村娘と白銀の騎士
湿り気を含んだ初夏の風が、吹き抜けていく。家の前で、セリアは服の裾を押さえ、目を閉じた。強い日差しが、西へと沈みゆく。台所で仕込んでいる夕飯に、セリアはわずかに意識を向けた。
「冒険者に、なろうと思うんだ、セリア」
セリアの隣に立つ青年が、言った。麻の服の上に、革のマントなどを身につけている。旅支度で膨れ上がったカバンを背負う青年の瞳は、爛々と輝いていた。
「町へ出るのね、アンソン。行くあては、あるの?」
セリアが問いかけると、アンソンは顔をわずかに俯かせる。
「あては、ない。それでも、こんな小さな村で、いつまでもくすぶっていたくないんだ、俺は」
言いながら、アンソンがセリアの右手を取って握った。
「セリア、俺と一緒に行こう。セリアの呪術の腕なら、冒険者としても充分にやっていけるから」
じっと見つめてくるアンソンの目を、セリアは静かに見返した。
「……駄目よ、アンソン。私は、おじいちゃんを捨てては行けない」
首を横へ振って、セリアはアンソンの手をゆっくりと解いた。呆然として、アンソンはうなだれてしまう。
「こんな、小さな村にいても、楽しいことなんて何もないぜ、セリア」
悔しげに唇をゆがめ、アンソンが言う。
「あんたと一緒にいられた時間は、私は楽しかった。でも、それだけじゃ、満足できないのね?」
問いかけに、アンソンは黙って踵を返した。
「……お別れだな、俺たち。さよなら、セリア。冒険者になっても、お前のことは忘れない」
「アンソン……」
荒い足音を立てながら、アンソンが村の外へと歩いてゆく。夕闇の中で、セリアはその背中を見つめ続けていた。やがて、セリアの背後で家の戸が開く。
「おおい、セリアや。鍋が、泡を吹いておるぞ」
顔のほとんどを白い髭で覆われた老爺が、声をかけてくる。涙を拭いながら、セリアは振り向いた。
「あ、忘れてた。ありがと、おじいちゃん」
老爺と一緒に、セリアは家に入った。
「何かあったか、セリアや」
優しく、老爺が問いかけてくる。
「ううん、ちょっと風が強くて、目にゴミが入っただけだから。待ってて、今、ご飯作るからね」
台所へ行くセリアに、老爺はそれ以上何も問いかけはしなかった。
野菜を煮込んだ汁物を、セリアと老爺は向かい合って食べた。小さな家の中は、野草の独特な匂いで満ちている。使い古されてすっかり緑色に染まった調薬鉢が、部屋の隅に整然と置かれていた。
「……アンソンがね、冒険者になるって、村を出て行ったの」
椀の中身をつつきながら、セリアは言った。
「何と……冒険者か。畑や兵役は、どうするんかのう」
苦い顔になって、老爺は汁をすする。
「解らない。ご両親に、何て言ったのかとか、一言も、言ってくれなかったし……」
「今年も、そろそろ戦が始まるというのにの……」
重い沈黙の後、老爺の手がセリアの頭へ伸びた。
「こんなに可愛い娘を置いて、町に行くなんてのう」
皺だらけの手が、セリアを優しく撫でる。
「……ありがと、おじいちゃん」
心遣いに、セリアはにっこりと笑顔を作った。
「追いかけたいと、思うかい、セリア?」
老爺の問いに、セリアは首を横へ振った。
「ううん。私は、この村が好きだから……」
そう言って、セリアは匙を手に椀の中身を口へと運ぶ。
「……そうか、そうか」
老爺は伸ばした手を引いて、再び椀を持って汁をすする。
「そういえば、村長の奴から聞いたのじゃが……明日、騎士様が村を訪れる。食料の徴収があるそうじゃ」
老爺の言葉に、セリアはうなずいた。
「お前も十五になった。そろそろ、村の呪術師として、騎士様に面通しをしておかねばな」
「でも、私なんて、まだまだ半人前だし……」
「何、わしも十五の頃には、先々代の騎士様へご挨拶をしたものよ……ハテ、先代じゃったかのう?」
「もう、おじいちゃんったら……」
惚けた顔で言う老爺に、セリアは小さく笑った。
「それで、薬を用意していたのね」
セリアは調薬鉢の脇に置かれた、十本の薬瓶へと目を向ける。
「うむ。傷や病を癒すまじないを、望まれるであろうからの」
うなずいて、老爺は空の椀を手に立ち上がる。
「明日の朝は、早い。お前も食べ終わって身を清めたら、早めに寝なさい」
食器を片付けた老爺は、薬瓶をひとつひとつ確かめながら木箱へと詰め込んでゆく。
「はぁい」
温くなってしまった汁物を口に入れながら、セリアは答えるのだった。
村の広場で、村長の隣に立ったセリアは緊張に顔を青くしていた。騎士が訪れる昼前には、もう時間があまり無い。セリアの両手には、薬瓶の詰まった重い木箱があった。服装も、白地に赤い紋様の入った、呪術師の恰好だ。本来ならば、隣には老爺が立っているはずだった。だが、広場のどこにも老爺の姿は無い。それもそのはずで、老爺は今朝がた、木箱を持ち上げようとした際に腰を痛め、家の中で今も唸っているのだ。
「大丈夫かい、セリアちゃん?」
壮年の村長が、セリアを見つめ心配そうに声をかけてくる。その手には、村から集められた少なくない銀貨を詰めた布袋があった。
「は、はい。私は、大丈夫です」
がちがちになったセリアが、思わず余所行きの声で答えた。
「そうかい。まあ、何かあったら、こっちでも出来るだけのフォローはするからね」
村長はセリアを元気づけるように微笑み、温かい声で言った。そうしているうちに、広場の入口がざわめく。行儀よく居並んだ村人たちの列の間を、一頭の馬に跨った騎士がやってくる姿が見えた。
白馬に乗った騎士の鎧は、陽光で白銀に輝くように見えた。騎士の背後を徒歩で進んでくるのは、槍持ちの従士だ。煌びやかな装飾を施された槍と、騎士の立派な立ち姿に村人たちは感嘆の息を吐いた。
「ようこそ、おいでくださいました。グラニー様。これは、村のほんの寸志にございます」
村長が恭しく差し出した袋を、馬上で騎士が手を伸ばし、受け取った。
「お心遣い、痛み入る、村長殿。今は戦時なれば、馬上にて受け取る無礼を許されよ」
朗々と、騎士の声が広場へ響いた。若く張りのある、堂々とした声だった。村長の隣で顔を俯かせながら、セリアは心地よい音楽のように聞き惚れる。
「勿体なき、お言葉にございます」
深くお辞儀をする村長に合わせて、セリアも頭を動かした。
「そちらの娘は、呪術師か?」
セリアの頭上から、声が降ってくる。セリアの全身が、ぴしりと硬直した。
「はい。このたび十五の歳を迎え、正式に村の呪術師となりました、ジラの孫のセリアと申します」
村長の紹介の言葉と同時に、セリアはゆっくりと顔を上げる。仰ぎ見る騎士は、整った顔立ちに金の短髪をなびかせた、美丈夫然とした青年だった。
「セ、セリアです、騎士様」
すぐに顔を伏せて、セリアは持っていた木箱を差し出した。
「ジラの孫であれば、さぞかし腕の良い呪術師なのだろうな。我が名は、ジュリアス・グラニーだ。そなたのこと、覚えおく」
引き連れた従者が、セリアの手から木箱を受け取った。セリアはすり足で、村長の背後へと下がる。
「光栄です、ジュリアス・グラニー様」
小さな声を上げるセリアの顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「それでは、グラニー様。貧しい村ゆえ何のおもてなしもできませぬが、募った村の勇士たちを、どうぞお連れください」
村長の言葉に、騎士は重々しくうなずきを返す。
「重ねての心遣い、有り難く受け取らせてもらう。此度の戦には必ず勝ち、勇士たちは誰一人欠けることなく村へ返す」
「ご武運長久を、お祈り申し上げます」
騎士が馬首を返し、広場を立ち去ってゆく。ぞろぞろと、その背後に従者たちが続き、武器を手にした若い村人たちがさらに続いた。
「グラニー様が、名乗って下さるとは……珍しいことだよ、セリアちゃん」
隣の村長がそんなことを言っていたが、セリアの耳には届いていない。呆けたように、セリアはしばらく広場の向こうへ消えた騎士の背中を見つめ続けていた。
村に再びジュリアス・グラニーが訪れたのは、ふた月の後のことだった。先触れもなく、槍持ちの従士も連れておらず、背後に二十人ほどの負傷者を率いての来訪だった。白銀の鎧は血に塗れ、馬上でふらりと舟をこぐ様からは深い疲労のいろが見えた。
「呪術師を……」
家の中から飛び出したセリアが、馬上のジュリアスを見て小さく悲鳴を上げた。
「グラニー様……きゃっ!」
馬上から転落してくるジュリアスを支えようとして、セリアは押し倒されるように転倒してしまう。
「う……き、君は」
かすかなうめき声が、セリアの耳元で聞こえた。転倒と鎧の重量で痛む身体に顔をしかめつつ、セリアは鼻孔に血の臭いを感じて表情を引き締めた。
「呪術師のセリアです、グラニー様。急いで、手当を!」
セリアの腹に、温かいものが滴ってくる。ジュリアスの脇腹の鎧の隙間から、赤いものが流れていた。
「セリア、すぐに、騎士様を中へ!」
遅れて飛び出して来た老爺が、セリアの身体からジュリアスをどけて仰向けにした。鎧を脱がせ、苦労しつつもセリアと老爺は何とかジュリアスの身体を家の中へと運び込む。
「他の怪我人は、広場の方へ! こちらの処置が終わり次第、すぐに向かう!」
老爺が大声で言って、ジュリアスの後ろへ続いていた怪我人たちを誘導する。徒歩の怪我人たちは、支え合いながら足を引きずって歩いて行った。
「おじいちゃん、血が!」
ジュリアスの肌着をまくり上げ、セリアが声を上げた。深く、刃物が刺さったような傷口があった。傷の周囲の血は乾いていたが、先ほどの落馬の衝撃で、再び開いてしまったようだ。
「すぐに、まじないの薬を用意する! セリア、お前は傷を縫うのじゃ!」
指示を受けて、セリアはうなずき針と糸を取り出した。
傷に薬を塗り込んでいくと、たちまちにセリアの細い指が真っ赤に染まる。
「ぐ……」
食いしばったジュリアスの口の端から、苦痛の声音が聞こえてくる。
「グラニー様、痛みますけど、我慢してください」
囁きながら、セリアは皮膚に針を入れた。びくん、とジュリアスの身体が跳ねて、セリアの顔に赤い滴がかかった。
「おじいちゃん!」
「これを」
老爺が、ジュリアスの口元に布を押し当てる。三つ、口の中で数を数えたセリアが、再び針を動かした。ジュリアスの反応は鈍いものになり、破れた傷口はセリアの手によって素早く縫い合わされていった。
「もう、大丈夫ですよ、グラニー様」
顔じゅうに浮いた汗を拭ってやりながら、セリアがジュリアスに声をかける。その横で、老爺が薬箱を手にして立ち上がった。
「わしは、広場へ行く。お前は、騎士様についていておくれ」
老爺の声にうなずきながら、セリアはジュリアスの傷口の周囲を清めた。布を当てると、じわりと血がにじんでくる。幾度か布を取り換えていると、ようやく血が止まった。
セリアは程よい温度に湯を沸かすと、布を使ってジュリアスの身体を拭ってゆく。無駄な贅肉の無い、戦うための引き締まった身体だった。半身を洗い終えて、セリアは息を吐く。清潔になった身体へ、包帯を巻きつける。それから、頬をそっと朱に染めてシーツをジュリアスの身体へとかけた。
「ただいま、セリアや……」
顔に濃い疲労を刻み、老爺が家に戻ってきたのは夜半を過ぎた頃合いだった。薬鉢の中身を混ぜていたセリアが、老爺に駆け寄る。
「おじいちゃん、大丈夫?」
よろよろと歩く老爺に肩を貸し、ジュリアスの足元へと座らせる。
「……戦に、負けたらしいの、騎士様たちは」
差し出された水を一息に飲み干して、老爺がぽつりと言った。
「村のみんなは、どうだったの?」
セリアの問いに、老爺はうなずいた。
「皆、それぞれに怪我を負っていた。じゃが、ちゃんと無事に全員帰ってきおったわ。騎士様の怪我が、一番重いのう」
じっと、老爺がジュリアスへと目をやった。
「従士様や、他の兵士の方々はどうしたの?」
セリアの言葉に、今度は老爺は首を横へ振る。
「誰も、わからんらしい。戦場ではぐれ、包囲を受けていたところで騎士様に助けられ、懸命に囲いを破ってここまで走ってきたという。休みも、碌に取らずにの」
「そう……」
セリアが薬鉢を手にジュリアスの枕元へ行き、ジュリアスの口へと薬湯を流し入れた。ゆっくりと、ジュリアスの咽喉が上下する。
「熱さましと、滋養のまじないか……セリアも、やるようになったのう」
目を細めながら、老爺が言った。
「おじいちゃんに、教わったことよ。ちゃんと、覚えているわ」
にっこりと、セリアが微笑んでみせると老爺は嬉しそうにますます目を細めた。
「お前は、立派な呪術師になれるの」
低い声を上げて、老爺が笑う。
「……私も、それについては同感だ」
足元から聞こえてきた声に、セリアはぎょっと身をすくめた。
「ぐ、グラニー様、起こしてしまいましたか?」
問いかけるセリアの目の前で、ジュリアスは薄く目を開ける。
「爽やかな味を、口にした。思わず、目の覚めるようなものを」
かすかに笑みを浮かべながら、ジュリアスが半身を起こそうと手を動かし、顔をしかめた。
「まだ、動いてはいけません。傷口が開いてしまいます」
ジュリアスの胸に手を当てて、寝かしつけながらセリアが言った。
「……命を、救われたようだ。礼を言うぞ、セリア。それに、少し、身綺麗になったようだ」
セリアに首を向けて、仰向けになったままジュリアスが感謝を口にした。
「と、とんでもありません、グラニー様!」
「ジュリアス、でいい。君には、名前で呼んでほしい」
ジュリアスの浮かべる甘い笑みに、セリアは耳の先まで赤くなった。
「ジュリアス、様……」
小さな呟きのような声に、ジュリアスは満足そうにうなずいた。
「私の馬は、どうしている、セリア?」
問いかけに、身を乗り出したのは老爺だった。
「窮屈ではありましょうが、私の家の前にお繋ぎしております、騎士様」
皺深い顔が覗き込んでくるのを、ジュリアスはちらりと目を向けて応じる。
「そうか。ご苦労。私の傷は、どれほどで治る見込みだ」
「まずはひと月、安静にしていただければ」
老爺の言葉に、ジュリアスは黙り込む。
「動けるようになるには?」
「三日あれば、起き出しても問題はありますまい。激しい運動は、勿論避けていただきますが」
再び問うジュリアスに、老爺は厳しい顔で答えた。
「……一日、足りぬな」
苦々しい顔で、ジュリアスが言う。眉を寄せて、老爺も顔を歪めていた。
「怪我の軽い村の勇士を、集めておきましょう」
そう言う老爺に、ジュリアスは首を横へ振る。
「私が出ねば、始まらぬ。もう少し、まじないを強くすることはできるか?」
「……お体に、負担がかかります」
老爺が、静かに答える。
「どうなさったのですか、ジュリアス様?」
流れた沈黙に耐えかねて、セリアが声を出した。ジュリアスがセリアに顔を向けて、優しく微笑んで見せる。
「……何でもない。しばらく、君にも厄介をかけるが、よろしく頼む」
じっと見上げてくるジュリアスの眼には、ただならぬ色があった。だから、セリアもジュリアスを見つめ返し、真剣な顔でうなずく。
「はい。微力ながら、お力になれますよう努力いたします」
シーツの下から、ジュリアスがセリアに手を伸ばしてくる。頬に触れてくる戦人の指に、セリアは目を見開いて全身を硬直させた。
「じゅ、ジュリアス様?」
狼狽するセリアに、ジュリアスはふっと笑うと少し顔を苦痛に歪める。
「く……早く、傷を治さねば、君を口説くことも難しいな」
とんでもないことを口にするジュリアスに、セリアは思わず頬に添えられた手を乱暴に払いのけた。
「ば、馬鹿なこと言ってないで、さっさと寝てください! 大人しくしていないと、治るものも治りませんから!」
セリアのつれない態度に、しかしジュリアスはますます笑みを深くする。
「そちらが、本当の君か。いいな。ますます、惚れてしまいそうだ」
「……知りませんっ! おじいちゃん、私、薬の材料、集めてくるから!」
一方的に言って、セリアは立ち上がる。
「畑に行くのか? 気をつけて行くんじゃぞ」
老爺の声を背中で聞きながら、セリアは家の外へと出た。涼しい夜気が、火照った頬を撫でるように吹きすぎてゆく。
「……惚れてしまいそうだ、なんて……」
頭を冷やしたら、家に戻ろう。そう思ったが、それはしばらく先のことになりそうだった。
それから一昼夜、丸々ジュリアスは眠り続けた。失った血と肉を取り戻そうとするかのように、食事の間のわずかな時間だけ起き出して、あとは深い眠りについていた。その甲斐あってか、次の日には目を覚ましたセリアの前には半身を起こしたジュリアスの姿があった。
「ジュリアス様、まだ、寝てなくちゃダメですよ?」
朝食をよそいながら、セリアが眉を寄せてジュリアスを睨んだ。
「そう、可愛い顔をするな、セリア。私は、頑丈さが取り柄でな」
朗らかに言うジュリアスが、野菜汁を掻き込むように平らげる。セリアは顔を赤くしながら、洗濯して繕いを済ませた肌着を差し出した。
「どうしても動かれるとおっしゃるなら、これを着てください」
目に入るジュリアスの裸身に、セリアは眩しいものを見るように目を背ける。老爺と暮らしてきて、アンソンという恋人もいたのだがジュリアスの肌はまた別のようだった。
「すまないな、セリア」
溌剌とした声でジュリアスは言って、肌着を受け取り身につける。セリアはちらりと一瞬、ジュリアスの腹に巻かれた包帯へ目をやった。
「もう、ほとんど痛みも無い。お前の手当のおかげだ」
視線に気づいたジュリアスが、包帯の上をそっと手でなぞった。
「私の、鎧を」
ジュリアスが立ち上がると、セリアの視界には薄い肌着に包まれた胸が壁のように見えた。
「ダメです。まだ、安静にしてなくちゃ」
セリアは首を振るが、その肩をがっしりとした腕に掴まれた。
「必要なんだ、セリア」
ジュリアスの触れた部分が、火を噴くように熱い。
「……ダメ、です」
蚊の鳴くような声で、セリアはそれでもうなずかない。ジュリアスの吐いた息が、セリアの頭の上に降りかかる。
「呪術師として、許可はできないか。だが、私も騎士として、行かねばならない」
沈黙が、流れた。セリアは顔を上げて、じっとジュリアスを見上げる。頼もしい笑みを浮かべるジュリアスに、セリアの胸はとくとくと高鳴り続けていた。そこへ、不意に家の戸が開けられた。
「騎士様、斥候から連絡ですじゃ。村の南に、黒い鎧の騎馬兵が二十人」
老爺の出現に、セリアはぱっと身を離してジュリアスを見上げる。
「ジュリアス様……?」
「……やはり、黒騎兵が来たか。セリア、時間が無い。すぐに鎧を」
ジュリアスの声には、先ほどまでの余裕は無くなっていた。ただならぬ気配に、セリアはうなずくしかない。部屋の隅へ置かれた鎧を、セリアと老爺が二人掛かりでジュリアスへと着せてゆく。血の汚れを洗い落とした鎧は、白銀の輝きを取り戻していた。
「ジラよ、村長殿へ、連絡を。セリアは、ジラの指示に従うように」
全身に鎧を纏い、兜をかぶったジュリアスが、怪我と重量を感じさせない動きで外へ出てゆく。すぐに馬のいななきが聞こえ、馬蹄の音が遠ざかっていった。
「おじいちゃん、一体、何が起ころうとしているの?」
老爺はセリアの問いかけに、首を横へ振る。
「今は、説明している時間も無い。わしは村長の家に行く。決して、外へ出てはいかんぞ、セリア」
言い残して、老爺も外へと姿を消した。残されたセリアは胸を押さえ、家の戸口を見つめる。そしてセリアは、薬品棚からいくつかのまじないの薬を取って呪術師のローブを着こんだ。
「ジュリアス様……おじいちゃん、ごめん!」
老爺の言いつけを破り、セリアも外へ出た。駆け足で目指すのは、村の南の方角だ。ローブの裾をはためかせて、セリアは走った。村の南に据えられた簡素な門が、今にも閉じられようとしていた。
「セリアちゃん、どうしてここへ?」
門番の勇士が、飛び出そうとするセリアの腕を引いた。
「離して! ジュリアス様は、お怪我をされているの!」
木の格子戸が、セリアの目前で閉じ合わされた。
「グラニー様なら、大丈夫だよ」
暴れるセリアを抑えながら、門番が彼方を指差した。白馬に乗ったジュリアスが、鍬を構えて黒鎧の騎馬兵たちと対峙していた。
「ジュリアス様!」
固く閉じられた格子を握りしめ、セリアが叫ぶ。その声に、ジュリアスがちらりと顔を向けた。
「隙あり!」
そこへ、三人の黒い騎馬兵たちが槍を手に襲い掛かる。ジュリアスは格子戸の向こうのセリアにうなずくと、騎馬兵たちへと向き直り鍬を頭上で大きく振り回す。黒い騎馬兵たちの金属製の槍とは違い、柄の部分が木でできた農具に過ぎないジュリアスの得物は、ひどく頼りなく見えた。だが、
「しぃぃいいいいねええええええ!」
ジュリアスの兜の中から、大音声が迸る。突進してくる騎馬兵たちへ、横殴りの鍬の一撃が叩きつけられる。それだけで、騎馬兵たちは吹き飛ばされ、武器を落として地に転がった。ばきり、と音立てて、同時にジュリアスの持つ鍬が中ほどから折れた。
「奴は武器を失った! 今こそ好機だ!」
今度は五人の騎馬兵たちが、ジュリアスの周囲から一度に襲い掛かる。しかしジュリアスは向きを変えずに馬を素早く後退させて、必殺の連携を見事に躱す。そうして突き出された槍の一本を掴み、騎馬兵の手から強引に抜き取った。豪風一閃、横なぎに払ったジュリアスの一撃が、騎馬兵たちを落馬させてゆく。
「おのれ、ジュリアス・グラニー! 我が相手だ!」
ひと際大柄な馬に乗った一人の騎馬兵が、ジュリアスに突撃を敢行する。だが、それを読んだジュリアスはすでに手にした槍の穂先を鋭く突き出していた。首を貫かれ、ぐったりとなった騎馬兵の身体を槍に刺したまま、ジュリアスは振り回して地面に叩きつける。ばきり、と乾いた音が響いた。
「て、撤退、撤退だ! この数では、歯が立たん!」
残った黒騎兵たちが、算を乱して逃走してゆく。無防備な後姿へジュリアスが槍を投じると、騎馬兵のひとりが崩れ落ちた。
一連の出来事を、セリアは呆然と見つめていた。そうしている間に、ジュリアスは落馬した兵に馬を寄せ、新たに拾った槍で咽喉を突いてとどめを刺してゆく。
ジュリアスと白馬以外に、門の外に動くものはいなくなった。それで、ようやく格子戸が開かれる。悠然と馬を歩かせて、ジュリアスがセリアの側までやってきた。
「セリア……どうしてここへ? ジラの指示か?」
問いかけるジュリアスに、セリアはふるふると震えながら首を振った。
「……私の、意思です。ジュリアス様が、心配で」
返り血に染まった白銀の鎧を見やりつつ言うセリアの前で、ジュリアスは笑った。
「お前は、心配性だな。私が、あの程度の敵に敗れるわけがない」
兜を脱いで朗らかに言うジュリアスへ、セリアは険しい顔を向ける。
「どうして、殺してしまわれたのですか、ジュリアス様! 騎士でも何でもない私でも、あの人たちとジュリアス様の実力の差はわかりました。何も、命までも奪うことは……」
「守るべきもののために、刃を振るっただけだ。手心を加え私が敗北すれば、今度は村が襲われる」
ジュリアスの言葉に、セリアは下唇を噛んで俯いた。そんなセリアの襟を、ジュリアスは掴んで馬上へと引き上げた。
「な、何をするんですか、ジュリアス様……」
叫びかけたセリアの視界に、ジュリアスの笑顔が間近に映った。馬上で横抱きに抱えるジュリアスの腕は力強く、どくんとセリアの心臓が強く鼓動を打つ。
「私の、領地へ行くぞ、セリア」
言われて、セリアの頭の中は真っ白になった。敵兵の命に対する憐憫や、力量の差を誇示するようなジュリアスの行いへの反発心は、あっというまに吹き飛んでゆく。
「な、なな何を、言うんですか、いきなり! わ、私は行けません! 私は、この村の呪術師で」
「だから、連れていくんだ、セリア」
にやりと、端正な顔に不敵な笑みを浮かべてジュリアスが言う。
「呪術師だから、ですか? ジュリアス様の領地なら、もっと腕の良い呪術師もいるんじゃないんですか?」
「ふ、ははは! お前は、そうやって怒っているときが一番可愛いな、セリア」
「か、からかわないでください! 何と言われようと、私はおじいちゃんと一緒に……」
言い合う二人に、二つの足音が近づいてくる。セリアはそちらへ顔を向けると、大きな目を見開いた。
「お、おじいちゃん? それに、村長!」
駆けてきた老爺と村長が、肩で息をしながら馬上のジュリアスへ一礼する。
「グラニー様、準備が、整いました。村の全員、いつでも出立できます」
そう言う村長の背後では、老若男女の旅装をした村人たちが立ち並んでいる。
「セリア、家にいるようにと、言っておったじゃろうに……ほれ、お前の荷物じゃ」
馬上のセリアへ咎めるような視線とともに、老爺が背負い袋を差し出してきた。
「お、おじいちゃん……これ、どういうこと?」
荷物を受け取り、唖然とした顔でセリアが問いかける。
「……言っておらんかったか? 騎士様を追って敵国の連中が本格的にここを襲撃してくる前に、皆で騎士様の領土へと逃げるのじゃと」
「……聞いてないわよ、おじいちゃん」
じろり、とセリアが老爺を半目で睨む。くくく、とセリアの耳元で、含み笑いが聞こえてくる。
「……ジュリアス様?」
老爺から、セリアの視線がジュリアスへと移動する。いたずらっぽい表情で、ジュリアスがセリアを見返していた。
「ジラを許してやれ、セリア。お前の反応を楽しみたくて、私が口止めをしたのだ」
「……っ!」
真っ赤に顔を染めて頬を膨らませ、セリアは暴れ出した。
「セリア、あまり暴れるな。落ちると、怪我をするぞ?」
しっかりとセリアを抱きかかえながら、ジュリアスが言った。楽しそうなその顔を睨み付けているうちに、セリアの身体から力が抜ける。大人しくなったセリアを抱えなおし、ジュリアスは真面目な顔を村長へと向けた。
「すまぬな、村長殿。このような結果になってしまった」
ジュリアスの言葉に、村長は首を横へ振る。
「なに、勝敗は兵家の常と申します。我らのような取るに足らぬ平民にまで、御心を砕いて下さり感謝の念に堪えませぬ」
「我が領内では、不自由なく暮らせるように手配する。それが、私にできるせめてもの償いだ」
「勿体なき、お言葉です」
首を垂れる村長へ、ジュリアスはひとつうなずき、手綱を手に取った。
「それでは、進発だ! 我が領土まで、歩み続けよ!」
ジュリアスの号令に、村人たちは荷物を抱えて村の北門へと進み始めた。
「私たちは、しんがりだ、セリア。追っ手が来れば、また殺さねばならぬ」
顔を前へ向けて、ジュリアスが言った。
「……村の皆を、守るためなんですね、ジュリアス様」
ジュリアスの首に、ゆっくりとセリアが腕を回した。
「お前のためだ、セリア」
村人たちの背に続き、悠然と動き出した白馬の上でジュリアスが言った。
「ふえ?」
セリアの口から、奇妙な声が漏れる。
「お前は、村人がわずか一人でも残るなら、共に残る道を選ぶだろう。ジラに、そう教えられてな。惚れた女を、私の失態で死なせるわけにはいかない」
耳元で囁かれる言葉に、セリアはジュリアスの腕の中でもぞもぞと動いた。
「い、いつから、その、私に……? 怪我の治療を、したからですか?」
問いかけるセリアに、ジュリアスはとびっきりの笑顔を向けた。
「初めて会った日から、惚れていた。一目惚れ、というやつだな。緊張して震えるお前を、可愛いと思ったのだ」
ぐっと、ジュリアスの腕に力が込められた。近づいてくる顔に、セリアはそっと目を閉じる。
「光栄、です……ジュリアス、様」
荒れた唇を、セリアは柔らかく受け止める。
「……でも、ジュリアス様。助けられる命があれば、なるべく殺さないようにしてください」
じっと、至近距離から瞳を見つめ、セリアは言った。
「わかった、約束しよう」
うなずいて、ジュリアスはまたキスを落とす。
「ん、もう、ちゃんと聞いてくれますか、ジュリアス様……」
「ああ、騎士の誓いだ。守れるならば、守る」
白馬が、村の北門を出る。残された無人の建物に、セリアの胸には寂しさがこみ上げてくる。ぎゅっとジュリアスにしがみつく腕に、力が込められる。ジュリアスは黙って、力強く抱いていてくれた。
翌年の戦争で、ジュリアスの率いるグラニーの騎士団は勝利をし、グラニー家の武名はますます高まった。そしてその年の秋に、ジュリアスは一人の呪術師の女を娶った。後に不殺の騎士として敵味方から惜しみない畏敬と崇拝を得ることになる、ジュリアス・グラニーを、女はよく支えたという。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
楽しんでいただけましたら、幸いです。