物語序章 第一版 77章
汎名運河
南の海を渡って、再び汎名の港に白い輸送船団が姿を現した。
錆一つない船体の側面には「日本国建機」の文字が光っている。
積み荷には最新のブルドーザーやパワーショベル、ロードローラーなど――
かつて東京や大阪の都市建設を支えた名機たちが、今度は海を越えて新天地へやって来たのだった。
岸壁には、すでに先遣隊の隊員たちが整列していた。
汗をぬぐいながら、指揮官が敬礼する。
「ようこそ、汎名運河建設団へ。ついに始まりますよ。」
明賢の親書には、ただ一言こう記されていた。
“二つの海を繋げ。人と物資が世界を巡る時、我が国の未来もまた巡る。”
その言葉が、彼らの胸の奥で燃えていた。
陸揚げが始まる。
貨物艙の扉が開き、鉄の怪物たちが姿を現す。
日本国建機1号ブルドーザー「剛地-1」、
日本国建機3号パワーショベル「玄武-1」、
そしてロードローラー「龍圧-1」。
熱帯の湿った空気の中で、
黒い排気煙を上げながら、ゆっくりと甲板を降りる。
現地民たちは驚きの声を上げた。
まるで巨大な生き物が動き出したかのように見えたのだ。
「こいつらが……山を動かすんだな。」
「運河は、この機械たちが掘る。」
測量班が早速活動を開始する。
真新しいトランシーバーで互いに連絡を取りながら、
銅線で有線通信を確保し、
地形データを手書きの地図に書き込んでいく。
汎名の湿地は想像以上に手強かった。
雨季になると膝まで泥に沈み、
測量機器が傾いて読めなくなる。
それでも、隊員たちは冗談を言い合いながら進む。
「なあ、今夜はまた湿気で寝袋がカエル臭くなるぞ。」
「明日はもっと掘りやすい土を頼む。」
やがて運河予定地の地形が完全に測定されると、
重機隊が動き出した。
最初に行われたのは、ジャングルの伐採と表層土の除去だった。
ブルドーザーが巨木を押し倒し、
パワーショベルが根を掘り返していく。
数時間で、今まで森だった場所が一面の茶色い大地へと変わった。
「……これが、海を繋ぐ一歩だ。」
副監督の西郷がつぶやいた。
背後では、ロードローラーが土を固めている。
現地の人々もまた、その光景を見守っていた。
彼らの中から希望者を募り、訓練の末に多くが作業員として採用された。
日本語を学び、機械の扱いを覚え、汗を流す。
それは、国境を越えた共同作業だった。
夕刻、湿った風が吹く。
空は金色に染まり、工事の音が止む。
ブルドーザーの影が長く伸び、
泥に映る夕日がゆっくりと沈んでいった。
「まだ先は長いな……。」
「だが、確実に進んでいる。」
遠くで雷鳴が響く。
雨季の訪れを告げる音だった。
それでも彼らは動きを止めない。
ここに、太平洋と大西洋を結ぶ――
日本国による運河の夢、汎名運河開削計画が、静かに動き出したのである。
陽が昇ると同時に、湿り気を帯びた空気が汎名の密林を包み込んだ。
遠くでエンジンの音が唸り、泥に沈んだ鉄の履帯がゆっくりと動き出す。
運河開削の本工事が、ついに始まったのだ。
「本日の掘削区間、幅三十メートル。標高差は二メートル。慎重にいけ!」
指揮官の声が有線通信を通じて響く。
銅線の先には、ブルドーザーとパワーショベルの整列した列。
それぞれの運転士が汗だくの顔で返事をした。
大地を揺るがす轟音が響く。
刃のようなショベルが赤土をえぐり取り、
ロードローラーがその後を固めていく。
短い雨が降っても、すぐに蒸気となって消える。
この土地の空気は重く、粘り気を帯びている。
やがて、細い溝のようだった掘削地は、
ゆるやかな蛇のように山の裾を這い、遠くのガトゥン湖へと繋がっていった。
ガトゥン湖――
その巨大な湖面は太陽の光を受けて鏡のように輝き、
日本の技師たちはこの湖を「運河の心臓」と呼んだ。
湖の水位差を利用して、大西洋と太平洋を繋ぐ水の階段を作る。
それが、彼らが挑む“水門”の試験設計である。
「問題は水圧だな……。」
設計主任の榊が、手帳に図面を走らせながら呟く。
隣では、帝国大学出身の若き技師が頷いた。
「はい。木造では到底持ちません。鋼鉄製の閘門を試作すべきです。」
「鋼鉄の板をリベットや溶接で組む……東京湾で作った造船の技術を応用できるかもしれんな。」
現場では、さっそく水門模型の試験が始まった。
長さ10メートルほどの簡易模型にガトゥン湖の水を引き込み、
小型の鉄製閘門を設けて水位の制御を試す。
「よし、水門閉鎖!」
掛け声とともに、鉄製のゲートが降ろされる。
数秒ののち、湖側からじわりと水圧が押し寄せる。
鉄板が軋み、鋲がきしんだ。
だが、なんとか持ちこたえた。
「……成功だ。」
静かな声が漏れた。
その瞬間、周囲の技術者たちは息を詰めて見つめ、
次の瞬間、どっと歓声が上がった。
「これなら行ける!」
「鋼鉄で作れば、何倍もの圧力にも耐えられる!」
その夜、灯りの下で榊は報告書を書いた。
――初期水門試験、良好。
――構造は鋼製リベット溶接複合方式、将来的には完全溶接式に移行予定。
――初期水路幅30メートル、最終計画70メートル。
紙の端には、にじんだ汗の跡があった。
それでも、誰一人疲れを口にしなかった。
この地に日本の手で、海と海を結ぶ道を刻む。
それが、国の誇りであり、人々の夢でもあった。
やがて、夜の静けさを切り裂くように、
遠くからパワーショベルのエンジン音が再び響く。
工事は止まらない。
星明かりの下、重機のライトが泥を照らし続けた。
――汎名運河、掘削開始。
その記録は、日本国の歴史に刻まれる新たな一行となった。
湿った風が吹き抜けた。
空の色は朝から濃い鉛色をしており、
地平線の向こうで稲光が走るのが見えた。
「……雨季が来たな。」
現場監督の声が低く響く。
掘削区間の谷底は、すでにぬかるみ始めていた。
昨日まで乾いていた土が、一夜にして粘土のように変わり、
重機の履帯は沈み込み、うなり声を上げて動かなくなった。
ブルドーザーの運転士が無線機を握り、焦った声で報告する。
「指揮所、こちら第二区画。掘削機、泥に沈み動けません!」
「わかった、クレーンを回せ。ロープは新品を使え、切れるぞ!」
声を張り上げた監督の足元にも、茶色い水が波紋を描いた。
午後になると、空が割れたような雨が落ちてきた。
視界は十メートルも先が見えず、
雨粒はまるで槍のように打ちつける。
工事は一時中断となり、作業員たちは仮設小屋の屋根の下へ避難した。
鉄の屋根を叩く雨音が、轟音のように響く。
誰もが黙り込み、雨が止むのを待つしかなかった。
「……まるで天が怒ってるみてぇだな。」
若い作業員の一人が呟く。
隣で年配の監督が、湿った煙草を指で転がしながら笑った。
「怒っちゃいねぇさ。ただ、俺たちがこの土地に慣れてねぇだけだ。」
「だけど、これじゃ掘削どころじゃありませんよ。」
「そうだな……だが、この地を貫くまで諦めるな。雨季は長くても、必ず晴れる。」
その言葉に、若者は静かに頷いた。
翌日、雨が少し弱まったのを見計らって作業が再開された。
作業員たちは膝まで泥に浸かりながら、排水ポンプを設置する。
発電機の音が轟き、排水ホースから泥水が勢いよく吐き出される。
ポンプを監視していた帝国大学出身の技術者が、
通信線を通して本部へ報告を送った。
「……排水能力は想定の三割増。耐久性にも問題なし。
だが、電力供給が不安定です。予備発電機の配備を要請します。」
夜には雨脚がさらに強まり、
仮設宿舎の屋根を叩く音が、まるで太鼓のように鳴り続けた。
明賢が日本から送った新型の防水布で覆ったはずの屋根も、
縫い目から少しずつ水が滴り落ちる。
作業員たちは濡れた服のまま眠り、
翌朝、再び泥の中へ戻っていった。
それでも、彼らは笑っていた。
「今日も泥まみれだな。」
「おう、もう泥が俺の制服みてぇなもんだ。」
誰かが冗談を言うたびに、
疲れ切った仲間たちの間に、小さな笑いが広がった。
数週間が経ち、ようやく雨が弱まり始めた。
空の色が少し明るくなり、久しぶりに太陽が顔を出す。
掘削現場には再び重機の音が戻り、
積み上げられた土砂の山が輝きを取り戻した。
技術者の一人が泥にまみれた地図を広げ、静かに言った。
「……あと三キロで湖に繋がる。
この雨季を越えたなら、きっと行けます。」
その言葉に、誰もが頷いた。
汎名の雨は、確かに過酷だった。
しかし、この雨を耐えた者たちの絆は、
運河を貫く鋼鉄のように強く結ばれていった。
――季節は変わる。
泥に沈んだ重機は再び息を吹き返し、
汎名の地には、日本人たちの意志が刻まれ続けていった。




