表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/156

物語序章 第一版 65章

極地航海


 汎名を出航してから数十日。

 艦隊は静かに太平洋の南を目指して進んでいた。

 全艦に搭載されたディーゼルエンジンが、低く腹に響くような重い律動を刻む。

 煙を上げることもなく、燃焼の匂いを潮風に紛らせながら、鋼の船腹は確かに南へと向かっていた。


 船内は整然としていた。

 機関区では、機関兵たちが一定間隔で計器を確認し、温度と油圧を記録する。

 「燃料圧安定、冷却水流量よし。復水器の真空維持、正常。」

 整備長が報告すると、艦橋の明賢は無言で頷いた。

 飲料水用の復水器は、エンジンの排熱を利用して海水を蒸留する仕組みだ。

 過酷な航海の中、これが兵たちの命綱である。



 日々の暮らしは規律に満ちていた。

 朝は汽笛とともに始まり、甲板では清掃と見張りの交代が行われる。

 昼には航法班が六分儀を持って太陽を測り、位置を記録。夜は航海日誌を清書する。

 その合間に機関兵はオイル交換を行い、炊事班は保存食を湯煮して兵へ配る。

 「今日のスープはうまいぞ!」

 「塩気が強いのは船の味さ。」

 そんな笑い声が波間に混じり、夜になると発電機の灯が柔らかく船体を照らした。


 赤道を越えるころ、気温はさらに上昇した。

 艦内の温度計は連日三十五度を超え、湿度は体にまとわりつくようだった。

 機関室ではエンジンの熱気と油の匂いが入り混じり、兵たちは汗に塗れて作業を続けた。

 それでも誰一人として弱音を吐かない。

 「汗は水の節約だと思え、捨てるな。」

 整備長のその一言が、いつしか艦内の合言葉となっていた。



 航路が南へ傾くにつれ、空の色がゆっくりと変わっていった。

 熱帯の陽は次第に和らぎ、風には涼しさが混じり始めた。

 甲板の上では、兵たちが袖をまくって笑いながら潮風を浴びていた。

 夜、星が瞬く。

 空には見慣れぬ星座が浮かび、観測班がそれを記録するたび、彼らは知らぬ世界へ踏み出している実感を覚えた。


 明賢は艦橋の窓辺に立ち、海図を広げながら副官へ言った。

 「この辺りが中南米の沿岸だ。そろそろ陸影が見えるだろう。」

 副官は頷き、双眼鏡を覗く。

 遠く、海面にぼんやりと黒い影が浮かんでいた。

 「陸です、殿下! 大陸です!」


 その瞬間、艦内にざわめきが広がった。

 長い航海の果てに、初めて見える南米大陸の陸影――それは誰もが胸に刻んだ光景となった。



 しかし、ここからが本当の試練であった。

 南へ進むほど、風は荒れ、波は重くなった。

 冷気を含んだ風が頬を切り、甲板の上には白い泡が吹きつける。

 船体は波間を押しのけながら進み、艦首が一瞬浮くたびに、鈍い音を立てて海面を叩いた。


 「主機、回転数二割下げ。波高十メートル。」

 「了解。各艦、相互距離二百維持。連絡信号送信。」

 艦隊司令部の通信士が、手際よく報告を重ねる。


 このあたりは、世界でも指折りの荒海――南緯五十度の“吠える海”だ。

 波は強く、風は気まぐれで、気温は一日で十度も変わる。

 それでも艦隊は整然と航行を続けた。

 機関の安定した鼓動が、兵たちの心を落ち着かせる。



 やがて風が凪ぎ、空が開けた。

 水平線の向こうに、白く霞む山影が見える。

 それは南米大陸の最南端――人々が「風凪岬ふうなぎみさき」と呼ぶ地であった。

 荒れ狂う海と氷を含んだ風、そして遥か遠くに漂う氷塊。

 兵たちはその光景に息を呑み、長い航海の果てに自らの勇気を確かめた。


 明賢は艦橋に立ち、静かに海図の端を撫でる。

 「ここが大陸の終わり。だが、我らにとっては始まりの地だ。」

 その声は、低く重く、機関の鼓動と共に艦内に響いた。


 補給艦では燃料の残量と整備状況が確認され、全艦への無線が送られる。

 「目標、副嶺島(フォークランド島)。全艦、航続態勢維持。」


 ディーゼルエンジンの音が再び一斉に唸りを上げ、

 艦隊は南の果てを回り込みながら、

 氷の海を切り裂いて進んでいった。


 ――彼らの眼前には、まだ見ぬ大地、副嶺島が待っていた。


 副嶺島――南の大陸をかすめるように浮かぶ、風と氷の島。

 そこへ艦隊がたどり着いたのは、日本出航からおよそ半年を過ぎた頃だった。

 水平線の彼方には、濃い灰色の雲と低く垂れこめた雪の帳が広がっている。

 荒波を割る艦首の先に、ようやく白く霞む陸地が見えたとき、艦内に歓声が上がった。

 「陸影確認! 副嶺島、北岸に入れる!」

 明賢は艦橋の窓越しに海図を見つめ、小さく頷いた。

 「よし……ここを、我らの南の拠点とする。」



 陸戦隊と技術士官を中心にした先遣隊が、木製ボートで浜に向かう。

 波打ち際には、氷を含んだ白い砂が広がり、風が唸りを上げて吹き抜けた。

 吐く息が白く散り、凍えるような冷気が肌を刺す。

 その先頭に立つのは、旧松前藩出身の隊長・杉浦勘十郎であった。


 「この風は懐かしいな……津軽の吹雪と変わらん。」

 勘十郎は薄く笑い、肩にかけた毛皮の外套を締め直した。

 彼は蝦夷地で生まれ育ち、冬の山に分け入り、流氷の海を知る男だった。

 氷雪の扱い、寒冷地での火の起こし方、風向きを読む勘――

 彼の知識はこの地で、命をつなぐ術となる。


 「よし、まずは風下の入り江を探せ。風が遮られる場所があるはずだ。」

 勘十郎の号令に、隊員たちは荷を背負って散開した。

 しばらく進むと、低い丘に囲まれた小湾を見つけた。

 そこには小さな淡水の流れがあり、風の影響も少ない。

 「ここを拠点地とする!」

 杭を打ち、測量班が地図を広げる。

 海から見えぬ位置に拠点を築くのが原則だ。



 最初に組み上げられたのは、木造の仮設倉庫と防風柵。

 造船所で積み込んでいた組立式の鉄骨フレームを組み立て、

 壁面を木板と帆布で覆う。内部には石炭ストーブが据え付けられ、

 煙突から薄い白煙が空へ立ち上った。

 夜には発電機を回し、灯りがともる。

 兵たちはその灯を見て、ここがようやく「地に足のついた場所」だと実感した。


 勘十郎は外に出て空を見上げた。

 「風は北西からだ。ここでは、風そのものが敵になる。」

 そう言って彼は雪を掴み、地面の凍結の深さを確かめた。

 測候班はその傍らで風速計を立て、温度と湿度を記録していく。

 「気温、摂氏マイナス三度。風速十二メートル。日照時間、短し。」

 報告の声が夜風に溶けていった。


翌日からは動植物の調査が始まった。

 科学調査班の一人が浜辺の草を摘み取り、スケッチブックに描き写す。

 「根が深い……風に耐えるために進化したんだな。」

 浜鳥の群れが風に流されるように飛び、沖にはアザラシが浮かんでいる。

 寒冷の地にも命はあり、それは確かに息づいていた。


 夜、勘十郎は焚き火の前で隊員に語った。

 「この島は過酷だ。だが、ここの風と地形を知れば、

  南の航路を守る砦にできる。北の蝦夷が我らを鍛えたように、

  ここもまた、次の世代を鍛える地となる。」


 明賢はその言葉に深く頷き、

 「副嶺島の観測データを本国へ送る。風、潮流、氷期の周期。

  ここが将来、南航路の守りの地となる。」

 と命じた。



 やがて拠点には小さな桟橋が設けられ、

 補給艦が定期的に燃料と物資を運ぶようになった。

 風を避ける入り江には木製の防波桟が伸び、

 「風凪観測所」と刻まれた銘板が掲げられた。


 白い雪に覆われた静かな湾。

 その片隅で灯る一つの明かりが、

 南極へと続く航路の第一歩を、確かに示していた。


 副嶺島を離れた艦隊は、再び南を目指した。

 灰色の空の下、波頭が白く砕け、冷たい海風が甲板を叩く。

 ディーゼルエンジンの低い唸りが、波音に混ざって絶え間なく響いている。

 燃料タンクは満載、補給艦には冷蔵食料と予備の発電機、そして修理用の部品が積み込まれていた。


 「目標、南緯五十度線。ここから先は風の地獄だ。」

 航海士が小声で呟いた。

 南大洋――世界でもっとも荒ぶる海。

 波は十メートルを越え、風速は三十メートルにも達する。

 それでも艦隊は怯まない。舵を切るたび、船体が軋み、甲板に飛沫が叩きつけられる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ