奇妙な噂のある上級生
小中高から大学までエスカレーター式に進む一太の学校では、他の学校と同じように九月新学期制、そして授業選択制がとられている。
昼休みがおわり、午後一の授業に選んだ日本史がある教室にむかって、一太は座席をさがしている自分に手を振ってくる人物に気づいた。
「一太ー。こっちだ、こっち」
友人の立橋勇樹は、衣替えどころかまだ四月だというのに半袖の制服をひらひらとさせて隣の席に一太を迎えた。
にかっとした、日に焼けた体育会系の笑みを浮かべている。光量子世界の気候は基本的に現実世界のそれと連動している。今はまだ湿気もすくなくていいが、これから夏になれば側にいるだけで暑苦しくなりそうな笑顔だった。
勇樹は一太が去年の九月に入学して約半年、一番仲良くなった相手だった。
適度に真面目、適当におちゃらけている明るい性格で、仲良くなったきっかけは一太もよくおぼえていない。なんとなく、いつのまにかよく話すようになっていたからだ。
「よ、どうだった?」
愛嬌のある瞳をかがやかせる友人に、一太はあいまいにうなずいてみせた。
「うん。まあ、なんていうか」
「なんだそりゃ」
口をへの字にする。
「来てくれなかったのか? ちゃんとラブレター、だしといたんだろ」
「大声だすな、このバカ」
単語を強調されて周囲の視線を気にする一太に、悪意のない笑顔で勇気は肩をすくめる。
「悪ぃ悪ぃ。んで、どうだったよ。会えたのか?」
「うん。会えたよ」
「おお。で?」
勇樹は心から楽しそうな表情だった。
「……言った」
「おおお、さすが、一太!」
「うるさいよ」
下手な冗談を言う友人のテンションをちょっと疎ましく思いながら、一太は息をはく。
「あら。その様子じゃ、やっぱダメだったか。なにがハーレムよ、ふざけんな、バシーン。か?」
「声がでかいって。……OKだって言われた」
「は?」
きょとんとして、それから睫毛をまばたかせて、勇樹は目を見開いた。
「マジか。ほんとに? ハーレムOKって? マジで? すげえ、意味わかんねえ!」
「だから、うるさい。こっちだってびっくりだよ」
四月から始まった後期役割演技科目。そこで自分に与えられた『役割』の途方もなさに半ば絶望していた一太に、風凪咲という先輩の存在を教えたのは勇樹だった。
「はー。すげえな。まさか本当にうまくいくなんて思わんかった」
「おい、こら」
「いやいや、だってそうだろ。ハーレムだぞ。普通にありえん。あの噂、ほんとだったんだなぁ」
腕を組んだ勇樹がしみじみと言う。
風凪咲という二年生が有名なのは、その端正な容姿によるものではなかった。
確かに美人ではあるけれど、どちらかといえば地味めな美人というやつだし、それに誰だって自分の思い通りの外見を選べるこの世界では、よほどのことがない限りそんなことでは目立たったりはしない。その人の個性となるのは行いや、人当たり、社交性などで、そのなかの一つのせいで彼女は同学年だけでなく後輩からも知られていた。
別に騒ぎを起こした問題児というわけではない。副生徒会長という役職というせいでもない。いや、それについては関わりがあることかもしれなかった。
風凪咲はとてもいい人らしい。それも、度を越しているほどに。
噂というのはそういうものだった。
ただし、その噂で語られる彼女の『善意』は、困っている人を放っておけない。というレベルではなかった。
笑い話にしか聞こえないものや、眉をひそめるような無茶なお願いも、彼女は涼しい顔で受けるのだという。
まるで嫌な顔一つせず、ひたすら「YES」を繰り返す首振り人形。人間味のない相手を揶揄する、あるいは不気味がる口調でその噂は語られていた。
勇樹からその話を聞いた一太は、もちろん半信半疑だった。
どんなお願いも引き受けてくれるだなんて、そんな聖人みたいな相手がいるわけない。そうは思いながら、勇樹のすすめにしたがって彼女へコンタクトをとったのは、それだけ一太が切羽詰っていたからだったのだが――
先ほどの校舎裏でのやりとりを思い出す。
今でも、自分が耳にした返事がなにかの勘違いだったのではないかと記憶を疑いかけて、携帯端末を取り出して確認してみると、そこには先ほど別れ際に交わした相手の通信コードがしっかりと羅列されている。
横から覗き込んだ勇樹が、ひゅうと口笛を鳴らした。
「うお。ホントっぽいな。やったじゃねえか」
ばんばんと肩をたたかれて、一太は渋柿を食べたみたいな顔でうめく。
「なにか、すごく間違ってるような気がする」
「なーにがだよ。お前、どんな内容だろうが一度与えられた以上、役割はまっとうしないと最悪、補習だぜ? ただでさえ短い夏休みをつぶすことになったりしたら、一緒に遊べもしねえ」
「夏休みだって、そっちは部活だろ?」
勇樹は肩をすくめてみせた。
「俺、大会とかでるわけじゃねーし。前期のロープレで、小金貯まってんだろ? 遊びまくろうぜ。二年にあがったらまた忙しくなるんだしな」
一太の前期役割演技科目での課題は『アルバイトに励め』だった。その甲斐もあって半年でけっこうな小遣いを稼ぐことができていたけれど、うなずきながら、それでも一太は高校一年が終わり、年度休暇にはいる八月を無事にむかえられる未来が想像できなかった。
「なあ、勇樹」
「んー?」
「ハーレムって、何人から? ていうかハーレムってなに?」
「あー。それはあれだな、哲学だなぁ」
真剣そうに言う、勇樹の口元はにやにやと笑っている。
相手の頭をこづこうとして避けられ、こなくそと追撃したらスウェイされ、フェイントを繰り出したり足で蹴ったりじゃれあっているうちに、急に馬鹿らしくなって一太は机のうえに上半身を放り出した。
「ああ、もう。なんでハズレなんかあたるんだ」
「いいじゃねえか。男の夢だぜ。首尾よく一人目をゲットできたんだ、お前ならやれるって。憎いねこの! よ、ハーレムキング!」
茶々をいれる友人に呪いでもかけてやろうかと睨みつけた一太に、教室の前扉から教師がはいってくるのが視界にはいる。
日本史の担当教師は、御歳四十を迎えて独り身を貫いているという孤高の人、山本女史だった。
「……勇樹。お前の課題って、『勇者であれ』だったよな?」
「おー。イミフな課題だが、一周まわって楽なもんだよな。魔王でも倒してこいっていうのかね?」
「魔王を倒すのだけが勇者の役目じゃないだろ。助けることだって大切な仕事だと思うぞ」
「ん? ……まあ、そうだな。なんだよ、どこかに困ったお姫様でもいるか?」
「ああ、いるじゃないか。教壇にさ」
わざとらしく顔を向ける、その視線の先をたどって台詞の意味を悟った勇樹が口元をひきつらせる。
「いやいや。そんな」
「山本先生、勇樹がデートに誘ってあげたりしたら喜ぶだろうなあ。教師と生徒の禁断の愛だなんて、よほどの勇者じゃないとできないもんなー」
「いや、ちょっと待て。勇者の志ってのはなあ、別にそういうところで――」
「勇者のいいとこみてみたいなー。きちんと役割をこなしてくれるんだろうなー」
だらだらと脂汗を流して沈黙する勇樹の様子に少しは腹の虫をおさめて、一太は窓の外に視線を転じる。
そこからはちょうど校舎裏の、枯れることのない満年桜の薄紅色を見ることができた。花弁にさえぎられてその樹木の下の様子まではわからない。そこに誰かがいるような気がして目を細めた。
見通すことのできない、けれどその人の浮かべている表情だけはなぜか脳裏に浮かぶ。
――微笑。
満天の桜を背景に、とても綺麗なその一枚図が、なぜかちょっと空恐ろしいものであるように思えて、一太はそこから目をそらした。