伝説の木の下でハーレムを叫ぶ
周藤一太の精神状況は緊張の極みにあった。
中肉中背、髪は長くもなく短くもなく。ちょっと毛先を遊ばせているくらいのささやかな自己主張さの持ち主で、いわゆる十人並みといったところの平凡といえる外見は彼自身が選択したものだ。
光量子技術の確立によって生まれたもう一つの『現実』。
仮想現実を越えた、その光量子世界の最大の特徴は、ほとんど極大化された自由さにある。思春期には誰だって思い悩む、自分の容姿についてのあれこれ――そこでは、簡単にそうした悩みを払拭することができた。もちろん、それは同時に違う問題を生じる結果にもなったけれど。
心臓がドキドキして、口の中が乾いている。握り締めた手のひらにかいた汗が気持ち悪かった。現実と寸分違わない――ここだって現実なんだから、当たり前だ――汗をぬぐいたくて、しかしそのための身動きがとれなかったのは、目の前にまっすぐな視線をむける一人の女子生徒が立っていたから。
一太を見つめているのは、やはり中背の美人。
ただ美人というだけなら、そんなに珍しくはない。文字通り、いくらでもいる。ここでは誰だって自分の好きな容姿を選べるのだから。
ただし、あまりに細部のディテールに凝りすぎてエキセントリックな外見になってしまう人だって多いなかで、一太の前にいる相手はひどく自然な雰囲気をした人物だった。
背中のあたりで簡単にくくられた長い髪。可愛いというよりは、綺麗という大人びた表情。くっきりとした眉が特に印象的。薄く結ばれた唇が小さく開いて、凛とした声がいった。
「――それで」
声には威圧する響きもおもねる色もなかった。
相手が自分より年長者であることはもちろん一太は知っていて、それ以上に高校生らしからぬ落ち着きがある。許されるのなら、ずっと側で聞いていたいと思えた。
いきなり下級生に呼び出されたことも特に不審には感じていないようで、こういうシチュエーションに慣れているのかもしれなかった。
むしろ、慣れていないのは一太のほうで、
「周藤くん?」
「は、はいッ」
叱られたように背筋を伸ばす。女子生徒が困ったように笑った。
「そんなに緊張しないで。私をここに呼んだのはキミでしょ?」
「はい、すいませんっ。ごめんなさい!」
「……もう。それで、用件っていうのはなにかしら?」
しゃちほこばった応対にため息をつかれ、一太はますます緊張しながら、ここにくるまで何度も練習してきた台詞を口にする。
「――あの! 風凪先輩にお願いがあるんですが!」
「はい」
さぁっと、薄い風が吹いた。
場所は校舎裏の人気のない空間。それだけで十分にそれらしくあるが、さらにそこには一本の立派な巨木があって、ありふれた伝説が言い伝えられていたりする。
四季を問わずに咲く満年桜。
そこで告白して成立した二人は、云々――どこにでもあるような、ありふれた内容。
普段は一笑にふすようなそんな代物も、いざ自分が当人の立場にたてば、まさかそんなと思いつつも頭のどこかでは意識してしまう。
目線の位置は一太より少し下にある上級生が、少し上目になりながら見上げてきている。その頬は少し赤らんでいるようにも見えた。
自分が安っぽいドラマの登場人物になってしまったような感覚に背中を押され、
「僕の、ハーレムにはいってください!」
叫んだ。
「はい」
あっさりOKがでた。
沈黙。
「え?」
「ん?」
顔をみあわせて、お互いに変な表情になる。
「なぁに? 狐につままれたみたいな顔」
「いや。だって……先輩、ハーレムですよ?」
「ハーレムだね」
「ちゃんと意味、わかってます?」
「うん、わかってるよ」
当然のようにいわれ、一太のほうが言葉を失ってしまう。
自分から言ったにも関わらず、いったいどういうことだろうと相手の顔を見つめる。ドッキリかなにかかと思っていた。
だって、ハーレムだ。
あのハーレム。男なら誰だって一度は憧れるかもしれない、いろんな相手ときゃっきゃうふふ的なあれのことだ。現実に存在するかもあやしい、そんなものを初対面の相手に口走るのも異常だけれど、それを平然と了承するなんて意味がわからない。
風凪咲。高等部二年のその人が、ちょっと変わっているらしいということは一太も聞いていた。けれど、さすがにこれは予想外だった。
「キミ、変な人だね」
まさに一太のほうが口にしたい台詞を、その上級生が言った。くすくすと、
「自分から言い出したのにそんなにびっくりしないで」
「いや、でも」
「ロールプレイのことでしょ?」
茶目っけのある瞳でずばり言われてしまい、一太は黙って首をうなずかせた。
ロールプレイング――役割演技科目。光量子時代の訪れとともに様々な変革の起きた現代、学校教育でもっとも重要視されているのがその教科だった。
生徒は学生生活をおくりながら、それぞれの役割を与えられる。決められた期間のあいだ、生徒は与えられた役割を全うしなければならず、それに対する誠実さや成果で期末成績がはかられる。社会に出るまえに様々な立場を経験する、いわゆる実習教科の一つ。
与えられる役割は多岐にわたり、それはたとえば『生徒会長』という役職だったり、『なにかの部活に励むこと』なんてものだったりする。なかには『一日一善』とか、嘘か誠か『人間とはなにかという問いに答えを見つけなさい』なんて課題が出されたこともあるとか。そうした代物は生徒たちから『アタリ』『ハズレ』と表現されて恐れられていた。
今期の一太に与えられたものが、まさにそれ。
しかも――とびっきりの後者だった。
一太は胸ポケットからID手帳をとりだして、操作する。
在籍証明と個人ID。校則の閲覧や施設利用状態や行事の告知など、様々な通学ツールに繋がるそこから、やがてたどりついたページに、一太が今期の高校生活で演技しなければならない役割が表示されているのを相手に見せる。
『1-3 周藤一太への後期役割演技課題を、以下のとおりとする。【ハーレムをつくること】』
「ああ。これは、――すごいのにあたっちゃったね」
「はい……」
同情するように言われて、一太はがくりとうなだれた。
高等部におけるロールプレイング科目は、期末成績でとても重要視される。与えられた役割を好むと好まざると、言い渡されるものを演じきることで、その生徒が社会にでたときに責任をまっとうできるかどうかが判断されるからだった。
もちろん与えられた役割と本人の能力、あるいは資質に致命的な齟齬がでることだってある。だから、求められているものは必ずしも完璧な結果というわけではなかった。しかし、自分に可能な限り、役割を務め上げようとする意識だけは最後まで果たすべきだとしてある。
つまり一太は今期、少なくとも『ハーレムをつくる』為に努力しなければならないのだった。でなければ、期末査定で赤となって、待っているのは長期休暇中の補習づけの毎日ということになる。
だが、『ハーレム』だ。
いったいなにをどうすればいいのか見当もつかない。大昔のアラビアンナイトでもあるまいし。
途方にくれた一太は、ある噂を知って、藁にもすがる思いで一か八か行動にでたわけだが――
「うん、いいよ。手伝う」
あっけらかんとその上級生は言った。
それはまるで、ちょっと掃除を手伝ってほしいと同級生に頼まれただけのような気安さだった。
耳にした返事が空耳ではないとわかっても、やっぱりすぐには信じることができなくて、一太はまじまじと相手の表情を見つめる。言葉がちゃんと通じているのかとそんなことを不安に思い、それからもしかしたら化かされているのではと視線をおろす。上級生の細い腰元に、ふるふると揺れる尻尾の類は見えなかった。
深呼吸をひとつ、ふたつ。とりあえずなんとか自分の気分を落ち着かせ、
「すいません。こんなこと、自分から言いだしておいて。先輩のお言葉は、すごくありがたいんですけど。……なんで、手伝ってくれるんですか?」
そんなことを言い出してしまう始末だった。
「んー。面白そうっていうのもあるけど、わたしもね。ちょっとどうしようかなあって思ってたから」
言いながら、その上級生は制服の上から自分のID手帳を取り出して、いぶかしむ一太の目の前に広げてみせる。
そこには、彼女に与えられた今期の役割が示されていた。
『2-2 風凪咲への後期役割演技課題を、以下のとおりとする。【特定個人への奉仕活動】』
一太のように明らかな『ハズレ』というわけではない。しかし面倒そうな課題ではあった。奉仕するためには相手が必要になる。しかも、特定個人となると――
なにもそれに、『ハーレムをつくる』なんて難題を与えられた初対面の後輩を選ぶ必要はないはずだったし、疑問に思うことはいくつかあったけれど、一応は納得できたから、一太は考えてみる。
駄目もとでお願いしてみたら、まさかのOK。あまりに事が上手く運びすぎて、すぐそこに落とし穴があるんじゃないかという疑いはどうしたって拭いきれない。
けれど。
思いもがけない幸運を、ありえないだろうからって慎重になって断ってしまうような余裕は今の一太にはなかった。
例えそれが騙されていたとしても、それが目的のために一太がとった行動である以上、期末考査では+ポイントとして必ず評価される。役割演技科目において重要なのは結果でなく、あくまで結果に向かう姿勢なのだから。
悪意の欠片もうかがえない、素朴な笑みを浮かべた上級生を見つめて。その透明な表情になにか違和感のような、しこりじみたものを感じながら、一太はこくりとうなずいた。
「わかりました。――風凪先輩。僕の課題を、手伝ってもらえますか」
「咲、でいいよ。一太くん」
にこりと微笑んで、手を差し伸べてくる。
互いの課題遂行のための契約。その握手をして、柔らかい感触に一太がどきどきしていると、
「頑張ってね」
と咲が言った。
「はい。……まあ、ハーレムなんて無茶なあれだと思いますけど」
柔らかい微笑みのまま、ううんと首を振る。
「そうじゃなくて。ハーレムなんて、もちろんつくるのもだけど。そのあとが大変でしょう? だから――頑張って」
意味深な台詞の意味を、そのときの一太はまったく理解できずに。
無謀な挑戦はそういう風にはじまったのだった。