Memory 1 目覚めの調律
――ジリリリリリリッ、と枕元でけたたましいアラームを奏でて朝を知らせる目覚まし時計に、僕は手を叩きつけて黙らせた。
ひどく頭の中が霞んでいた。なんだか不思議な夢を見ていたような気がするけれど……思い出せない。まあ、夢ってだいたいそんなものだろうけれど。
「……まだ六時半じゃん……」
時刻を確認して、もう一度布団に潜り込む。なんでこんな早くに目覚ましをセットしていたのか自分を疑った。いつもは九時か、早くても八時に起きる程度なのに。そもそも、いつもは目覚ましなんてセットしない。
今日は何か予定があっただろうか、と寝ぼけている頭を必死に叩き起こして考える。
――なんだろう……今日の予定、予定……。……ああ、そうだ。
「今日から警視庁で記憶捜査官として働くんだった……」
この前警察学校を卒業して、いよいよ今日は初出勤の日だった。どうして忘れていたのだろう。
のそのそと起き上がる。薄暗い部屋を見渡すと、そこは見覚えのない部屋だった。ベッドとテーブルと乱雑に床に置かれたテレビくらいしかなくて、とてもスースーする味気のない部屋。壁際には段ボールが積まれているズボラな有様だった。
「……ああ、そうだ。昨日引っ越してきたんだった」
ぽむ、と拳を叩く使い古されたリアクションでもって思い出す。
初出勤の日に合わせて前住んでいた府中市のアパートからこのアパートへと引っ越してきたのだ。確か独身寮は門限などがあって面倒だからと断り、このアパートを選んだ気がする。
そして結局、昨日は片付けが面倒くさくてベッドだけ作って寝てしまったんだ。
「他にも色々と忘れてる気がする……」
とりあえず僕を飲み込んで離さない優しくも恐ろしい悪魔から脱出を図る。布団の外は肌寒かった。
洗面所に向かってうがいをして顔を洗って、すっきりしたらキッチンに直行。まずはコップ一杯の水を喉へ流し込む。都会特有の薬品臭い冷水が僕の喉を冷たく潤していく。
冷蔵庫を開けてみたはいいけれど、空っぽだった。それもそのはずだ。昨日引っ越してきてから何も買っていないのだから。
朝食は抜きにし、再び洗面所へ向かって歯ブラシを調達して、歯を磨きながらふらふらと部屋を歩き回った。まだ寝ぼけているのか、意識が夢心地だった。
壁に乱雑に打ち付けられたカレンダーが目に留まった。
二〇六一年四月。
今日は何日だったか……と頭を捻らせていると、五日に赤い丸印がされていて『初出勤』と僕の字が書かれていた。いつこんな印を書いたのか自分でもまるで覚えがなくて、僕は歯を磨きながらひたすら首を捻った。
歯磨きを終えると、真新しい制服のパンツスーツに着替え、壁に備え付けの鏡で姿を確認する。
あちこち飛び跳ねたチャームな癖毛の黒髪ロングヘアー。まだ一七歳だというのに人生に疲れ切ったような目元。死んだ魚のように覇気のない少女がそこにいた。滅多に笑わないし、顔に性格が表れているんだろう。
「……色気がない」
僕はとりわけ大きいわけでもない胸を両手で持ち上げて揺すってみる。でも揺れてくれない。よく広告で見るキャリアウーマンみたいに、スーツを着れば嫌でも大人びて見えるかと思えば、背伸びをしている子供にしか見えなかった。色気とはなんぞや、と世界に訴えたい気持ちになる。
顔を洗って歯を磨いて着替えただけだけれど、一応準備といえるものを済ませ、時計を見れば、只今の時刻は午前七時二十分だった。確か始業時間は八時と説明を受けた記憶がある。このアパートから警視庁は徒歩圏内で、二十分もせず出勤可能だ。
今から家を出るのでは些か早すぎる気もするけれど、早く着く分には問題ないだろう。
玄関扉を開けると冷たく張り詰めた空気が顔を刺した。春の始まりとは言え、まだ朝は寒い。身を縮込めながら、いざ息苦しいコンクリートの街へと繰り出さんと一歩を踏み出した。
たった一歩。されど一歩。その一歩で、僕は思わず息を飲んだ。
出迎えたのは、まるで投げ出されたかのように広大な、蒼く澄み渡った空。そして超高層アパートの最上階――地上四十階から見下ろす都会の街並みは、圧巻の一言だった。とは言っても、僕が息を飲んだのは、鏡面のようなガラス壁が青空を照り返してそびえ立つ、都会特有の高層ビル群の街並みに――ではない。
もちろん、田舎生まれ田舎育ちの僕はその景色だけでも新鮮な驚きを覚えた。でも、そんなものすら霞んでしまう光景が目の前にあった。
剣山のように乱立するビル群の中に、頭一つ飛び抜けて、灯台のようなタワーがにょきっと生えている。そのタワーの頂上には、黒く巨大な球体が惑星のように自転しながら浮いていた。その様はさながら土星のようで、球体の周囲には文字の綴られた帯状のホログラムが回転していて、今日の天気やニュース速報――そして市民の『精神健康率』『精神健康指数』などを報じていた。精神健康率は『99.962%』、精神健康指数は『98.951%』を示している。
「あれが〝ランプリットタワー〟……」
今の日本が誇る技術の集大成。〝夢の世界〟の創造を司るメインシステム……。
「東京って凄いな……。僕のいた田舎とは大違いだ」
社会人になり、新天地での旅立ち――普通なら、ここで心躍らせるものなのだろう。けれど、僕の心はさざ波程度も揺れず、至って平坦だった。この景色への驚きこそあったけれど、期待や喜びといった感情は一切湧いてこない。他の人の心がわたアメでできているとするなら、僕の心はきっと鉛でできている。甘くなく、柔らかくもなく、軽くもなく、ただただ固くて重い。
……いや、そもそもどうして、僕はこの景色に驚きを覚えたのだろう。僕が二年近くも過ごした警察学校は府中市にあったのだ。東京の景色なんてもう見慣れているはずなのに、何を今更……。ランプリットタワーだって何度も目にしているじゃないか。
寝ぼけた頭を振って、気を取り直して街に出る。金融会社の「計画的に利用しましょう」と注意を促しながらも利用を勧める悪趣味な広告や、空き家を紹介する不動産会社の広告、その他商業施設の商品紹介の広告――ホログラムイルミネーションによって立体的に映し出されたそれらは、まるで万華鏡の中を歩いているような気分にさせた。
そんなわちゃわちゃとしたホログラムイルミネーションの騒ぐ都会特有の街並みを眺めながら歩くと、やっと目を覚ましてきたのか、ぼやけていた頭が段々と鮮明になってきた。
毎朝早くに叩き起こされ、つまらない講義を受けて、覇気のない態度を怒られ、訓練という名の下に肉体をイジメ続ける日々を送った警察学校生活。思い出すだけでも嫌な鳥肌が立った。よくこの僕がそんな生活に耐えられたものだと不思議に思う。
警視庁本部庁舎の入り口に辿り着くと、僕とは違う濃紺色の警察服を身に纏った警官が休めの姿勢で警備していた。
そこで僕はそう言えば、と思い至る。僕はまだ配属先の係室が警視庁の中のどこにあるのかをまるで知らない。ちょうどいい、この警官に訊いてみよう。
ここぞとばかりに僕は胸ポケットから警察手帳を取り出す。
「今日から警視庁刑事部捜査一課記憶捜査第二係の記憶捜査官として配属されました、雨宮佳由良といいます。すみません、記憶捜査第二係室ってどこでしょうか?」
おお、なんか今の僕、警察っぽい。大人の階段を一歩上った感覚。そんなものが確かにあった。
けれど輝かしい成長を遂げて得意げになる僕に反して、彼の反応は冷たいものだった。
「…………」
無視。品定めするようにじっとりとした視線で僕を一瞥して、それだけだった。せっかく礼儀正しく挨拶したというのに、僕を視姦してくるとはなんと無礼な男だろう。ムッとした気持ちが込み上げて、僕の悪い癖が発動する。
「なんだ、ただのマネキンか。僕ってばうっかりさん」
「あ? なんだと?」
「わあ、マネキンが喋った」
僕は抑揚のない棒読みで無表情を貫き、わざとらしく驚く。マネキンの額に青筋が浮かんだ。
「ケンカ売ってんのか? ああ? そうなんだな!?」
マネキンはこれでもかと眉を八の字に歪めて目元を凄ませ、詰め寄ってくる。まるで田舎のヤンキーのそれだ。
「きゃーこわーい。やんきー(笑)に絡まれちゃったー。てへぺろー」
おふざけが過ぎたかも知れない。マネキンの額に浮かんでいた青筋がはち切れそうになった。
「ててて、てめぇ……! バカにしやがってぇ……! 自分が捜査一課だからって見下してんだな!? 新人のクソガキのくせにぃ! もう完全にコレだぞ! 俺もう完全にコレだかんな!? わかってんのか!? おおん!?」
彼は威嚇した目つきで頭上に両拳をくっつけると、人差し指をピンと立てて見せた。そのままピコピコと人差し指を必至に突き立てている。鬼の角のつもりだろうか。これを見ると、もう怒っているのかふざけているのか正直僕にはわからない。けど、意外と面白い人だ。
「ウサギさんのモノマネですか? 可愛いですね。小学生にはウケると思いますよ」
極めて平坦に言うと、彼の怒りはついに怒髪天を衝いたらしい。
「テンメェ……ふざけた口の利き方しやがって――」
顔を真っ赤に腫れ上がらせた彼が僕の胸倉を掴みかかって、しかしその時。
「あーちょっとすんませーん!」
私たちの間に、ずいっと男の影が割って入った。
「いやー悪いね、うちの部下が。あとはこっちで説教しとくから。ははは。めんごめんごー」
僕と同じ制服を着た若い男だった。ベリーショートの黒髪で清潔感と爽やかさがある好青年といった感じだ。
彼は苦笑いを浮かべながら軽い調子で手を切って、僕を無理矢理庁舎内へと押し込む。警官は舌打ちして再びマネキンの業務へと戻った。
「お前、今日から記憶捜査第二係に配属になる雨宮だろ? ったく、配属初日でなにケンカ売ってんだよ……。俺がいなかったら初っぱな謹慎減給処分だったぞ? 今日は早めに出勤して正解だったぜ……」
彼はそう言い、安堵と疲労を混濁させたような顔で息をついた。
僕のことを知っている……ということは、同じ二係の記憶捜査官だろうか。何はともあれ、彼の言葉にはやや語弊がある。断固として訂正しなくては。
「初めに無視してケンカを売ってきたのは向こうです。僕は悪くありません。それに、なぜあんな態度の悪い野蛮な警官がいるんですか? 危うくあの男によって僕の純潔が汚されるところでしたよ」
僕がわざとらしく身震いしてみせると、彼は顔を背けて口元を押さえ「やばい……この子ちょっとおかしい子かも……」と小さく呟いた。ばっちし聞こえているんですが。
「まあ、とにかくだな……。ここには記憶捜査官を毛嫌いしてる奴もいるんだよ。普通は巡査部長以上の階級じゃねーと捜査一課には入れねーのに、お前みたいな新人の巡査でも記憶捜査官なら捜査一課に入れちまうし、さらには昇任も他より早い、ってな。ったく、こっちの苦労も知らねぇくせによ……」
エレベーターに乗り込み、地下四階のボタンを押しながら彼は悪態をこぼした。
「……ところであなたは?」
「おっと、そうだったな。記憶捜査第二係の御堂島啓吾だ。お前の教育係を任されてる。よろしくな」
そう言って、彼は気さくに手を差し出した。二十代後半といった若い活力ある男性で、悪い印象は受けない。けれど、僕はその手を握り返さず、「よろしくお願いします」と平坦に言って前に向き直った。彼は「冷たい奴だなぁ」と口を尖らせて手を引っ込めた。
やはり二係の――つまり、彼は僕の直属の上司というわけだ。
「ところでお前、若ぇな。確か一七だっけか? 高校は行かなかったのか?」
「ええ、行きませんでした。でも高卒認定なら中学卒業後すぐに取得しました」
「えっ、中学卒業後すぐ!?」
「高校の授業課程に三年も費やすなんて馬鹿のすることです」
「お前それ、ほとんどの人が馬鹿ってことになるぞ……」
「では馬鹿なのでは?」
「あのなぁ……。っていうか、学校ってのはもっとこう、勉強以外にも学べるものが……」
「あんなおままごとみたいな人間関係を強要されるような動物園で何を学べって言うんですか」
「……やっぱこの子変人だ……」
「さっきから聞こえてますよ? 女の子に向かって失礼なこと言うんですね。今すぐ意味深に服をはだけさせて『助けてー』って叫んでやりましょうか?」
「勘弁して下さい……」
彼が顔を青ざめさせてがくがくと顎を揺らしたところでエレベーターが地下四階に到着。目の前には長い廊下が続いている。どこに向かっているのかわからないけれど、とりあえず御堂島さんの後を追った。時折、白衣を着た研究員みたいな人とすれ違った。
「ところで、どこに行くんですか? こんな地下に連れ込んで、まさか僕を――」
「ちげーよ……」
彼はこの短時間で既に僕という人間について把握しつつあるのか、僕の言わんとしたことを察したらしい。素早い反応だった。
「まだちょっと時間もあるし、始業前に一番肝心なところだけでも案内しとこうと思ってな」
そう言って、御堂島さんは廊下の突き当たりの扉を開いた。プレートには『記憶捜査第一係』と書かれている。
「ここが俺たち記憶捜査官の心臓部だ」
その部屋は、まるで講堂のように広い空間だった。ワケのわからない難しそうな機械が詰め込まれ、白衣を着た研究員のような人たちが忙しなくパソコンやら機械やらを操作していた。
「何なんですか、ここ?」
「人の脳から抽出した記憶の管理を担当してる一係の部屋だ。俺たち記憶捜査官が行う〝記憶捜査〟ってもんがどんなものなのか、お前も大体のイメージくらいはついてるだろ?」
「ええ、まあ……」
僕は記憶をたぐり寄せる。次第に警察学校での講習が脳裏に蘇ってくる。
「被害者や目撃者、あるいは容疑者の記憶を抽出して、過去を完全再現したデータ世界を創り出すんですよね。被害者や目撃者の記憶から過去を再現する場合は犯人に繋がる証拠を探したり、容疑者の記憶から過去を再現する場合は犯行の証拠を掴んだり」
「その通りだ。この一係ってのが、まさしくその記憶たちの管理を行っていて、記憶から創り出した過去のデータ世界――通称〝記憶世界〟ってやつの生成を行ってるんだ。正確には、記憶世界の生成には衛星映像や防犯カメラの記録なんかも複合される。だから一係の担当は記憶の管理って言うより、記憶世界の管理って方が正しいかもな。そして一係の生成した記憶世界に潜って実際に捜査を行うのが、俺たち二係の記憶捜査官ってわけだ」
簡単に説明を終えると、御堂島さんは「こっちに来てみろ」と研究室のような室内をずんずんと突き進んでいく。その途中、彼は大人の色気が滲み出るおねぇさんに声をかけられた。
「あら、啓吾くんじゃない。今日は早いのね。……そっちの子は?」
「おはよう、北見さん。こいつは今日から二係に配属になった雨宮佳由良巡査だ」
「初めまして」
僕は最低限の礼儀として軽く頭を下げた。
「まあ。今日からの新人ちゃんってアナタのことだったのね? ずいぶん若いわねぇ。私は北見美咲。ここの主任よ。よろしくね」
腕を組みながら濃厚なウィンクを添えて彼女は言った。あざとい仕草だったけれど、すごく様になっていて悪い気はしなかった。
白衣に眼鏡という定番コンボ。そして何よりも際立っているのは、彼女のはだけた胸元におわす、お胸様だ。
「これが色気か」
僕は自分の胸を揺すりながらその差に愕然とする。立派に実ったメロンのような胸が、はだけた白衣の中で暴れている。僕にとってそれはもう、色気という名の暴力だった。周囲の男性陣はこんな人が近くにいてお仕事に集中できるのだろうか。いいや、きっと発情期のブタのような視線で彼女を舐め回しているに違いない。
「こいつにアレを見せておこうと思ってさ。ちょいと邪魔するぜ」
「ああ、そういうこと。いいわよ。いらっしゃい」
よくわからないまま僕は二人の後を追った。
「ここだ。下を覗いてみろ」
御堂島さんに言われたそこは、部屋の中央部だった。そこの床だけくり抜かれたように巨大な丸い穴が空いている。直径二十メートル近くある大きな穴だ。
その穴の部分だけガラス張りの床となっていて、下層が見えるようになっていた。言われた通りそのガラスの床から下を覗き込むと、また巨大な空間が広がっていた。
壁一面が剥き出しの機械で埋め尽くされ、淡い薄緑色の光が充満した不思議な空間。そしてその空間の中央には、球体をした巨大な機械が惑星のように回転しながら浮いていた。
「なんですか、これ?」
「〝FANTASY〟だ。またはその役割から『神託の箱庭』なんて呼ばれ方もしている」
「ファンタジー?」
僕は眉間に皺を寄せた。今の時代、誰だって〝その存在〟を知っている。だからこそ、疑問を抱いて当然だった。
FANTASY――それは約十年前に誕生し日本に革命をもたらした、今の刑事法体系に欠かせない存在だ。その頃僕はまだ七歳前後ということになるけれど、連日ひっきりなしにニュースで取り上げられていたことを鮮明に覚えている。人々にとってそれほど革新的な、あるいは時代を変えるほどの前衛的で挑戦的な試みだったということだろう。当時の僕は幼すぎて、なぜ騒がれているのか理解出来ていなかった。
でも今の僕にはその重大さが理解できる。だって、この機械の誕生によって法律がガラリと――大袈裟に言ってしまえば一八〇度も変わってしまったのだから。
しかし、この地下に埋まっている球体がFANTASYなのだとすると、僕の認識とズレが生じる。
「それって、あの〝ランプリットタワー〟の頂上に浮いている球体のことのはずでは?」
そう、僕が家を出てすぐに目にした、タワーの頂上に鎮座していた巨大な黒色の球体。あれこそがFANTASYと呼ばれる代物――のはずなのだ。少なくとも、一般にはそう公表されている。
僕の疑問に答えたのは北見さんだった。
「ええ、ランプリットタワーにある機械が〝本体〟よ。これはその一部――言わば子機ね。子機はこうして各都道府県の警察本部に一つ置かれていて、ランプリットタワーにある親機への接続を行っているの」
「へぇ。全て警察が管理していたんですね」
一般的な情報として流れているのはその名前と機械の持つ役割だけだ。その実態までは知らなかった。
「まあ、当然っちゃ当然だろ? FANTASYは受刑者たちの人格更生のために創られたんだからな」
御堂島さんのその言葉に僕は「それもそうですね」と素直に納得した。
「架空の人生を経験させることによって人格の更生を図るプログラム――『プログラム・8』でしたっけ」
FANTASYに積み込まれた人工知能により対象者の精神分析を行い、異常があると診断された場合には、FANTASYの中でその人格更生に適した更生プログラムを――つまり、〝架空の人生〟を体験させる。その仮想体験によって、欠如した感情や心を養うという寸法だ。それが『プログラム・8』であり、そしてそのシステムこそが、ひっくり返すように法律を書き換えた。
具体的に言えば、日本から懲役刑及び死刑が消えた。受刑者には全員、この更生プログラムによって構築された仮想世界の中で架空の人生――例えば、殺人を犯した受刑者には命の大切さを再認識させるような、そんな架空の人生を仮想体験させ、人として健常な精神への更生を図る計画が始動したのだ。
懲役刑が消えたとは言っても、受刑者はFANTASYに意識を繋ぐためにコネクターの中で眠らされることになる。更生プログラム終了までそのコネクターから出ることはおろか、仮想世界から目を覚ますこともないのだから、禁固刑に近い形となるのだろう。精神の更生が認められなければ機械の中から永遠に目覚められないというのだから、それはそれで恐ろしい話だ。
「じゃあ、今もこの機械の中には受刑者たちの意識が?」
「ええ。今の人口が約一億人で、精神健康率が99.962%だから……約四万弱の意識が潜っていて、人格更生プログラムを受療中よ」
答えてくれたのは北見さんだった。
精神健康率とは、その名の通り健やかな精神を持った人間の割合だ。つまり、0.038%の人間が『異常』ということでFANTASYに繋がれ、人格更生プログラムを受療中という計算になる。また、精神健康指数とは、人格更生プログラムの受療者数の前日比となっている。
0.038%――割合で言えばごく僅かに聞こえるが、約四万人分もの意識がこの機械の中で生きている。とても想像のつかない世界だ。
「それで、どうして僕にこれを?」
大層な代物が警視庁の地下に存在することはわかった。でもこれを見せられた意図が見えなかった。
「この機械こそが記憶捜査の要だからよ」
北見さんは色っぽい声で教えてくれた。
「FANTASYの『仮想体験可能なデータ世界を創り出す機能』を使えば、例えばゲームみたいな空想のデータ世界だって創り出すことも可能なの。言っちゃえば、どんな設定の世界だって創り出せて、その世界に意識を繋げばまるで現実のように体験できちゃうってことね。そこから『過去の世界を創れたら犯罪捜査に役立つよね?』って発想が生まれて、人の脳から抽出した記憶や、衛星カメラや防犯カメラその他諸々の膨大なデータから『記憶世界』――つまり『過去』を忠実に再現した『データ世界』を創り出すことに成功したのよ。そうして、アナタたち記憶捜査官が生まれた」
「へぇ……」
人格更生プログラムだけでなく記憶捜査にまでFANTASYが利用されていたことに、僕は思わず感嘆と声を漏らした。
僕はもう一度下を覗き込む。
FANTASYと呼ばれる機械は、無情なまでに規則正しく回転を続けながら、宙を浮いていた。