物語序章 第一版 8章
第八章 理の陰に生まれし策 ― 関ヶ原前夜 ―
1598年、戦乱の空気が再び濃くなり始めていた。
豊臣政権の影が揺らぎ、諸国ではどの大名がどちらにつくのかを探り合う。
その渦中で、ひとつの噂が流れ始める。
「武蔵の地に、不思議な戦を学ぶ小勢力がある。」
「指揮の合図は笛でも太鼓でもない、光と旗だけだとか。」
「一度崩されれば、どんな大軍でも立て直せぬ――。」
その噂の中心にいたのが、
葛城家の嫡男・忠明、そしてその背後にいる“年若き参謀”――明賢であった。
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不思議な訓練
屋敷の裏手、広い原野。
そこでは毎朝、家臣や従者が奇妙な訓練をしていた。
整然と並ぶ数十人の兵が、合図も掛け声もなく、
旗の動きと光の反射だけで一斉に動き出す。
丘の上から明賢が望遠鏡を覗く。
清助がその隣で、木製の信号塔に設置した反射板を操作する。
「合図、左翼後退、右翼包囲。」
「了解。」
兵たちは言葉を交わさず、旗の動きだけで陣形を変えた。
瞬く間に敵役の隊を囲み込み、中央を突き崩す。
「よし、3分42秒。前回より40秒早いな。」
「兵の動きも慣れてきています。」
明賢はデータ板に記録をつけながら、次の指示を出す。
「午後は“虚陣”の訓練を行う。敵を見せかけの包囲で誘い込み、
一点突破で撃退する方法だ。」
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武士たちのざわめき
この異様な訓練はすぐに周囲の領にも知れ渡った。
通りかかる商人たちは、旗と光で兵を動かす光景に足を止め、
帰ると人々にこう話した。
「葛城の屋敷では、声を出さずに戦をするそうな。」
「まるで未来の戦を見ているようだ。」
他家の武士たちは訝しげに言った。
「小童の戯れに過ぎん。」
「いや、訓練の精度が尋常でない。
あの兵ら、まるでひとつの体のように動く。」
噂は次第に形を変え、「武蔵に“奇策の少年”がいる」とまで言われるようになった。
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明賢の狙い
屋敷の書院。
夜、灯をともして明賢と清助が戦術図を広げていた。
「戦の鍵は、声ではなく“情報”だ。
音は届かぬ、しかし光なら遠くまで伝えられる。」
「旗と反射光による通信……この方式が広まれば、戦は変わりますね。」
「問題は、誰にこれを見せるかだ。」
「家康公に直接お見せするのはまだ早いですか?」
「ああ、まだだ。いま見せれば、ただの夢想と思われる。
実際に成果を出してから、家康の耳に届くよう仕向ける。」
明賢は淡々と、まるで長年の戦略家のように語った。
その横顔を清助は黙って見つめた。
「明賢様……やはり、あなたはただの人ではありませんね。」
「私はただ、“国を造る者”だ。」
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父の部隊の強化
父は依然として徳川方の中堅武将として動いていた。
しかし、その部隊の統制は明賢の助言で一変した。
•兵の配置に三段階の陣形変化を導入
•通信手段を光信号と旗による多重伝達に変更
•食糧補給を記録式にし、無駄を削減
この方式により、父の部隊は極めて効率的に動くようになり、
他の将から「葛城隊は奇跡のように整う」と噂されるようになった。
「……明賢、そなたの考えは本当に戦を変える。」
「父上、まだ始まりにすぎません。」
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密偵の目
だが、その“奇妙な戦術”は敵にも見られていた。
ある夜、密偵が暗闇の中から覗いていた。
光の信号が点滅し、兵が瞬時に動く。
「これは……何をしているのだ。」
「声も出さずに動くとは……。」
やがてその報告は、家康陣営の重臣・本多正信のもとへ届く。
「武蔵の地に、不思議な軍学を修めた若者がいると。」
「若者? 名は?」
「葛城明賢。齢十歳に満たぬと。」
本多は目を細め、静かに言った。
「……面白い。あの家康公が好みそうな才だ。」
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明賢の胸中
夜、明賢は机の上で筆を走らせていた。
ノートには「政体構想」「軍制」「教育布令」の文字が並ぶ。
「家康に近づくには、“戦”を通すしかない。
理で勝ち、理で治める――それを見せる。」
明賢は視線を上げ、遠くの夜空を見た。
関ヶ原へと続く風が、静かに屋敷を揺らしていた。
影の勝利 ― 理の戦場 ―
1599年、戦国の嵐が次第に強まる中、
武蔵の一角で奇妙な“軍”が次々と模擬戦を制していた。
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疑似戦闘の開始
父の提案により、葛城家は近隣の友軍――同じく徳川方に属する松平家の支隊と、
合同演習という名の疑似戦闘を行うことになった。
表向きは訓練だったが、実際には「どちらの戦術が優れているか」を競う試験的な戦。
双方三百の兵。丘陵地と森を挟んで布陣。
松平側は従来の号令と太鼓を用い、
葛城側は――光と旗、そして沈黙だけ。
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静寂の陣
午前の霧が晴れる頃、戦が始まった。
太鼓の音が響く。松平隊が突撃を開始。
だが、葛城隊は動かない。静かに陣を組み替える。
丘の上の信号塔が太陽を反射させ、
明賢が作った信号符が光る。
一瞬後、両翼が同時に開く。
敵はそれを「退却」と見誤り、中央突破を図る――そこに、伏せていた小隊が突撃。
まるで見えない糸に操られたように、敵陣が崩壊した。
「何だ、どうして動きを読まれた!」
「伝令も出しておらぬのに、なぜ統率が保たれる!」
松平の将は叫び、
戦はわずか一刻足らずで決した。
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無敗の記録
それから一月の間に、葛城家は三度の疑似戦闘を行い、すべて勝利を収めた。
しかも自軍の損害は常に最小。
兵は疲弊せず、指揮系統も乱れない。
「あの隊はまるで人ではなく、機械のように動く。」
「合図も声も要らぬ軍など、聞いたことがない。」
この噂はまたたく間に家康陣営の耳に届いた。
「武蔵の葛城家、奇策にて連戦連勝」と。
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家康の部下、動く
ある日、父のもとに一通の書状が届く。
封には葵の紋。
送り主は――徳川家康の側近にして参謀、本多正信。
『葛城家にて行われる新式訓練、
殿の命により見聞のため使者を派す。
近日中に視察を許されたい。』
父は驚き、明賢の部屋へ向かった。
「明賢、ついに家康公の目に留まったぞ。」
「……早かったな。想定より一年早い。」
「どうする? 見せてよいのか。」
「もちろん。隠しては意味がない。
ただし、“理”の全ては明かさぬように。」
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視察の日
数日後、三騎の馬が屋敷に現れた。
先頭に立つのは徳川家旗本・井伊直政の腹心、鳥居重成。
「視察」という名目だったが、その目は真剣そのものだった。
訓練場にはすでに兵が整列している。
明賢はいつものように小高い丘の上に立ち、指揮を執る。
清助は信号塔に立ち、反射板を構えた。
「始めよ。」
信号が光り、兵たちが一糸乱れぬ動きで進軍する。
斥候が偽装退却を誘い、伏兵が包囲する。
旗一本で陣が回転し、敵を三方から押し潰す。
見ていた鳥居は呆然とした。
「……これは、戦ではない。計算だ。」
彼はすぐに駿府へ報告書を送った。
「武蔵国葛城家の若子、明賢。
光と理をもって兵を操り、三度の模擬戦に無敗。
その指揮、戦国の常識を超えたり。」
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明賢の静かな計算
訓練が終わり、清助が丘へ上がってきた。
「見事でした、明賢様。これで確実に家康公の目に入ります。」
「ああ、だが肝心なのはこれからだ。
ただの噂では終わらせぬ。正式な“信”を得る。」
「信、ですか?」
「そうだ。家康が私を“使える”と思えば、幕を開ける。」
明賢は地図を広げた。
そこには関ヶ原、近江、そして江戸の名が記されている。
「次は、戦場で理を証明する時だ。」
来訪
ある日、屋敷の門前に葵の紋を掲げた一行が現れた。
父と兄が玄関で出迎える。
馬を下りた本多正信は、穏やかな表情のまま、
しかし目の奥には鋭い光を宿していた。
「噂はすでに殿の耳にも届いておる。
光と旗で軍を操る少年がいると。」
父は頭を下げ、静かに応えた。
「はい……それが、我が次男・明賢にございます。」
正信は眉をわずかに上げた。
「十にも満たぬ子と聞いたが、まことか。」
「ええ、しかし……この子の理は、我らの及ぶところではございませぬ。」
正信は微笑し、扇を閉じると一歩前へ出た。
「では、その“理の子”に会わせてもらおう。」




