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確認不足

作者: 雲鳴遊乃実

「今度こそ死んでやるんだから」

 夜中の二時。電話口に出た途端、相手の女は物騒な言葉をぶつけてきた。ヒステリックな声色が耳に痛い。

「ちょっと待てよ、いきなりどうしたっていうんだ」

「あんたこそ何よ、そんなひそひそ喋っちゃって」

「事情があるんだよ。それで、いきなり死ぬってなにさ」

「あんたにほとほと愛想が尽きたから死ぬのよ! いいから黙って聞いてなさいよ、今からあたし、このまま首つってやるんだから」

 何やら怖ろしいことを考えているらしい女に何を言っても無駄な気がしたが、俺はひとまず咳払いをして、跳ね上がる心臓を抑え込んだ。

「なあ、もうちょっと考え直した方が良いぜ。あともうちょっと周りをよく見た方が良い」

「偉そうに何言ってるのよ、もう死ぬんだから黙ってなさいよ」

「いや、ていうか、間違ってるよ」

「……え?」

「番号」

 相手の空気が変わるのをひしひしと感じつつ、俺は追い打ちを畳みかけた。

「もっとちゃんとよく見て番号打てよ」


「待って」

 同じ言葉を女はすでに何度も繰り返している。とはいえ、動揺するのも無理はないので、俺は黙って聞き続けていた。

「嘘よ、信じられない。あなたの携帯電話の番号なら憶えているもの、間違えるはずがない」

「じゃあ口に出して言ってみろよ」

「えっと……090の」

 残りの番号八桁を聞きながら、俺はゆっくり頷いた。

「うん、俺の番号だ」

「ほら、やっぱり」

「違う違う、俺の番号ってことは、あんたの旦那のじゃないってことだろ」

「……うそ」

「考えてもみろよ、一緒に暮している夫婦なんだろ? 帰ってくる家が同じなんだから、携帯でやりとりなんてすることはない。だったら、あんまり携帯電話に掛けずにいて、番号を忘れても不思議じゃない。そうだろ? あんたは旦那の携帯番号を忘れたのさ」

「……夫婦じゃない、同棲中」

 女の声には深い溜息が混じっていた。肩の力が抜けたようで、最初の印象よりもいくらか若く感じられた。

「しかも今は、別居中」

「喧嘩でもしたのか」

「察しがいいのね」

「よくあることさ」

 俺はまた深々と頷いた。

「何せ俺も別居中だ。俺がつい女遊びを止められなくてさ。怒らせちまったから、ほとぼりが冷めるまでは離れていようって約束してな」

「そんなところまで似てるのね」

「なんだ、あんたらも痴情のもつれか」

「……そういうのかしら」

 女は一段と低い声になった。

「あんたの遊びがあんまりに酷いから、こっちだって頭にきたのよ。それで出て行ったの」

「俺じゃないだろ」

「うん、わかってる。でも、ややこしいし、今はあんたって呼ばせて」

「それ、俺にとってはややこしいんだが」

「我慢しなさいよ」

 興に乗ってきたのか、女は妙に馴れ馴れしくなってきた。夜中ということもあるのだろうか。窓の外には満月が浮かんでいる。まさか月でおかしくなるタイプ、なんてこともあるまいが。

「今日だって、私、見たのよ。あんたが女と肩寄せ合って歩いているところ」

「……え、それだけ?」

「それだけってなによ!」

「うるさいうるさい、大声出すな。ていうか、肩寄せ合うくらい普通にあるだろ。電車の中で、とかさ」

「中じゃない、外! ホームの上。反対車線からばっちり見えたんだから」

「監視してたのかよ。怖ろしい奴だな」

「あんたは黙ってて!」

 俺は思わず萎縮する。そんな必要ないのに、しばらく痺れがとれなかった。

「なあ、駅ってどこの駅だったんだ」

 俺の方から、気になったことを切り出した。

「P駅、西口へ向かう階段の傍。ちょうど降りようとしているところが見えたわ。何処の誰とも知らない女と一緒にね」

 言葉の端々に毒が織り交ぜられていた。

「……P駅、か。あそこ、最近改修工事が始まったよな」

「そうだっけ」

「西口方面の改札拡張工事。あんたは知らないのか」

「あたしは東口しか使わないもの」

「じゃあ、西口の事情は知らない、と」

 俺は顎をさすりながら考える。

「なあ、こうは考えられないか。P駅は大型の駅だ。普通の駅の構造も複雑なのに、改修工事ともなればなおさらだ。出口を確認するために、スマートフォンのアプリで地図を確認していた。手元に画面を置いていたら、別に意識してなくても、肩を寄せ合う形になるだろ」

「なんで見ず知らずの女にスマートフォンの画面を見せなくちゃいけないのよ!」

「そんなの俺が知るわけないだろ! ただ、そうかもしれないって可能性を言っているだけだ」

「わからないわ。女遊び大好きなあんたのことだもの」

「そのあんたであるところの旦那のことを俺は全然知らないから反証はできないけど、少なくとも俺は、あんたがちょっと間抜けだってことはわかってるんだぜ。携帯の番号を間違えたりとか」

「そんなの、たった一度で決めつけないで」

「同じこと、俺があんたの旦那だったら言い返すね」

 俺はわざとらしく鼻を鳴らしてやった。俺とて興が乗っているのかもしれない。

「ま、この電話が間違いなんだ。死ぬなんてごたごた言わずに、とりあえず明日も生きて、旦那を追求してみろよ。俺の説があっているか、あんたのそれが正解なのか、わからないまま死ねないだろ?」

「……ふん」

 不機嫌そのものの返答ののち、小さな声で「わかったわ」と言葉が続いた。

「じゃあ、また明日」

 もちろん俺が会うわけではない。俺は今、すっかり女の旦那の気分でいた。

「ええ、また」

 電話はぷつりと静かに途切れた。



 本来の静けさが、部屋の中に満ちている。深々と息を吸い、音を立てずに吐き出した。

 とんだイレギュラーに見回れた、がこれで障害は消えた。

 俺は深々と何度も頷き、顔を歪ませた。思わず大声を出して笑いそうになるが、どうにか堪える。

 部屋の奥から寝息が聞える。この家の主人のもの。おそらくは、先ほどの女の言っていた旦那の奴だ。

 女の電話は、実は間違っていなかった。正真正銘、自分の旦那に電話を掛けた。所謂泥棒であるこの俺が、部屋に侵入して一呼吸ついたまさにその瞬間、けたたましいコール音が一瞬鳴り、俺は即座にそれに応対した。音が聞かれていやしないかと、心臓は跳ね上がったが、どうにか女との会話を遣り過ごせた。

 旦那は相変わらず眠っている。まさか室内にいる泥棒に、奥さんを宥められ、明日以降の尋問を約束させられたとはつゆ知らず、まったく間抜けな奴だ。

 口に出さずに毒づきながら、俺は室内を散策した。目的は電話の下の戸棚。下から二番目の抽斗の中にあるアルミの菓子箱。銀行通帳が印鑑とともに保管されていることは、すでに隣の空きビルから確認できていた。

 泥棒稼業を始めたのは、ほんの出来心だ。小金稼ぎのつもりだった。だが、世の中油断している人間は山ほどいる。面白いくらいに人間は単純だ。みな自分の生活は平和で、誰にも邪魔されないと信じ込んでいる。そのアホ面の隙を突けば楽に儲けることができた。未だに足はついていない。

 この家の旦那もまた同じ。名前はよく知らないが、顔は何度も監視して憶えている。今日は侵入の準備で忙しかったが、先ほどの奥さんの会話ももしかしたら本当で、旦那はまた女を引っ掛けて遊んでいたのかもしれない。懲りない男だ。俺がお灸を据えてやろう。

 逸る気持ちを抑えながら、抽斗に手を伸ばしていく。木製の把手に手が触れた、瞬間、電話が鳴った。

 心臓が喉から出そうになる。悶えながら、なんとか1コール目でそれに答えた。

 旦那は、まだ眠っている。

 ほっと息をつき、なるべく静かに、口元を隠した。

「はい、どなたでしょう」

 また奥さんか、と思っていたのだが、どうやら違うようだ。相手は何も言わず、しばらく無言を続けていた。

 いたずらだろうか。

 焦らされたことに腹立ちながら、電話を切ろうと受話器を耳からわずかに浮かせた。

「ディスプレイ、番号うつるタイプ?」

 冷ややかな言葉が小さく聞えた。女の声だ。

 呆然となりつつ、俺はディスプレイに目をやった。

 十一桁の携帯電話番号。ただの数字の羅列、なのに妙に胸が騒いだ。

 俺はこの番号を知っている。

 この声も、まさか。

「ようやく気づいた?」

 相手の高笑いが耳朶を打つ。聞き覚えがある。何度も、その声を聞いた。

「お前」

 有り体に言えば、妻だ。

「そこの旦那も、あんたみたいな男だったよ。遊ぶのが大好きでさ、ほんと、どうしようもないって感じ」

 妻は勝ち誇ったように言った。爛々と光る瞳が目に浮かんだ。

「ばかな、どうして俺がここにいると知っているんだ」

「あんたの部屋を覗いたら資料がたくさん見つかったわよ。合い鍵ぐらいあたしだって持ってるし。義賊ぶって泥棒稼業やっているわりには管理がずさんすぎるんじゃない? 今日どの部屋に何時頃侵入するか、全部筒抜け。大間抜けね」

「……俺をどうするつもりだ」

「警察に言う」

 妻はぴしゃりと告げた。

 暗い室内が、漆黒に包まれた心地がした。

「って、言ったらどうする?」

 妻の言葉に思わず俺も目を見張る。

「やめてほしい」

「何をしてくれる?」

「もっとお前のこと、ちゃんと見る」

 咄嗟に俺は口走った。今まで妻を見捨て、女遊びしていたことを恥じ、頭を下げる勢いで捲し立てた。横で寝ている旦那のことも、忘れた。

「ちゃんと夫として、お前を支える。だから、戻ってきてくれ」

 思えばずっと、言えなかったことなのだ。妻とよりを戻す。その気持ちが、捩れて、泥棒稼業になっていた。

 返答を待つ間、痛いほどの沈黙がおりていた。

 口火を切ったのは妻だった。

「そんなの、いいのよ」

 妻の高笑いが響く。

「私のことを見る? いいって、そんなの。私、今とっても楽しいもの。あなたもそっちの方、楽しんでいるんでしょ? だったらそれでいいじゃない。ねえあなた、もっと頑張って稼いでよ。泥棒の方も頑張って稼いで、私と共有しよう? 私も頑張るから」

 妻の声は、今まで聞いたどの声よりも冷たく聞えた。

「もし嫌だ、なんて言ったら、どうなるかわかっているわよね?」

 笑い声とともに途切れた電話が、虚しい音を響かせる。

 妻のことを、もっとちゃんとよく見ておけば。

 旦那はまだ寝息を立てている。逃げるなら今のうちなのに、俺の脚は震えて使い物にならなかった。


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[一言] 人物の関係が分かりません
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