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プログラム・8 -プログラム・エイト-  作者: 夢見 裕
第二章 罪深き記憶
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Memory 10 休日の戯れ

 ここで一つ、怖い話をしよう。


 それは忘れもしない、確か数日前……雨宮が記憶捜査第二係に配属される前夜のことだ。その日、俺は仕事を終えて家に帰った。翌日に(きた)る新人に期待を膨らませつつ、やる気を滾らせて。それはもう、誰が見ても気合い十分な姿勢だっただろう。非番で家にいたすずには、玄関を開けた直後に『すごいウキウキしてるのね。新人の女の子がそんなに楽しみ?』と、素敵な笑顔で言われたくらいだ。ちなみに、すずはその手に包丁を持っていた。夕飯の支度で忙しいのに、そのまま出迎えてくれたのだろう。あまりに献身的な姿に震え上がる思いだったよ。


 まあ、それは怖い話じゃない。むしろ微笑ましい惚気話だろう。本題はここからだ。

 夕飯を終えた俺は、テレビのバラエティー番組を見ながら夜の楽しみの一つである酒を嗜んでいた。癒やしの時間だ。疲れ切った体にガソリンが注入されていくように、エネルギーが満たされていくのがわかる。この時ばかりは、俺の燃料はアルコールなんだと思わせる勢いがあった。


 あっという間に缶ビール三本を空けたところで、洗い物を終えたすずが一升瓶を持ってきた。


「いつもご苦労様。これ、啓吾くんのためにちょっと奮発して買っちゃったの。良かったら飲んで」


 そう言って差し出したそれは、よく知らない銘柄だったが、なんだか高級そうなオーラを放つ日本酒だった。

 すずのお酌してくれたそれを、俺は大喜びで飲んだ。まるで水のように澄み渡っていて、水のように無駄のない味をしていた。高級な日本酒はこんなに飲みやすいのか、と感涙する思いでグビグビと飲んだ。しかしやはり日本酒であることに変わりはないため、アルコール度数は相応に高いのだろう。すぐに俺はべろべろに酔っ払い、就寝するに至った。お陰で熟睡することができ、さらに翌日は二日酔いもなくいつもよりも早く起床することができた。雨宮の配属初日に普段より早く出勤できたのは、そのためだったわけだ。


 そして時は流れ……昨夜のことだ。いつものように帰宅し夕飯を終えた俺は、もう一度あの日本酒を飲みたくなり、すずの目を盗んで冷蔵庫に入っていたそれを取り出した。すずには「高いお酒だから、私が許可したご褒美の時だけね」と釘を刺されていたのだ。

 けれど欲望に勝てず、俺はまだ半分ほど残っていたその日本酒をウキウキとコップに注ぎ、もう我慢できんとばかりに喉へ流し込んだ。相変わらず水のように澄み渡った透明をしていて、水のように味がなく、水のように飲みやすくて……。


 ……水だった。それは水だった。疑いようもなく、無味無臭のただの水だったのだ。


 すずを問い詰めると、彼女は笑顔で言った。


「水で酔っ払う啓吾くん、面白かったわよ。水でも酔っ払えるなんて、経済的でいいわね。とっても助かるわ」






「――信じられるか? 俺は、あろう事かただの水でべろんべろんに酔っ払っちまったんだ……! 怖いぜ……俺は俺が怖い……! というか水に酔わされた自分が悔しい!」


 話し終えると、人類史上最も価値のない悔し涙を滲ませて御堂島さんはテーブルに拳を叩きつけた。正午過ぎのカフェのテラス席で、そこそこ人が居る中だったために、テーブルを叩く音には注目が集まった。とんだ恥さらしだ。勘弁して頂きたい。


「プラシーボ効果みたいなものですかね。というか、そんな下らない話のために僕の貴重な休日を奪う気ですか? 『忘れもしない』とか言っておきながら『確か数日前』とかあやふやだし」


 そう、僕は今日、非番のため休息日だった。そのはずなのに、たまたま御堂島さんに見つかってしまったがために、拉致されたのだ。

 事の発端は、僕が花屋に出かけたことから始まる。なぜ僕がキンセンカを知っていたのか、その秘密を探るべくして。

 幸いにも徒歩圏内に生花店はあった。雑居ビルの一階に埋め込まれた小さなお店ではあったけれど、さすがに取り揃えられた花の種類は豊富で、色取り取りの花がひしめき合い、一度(ひとたび)足を踏み込めば重厚な蜜の香りが全身を包み込んだ。人を惑わせるようなその香りは、普段過ごしている世界とは一線を画していて、メルヘンチックな乙女の世界に迷い込んだ気さえしてしまうほどだった。

 目的の花であるキンセンカは、一つだけではあったけれど、小さなプランターに身を寄せ合って花を開いていた。精一杯に花開くその姿は、僕とは正反対に人を明るく照らすようだった。

 嗅ぐってみると、やはりどこか嗅いだことのあるような香りが脳をくすぐった。ちょこんと指先で花を小突くと、キンセンカは恥ずかしそうに頭を揺らした。

 それからしばらく、興味深く花を観察して回っていると、「どんなお花をお探しですか」と花の似合うふわふわした可愛らしい店員に声をかけられ、購買目的で訪れていない僕は「すみません、今日は見に来ただけで」と断って、そそくさと店を後にした。


 ちょうどお昼時だったため、コンビニで昼食を買って帰ろうとして、この辺りでは一番よく知るコンビニ――つまり、いつも僕がお昼を買っている警視庁本部庁舎の最寄りのコンビニに立ち寄った。これが大きな間違いだった。『いつもは食堂のご飯を食べているのにたまたま食堂以外のご飯が食べたくなってコンビニに赴いたお昼休憩中の御堂島さん』という、もしかして仕組まれたんじゃないかと疑いたくなるような偶然によって、僕らは鉢合わせてしまった。

 そこからはもう御堂島さんのターンだった。僕は怪訝な顔を浮かべて踵を返し逃走を試みたのだけれど、僕を見つけた御堂島さんは獲物を見つけたハイエナの如くニヤリと不気味に笑い、手に持っていたコンビニ弁当を光の速さで棚に戻して「これからご飯か? そうなんだろ? そうだよな! ならどこかで一緒に食おうぜ!」と僕を連れ去った。


 その結果がこの果てしなく下らない『怖い話』である。僕は溜め息を()き、デミグラスソースのかかったハンバーグを一口大にカットして口に運んだ。幸い、話のつまらなさには関係なく、ハンバーグは美味しい。


「いや、でも実際怖くないか? 思い込みだけで酔っ払っちまったんだぜ?」

「人の脳や体は意外と単純ですから。例えば『加熱したアイロンを見せ、さらにそれを体に近づけて加熱していることを確かめさせたあと、その人に目隠しをして全く加熱していない冷えたアイロンを押し当てたところ、本当に火傷してしまった』なんてことがあるくらい」

「マジかよ……人体って不思議だなぁ……」


 感嘆とした様子で零して、御堂島さんはナポリタンにかぶりついた。口の周りが赤くなっている。まるで子供みたいだ。

 そのままぺろりとナポリタンを平らげた御堂島さんは、ふいに僕を真剣な顔でまじまじと観察し始めた。


「……なんですか?」

「一七歳の女の子と食事をしている二八歳男性っていうこの()(はた)から見たら危なくねぇかなって」

「ちょっと警察呼びますね」

「残念ながら俺がその警察だ」


 とまぁそんな冗談は置いといて、と御堂島さんは続ける。


「雨宮の私服姿が新鮮だったからよ。やっぱり制服じゃないと、年相応の女の子って感じがするよなぁ。イメージ通り大人しめのファッションだけど」


 御堂島さんの言う通り、今日は仕事ではないため僕は私服姿であり、またファッションも派手なものや極端に女の子らしいものは好みでないため、今日は装飾のない黒地のセーターに濃紺色のデニムパンツという洒落っ気のない格好だった。


「僕は地味なファッションの方が好きですから。ひらひらしたものやふわふわしたものはなんだか落ち着きません」

「意外と派手な服も似合うと思うぜ? もしかしたらゴスロリファッションなんかも似合うんじゃないか? 雨宮が休日にゴスロリファッションだったら……くっくっく! めちゃくちゃ面白そうだなぁ! はっはっはっは!」

「御堂島さんがゴスロリファッションでペアルックしてくれるなら考えますよ」

「捕まっちまうわバカヤロウ……」

「捕まればいいのに」


 勝手に想像して勝手に馬鹿笑いするような人にはお似合いの罰だ。

 程なくして僕がハンバーグを完食すると、御堂島さんは時間を見て慌ただしく立ち上がった。


「やっべ。休憩終わっちまう。もう戻らねぇと。今日は付き合ってもらって悪いな、雨宮。金は払っとくから。また明日な!」


 そう言って、嵐のように立ち去っていった。何度か左腕のデバイスを見ていたし、本当は休憩時間終わり間近なことをわかっていたはずだ。けれど、彼は律儀に僕が食べ終わるのを待ってくれていた。やっぱり、優しい人なんだろう。


 考えてみれば、休日にこうして誰かと過ごすことなど初めてな気がした。

 初めは煩わしいと思っていたけれど、彼が帰った後になって、なんだかそんなに悪くないような気がしてくる。食わず嫌いをしていて、食べてみて初めて本当は美味しいとわかった料理のような……。燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びながら、そんなことを思った休日だった。


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