9.
俺の周りにはいつもたくさんの鉄臭い赤と死体があった。
俺には名前はなかった。いつも番号で呼ばれていた。親の顔は知らない。おそらく赤子のころに売られたのだと思う。
――――――――今日からお前の名前はルカだ。――――――――――
自分に初めて番号以外のものが与えられた。それを与えてくれたのは自分が殺そうとした子どもの父親だった。
「お前がこの子を守れ。その命に代えて」
この子に恨みはなかった。ただ命令だったから殺そうとした。まだ、目も開いていない小さな赤ん坊を。理由は知らなかった。知る必要なんてなかったから。
夜中すべてが寝静まった夜、屋敷に忍び込んだ。入るのは容易でこれが戦公爵の家だと思うと気が抜けた。しかしその考えは甘かった。次の瞬間四つのすさまじい殺気が自分に襲ってきたのだ。そのすべてがあまりにも鋭くて、勝てる気が一切しなかった。
これは死ぬな、そう思った。
別によかった。生きる意味なんてなかった。自分はゴミ同然だったのだ。
捕まって殺される、そう思っていた。
捕まって屋敷の主人の前に連れていかれた。殺されると思ったのに、自分の意識が途切れることはなかった。
この子を守れと言われた時は本当に意味が解らなかった。あんたバカか?と思わず言ってしまうくらいには。
即効で頭を殴られたが。
「触ってみろ」
殺気を放っていた一人、茶髪の若い男に連れていかれたのはターゲットの部屋だった。一人の美しい女性が、布にくるまれた赤ん坊を抱えて立っていた。この人が赤ん坊の母親の女主人か。
何をされるのかと思えば、腕の中で眠る赤ん坊が自分に差し出された。すやすやとよく眠っている。こんな幼子を殺そうとした依頼主は何をそんなに恐れているのかと思った。いや、この殺気が充満する屋敷にいるのに泣きもしない時点でこの赤ん坊は十分におかしく、恐れるべき存在なのかもしれない。
意味が解らず手は伸ばせなかった。女性の顔を見る。
「大丈夫よ」
ニコッと笑って差し出してくる。
「俺はあんたの娘を殺そうとしたんだぞ。なんでそんな人間に渡せるんだ」
そう言ってもニコニコ笑って「殺せていないじゃない」、と無理矢理赤ん坊を手渡された。
「おいっ」
初めて抱いた赤ん坊は柔らかくて、ふにゃふにゃで、とても温かかった。思わずつぶしてしまいそうなほど。どうすればいいのかさっぱりで、本当に途方にくれた。しかも夫妻は助けようともしない。
すると赤ん坊が目を開けた。
知らない人間に抱かれていたら、泣くに決まっている。
「おい、泣く!」
とっさに返そうとしたが、女性はクスクスと笑うだけ。
「あー」
自分の腕の中から、声が聞こえた。びくっとした。
恐る恐る見ると、大きなまん丸の瞳をした赤ん坊がふにゃっと笑ったのだ。
ドキッ
心臓がはねたのがわかった。どきどきどきどき、動悸が激しくなる。
今までこんなことはなかった。顔が真っ赤になるのがわかった。どんなに人を殺しても、血を浴びてもこんなふうに、自分の心臓の音が聞こえたり、顔が熱くなることは今までなかったのに。
「ほお、お前のことが気に入ったらしいな」
「そうみたいね」
なぜだか分からないが、この子のそばにいたい、そう思った。
それからは、リスティル家の大人たちが認める強さと礼儀作法(主にこれで苦戦した)になるまで、あの子に近づくことは許されなかった。遠目で見ることが許されるくらいだった。
***
「ルカ。お前をルーシェに付ける。何があっても、あの子を守れ」
当主様からそう言われたのは、ルーシェ様がリスティル公爵家の門を越えようとした次の日だった。
あの日、ルーシェ様が外にいることを知らせたのは、たまたま鍛錬をしていた自分だった。何があったかは聞いていないが、そっとしておきたいのだろう。
リスティル公爵家は戦の天才として国内外に敵が多い。彼ら一人がいるだけで敵方の勝率が下がるのだ。将来家督を継ぐ子どもを小さいうちに殺してしまおうと多くの刺客が送り込まれる。かつての自分がそうであったように。今回、リスティル家直系第二子であるグレン様が生まれたことにより、いつもより多くの刺客たちが送られてくるのは目に見えていた。アドルフ様は国王陛下のそばにいる必要があり、奥方様はグレン様に付きっきりになる。だからこそこの段階で、自分がルーシェ様付きになるのだろう。
「お嬢様。私の命はあなたのものです」
旦那様には自分が暗殺者だったとはルーシェ様に告げなくてよいと言われた。でもいつか伝えようと思う。その時もし嫌われても、従者をやめろと言われても構わない。
自分の意志で陰から守り続けるだけだから。