぎっしりと中身の詰まったアルミケースをひっくり返し、全てのパズルピースをデスクにぶちまけた。すると、小さな接着剤のようなものが出てきた。この接着剤でピースを手帳のページに貼り付けて完成したパズルを崩さないようにする仕組みのようだ。
手帳を見る限り、ページは裏表合わせて全十ページ。つまり十枚分の絵柄のパズルということになる。そして察するに、その全ての絵柄のピースがごちゃ混ぜでケースに入れられていたのだろう。
さて、骨の折れる作業だ。でも、僕はこういう遊びは嫌いじゃない。だって、独りで出来るから――
「「おはようございまーす!」」
それから二〇分ほど謎のパズルに没頭していると、扉が開いて御堂島さんと二葉さんが声を揃えて快活な様子で出勤してきた。
「おはようございます」
「……おう、早ぇな、雨宮」
途端に、御堂島さんはどこか居心地の悪そうにぽりぽりと頭を掻いた。昨日、阿藤浩二の一件以降ずっとこんな調子で、ぎこちない。僕の教育係のため、昨日一日僕との会話は避けられず、あれこれと業務の説明をして頂いたのだが、会話は業務に必要最低限なものだけで(それについては僕としてはありがたいのだけれど)、さらにその全てがよそよそしいのだ。
「……首の傷はもう大丈夫なのか?」
彼は自分のデスクに腰を落ち着けると、これまたよそよそしい態度で訊いてきた。
「ええ、お陰様で」
「そうか」
以降沈黙。僕はどうでも良かったが、彼から気まずそうな空気が漂った。
すると、彼は突然立ち上がり、
「その……スマン! 昨日は勢いで頭叩いちまって……」
深々と頭を下げた。僕は少し驚いて目を丸くする。どうやら彼は、僕に手を上げたことをずっと悔やみ、悩んでいたということらしい。僕が昨日一日、ほとんど口を開かなかったのも原因かもしれない。
僕はただ、あれ以降なんだかセンチメンタルな気持ちになって口数が減っただけであって、御堂島さんに何かを思っていたわけではないのに。この人は真っ直ぐというか、真面目というか、誠実というか……バカというか。
「そんな小さなことを気にしていたんですか? 図体はでかいのにキンタマは小さいんですね」
「それを言うなら肝っ玉だろ……」
ツッコミを入れるだけの元気はあるようだ。
「僕はあんなこと気にしていませんので。そもそも危険で思慮の足りない行動に出たのは僕です。叱られて当然ですし、御堂島さんは悪くありません」
「お前……っ!」
御堂島さんの目が潤む。
「すっげぇ嫌な奴かと思ってたけど、めっちゃ良い奴だったんだなぁ! 抱きしめていいか!?」
「ブタでも抱きしめててください」
僕は肩を落として溜め息を吐く。
「それに勘違いしないでください。僕に非があったのは事実ですし、それを認めているだけですから。僕はちゃんと間違いは認めますし、言い訳もしません。反省もしませんが」
「いや反省もしろよ……」
今度は御堂島さんが肩を落として疲れた顔を浮かべた。
「ところで何やってんだ? パズル?」
御堂島さんはまたデスクに座り直すと、ずいっと体を近づけてこちらを覗き込んできた。さっきまであんなによそよそしかったのに、切り替えの早い人だ。
「ええ。引っ越しの荷物を整理していたら出てきまして。暇つぶしにやってみようかと」
「へぇ。頭良い奴ってそういうの得意そうだもんな。俺はそういうのムリだ。イライラしちまう」
「確かに、御堂島さんには向かなそうですね。単細胞そうですし」
「また一言余計だなぁ、お前は……」
彼は怒ることもなく、苦笑いを浮かべた。
「……ところで御堂島さん」
「なんだ?」
「僕の背後に迫るその手は何でしょう?」
パズルに没頭する僕の背中を隙有りと見たのか、御堂島さんの魔の手が忍び寄っていた。
「チッ、鋭いじゃないか雨宮記憶捜査官……。なかなかの勘の良さだ。見所があるぞ。だが相棒として親交を深めるためにも、肩を抱くくらい――」
「今度こそセクハラで訴えますよ」
「……スンマセン」
御堂島さんは大人しく手を引っ込めた。
「はーい、啓吾くん。お茶どうぞ?」
「おう、ありがちゃぁああぁああっしッ!」
二葉さんが熱々の湯飲みを御堂島さんの顔に押しつけて、彼は悲痛な叫びを上げて飛び退いた。二葉さんの顔には一見すると笑みが貼り付いているものの、目が笑っていなかった。
「はい、雨宮さんもどうぞ」
二葉さんは普通の笑みに戻って、僕にもお茶を用意してくれた。僕は「ありがとうございます」とありがたくそれを受け取る。
「そういえば雨宮さんって、中学卒業後すぐに高卒認定を取得したんですって? すごいのねぇ。事件もあんな一瞬で解決しちゃうし。やっぱり才能? あっ、ひょっとしてIQすごいとか!」
「いえ、大したことありませんので。むしろあの事件については、どうして皆さんがあの程度の証拠を見つけられなかったのか、僕は不思議でなりません。素質を疑います」
それはイヤミではなく、僕の率直な本心であり、疑問でもあった。
「あ、それは……その……。不甲斐ない限りで申し訳ないというか……。で、でも! それは雨宮さんの素質がずば抜けているっていうことでもあると思うよ!」
「そ、そうだぞ雨宮! お前にとっちゃ俺たちなんてバカに見えるのかも知れねぇけど、それはお前のレベルが違い過ぎるだけだって!」
どぎまぎとする二葉さんに御堂島さんはフォローを加えた。
それは酷い勘違いだ。僕は皆のことを『馬鹿』とは思っていない。『不可解』であり『不自然』だとは思っているけれど。今の御堂島さんの言動にしたってそうだ。
「あなたたちは悔しくないんですか? 自分たちに見つけられなかった証拠を現場経験皆無の新人にあっさりと見つけられてしまったのに。だとしたらレベルが低すぎます。あなたたちの意識のレベルが」
とても仕事にプライドを持つ人間には見えない。そんな人が警視庁で、それも警部補まで昇り詰めることが出来るとも到底思えない。だから『不可解』であり『不自然』なのだ。
ぴしっ、と二葉さんの心にヒビが入った音が聞こえた気がした。
「そ、そうよね……。私、雨宮さんよりずっと先輩なのに……なのに……! ご、ごめんなさい……っ!」
二葉さんは目を潤ませて小走りで外へと消えていった。
「お前なぁ……。なんでそう余計なこと言うのよ……」
「そういう性分なんで」
「そうは言ってもさぁ……。なんて言うか、もっとこう、協調性というかさぁ……」
「だから僕に協調性を強要しないでくださいと――」
「はいはい、わかったわかった。わかりましたよ。俺が悪かったって」
御堂島さんは目頭を押さえて首を振った。僕の扱いに滅入っているようだ。
「僕なんかのことで悩むだけ時間の無駄ですよ。それに、僕に苛立ちを覚えたなら怒りたい時にどうぞ怒ってください。怒りを我慢するのは体に毒ですから」
「お前、優しいのか捻くれてんのかどっちだよ……」
「そのどちらかなら間違いなく捻くれてるでしょうね。怒られたところで僕は正論を突き返して黙らせて御堂島さんのストレスを倍増させるだけでしょうし」
「ぜってぇ怒りたくねぇ……」
御堂島さんはげっそりした顔をした。そんな御堂島さんを見て、僕はパズルを進めていた手を止める。
「つまり僕が何を言っても怒らない、と言うわけですか? じゃあ好き放題言わせて頂きます。二葉さん、あの程度で泣くなんてホントどうしようもないですね。バカらしい。バカすぎて呆れますよ。あーバカみたい。ほんとバカ」
「……えーっと、急にどうした?」
御堂島さんは困り顔で首を傾げた。怒る様子もない。そこも少し『不自然』だった。
「……本当に怒らないんですか? 御堂島さんは今、僕を怒るべきだと思うのですが」
「怒るべき? なんでだよ?」
「僕にあなたの〝恋人〟を泣かされ、さらに貶されたんですよ?」
僕の紡ぎ出したその言葉に、御堂島さんの目が丸くなる。
「ああ、すみません。もうじきご結婚されるのですから〝恋人〟ではなく〝婚約者〟と言った方が正しいでしょうか」
「お前、なんでそれを……。誰かに聞いたのか?」
「昨日配属されたばかりで、しかも初日から皆さんにケンカを吹っかけた僕にそんな世間話をする親しい仲間がいると思いますか?」
「じゃあどうして……」
「ただの推測です」
僕はパズルを再開しながら答える。
「まず始めに、御堂島さんと二葉さんは同時に出勤してきました。でもまあ、別にその程度なら偶然鉢合わせたとかいくらでもあり得ますから、そこまで重要なポイントではありません。問題なのは、お二人の匂いです」
「匂い……?」
御堂島さんは不可解そうに眉根を寄せた。
「お二人の衣類からは全く同じ洗剤の匂いがします。さらに髪からは同じシャンプーの匂い。これは同棲生活をしている男女に見られる特徴です。さらに二葉さんの薬指には指輪がはめられていました。ですが御堂島さんは指輪をしていません。お二人が交際しているのなら、つまり二葉さんの指輪は婚約指輪という線が濃厚になります。故に僕はお二人がご婚約されていると考えました」
「ははは……こりゃ参ったな。別に隠してたわけでもねぇし皆知ってることだけどよ。まさか二日目の新人に感づかれるとは思わなかったわ。すげぇ観察眼だな」
気恥ずかしそうに頭を掻いて御堂島さんは言う。
「その通りだ。俺はすずと婚約してて、再来月結婚予定なんだよ。やっぱ結婚するならジューンブライドかなって。だから入籍も式も再来月を予定してんだ」
「そうでしたか。おめでとうございます」
僕は棒読みのような祝福を口にしながら今一度疑問に思う。それほど親密な仲のはずなのに、見るからに情に厚い御堂島さんがなぜ――と。もしかして、この人は何をされても怒らないのだろうか? だとしたら、優しさを履き違えているとしか言い様がないけれど。
「けれどマジですげぇな……。まるで熟練刑事みたいな推理だったぜ? お前をちょっと怖く思ったくらいだ」
「お褒めに与り光栄ですが、はっきり言ってわかりやすかったですよ。御堂島さんは二葉さんのことだけ下の名前で呼び捨てですし。それに二葉さんの御堂島さんを呼ぶときの声、語尾にハートが付きそうなくらい甘いですから。正直、昨日から薄々気付いてました」
正確には、二葉さんが御堂島さんへ怒りの炎を燃やしていたあの時から疑っていたからだ。あの時どうして二葉さんが怒りを露わにしていたのかと考えたとき、恋人の御堂島さんが他の女へセクハラを働いていたから、と考えるのが自然だった。
「それと、先ほどの二葉さんへの僕の暴言は御堂島さんの反応を見るためのただの挑発ですから。本当にバカと思っているわけではないので、お許しください」
すると御堂島さんはきょとんとした後、「あっはははは!」と豪快に笑った。
「あれはそういうことだったのか。いやぁ、お前に似合わずすごい幼稚な罵倒の仕方だったから戸惑っちまったよ。お前って普段は辛辣で理知的な言葉使うのに、思ってもない悪口はヘタなんだなぁ。可愛い一面もあるじゃねぇか」
急に恥ずかしさが込み上げて、顔が熱くなった。
なるほど、御堂島さんが怒らなかったのは僕の煽り方にも問題があったというわけか。僕にそんな苦手分野があったなんて。これは克服せねばならない課題かもしれない。
「……では御堂島さん。そんなあなたにアルマン・サラクルーのこの言葉を送ります」
僕は恥ずかしさを隠すように、取り繕って話題を変える。
「へぇ、なんだ?」
「『人間は判断力の欠如によって結婚し、 忍耐力の欠如によって離婚し、 記憶力の欠如によって再婚する』だそうです。結婚生活、頑張ってください」
「お前ホント捻くれてんな……」
御堂島さんはやるせない顔でそう呟いた。
その直後だった。
「ちょっとちょっとちょっとー!」
騒がしい声が近づいてきたかと思うと、荒々しく扉が開け放たれた。
そして野蛮な足取りで入ってきたのは、人間拡声器こと瀧波さん。後ろにはおろおろと戸惑う二葉さんもいる。その時点で僕はもう大体察しがついていた。
「ちょっとアンタ! すずを泣かせたってどういうこと!?」
「ち、違うの百花ちゃん! 私が悪いの!」
「上司を泣かせる新人なんて聞いたことないわよ! ほんっとあり得ない!」
二葉さんの言葉も聞かず、瀧波さんは腰に手を当てて目をつり上げていた。
「その張本人である二葉さんが今、懸命に僕に非がないことを訴えているようですが」
「すずは優しいだけなの! だから強く言えないだけなの! ね、すず!」
「ち、ちが――」
「ね!?」
「は、はい……」
なるほど、確かに二葉さんは強く言えないタイプらしい。瀧波さんの威圧に簡単に屈して畏縮していた。二葉さんは瀧波さんの上司のはずなのに。なんで立場逆転してるんだろう。
「今のは明らかに瀧波さんが脅迫していたように見えましたが?」
「そんなことはどうでもいいでしょ! すずがアンタのせいで泣いてたのは事実なんだから!」
「『この世に事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけだ』。もしかしたらあなたの解釈が間違っているだけなのかも知れませんよ」
「意味わかんないこと言ってんじゃないわよ!」
「歴史に名を残すような偉人の言葉なんですけどね」
「だからなに!? ほら、謝りなさいよ! このナマイキ新人! そのナメ腐った脳味噌に上下関係ってものを教えてあげるわ!」
絶賛下克上中のあなたに言われたくない……と言いたいところだったけれど、謝るだけでこの面倒なイベントを回避できるのなら喜んで頭を垂れよう。ヒステリックモードの瀧波さんには何を言っても無駄そうだ。
「すみませんでした。僕が悪かったです」
「謝って許されると思ってんの!?」
「じゃあどうしろと」
謝れと言ったのは瀧波さんなのに。無茶苦茶だ。
「私はアンタが嫌いよ! そのナメ腐った根性を直さない限り、何したって許さないわ!」
「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ」
「……何それ?」
「マハトマ・ガンディーの尊いお言葉です」
「また私を馬鹿にしたわね!? 私が人間的に弱いとでも言いたいわけ!?」
「解釈は任せます」
「~~~~ッ!」
人間拡声器さんは顔が真っ赤になった。爆発寸前のようだ。
「ちょっと御堂島さん! このナマイキなクソガキになんとか言ってやってくださいよ! 大事な大事な恋人のすずちゃんが泣かされたんですよ!? いいんですか!?」
「ええ~……」
飛び火した御堂島さんはかなり邪険な顔をした。
「なんていうか……あれだ、うん。諦めろ、瀧波」
「はあ!?」
「雨宮に口喧嘩で勝てる奴は多分この世にいない。俺はもうそれを悟った」
「ちょっと! 見損ないましたよ御堂島さん! すずのために戦わないんですか!? 未来の嫁さん守らないんですか!?」
「ちょっと百花ちゃん、嫁だなんてそんな……てへへ」
二葉さんは涙なんて嘘みたいに照れていた。そんな二葉さんに瀧波さんは「今はそういうのいらないから!」とさらにヒステリックを起こしている。
「おはようござる!」
ただでさえ動物園よりうるさい第二係室に、さらにもう一匹の動物が紛れ込んできてしまった。
「むむ? 百花殿、朝からそんなにご乱心してどうしたでござるか? いくら呼吸を乱れさせても胸は揺れないでござひゅんっ!」
出勤早々タブーを口にしたござるさんに、瀧波さんは問答無用の華麗な上段蹴りを見舞った。それをまともに顔面で受け止めた彼はセリフの末尾を奇妙な喘ぎ声に変えて吹き飛んだ。
「誰の胸が小さいから揺れないって? ああ!?」
床に転がって小魚みたいにぴくぴくし始めたござるさんに、瀧波さんはトドメのヘッドロック。ござるさんは苦しそうに藻掻きながらも、しかしその顔は恍惚としたとても幸せそうな色を滲ませていた。そしてそのまま限界を迎えたのか、昇天して意識を失ってしまった。
その騒がしさには、僕も呆れを通り越して感服するばかりだった。
「なんだなんだ。朝から騒がしいな」
そんな混沌とした第二係室に、また新たな影が現われる。それは、まだ僕の知らない人だった。
「おはようございます、兵藤さん」
ござるさんに首締めを続けながら挨拶をする瀧波さんを見て、兵藤さんと呼ばれた男の人はやれやれと頭を掻いた。
「まーた秋元が何かやったのか? ったく、懲りねぇ奴だなぁこいつは……。っていっても、こいつは瀧波のお仕置きが逆にご褒美になっちまってるからなぁ。それが目当てでわざと瀧波をからかいやがるんだから始末に負えん」
「じゃあ今度から首輪でも付けて放置しておきましょうか」
恐ろしい提案を繰り広げる瀧波さんに、彼は「はっはっは。そいつは良いアイデアだ」と豪快に笑った。
それもつかの間。彼は僕を見るなりたちまち顔を引き締める。
「ほう……。もしかしてお前さんが昨日から入った新人か? 名前は確か……」
「雨宮佳由良です。初めまして」
「そうそう、雨宮だったな。俺は二係担当係長の兵藤邦明だ。よろしくな、嬢ちゃん」
二係担当係長……ということは、昨日休みでいなかった第三班の一人ということだ。
凜々しい眉毛。渋い声に渋い髭。ウェーブのかかったセミロングのワイルドな黒茶色ヘアー。年齢は恐らく四十代後半だろうか。一言で言えば、すごくダンディーなおじさんだった。大人の男の色気が滲み出ている。
「噂は聞いたぜ。なんでも初日からたちまち事件を解決しちまったらしいじゃねぇか。たまげたもんだ」
「いえ、べつに大したことでもないので」
「まあまあ、そう謙虚になりなさんなって。実は今朝ちょうど新しい仕事をもらってきたところでな。どうだ? 俺と一緒にやってみないか?」
兵藤さんは手に持った数枚の紙切れをぴらぴらと泳がせてみせた。どうやらそれが新しい仕事とやらの資料のようだ。
「僕が、ですか? 兵藤さんのペアはござるさんのはずでは?」
その場にいた全員が「ござるさん?」と数瞬頭を悩ませ、すぐに「ああ、秋元のことか」と察した空気が流れた。
「秋元はご覧の通りノびちまってるしな。その穴埋めだ。なにより、期待の新人のお手並みを俺にも拝見させてくれ」