物語序章 第一版 78章
― 汎名衛生局 ―
雨季のぬかるみが去っても、
湿り気は大地の奥深くに残り続けていた。
空気
は重く、川のほとりでは蚊の群れが渦を巻いていた。
労働者たちは日々泥と汗にまみれながら働き、
やがて、ひとり、またひとりと体調を崩していった。
「……昨日の夜から高熱だ。起き上がれない。」
宿舎の隅で、作業員が呻くように言う。
仲間が慌てて仮設診療所へ運ぶと、
白衣を着た衛生兵がすぐに駆け寄った。
「体温、四十度……脈も速い。すぐに隔離を!」
「はっ!」
周囲の者が声を揃え、患者を担架に乗せる。
汎名現地では、帝国大学医学部から派遣された医官たちが
明賢の指示のもと「衛生局」を設立していた。
マラリアや黄熱病、破傷風といった未知の病に備え、
予防と隔離、そして衛生教育を同時に行う。
診療所の裏手には、井戸と貯水タンク、
そして現地で作った簡易的な濾過装置が設けられている。
水は煮沸し、炊事場では消毒用のアルコールが必ず置かれた。
トイレは運河の流域とは別の方向に掘られ、
排水が工事用水に混ざらぬように設計されている。
医官の一人、帝大卒の田所医師は、
日本から送られたワクチンと薬品を前に深いため息をついた。
「……数が足りない。雨季で船が遅れたか。」
隣で助手が心配そうに問う。
「先生、このままでは――」
「わかっている。だが、絶望するな。
我々には衛生兵がいる。」
その言葉の通り、衛生兵たちは昼夜問わず動き続けていた。
彼らは軍の医療課程を修了した者たちであり、
医師の指示を受け、現場で応急処置と消毒、
そして疫病の感染経路の記録を担った。
蚊の発生源となる溜まり水を排除するため、
彼らは毎朝日の出と共に沼地を歩き、油を撒く。
「今日も蚊の巣を潰すぞ! 一匹たりとも残すな!」
「了解!」
日差しの下、汗と泥にまみれながらも声が飛ぶ。
掘削機の音の合間に、笑い声さえ混じっていた。
診療所の外では、衛生兵のひとりが小さな講義を開いていた。
「いいか、みんな! この病気は“悪い空気”じゃない。
蚊に刺されるのが原因だ。
肌を出すな、寝るときは必ずこの布を使え!」
そう言って、彼は蚊帳を高く掲げる。
労働者たちは興味深そうに見つめ、
やがて頷きながら笑った。
「なるほどな、だから隊長のとこは誰も倒れねぇのか!」
「そうだ、我慢してでも布団で寝ろ!」
やがて、衛生兵たちの努力が功を奏し始めた。
発熱者の数は次第に減り、
隔離所から退院して現場へ戻る者が増えていく。
宿舎の掲示板には、
衛生局が発表した「清潔十訓」と題する紙が貼られた。
一、食前に手を洗うこと。
二、寝床の周囲に水溜まりを作らぬこと。
三、排水溝に足を入れぬこと。
四、発熱した者は即時報告せよ。
五、蚊帳を毎晩張ること。
六、飲み水を煮沸すること。
七、靴を履いて作業すること。
八、擦り傷は必ず洗い包帯せよ。
九、汚水を掘削場へ流すな。
十、仲間を見捨てるな。
「最後の一条は、明賢閣下の言葉だそうだ。」
医官がそう言うと、誰もが無言で頷いた。
汎名の空にはまだ湿気が残り、
時折スコールのような雨が降った。
だが、彼らの顔には以前のような不安の影はなかった。
衛生兵たちが笑顔で診療所の扉を開け放ち、
白衣を翻して言う。
「さあ、もう大丈夫だ。
汎名の運河も、人の命も、必ず繋いでみせる。」
――そうして、汎名の衛生局は
やがて外地初の「公衆衛生部隊」としての礎となっていった。
― 汎名運河開削再始動 ―
季節は巡り、重い雲と雨が遠ざかると、
空はようやく青を取り戻した。
ぬかるんでいた掘削地の土は乾き、
放置されていた重機たちが再び唸り声を上げる。
「油を差せ! 軸を確認しろ、止まるなよ!」
指揮官の声が響く。
雨季で中断していた工事が、いま再び動き出したのだ。
しかし、現場の士気は高かった。
衛生兵たちの働きにより、労働者の健康被害は激減。
衛生局の設立は、まるでこの熱帯の大地そのものを
「人が住める場所」へと変えたようだった。
掘削班の手には泥が戻り、
測量班は再び水平器を覗き込みながら
「この線なら水門を置ける」と報告を繰り返す。
やがて、日本本土の国土交通省へ、
汎名から銅線通信による長報が届いた。
『雨季明け、工事再開可能。
水位変化が激しく、現行の鋼鉄製水門では耐久に難。
新型の鋼鉄製水門の設計と製造を要請す。』
報告を受けた明賢は、
東京郊外の国立鉄鋼開発工廠へ直ちに出向いた。
広い工場の中央には、
巨大な鋼板を組み合わせるためのリベット機が鳴り響く。
「強度試験の結果は?」
「降伏点は予定値を上回っています。
ただ、潮風による腐食が心配です。」
「ならば塗装を三層にしろ。
外面は酸化防止、内側には防錆樹脂を使うんだ。」
工場の技師たちはうなずき、
即座に設計図を修正していく。
明賢は設計図の端に小さく書き込んだ。
『この水門は海を隔て、人を繋ぐ門なり。』
製造は昼夜を問わず進められた。
作業員たちは溶接火花の光に照らされ、
金属の響きが夜の東京湾にこだました。
鋼板はJIS規格に基づく厚みで製造され、
水圧に耐えうる強固な骨組みを内側に仕込む。
構造用鋼から打ち出されたその門は、
高さ十二メートル、幅三十メートル。
完成した時、工場中から拍手が湧き起こった。
「これが……運河を繋ぐ“心臓”だな。」
「ここから世界が流れ出すんだ。」
鋼鉄水門は分割式に設計され、
部品ごとにクレーンで慎重に運び出された。
造船所では、すでに大型輸送船が準備を整えている。
船倉の中には補給物資、油、冷却装置、
そして衛生局へ送る新しい薬品も積み込まれた。
東京湾沿岸の埠頭には、
技師や作業員、官僚、軍人、学生までが集まっていた。
その中央に立つ明賢が静かに言う。
「この門は、人の努力が生んだ証だ。
海を越えた友が待っている。
我らの手で“汎名の水門”を完成させよう。」
汽笛が響いた。
鋼鉄の塊を積んだ巨大な輸送船が、
ゆっくりと岸を離れ、
南へ、南へと進み出す。
その甲板の上では、
若い技師が空を見上げながら小さく呟いた。
「今度こそ、世界の海を繋ぐんだな……。」
そして日本から汎名へ、
再び希望と鋼鉄を乗せた船団が旅立っていった。
― 汎名の門、静かなる着任 ―
数週間の航海を経て、
鋼鉄の巨体を積んだ輸送船団は、ついに汎名の海へと入った。
空は南国の蒼に染まり、湿った風が甲板を撫でる。
港には既に先遣隊が整備した仮設の桟橋が伸び、
陸地の奥では掘削作業を続ける重機の音が響いていた。
「明賢様、予定より三日早くの到着です。」
通信兵が報告すると、
明賢は船上から無線越しに短く答えた。
「すぐに陸揚げを始めろ。塩害を受ける前に全て組み上げる。」
船倉の扉が開かれると、
内部の巨大な鋼鉄水門が南国の陽光を浴び、
まるで眠りから目を覚ました獣のように鈍く輝いた。
クレーンが唸りを上げ、
鎖がきしみ、鉄板の塊がゆっくりと宙へと浮かび上がる。
運河の入口付近には、
すでに基礎となる石組みと鉄筋コンクリートの枠が完成していた。
掘削班が整地した地盤に杭を打ち込み、
基礎構造を支える鋼製の支柱が林立している。
その中央に、門の土台が据えられる。
「水平確認、誤差一分以内!」
「リベット溶接班、第二接合部準備!」
指揮官の号令と同時に、
ハンマーの音と溶接の閃光が辺りを満たす。
地元民と日本兵、そして現地で訓練を受けた技師たちが
一糸乱れぬ動きで組み立てを進めていく。
清助塾の卒業生たちが設計を担当し、
大学の機械工学部出身者が監督として参加していた。
皆まだ若く、目の前の巨大な鉄の門を見上げるたびに
誇りと不安が胸の奥でせめぎ合った。
「本当に……この鉄の門が水を止められるんですかね?」
若い作業員が呟くと、監督が笑った。
「水を止めるんじゃない。未来を繋ぐんだよ。」
設置は一週間にも及んだ。
昼は灼熱、夜は熱帯の嵐が吹き荒れた。
それでも工事は一日も止まらなかった。
雨が降れば帆布で覆い、泥が流れればポンプで汲み出す。
作業員たちは黙々と、ただ一つの信念で鉄を組み上げた。
やがて、巨大な鋼鉄水門の両翼が運河の岸に立ち上がった。
空を裂くような姿は、まるで二頭の巨獣が向かい合うようで、
その間に、深く掘られた水路が静かに横たわっている。
最終日の夕暮れ、
最後のリベットが打ち込まれ、作業は完了した。
監督がそっと帽子を取り、
明賢が祝電を読み上げた。
『汎名の門、無事据え付け完了と聞いた。
海を隔てた努力に敬意を。
水はやがて、この国の息吹となる。』
作業員たちは黙って空を仰いだ。
沈みゆく太陽が、水門の鉄肌を黄金に染める。
その姿は、まるでこの大地に
“人が海を越えて繋がる”ことを告げるモニュメントのようだった。
遠くで汽笛が鳴る。
運河に、初めて「静寂の完成」が訪れた瞬間であった。




