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鬼がやって来る処

作者: 暮 勇

 夫には常々申し訳ないと思っています。

 幾ら理解をしてくれているとは言え、彼には仕事があり、一方の私は専業主婦なのです。仕事で疲れ、帰ってきた上に、本来私がすべき家事を担ってもらっているのですから、やはり『申し訳ない』と、ついつい思ってしまうのです。

 お姑さんには「騙された」とか「不出来な嫁を貰ってしまった」と会う度何かと言われてしまいます。しかし、それが尤もなのです。私はお姑さんの言う通り、『不出来な嫁』なのです。

 理由は単純です。

 私は、台所に立てないのです。

 シンクの前に立つと体が震え、包丁など見ようものなら飛び上がり腰を抜かしてしまいます。このような体たらくの私に、料理など迚も出来ません。

 私は朝夕、夫が食事を準備する間、寝室に隠れて過ごすのです。お昼も、夫が用意してくれた弁当を食べています。

 嫁ぐ女にとって、掃除や洗濯等より、夫が喜ぶ料理を作ってやることの方が何よりも重要な事は、重々承知しています。交際時、いえ、独り身の時から、この『台所恐怖症』を治そうと努力したつもりです。

 それでも、駄目でした。

 何十年経っても、私の幼い頃の頭に焼き付いた傷は、癒えることはありませんでした。

 今でもあの時のことは、明瞭と覚えています。

 そう、全ては、幼かったあの頃。

 夏の、茹だる様な暑さの、ある日のお昼に起こった事件が原因なのです。


 年齢に関しては定かではありませんが、凡そ3・4歳くらいであったと思います。

 夏の蒸し暑の中、汗に塗れくたくたになりながら、私は台所に立つ母の足元に座り、自分の体と同じくらいの大きさのお気に入りの熊のぬいぐるみを抱えながら、昼食の支度をする母を見上げていました。

「こんな処にいたら、踏んづけちゃうわよ。それに、こんなに汗かいちゃって。此処は暑いでしょう。涼しい居間の方で遊んでらっしゃい」

 後でおそうめん持って行くからね、と母は微笑みながら、汗だくで草臥れた顔の私に向けてそう言いました。

 当時の実家には、居間と寝室にしか空調がありませんでした。

 空調の冷気など届かない台所で、夏の蒸し暑い中火を扱うのです。

 幾ら台所の窓や戸を開け、風通しを良くしようとしているとは言え、快適と言うには程遠い環境に違いありません。

 勿論、邪魔でもあったのでしょうが、幼い私のことを心配しての言葉でもあったのでしょう。

 それでも、私は母が恋しかったのです。

 私は、母に邪魔者扱いされたことにむくれ、「ぶー」とも「ぐー」とも言えぬ抗議の唸り声を上げながら、抱えていた熊のぬいぐるみを上下にぶんぶんと振り回しました。

「あらあら仕方ないわねぇ。そういう頑固なところは、お父さん譲りなんだから」

 そう笑いながら、母は冷蔵庫からアイスキャンディを1つ取り出し、頬をめいっぱい膨らませた私の頭を優しく撫でながら、目の前に差し出しました。

 それを見た途端、先ほどの不機嫌は何処へやら。私は熊のぬいぐるみをぞんざいに放り捨て、大好物のオレンジ味のアイスキャンディの柄を落とさぬように、小さな両手で確りと握り締め、しゃりしゃりと頬張りました。

 満面の笑みでアイスキャンディに夢中の私に安心したのか、母は再び私に背を向け、調理を再開しました。

 先程も申しましたが、夏の暑さのせいで、居間を除き、家中の窓や戸は開け放たれています。家の周りには田んぼや畑が広がり、『田舎』と言う言葉がぴったりの地域でした。窓だけでなく、玄関を開けっ放しにしていても、誰も気に留めません。夏であれば尚更、昼間、玄関や窓を開けっぱなしにすることは、当時ではごく当たり前のことでした。

 その上、周りには家はまばらにしかありませんでしたが、其々が皆顔見知り同士です。もし、家に誰かが来れば、玄関口から「おーい」や「ごめんください」の一言で済んでしまいます。今では信じられない程に、無防備、と言うのか、防犯という考えが無かったのです。それが、私が恐らく一生忘れられない事件を引き起こす切欠となったのでしょう。

 私はアイキャンディを一気に食べ尽くし、その冷たさできーんと頭に響く痛みに顔をしわくちゃにして悶えていました。支度が一段落したのか、振り向き私の顔を見る母は大層可笑しそうに笑っていました。

「冷たかったわねぇ。きーんってするの?」

 んーと悶えながらアイスキャンディが刺さっていた棒を母に手渡し、こめかみの辺りを両手で押さえ、頭をぶんぶん左右に振っていました。そんな時です。

 とん。

 玄関の方から僅かな足音が聞こてきました。初めは、母が昼食の支度をする上で立てた音だと思いました。しかし、それは母を見て、違うのだと分かりました。母も、その音を聞いたのか、玄関の方を見ています。

 ぺた。

 すーっ。

 すっ。

 迚も微かですが、何かが移動する音が聞こえます。もし近所の誰かであれば、無断で、かつすり足で部屋を歩き回るようなことはしないはずです。

 何も言わず物音に耳を傾け、顔を強ばらせる母。

 そして、私が凭れていた壁の如く横に大きな食器棚の後ろをゆっくりと動く聞き慣れない足音。

 私はそんな母の緊張した様子を見、声を出してはいけないのだと勘付きました。しかし、察しは良くとも、幼子には変わりありません。言い知れぬ不安で一杯の私は、少しでもそれを和らげるものが欲しくなり、先ほどぞんざいに放り投げた熊のぬいぐるみを手繰り寄せようとしました。

 それが、いけなかったのです。私は目先の不安を一刻も早く和らげるために、ぬいぐるみを思い切り引っ張りました。自身の体ほどの大きさのあるそれは、ずずず、という大きな音を立ててしまいました。それを切っ掛けに、今までの忍び足がどかどかとした慌ただしい足音に変わり、母と私の目の前に、その音の主が現れました。

 若い男で、体格はしっかりとしているというより引き締まっている、という印象でした。男は自信があったのか、顔も一切隠さず、手には刃物が握られていました。

 男は幼い私と華奢な見た目の母に安心したのか、偉そうでかつ物騒な物言いで金品を要求したそうです。母は男に繰り返し「何もない」と繰り返していたように思います。その頃の幼い私には、頭上で忙しなく交わされる母と男のやり取りの内容は碌に理解できませんでした。しかし、男は時間が経つにつれ、段々と苛立つちを示すようになり、突然、乱暴に男の右手にある食器棚を拳でがしゃん、と叩きました。

 唯でさえ見知らぬ男が、怒りを撒き散らすその行動に、幼い私は驚き、我慢の限界を超え、堰を切った様に大声で泣きだしてしまいました。男は一層焦り、苛立ち、私に向けて拳を向けようとしていたそうです。

 私がそれに怯え目を瞑り、次に開いた時には。

 母の背中が眼前にありました。

 私を庇ってくれたのでしょう。しかし、それにしては、様子がどうも変です。

 母の背中は何時以上に大きく見え、私に黒く重たい陰を落としていました。大きく開かれた母の股の隙間からちょいと覗くと、今まで勝ち誇ったかのようにどっしりと地に足付け、大きく広げられていた男の足は踵が僅かに浮き、膝はちぢこまるように曲がり、右足は少しずつ男が入ってきた玄関に向かって下がっていきます。

 何が起こっているのか、愈々訳が分からなくなり、きょろきょろとあちらこちらを見回し、母の手元に目が留まった時、ぎょっとしました。

 母は包丁を持っていました。しかも、片手ではありません。右手には逆手に、先程まできゅうりを切っていた小振りの包丁。左手には正面に、根菜やお肉を切るときに使っていた、大きな包丁。

 幼い私からすれば、見知らぬ男が持っていた怖そうなモノを、母は2つも持っているのです。私は思い出したかのように恐怖が再びこみ上げ、今にも爆発しそうになっていました。

 そして、母の両手がゆっくりと上がり、右手が肩より上に上がり、左手が胸のあたりで横に構えられ。

 どん!

 右足をまるで地を割らん勢いで前に踏み出され、私の恐怖は爆発しました。

 それが合図になったかのように男は「ひゃあ」と飛び上がり、背を翻し這うように玄関に向かって行きます。その男の背に、今まで聞いたことが無い様な、まるで地の底から響く様な低い唸り声を浴びせながら、母は先程と同じようにどん!どん!と足を鳴らし、右手をより一層高く上げ、追いかけてゆきます。

 男の甲高く、情けのない悲鳴が遠ざかり、それを逃すまいと母も玄関に向かいます。その時です、私が何よりも忘れれられない瞬間です。

 母の顔です。

 今でこそ例えることができます。あれは、正しく般若の如き形相です。横顔しか見えませんでしたが、それでも、その顔は今でも充分に恐ろしいものでした。

 顔全体が真っ赤に染まり、目は目尻が切れんばかりにかっと見開かれいました。口は犬歯をむき出し、横に大きく開かれ、男に殴られた際に出来たであろう口の端の傷口から、血を流していました。

 玄関を抜け、幾ら遠ざかろうと、男の悲鳴と母の怒号は止むことなく、私はもう恐ろしくて恐ろしくて堪らず、熊のぬいぐるみをきつく抱きしめ、ぶるぶると震えていました。

 結局、男と母は、その『鬼ごっこ』を見ていた近隣の人々に取り押さえられたようです。

 後に聞いた話では、強盗男よりも、母の怒りを収める方が大変だった、とのことです。怒髪天を衝かん勢いの母は、「待て」「おのれ」「許さん」「何処へ行く」と怒号を喚き散らし、幾人もの知人友人がなだめる中、怯える男に向けて突進しようとし続けていたそうです。

 これは今でも私の地元では有名な事件となり、当時の人々や母の中では笑い話となっています。

「若気の至り、かねぇ。あの時、何であんなに暴れたのか、私にも判らないわぁ。」

 ふくよかになり、丸っこい顔で母は笑いながら当時のことを、そう話してくれまいした。


 地元の知り合いや家族は笑いますが、私にとってはやはり、恐ろしい体験でしかありませんでした。

 何より、優しい母の豹変する様が脳裏に焼き付いてしまい、台所や包丁を見ると、あの時の母の、鬼の形相を思い出してしまうのです。お陰で、私にとって、台所は鬼が現れる場所として印象づけられてしまったのです。

 今でも、締め切った寝室の扉の隙間から微かに漏れ聞こえる、包丁がまな板を叩く音が、恐ろしくて堪りません。

 また、鬼がやって来るのではないか、と。

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