物語序章 第一版 66章
第六十六章 最終到達点
明賢は操舵室の窓越しに海を見つめていた。
ガラスに張りつく水滴を拭いながら、独り言のように呟く。
「我らの旅路は、時の外を進んでいるようだな……」
横に立つ副官の遠山が笑う。
「ですが、閣下。このエンジンがある限り、風に負けることはございません。」
明賢は頷き、静かに地図を開いた。
「ならば信じよう。人の作った機械の力を。」
燃料の消費は計算どおり、
復水器で精製された水は飲料にも使われ、乗員の健康も保たれている。
航海は過酷であったが、艦隊は秩序を保っていた。
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やがて南極の氷が見えた。
青白い氷山が静かに浮かび、その間を縫うように艦隊が進む。
「温度、氷点下三度。風速二十五メートル。」
観測員が報告する。
明賢は双眼鏡を下ろし、氷の壁の向こうを見つめた。
「ここが世界の果てか……いや、我らの地図が続く限り、果てなど無い。」
氷山の影を抜けると、海の色がわずかに変わった。
灰から群青へ、そして深い藍へ。
冷たい風の中に、ほんのわずかに湿った暖かさが混じり始める。
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一週間後、航海士が報告を上げた。
「南緯四十五度を越えました。これより北上を開始します。」
その言葉に艦内にどよめきが起きた。
長く続いた寒冷の海を抜けたのだ。
空には鳥の群れが現れ、海面には魚影が見え始める。
空気はやや重く、潮の香りに混じって湿った土の匂いがした。
「……これが、熱帯へ向かう風か。」
甲板に立った勘十郎が呟く。
彼の頬を撫でる風は、かすかに生温い。
船の壁には結露がつき、乗員たちは上着を脱ぎ始めた。
空の色が変わっていく。灰から青、青から黄金へ。
太陽の光が強くなり、海は光を弾き返すように輝いた。
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航海は順調に進みつつも、油断はできなかった。
エンジンの熱管理、燃料の均等分配、航路の確認。
六分儀と磁針を頼りに位置を割り出す作業が続く。
「赤道はもうすぐだ」と誰かが言うと、
甲板では誰ともなく笑い声が上がった。
夜、星空の下。
明賢は航海日誌を開き、静かに記した。
>『我ら、南大陸を巡り、北へ向かう。
> 空の星が輝きを増し、海の色が変わりつつある。
> ここから先は、熱と生命の地。
> 我らはアマゾンを目指す。人の未踏の森、その源を探るために。』
波は穏やかになり、夜風がぬるく肌を撫でた。
長い航海の果てに、艦隊はゆっくりと北上を続け、
やがて水平線の向こうに、濃い緑の雲のような影――
アマゾンの大地の兆しを、初めて目にするのだった。
南米大陸の東岸が見えたのは、出航から五ヶ月目の夕刻だった。
陽炎のように揺れる地平線の向こうに、黒々とした樹海が広がっている。
空気は重く、湿っていて、鼻をつく甘い香りが混じっていた。
海面には流木や草の切れ端が浮かび、すでにアマゾン川の流れが海に注いでいるのがわかる。
「……これがアマゾンか」
明賢は甲板から望遠鏡を覗きながら呟いた。
川の口は巨大な扇のように広がり、どこが本流なのか見分けがつかない。
水は濁っていて、流れが遅い。だが、確かに淡水の匂いがした。
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艦隊はゆっくりとアマゾン川の河口へと進入した。
舵をとる者も計測士も全員、汗にまみれていた。
「温度三十五度、湿度九十。機関室、冷却に注意を!」
蒸気のような熱気が艦内にこもり、冷却水が温まりすぎる。
エンジン担当の黒木が汗を拭いながら叫んだ。
「こんな湿気じゃ、ピストンが泣いてやがる!」
それでも艦は前へ進む。
左右には壁のような木々――幹から根が水面に伸び、鳥や猿の鳴き声がこだまする。
時折、水面を何かが跳ねた。魚か、あるいは……。
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やがて、艦首の見張りが叫んだ。
「水深、急に浅くなります!」
測深索を垂らすと、数メートルしかない。
艦長は即座に命じた。
「停船! これ以上は無理だな。ここから先は舟艇で行こう。」
明賢はうなずき、命令を下す。
「上陸用舟艇と小型ボートを出せ。工兵と偵察班を先に。
だが陸に拠点は作らん。この艦そのものを前線基地とする。」
補給艦の甲板では、上陸用舟艇が次々とクレーンで降ろされていく。
小さなボートには燃料缶と食料、水、そして通信機器が積まれていた。
エンジンを低く唸らせながら、舟艇はゆっくりと褐色の川面へ降りていく。
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夜が近づく。
空は深い紫に染まり、樹海の向こうで無数の虫が鳴き始めた。
湿気が肌にまとわりつき、遠くで雷鳴が響く。
艦の上では電灯がともり、薄い光が川面を照らす。
「この川の奥に、ゴムの森があるというが……」
誰かがつぶやいた。
明賢は答えず、ただゆっくりと首を振った。
「焦るな。今日からここが我らの前線だ。」
艦の甲板には仮設の観測台と通信設備が設置され、
周囲の水流、風向き、気温が記録されていく。
船は静かに揺れ、エンジンの熱がまだ甲板に残っていた。
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夜、船員たちは交代で甲板に立ち、周囲の音を聞いていた。
木々のざわめき、見たこともない動物の声。
暗闇の奥から何かが川を渡る音がした。
「……誰か、いるのか?」と警戒兵が小声で呟く。
しかし、闇の向こうにはただ濃密な湿気と、名も知らぬ生の気配があるだけだった。
アマゾン――世界でもっとも深い森。
この日、日本艦隊はその門の前に、静かに錨を下ろした。
夜が明けると、川面は白い霧に覆われていた。
陽光が差し込むたびに霧の粒がきらめき、森の奥からは鳥の声が幾重にも重なって響いてくる。
艦の甲板では、朝靄の中を舟艇が次々と降ろされていた。
今日から本格的なアマゾン調査が始まる。
目標はただ一つ――パラゴムノキの発見と、その種子の採取である。
明賢は航海帽のつばを軽く上げながら、調査隊長の田嶋に言った。
「焦るな。森は人を飲む。半日歩いても進めぬことがある。
戻る道を必ず記録せよ。方位磁石を見失えば、生きて帰れん。」
田嶋は力強くうなずいた。「心得ております。」
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上陸した調査隊は十数名。
工兵、植物学者、測量士、そして護衛の兵士。
森に入った瞬間、全員の頬に熱気がまとわりつく。
葉の裏からは水滴が滴り、足元の土はぬかるんでいた。
「まるで湯気の中を歩いてるみたいだな……」と若い兵が息を吐く。
植物学者の堀口が手帳を開きながら答えた。
「これが熱帯というものだ。見ろ、この葉の形。おそらく近縁種だ。」
木々の間には、太く長い根が地表に張り巡らされ、まるで地面そのものが呼吸しているかのようだった。
時折、木の幹を刃物で切りつけては白い樹液を確かめる。
「これは違うな。ラテックスの匂いが薄い。」
「次の林を見よう。」
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昼過ぎ、陽が真上に昇るころ、森の奥で堀口が叫んだ。
「見ろ、これだ! 樹皮が灰褐色、葉は三枚一組――間違いない、パラゴムノキだ!」
周囲にいた兵士たちが息を呑む。
一本、二本ではない。林の奥へ奥へと、何十本も立ち並んでいた。
陽光が葉の隙間から差し込み、白い樹液がきらりと光る。
明賢が手を伸ばし、指先で樹液をすくう。
ねっとりとした粘り。鼻を近づけると独特のゴムの匂いがする。
「……これで、日本の工業が息を吹き返す。」
呟きながら、彼は採取員たちに指示を出した。
「種子を一つ残らず拾え。熟していないものも全てだ。
船に戻り次第、乾燥庫を作って保管する。」
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午後には、布袋や木箱に詰められた種子が舟艇へと運ばれ始めた。
工兵たちは仮設の防湿倉庫を艦内に作り、通風機を回し続けた。
湿気に弱い種子を守るため、船内の温度管理は徹底される。
「この森の湿度をそのまま閉じ込めたら全滅だ。乾かせ、急げ!」
作業員たちは汗を流しながら、次々と木箱を運び込む。
その夜、艦上では簡素な祝宴が開かれた。
保存食の米と干し肉、そして艦の製氷機で冷やした果実水が配られる。
甲板に座った兵士の一人が、遠くの闇を見ながら言った。
「こんな森の奥に、世界を変える木が眠っていたとはな。」
明賢は静かに答える。
「森は昔から、神が作った倉庫だ。人が正しく使えば、誰も傷つかぬ。」




