木色の妹
妹はばかだ。私もばかだが、妹はもっとばかだ。
妹は片付けが嫌いだ。特に、洋服の片付け。畳んでおいてある洋服をしまうのが一番の苦痛だという。洗濯機を回す、これはいい。ハンガーにかけて外に干す、これもいい。取り込んで、畳む、これだっていい。しかし、それから先にどうしても繋がらない。
洋服をしまおうとすると、妹は泣く。もう子供ではないのに、どうしても片付けられなくて、泣いて、泣いて、三十分も四十分もかけて片付ける。ぼろぼろの顔をして部屋から出てくる。
畳んであるものをタンスにつめるだけじゃないか。私は思う。確かに億劫なときもあるにはあるが、なにも泣くことはないだろう。トラウマがあるという訳でもなさそうだ。仮にあったとしても、洗濯物が片付けられないトラウマなんて想像もつかない。
「お姉ちゃん、私、先にお風呂に入るからね」
私がテレビを見ながらお菓子を食べていると、妹がリビングに顔だけを出して言った。私は思わず妹の顔を見た。珍しいこともあるものだ。妹は風呂も嫌いだった。
「何かあったの?」
「今日はそういう気分なの」
「なるほど、見たいテレビでもあるんだ」
妹は理由なく早い時間に風呂に入ったりなどしない。妹は風呂が嫌いだからだ。妹が嫌いなのは、風呂は風呂でも、頭や体を洗うことが嫌いなのだ。湯船に入って出てくるだけならあんなにも嫌な素振りは見せない。
嫌いだからといって洗わない訳にもいかず、妹はやはり長い時間をかけて風呂に入る。体も頭も濡れるので、泣いているのかどうかは分からない。最近、歌うと気が紛れると気付いたらしく、時折鼻歌が聞こえてくる。が、肝心の頭を洗う際には口など開けられないので歌えない。妹はそういうところもばかだ。
風呂から上がった妹は、さっそく私の隣に座ってテレビのチャンネルを替えた。替えてから、「チャンネル替えるね」という。左手に野菜ジュースの入ったガラスコップを持っていた。好きな芸能人の顔がよく分からないCMに変えられてしまった私は、妹の左手を睨み付けながら「落としてしまえ」と念じた。
「今日から新しいドラマが始まるんだけどね、これ、けっこう早い時間からなんだよね」
「ふうん。私も見ようかな」
テレビを見られないなら私も風呂に入ろうかと迷っていたが、それはやめにした。
冷蔵庫から野菜ジュースを出し、自分のガラスコップに注いで戻ると、さきほどまで私が座っていた位置に妹が侵略してきていた。妹のやつ、わざわざソファに足を伸ばし、体を横にしてまでテレビを見ることはないだろう。私は妹の膝の上に座った。
ぐえっ、妹が餅を喉につまらせた老人のように呻いて、足を引っ込めた。
最近になって分かったことだが、妹は「茶色」が嫌いだ。だから、家のフローリングも嫌いだし、木で出来たタンスも嫌いだ。妹が服の片付けを嫌うのにはタンスの色も関係しているのかもしれない。
不思議なことに、妹が嫌いなのは「茶色」なので、「木」は嫌いではない。もし木の幹が青色でもしていようものなら、妹は喜んで跳ね回るだろう。
なぜ妹が茶色を嫌うのか。
それは、茶色が「汚い」からだ。
私たちの母親は、それなりに厳しい人だった。厳しいというのは、毎日勉強をするようにとしつこいだとか、箸をきちんと持てるまでご飯を食べさせてくれないだとか、門限が夕方の五時であるとか、そういうことではない。
玄関の前で泥や埃を落とすとか、夜の九時を過ぎたら母親の寝室の前で音を立てないとか、大きな声で喚かないとか、要は、「母を不快にさせてはいけない」のだ。
私はそういうことがそこそこ上手かったので、母の不機嫌なときを察して部屋に籠もったり、外へ出たり、お手伝いをしたり、機嫌をとったりして立ち回って来た。しかし妹は私よりもばかなので、母の機嫌が悪い日に限って泥だらけで帰ってきて、好きなテレビ番組を見て騒いで、宿題をほったらかした。
特に母が嫌ったのは、妹の服についた泥だ。母はいつも「泥をつけたら手洗いをしてから洗濯機に入れなさい。玄関も拭く」と怒鳴った。母に見張られながら、妹は洗濯機も顔負けの根気で服を手洗いした。それから、絞っても絞っても水のしたたる洋服を母の目を盗んで洗濯機へ放り込んだ。
妹にとって茶色は泥の色、母に怒られる色、なのだ。もしかしたら、服は母に怒られるアイテム、という図式も出来ているのかもしれない。
逆に、妹が好きなのは緑色だ。昔、妹は誕生日にエメラルドグリーンの指輪をプレゼントされたことがある。おもちゃの指輪だ。妹はそれを大変気に入り、もう子供とは呼べない年頃の今でもアクセサリー類と一緒に大切に保管してある。
余談だが、私の名は「緑」という。妹が緑色を好きなのは偶然だが、私は少し誇らしかった。
妹はしばしば、休日には「ちょっと出かけてくる」とだけ言ってどこかへ行く。最近はあからさまに頻度が増えたので、彼氏でもできたのかもしれない。妹はばかだから、変な男に騙されているのではなかろうか。
ある日私は気になって「どこへ行くの」と声をかけた。私の用事が突然なくなって暇だったというのも、突然妹に声をかけた理由の一つだ。
妹は一言「森」と言った。
はて、私は首を傾げた。森というのは店の名前だろうか。それとも、人名? 彼氏の名前か。言葉通りに受け取るなら、森、フォレスト。いやいや、茶色が嫌いな妹に限ってそれはない。青い森でもない限り、それはない。
別の日、またも妹が出かけるというので「どこへ?」と尋ねてみた。するとやはり、「森だよ」と返ってくるので「森って、どんな?」と質問を掘り下げた。
「んー、木があるかな」
妹の独特の比喩表現だろうか、とまず疑った。森という店があって、そこにあるたくさんの木・・・・・・。どうしても、言葉通りの森と受け取ることができなかった。
「茶色、嫌いじゃなかったっけ」
「今はそんなに嫌いじゃないよ。茶色が似合う素敵な人がいてね」
妹が向かう場所はフォレストで間違いなかったが、彼氏がいるというのもあながち間違いではなさそうだ。私は最後に「それは彼氏?」と訊いた。「婚約者」と返って来た。
今度紹介するよ。そう言った妹の首元に、緑色の輝くネックレスがかかっているのが見えた。耳元には、茶色の木で出来た、複雑な形をした大きな木色のイヤリング。背中に背負うのは茶色のおしゃれなロゴのついたリュックサック。よく見れば、スニーカーの紐だってクリーム色に近い茶色だ。
私はなぜか、少し悔しかった。