緑の丘に花咲く頃
エリ・ブランシェは大きな町ではない。その名を聞いたことある人は多いかも知れない。しかし、どこにあるのかは殆どの人が知らない、そんな田舎の町だ。大昔は石英の鉱山で栄えたらしいが、今となってはそんな面影はない。太古の鉄砲水がつくった峡谷と、斜面に穿たれ、今は放棄された坑道、そしてその谷川を流れる遙か地底からの湧き水に頼ったジャガイモ畑。それがエリ・ブランシェの町だった。どこにでもありそうな、寂れた、田舎の町なのだ。
だから、エリ・ブランシェへ引っ越すと父が僕に告げたとき、僕は地図を開かなければならなかった。そして、そこが南半球の、海もない、寒く乾いた土地だと知って愕然とした。夏の初め、僕は海で泳ぐのが好きだった。家がある首都アーモロートの海岸では、冬が終わって春になり、北極洋から流れてくる冷たい海水が、ユートピア海に流れ込み、蜃気楼が起こる。そして、だんだんと暖かくなって、魚座の月の頃には、海で泳げるようになる。
でも、今年は海に行けなかった。引っ越しの準備が忙しかったし、それに、夏休みの宿題を提出してしまってから、転校したかったのだ。
アーモロートから鉄道で十八時間、さらに最寄りの都市から、微睡みながら父と母の交代で運転する車に乗って赤茶けた荒野を渡ること四時間、エリ・ブランシェにたどり着いた。
エリ・ブランシェはすでに涼しかった。車は一軒の家に入り、母はここが新しい家よ、と僕に告げた。へんてこな家だと僕は思った。玄関のドアが重くて厚い鋼鉄でできていたからだ。体重をかけないと開け閉めできない。家の中に入って、内装を見ると案外普通かと思ったが、その感想は窓ガラスを見て霧散した。窓ガラスもドアみたいに分厚く、しかも二重になっている。外側のガラスは磨りガラスだ。居間の窓だけかも知れないと思って家中の窓を見てみたけど、どれも皆同じだった。あまりいい趣味には思えなかった。どうして親はこんな家を選んだんだろうと不思議になった。
母にはその姿がはしゃいでいるように見えたらしい。母は父にそう告げた。十四にもなって、と、父は溜息をついたあと、自分は今から市長の所へ行かなくてはけない、と言った。父は中央政府の役人だった。今回の引っ越しも政府の命令だ、と説明していた。僕はそれを聞いて、左遷かと思ってしまった。でも、父はその様な悲嘆を見せたりはしなかった。ただ、時折見た悩み込む姿を、僕は覚えている。
父の外出に母もついて行ってしまうと、僕は一人で家にいるのもつまらないので、何か遊べる所はないかと思って、外に出た。
道を歩きながら見回してみると、どうやらおかしいのは僕の家だけではなさそうだった。どこの家も、重たそうな金属製のドアと磨りガラスの窓なのだ。そうでなければ窓に外側から覆いをかけていたりする。不思議な町だ、と思った。そんなドアがいりそうなほど治安が悪くも見えない。それに、エリ・ブランシェの人々は人に見られるのをいやがるのだろうか。甚だ疑問だった。
砂を含んだ乾いた風がびゅうびゅうと吹き、アーモロートよりも二ヶ月くらい早く秋が来ているように感じられる。砂粒が舞っていて、時々目に入りそうになった。
歩いているうちに町外れまで来てしまっていた。地面は礫に覆われている。鉱山跡が近いためだろう、その中には雲の合間から差す陽光をきらきらと反射して光っているものもあった。小石を蹴飛ばしながら進んでいくと、地面はなだらかな下り坂となった。次第に急になり、しまいには僕は谷底を流れる小川の川辺にいた。
川の水は澄んでいて、いかにも冷たそうだった。川底にも水晶は散らばっているらしい、きらきらと水底が光っている。谷の斜面には至る所に大きな洞窟が見える。ここが聞く鉱山跡だろう、と僕は思った。
石を一つ拾った。鉱山から掘り出したものだろう、ツルハシを使ったようにきれいに割れていた。それを僕は川に投げた。ポチャン、と水しぶきが立つ。
ふと後ろで人の気配がした。振り返ると、そこに少女が立っていた。セーターを着て、スカートとニースソックスを穿き、茶色いストレートの髪。年は僕と同じくらい。
「見ない顔だけど、ここで何してるの?」
少女は僕に問いかけた。茶色い瞳だった。
「ええと……いや、今日、この町に越してきて」
「へえ、そうなんだ」少女は吹く風に髪を揺らして歩み寄る「ねえ、町、気に入った?」
「何もないね」素直な感想だった。
「そう言うこと聞かれたら、嘘でも『いいところだよ』ってお世辞を言うところじゃないの」
はあ、と溜息をつくようにして少女は足下の石を一つ拾い上げた。
「ここが何だか知ってる?」
「鉱山跡じゃないのかな、石英の」
「正解。知ってるじゃない」少女は石を差しだした。それには小さな六角柱の水晶が埋まっていた「ここは昔、石英鉱山の町だったの。この国一の産出量。でも、いまは寂れている。でも、私はこの町がすきだよ。この石もきれいでしょ」
少し悪いことを言ってしまったかなと思った。僕は彼女に同意するように肯いた。
「何もないって言うのはごめん、謝るよ」僕は右手を出した「僕はベントだ。アーモロートから引っ越してきた」
少女は僕の右手を握り返す。
「マリ。よろしくね」少女は完爾とした「アーモロートから? 凄く遠いね」
「父親の転勤でね。今年はこの引っ越しのせいで海にも行けなかったし。ここはもう飽秋の暮れだし、夏が無くなっちゃった感じだよ」
「それはお気の毒に」マリは笑ってそう言ったあと続けた「ねえ、海ってどんなところ? 行ったことないんだけれど。凄く広いのよね」
「うん、まあ、何て言うか」どう表現すればいいか分からなかった僕は、両手を広げてみた「これくらい、じゃないけど、とにかく広い」
「ふうん。毎年そこに行ってるの」
「うん、夏の海岸は、僕のとっておきだったよ」
彼女は僕の言葉を聞いて少し考え込んだあと、何か思いついたように僕を見た。そして、白い歯を見せながら、僕に尋ねた。
「ねえ、私のとっておき、見たい?」
「君の?」
「うん。私だけの秘密の場所」
僕は頷いた。
「じゃあ行こう!」
マリは僕の手を取ると、川に沿って上流の方へと進んでいく。谷が狭まっている隘路を抜けると、そこには拓けた河原になっていた。数町に渡って平らな地面があり、斜面には、大きな洞窟があった。入り口は家一軒くらい入りそうなほどだった。百年前までは、主要な坑道として使われていたものだろう。
少女は襷掛けにしていた鞄からランプを取り出した。
「少し暗くなるから足下に気をつけて」
マリに先導されて、線路(昔鉱石を運ぶトロッコに使われていたのだろう)に沿いながら、洞窟の奥へとずんずんと進んでいく。次第に暗くなり、すぐランプの灯だけが頼りになった。地下から湧いて出た水が溜まったのかも知れない、足下でピチャピチャと音がする。上着を着ているのに、凄く寒い。
十五分ほど歩いて、僕らは立ち止まった。
彼女はランプをかざした。僕は息を呑んだ。大きな、一つの結晶が人間の腕ほどもある透明な水晶が、ランプの橙の灯に照らされている。それが、まるで羽のように扇形に連なっている。
昔見た氷の彫刻の展覧会を思い出した。でも、あれはすぐ溶けてなくなってしまう。これは違う。永遠の時の中に氷が閉じ込められたように思われた。触ってみようかとも思ったが、溶けてしまうかも知れないと、ありそうもない不安が頭をよぎった。
「すごいでしょ」
「これは……」
「そんなに数は多くないんだけど、時々、こういうのが見つかるんだ。『天使の羽』っていうんだけど。たいていもっと濁ってたりするから白いんだ。それがこの町の名前の由来」
「これが君のとっておき?」
「うん。一つ目のね」薄明かりの中で彼女が微笑んだ。
「他にもあるの?」
一つだけじゃつまんないでしょ、とマリは指を立てて言った。僕は十分この自然の芸術品に感動しているんだけど、しかし彼女はそれだけでは満足がいかないらしい。
再び手を取ったマリは、さらに奥へと進む。暫くして線路がなくなった。
行き止まりじゃないのか、と僕は尋ねてみたけど、彼女は微笑むだけで答えを呉れない。不意に彼女はランプを消した。僕は怪訝に思った。
その時彼女の髪が僕の頬を撫でた。微かだが、風が吹いているようだ。よく見ると先の方に明かりが見えた。明かりはだんだんと近づいてくる。そしてすぐに、それが反対側の出口だと分かった。いや、出口というよりはもしかすると通気口として造られたものかもしれない。道はごつごつした上り坂、石の階段となった。光は、すぐそこから差し込んでいる。マリは、先に登っていく。
穴を抜けて、僕らが空の光を仰いだのは、枯草に覆われた、小高い丘の麓だった。彼女は丘の上へと駆けだした「早くおいでよ」振り返り手を振りながら呼びかける。
僕は彼女を追いかけて丘へ登る。てっぺんでは、彼女が髪をなびかせていた。いつの間にか日が傾いて、辺りの空気は紅を帯び始めていた。
僕が追いつくと、彼女は西の方を指さした。僕が視線を投げかけると、一望のうちにエリ・ブランシェの町をおさめていた。町の中心の広場には、教会の尖塔が長い影を落としている。
「ここもいいでしょ」彼女はにっこりと笑った。
凄くきれいな眺めだった。北に目をやると、遙か彼方に山が見えた。タルシス山脈だろうか、と僕は思った。そして、その山の頂き近くに、茶色い靄が見えた。マリは眼を細めた。
「秋の嵐ね」彼女は言った「今年は少し早いみたい。いつもは牡牛座の月の初めに来るのに……まだ牡羊座の月の半ば」
「秋の嵐?」僕は聞き返す。
「そう。秋の終わりにやってくる嵐。アルカディア海から吹く風はタルシス山脈を越えるうちに乾いて冷たくなって、砂を巻き上げてやってくるの。早く砂戸を閉めなくちゃ」
なるほど、と思った。窓に付いていた飾り、あれは砂戸というのか。磨りガラスが多いのも合点がいった。風は砂を少なからず含んでいる。それがガラスを削るのだ。
「秋の嵐は強烈だよ。一週間は家から出れない。ほら、ここにある枯草も、みんな飛んでいっちゃう。そしてそのあとに来るのが長い冬」
「それは憂鬱だな」
「うん。でも、その分春が楽しみになる」彼女は両手を広げた「嵐は砂だけじゃない。枯草を土の中に埋めるんだ。それは肥料になる。そして春の嵐が砂を吹き飛ばし、雨が降ると、この丘も、緑に覆われる、花が咲くんだ」
彼女はくるりと回り、微笑みを僕の方に向けた。
「言うじゃない、冬来たりなば、春遠からじ、って」
僕は肯いた。
次第に辺りは暗くなり、空は紅から濃紺に染まりつつあった。僕らは丘を降り、今度は空の下を、町へと帰っていった。
家に帰ると、すでに両親は帰宅していた。どこへ行っていたのか聞かれて、ただ散歩していたとだけ答えた。僕は自分の新しい部屋にはいり、室内を見回した。机と椅子とベッド、あとは引っ越しの荷物が入った箱が積まれていた。僕はベッドに腰を下ろすと、ポケットに手を突っ込んだ。中には、川辺でもらった石が入っていた。
数日のうちに秋の嵐はやってきた。空は殆ど真っ暗になって、風は強く吹きすさび、家の中に閉じこもって、砂戸に吹き付ける砂の音を聞いていた。
嵐が過ぎると気温は一気に下がった。アーモロートの冬とは異なり、エリ・ブランシェには雪が降らない。空気がすごく乾いているようで、霜も下りない。道の両脇には砂かきで集められた砂が山をつくっている。外を歩くと、吐く息は白い。
「ベント」
突然声をかけられ振り向いた僕に、手を振りながらウインクを投げ返してきたのはマリだった。ダッフルコートを着て、ニット帽を被っていた。
「久しぶり、元気してた?」彼女は僕に駆け寄ってくる「スケート行くんだ、川に。氷張ってるから」彼女は手にしていたスケート靴を見せた「来る?」
「でも僕はスケート靴持ってないよ」
「じゃあ来ないの?」
「いや」僕は少し戸惑ったあと、首を縦に振った「ううん、行くよ」
そう来なくっちゃ、と彼女は言うと僕の手を取った。彼女の暖かさが手袋越しに伝わってきた。まだ砂の残った道を、谷の方へと駆け出した。
道がアスファルトから砂利道に変わり、やがて礫の散らばる谷に着く。前来たときは気づかなかったけれど、割られたようないびつな形をした石だけじゃなく、角が取れて丸くなった石も同じくらいある。吹き付ける砂粒が角を削ったのだろうと想像した。斜面のそれで覆われたところは、非常に滑りやすい。
「足下の石が凍ってるから、気をつけて」
マリは言った。嵐は砂だけじゃなくて川の水も巻き上げて、飛沫を谷に降らせるに違いない。濡れた石はそのまま凍ってしまう。僕は注意しながらゆっくり歩をすすめた。
谷底に着くと、そこには仄かに赤みがかった、凍った川があった。彼女はスケート靴に履き替えると、川の上を滑り出す。風にマフラーがひらひらとする。僕はその様子を川岸から見ていた。
「ねえ」マリは滑りながら僕の方へ声を上げて呼びかけた「洞窟の方行ってみようよ」
僕はまたあの水晶が見てみたかったし、本物の氷と実際見比べて、そのすばらしさを改めて実感してみたかった。僕は首肯した。
「どっちが早く着けるかしら」彼女は不敵に笑い、そのスピードを上げた。僕はというと、凍った川辺を転ばないように進んでいくのがやっとだった。
狭隘な谷間を抜けたところで、僕は不意に立ち止まった。
前とは様子がかなり変わっていた。数週間前に来たときにはそこには何もなかったはずだ。しかし今は、洞窟の入り口に柵がつくられ、洞窟前の開けた砂利地には工事用の重機が数台置かれていた。
「ここって、閉鎖されてたはずだよね」
先に辿り着いて、同じく唖然としているマリに尋ねる。彼女は、既にスケート靴を履き替えていた。
「ええ」彼女も訝しげに答える「今になって掘り返すのかしら……あ、誰か来たわ」
見ると崖の上の方から十人ほどの大人が降りてくる。僕は驚いた。そのうちの何人かは軍人のようであったし、何人かは役人のようだった。その役人の中に、僕の父も混じっていたからだ。
思わず僕は父に駆け寄った「お父さん、これは……」
父の方も思いがけない僕の出現に戸惑った様子だった「お前、こんなところで何をしているんだ」
「ええと……散歩をしていただけ」ばつの悪そうに僕が答えると、今度は父は僕の後ろへと視線を移した。マリの方だ。
「彼女は……?」
「こんにちは。マリ・マッカーストンです」少女は父にお辞儀をした「この辺りを案内していました」
「この辺は危ないよ」父は言った「足下も滑りやすいし」
「ベント君のお父さん」マリは首をひねりながら聞いた「ここに何を建てるんですか? 廃坑をもう一度掘るんですか?」
「まあ、そんなところだよ」父は急かすように続けて言った「さあ、でも、早く帰りなさい。ここはもうじき立ち入り禁止になるから。装備なしで鉱山に近づくのは危ない。それに、こんなに寒くて風邪をひいたら困るぞ」
僕らは父の言ったことに従って斜面を登っていった。後ろを振り向くと、兵隊さんが、谷への入り口に『立ち入り禁止』立て札を立てていた。
僕らは、道を、町へと戻り始めた。マリは非常に不満そうな顔で、手を首の後ろで組んだ。
「でも憂鬱ね。残り少ない秋休み、今年は遊べないなんて」
「宿題は終わったの?」僕は不意に尋ねてみた。彼女の足が止まった。
「……しまった(ヨシャパテ)」愕然とした顔に変わる。どうやら、してなかったようだ。
「あと一週間ぐらいだろう、二ヶ月分近い宿題どうする」
「いや、少しはやってるよ、うん、やってるんだ」彼女は慌てつつも、僕にというよりかは自分に言い聞かせるように言った「初めの二、三日はがんばったんだけど、そこでばてちゃって……あなたは宿題終わってるの?」
「宿題はないよ。というか、アーモロートを離れる前に、夏休みの宿題は全部やり終えてしまってたから。それに転校したばっかりの人に宿題は出せないだろ」
彼女は、何なのよそれ、と僕に悪態をついたあと、どうしよう、と溜息をついた。暫く頭を抱えたあと、何かを思いついたらしい、顔を上げてにやりと僕を見た。
「ねえ、勉強はできる?」
「え、うん、少しは……」
「じゃあ手伝って!」
「え?」
「決まり! よろしく!」
マリはそう勝手に一人で決めると、僕の手を掴んだ。いいとは言ってないよ、という僕の言葉を完全に無視して、彼女は僕を彼女の家まで引っ張っていった。
「ただいま」彼女はそう言って重たい扉を開けた。玄関で返事を返したのは老婆だった。おそらくマリの祖母だろう。
「友達連れてきたの。勉強の分からないところ教えてもらいに」
僕はマリの祖母に会釈をすると家の中に入った。マリは、ダイニングテーブルに坐って待ってるように言った。暫くすると、彼女が両手いっぱいにノートと教科書を抱えて戻ってきた。それを机にドサリと置く。
「こんなにあるのか……」僕は思わず絶句した。宿題は、ほぼ全教科にわたって手つかずのようだった。数学、物理学、共用語……地理は既に終わらしたようだった。
「まずは歴史から!」彼女は『歴史ワークブック』と題された本を手に取った「歴史の先生、厳しいから」
「全然やってない……って訳じゃないようだね、中世まではやってるみたい」僕はその本をぺらぺらとめくってみて言った。
「そう、それ、中世とか、近代とか、いつからいつまでかよくわかんないの。この問題とか『中世の終わりについて述べよ』とか。これ考えてるうちにやる気がなくなったの。教科書見ても何年とか書いてないじゃない」
「僕はウエストファリア条約って習ったけどな」
「ウエスト……何?」
「ウエストファリア条約。三十年戦争の講和条約。中世的な封建社会が終わって、主権国家が生まれたんだ」
それが近世の始まりだった。それから産業革命、帝国主義時代を経て、二度の世界大戦ののち近代へ移行する、と説明した。
「ええと、それじゃあこの空欄は二次世界大戦で……ねえ、第三次世界大戦の開戦っていつか分かる?」
「二十一世紀、だったような……」僕は手元の山から歴史の教科書を発掘すると、頁を開いて読み上げた「ええと、あった。地球歴二〇四四年六月十七日、中国は台湾へ侵攻、米国を中心とするNATO軍は中国へ宣戦布告する……」
「了解、二〇四四年、っと。まだ穴埋め続いてるの。『この戦争で、二次大戦以降初めて【F】を使用したのは【G】である』」
「ええとそれは……たぶん、ええと、縮退砲、じゃなくて」僕は教科書の文に目を走らせた「【核兵器】を使用したのは……ううん、この教科書の書き方じゃインドかパキスタンか、どっちか分からないな」
「ええい、もう。わかんないから全部アメリカでいい」彼女はペンを回してぶっきらぼうに言った「確か当時の覇権国家でしょ、三度の戦争に勝ったんだし」
「先生に怒られるよ」
「とりあえずは全部埋めるの……よし、近代は半分くらいまで行ったわね、早くやりあげよう」
僕はため息混じりに聞いた「次は何の問題?」
「ええと、やっと火星が出てきたわ。初めて火星につくられた植民市は……簡単ね、【ブラッドベリ・ベース】っと」
こんな感じで僕らは問題集を進めていった。二十三世紀の木星独立戦役、二十五世紀の最終戦争と続いて、三十分ほどで、近代史は終わった。
「はあ、疲れた。とりあえず歴史は今日はこれでおしまい」彼女は椅子にもたれかかり、背伸びをしながら言った「にしても、戦争のことばっかりね。戦争の名前ばっかり覚えちゃう。あ、でも、最終戦争、って。これ以降戦争は起きてない、ってことだよね」
僕は肯いた。最終戦争以降は大規模な戦闘は行われていなかった。地球が十億人を犠牲とした最終戦争から立ち直るにはたっぷり三世紀を必要とした。そのあと成立した太陽系連合が主体となり、人類はそのエネルギーを外的膨張へと転換する。太陽系政府はアルアファ・ケンタウリを皮切りに、くじら座タウ星やエリダヌス座イプシロン星へと移民船団を送り出す。これが現代の始まりだった。
「戦争、ってどんなものなのか知らないもんね。文字だけでたくさん」
「確かに」
「あっ、そういえば……」マリが思い出したように言った「さっき谷にいた人、軍人もいたよね。軍が鉱山に何の用かしら。……よく考えてみたら、戦争がないのに軍はあるなんて」
「確かに、おかしいかもね」
僕は笑ってそう言ったが、あの時の父親の口調に、なにか心に引っかかるものがあるような気がした。いいや、気のせいだろう、僕もあくびを一つすると、次の教科をしようと言った。
結局その日は共用語と数学を少し手伝い、家に帰った。夕食の時、父は昼間のことについて何も話さなかったし、僕も何も聞かなかった。
十日後、エリ・ブランシェの学校では新学期が始まった。マリは隣のクラスにいた。クラスに友達もできたけど、一番よく話をしていたのはマリだった。一緒に帰ることもよくあって、周囲から冷やかされたりもすることもあった。
相変わらず谷は立ち入り禁止のままで、谷には危険だとして近づくことができなかった。父はそこに出向いて仕事をしているようだった。住民には、石英とは別の資源の鉱脈を探している、地質学的にはこの辺にあるはずだ、と説明されていたが、本当にそうなのか父の態度をみては確信できなかった。実際には何をつくっているのかは分からなかった。
乙女座の月の中頃、火星艦隊の閲兵式があった。僕はマリと一緒に、あの丘へと行った。身を切るような寒さに日が西へと傾いていく中、僕らは久しぶりに丘にやってきた。枯草はなく、赤茶けた砂が辺りを覆っていた。僕らは丘の頂上へと登った。
空を見上げた。東の空に一番星が見えた、もう一つ、また二つ、そのすぐそばに星が出た。それは明らかに動いていた。それは人工の星だった。凡そ一分のうちに、光点は十を越えた。僕は双眼鏡を取り出し、その星々をしばし眺めた。そしてマリにもそれを見せた。
「冥王星で大規模な演習をするらしい」僕は父から聞いたことを話した。父はそのための閲兵式の出席のため二日前イーハトーブに向かっていた。そこから、軌道エレベーターでフォボス宇宙港へと昇っていく。演習には、地球や土星の艦隊も合わさるらしい。
「でも」マリは怪訝そうな顔をした「演習、って戦争の練習よね。戦争なんてないのに、どうしてそんなことするのかしら」
「さあ、それはわからないよ。でも、いざ、って時のために備えてるんじゃないのかな」
「いざ、なんて来るのかしら」
彼女は腑に落ちないといった様子だった。それでも一方、彼女はまた嬉しそうだった。久しぶりにお気に入りの場所に来られたのだから当然だろう。
「今度は春来よう。花も咲いてるだろうし、ピクニックしようよ」
帰り道、マリは嬉しそうに語った。僕も、彼女とピクニックへいくということは、とても楽しそうに思えた。
そう、春が来ると言うことは、凄く素晴らしいことだと、僕は確信していた。そしてそれは、もうすぐなのだ……
……天秤座の月第三十七日、閲兵式から約一ヶ月後、その日学校は休みだったが、僕が家で本を読んでいると、仕事に出かけているはずの父が帰宅した。
「仕事、もう終わったんですか?」母が父に聞いた。しかし、父は慌てふためいた様子で叫んだ。
「それどころじゃない! いいか、今すぐ支度をするんだ、服と貴重品を持て、二十分で出るぞ」
一体何が起こったのか、僕も分からなかったし、母も状況を理解できていないようだった。「あなた、何ですか」
「あとで説明するから、今はとにかく準備を」父は箪笥をひっくり返し、自分の衣類をスーツケースに詰めながら僕らをせかした。一体何のことか分からぬまま、僕も荷物をつくった。
「もう出るぞ!」
玄関で父が叫ぶ。僕は慌てて鞄を閉じた。部屋を出ようとしたとき、机の上に置いてあった、河原でもらった石が目にとまった。僕はそれをポケットに入れた。
父の運転する車は、道を郊外の方へと向かった。それは谷の方だった。工事現場の入り口のゲートで父は何か許可証を見せた。車は谷に入り、そしてあの洞窟前で僕らは降りた。
僕は絶句してしまった。洞窟の入り口はコンクリートでダムのように固められ、要塞化されていた。父は僕らに少し待っているように言うと、その要塞の入り口の方へ走っていった。
口を開けて見上げていると、空から大きな音が聞こえてきた。ヘリコプターだった。政府のマークが付いている。それは洞窟前の開けた河原に着陸した。降りてきたのは、ニュースでも見たことのある人たちだった。その中に執政官を見つけたとき、明らかに異常な事態が進行していると、確信した。
その時、ヘリコプターの騒音の中でも聞き取れるほどの大音量――警報音が、町の方から響いてきた。それは大砂嵐警報の音だ、と学校で教えられたものだった。それは秋の嵐なんかよりもずっと強力な嵐を意味する。この音が鳴ると、住民は市役所の地下シェルターに避難しなくてはいけない。
僕は反射的に町の方を見た。そしてその時、北の空に流星を見た。たくさんの、数え切れないほどの流星だった。
そして、次の瞬間……
空が、割れていた。
北の空に浮かんでいる鏡、火星の赤道地帯を温和な気候に保つために軌道上に設置された巨大な鏡群、それに何カ所もヒビが入り、ばらばらになっていく。周囲で悲鳴が聞こえた。
僕は車に立ち戻ると、すぐラジオをつけた。音声は極めて不鮮明だった。「繰り返します……火星は現在、攻撃を受けつつあります。通信は著しく損害を……おり、被害は分かりませ……が、地球が……を受けたという未確認情……も入っております。状況がわ…………お伝えします。住民の……は、身の安ぜ……保してくださ……」
そこで放送は途切れた。すると、今度はもっと明瞭な音声が流れ込んできた。それは極めて古風な共用語だった。
「……我々エリダヌス座イプシロン星政府ハ、暴戻ナル太陽系政府ニ対シ、戦ヲ宣スモノナリ……是釁端ヲ開クニ至ルハ太陽系政府ノ非望ノ為ニシテ…………我々ハ、平和ノ裡ニ事態ヲ回復セシメントシテ、隠忍久シキニ弥リタルモ、彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク、徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ……」
内容の殆どは理解できなかったが、しかし、『戦』という語だけは聞き取れた。そのとき僕の腕を誰かが掴んだ。振り返るとそれは父親だった。父は僕を引っ張った。
「準備がやっとできた、さあ、早くシェルターに……」
「ちょっと待って、父さん」僕はその洞窟の要塞――父がシェルターと呼んだものを指さして言った「戦争って、それに、こんなもの造ってたということは……」
戦争は予期されていた。僕は説明が欲しかった。だが、父は僕の言葉に何も応えずただ手を引いて引っ張っていく。僕はその手を振り払った。
「町の人たちはどうなる、空の鏡が落ちてきたりしたら……」
それ以上は言えなかった。父は僕の頬を打った。未だ、僕を殆どしかったことのない父が、初めて僕を打った。父の目には、涙が浮かんでいた。
……周りを見れば分かる。ここは、政府要人のためのシェルターなのだろう。行政機能一式を丸ごと移転した、核爆発にも耐えられる、そういう巨大なシェルターなのだ。一役人でしかない父と、その家族が入ることができる、それは殆ど奇跡のようなもので、そして、それが精一杯なのだ。
空が突然光った。見ると、北の方に直立している軌道塔――直立しているはずの軌道エレベーターが、ぐにゃりと歪んでいた。フォボスも心なしか大きく見える気がした。またフォボスが閃光を発した。
――フォボスの軌道が下がっている、それを核爆発で修正しようとしていた。フォボスは落下するかも知れない、ともすればしないかも知れない。しかし、軌道塔は確実に崩壊するだろう。
歴史を思い出した。最終戦争で地球の軌道塔が一つ倒壊し、大量の塵が巻き上げられ、そのせいで数十年にわたり地球には核の冬が訪れた。火星も、そうなるのだ。
父と母は僕を連れて、シェルターに入っていった。僕は服の上からポケットの水晶を触り、マリのことを想った。彼女は今ここにはいなかった。そして、彼女が愛していた、楽しみにしていた緑の丘のことを思った。
嗚呼、マリ、と僕は涙を流しそうになるが、そばで俯いている父を見ては泣いてもいられなかった。いっそ狂ってしまえば楽かと思ったが、意外と心は冷静なのだ。
春は既に遠かった。ただ僕は、それでも祈らずにはいられなかった。そんなに信仰深いわけではないけれど、これでも聖句の一つや二つは覚えているものだ。僕は涙をこらえながら呟いた。
……ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。
いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ、姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。
(了)
友人らからは「文体はいい」と言われました。ストーリーはないと言われましたが。