物語序章 第一版 65章
極地航海
汎名を出航してから数十日。
艦隊は静かに太平洋の南を目指して進んでいた。
全艦に搭載されたディーゼルエンジンが、低く腹に響くような重い律動を刻む。
煙を上げることもなく、燃焼の匂いを潮風に紛らせながら、鋼の船腹は確かに南へと向かっていた。
船内は整然としていた。
機関区では、機関兵たちが一定間隔で計器を確認し、温度と油圧を記録する。
「燃料圧安定、冷却水流量よし。復水器の真空維持、正常。」
整備長が報告すると、艦橋の明賢は無言で頷いた。
飲料水用の復水器は、エンジンの排熱を利用して海水を蒸留する仕組みだ。
過酷な航海の中、これが兵たちの命綱である。
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日々の暮らしは規律に満ちていた。
朝は汽笛とともに始まり、甲板では清掃と見張りの交代が行われる。
昼には航法班が六分儀を持って太陽を測り、位置を記録。夜は航海日誌を清書する。
その合間に機関兵はオイル交換を行い、炊事班は保存食を湯煮して兵へ配る。
「今日のスープはうまいぞ!」
「塩気が強いのは船の味さ。」
そんな笑い声が波間に混じり、夜になると発電機の灯が柔らかく船体を照らした。
赤道を越えるころ、気温はさらに上昇した。
艦内の温度計は連日三十五度を超え、湿度は体にまとわりつくようだった。
機関室ではエンジンの熱気と油の匂いが入り混じり、兵たちは汗に塗れて作業を続けた。
それでも誰一人として弱音を吐かない。
「汗は水の節約だと思え、捨てるな。」
整備長のその一言が、いつしか艦内の合言葉となっていた。
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航路が南へ傾くにつれ、空の色がゆっくりと変わっていった。
熱帯の陽は次第に和らぎ、風には涼しさが混じり始めた。
甲板の上では、兵たちが袖をまくって笑いながら潮風を浴びていた。
夜、星が瞬く。
空には見慣れぬ星座が浮かび、観測班がそれを記録するたび、彼らは知らぬ世界へ踏み出している実感を覚えた。
明賢は艦橋の窓辺に立ち、海図を広げながら副官へ言った。
「この辺りが中南米の沿岸だ。そろそろ陸影が見えるだろう。」
副官は頷き、双眼鏡を覗く。
遠く、海面にぼんやりと黒い影が浮かんでいた。
「陸です、殿下! 大陸です!」
その瞬間、艦内にざわめきが広がった。
長い航海の果てに、初めて見える南米大陸の陸影――それは誰もが胸に刻んだ光景となった。
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しかし、ここからが本当の試練であった。
南へ進むほど、風は荒れ、波は重くなった。
冷気を含んだ風が頬を切り、甲板の上には白い泡が吹きつける。
船体は波間を押しのけながら進み、艦首が一瞬浮くたびに、鈍い音を立てて海面を叩いた。
「主機、回転数二割下げ。波高十メートル。」
「了解。各艦、相互距離二百維持。連絡信号送信。」
艦隊司令部の通信士が、手際よく報告を重ねる。
このあたりは、世界でも指折りの荒海――南緯五十度の“吠える海”だ。
波は強く、風は気まぐれで、気温は一日で十度も変わる。
それでも艦隊は整然と航行を続けた。
機関の安定した鼓動が、兵たちの心を落ち着かせる。
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やがて風が凪ぎ、空が開けた。
水平線の向こうに、白く霞む山影が見える。
それは南米大陸の最南端――人々が「風凪岬」と呼ぶ地であった。
荒れ狂う海と氷を含んだ風、そして遥か遠くに漂う氷塊。
兵たちはその光景に息を呑み、長い航海の果てに自らの勇気を確かめた。
明賢は艦橋に立ち、静かに海図の端を撫でる。
「ここが大陸の終わり。だが、我らにとっては始まりの地だ。」
その声は、低く重く、機関の鼓動と共に艦内に響いた。
補給艦では燃料の残量と整備状況が確認され、全艦への無線が送られる。
「目標、副嶺島(フォークランド島)。全艦、航続態勢維持。」
ディーゼルエンジンの音が再び一斉に唸りを上げ、
艦隊は南の果てを回り込みながら、
氷の海を切り裂いて進んでいった。
――彼らの眼前には、まだ見ぬ大地、副嶺島が待っていた。
副嶺島――南の大陸をかすめるように浮かぶ、風と氷の島。
そこへ艦隊がたどり着いたのは、日本出航からおよそ半年を過ぎた頃だった。
水平線の彼方には、濃い灰色の雲と低く垂れこめた雪の帳が広がっている。
荒波を割る艦首の先に、ようやく白く霞む陸地が見えたとき、艦内に歓声が上がった。
「陸影確認! 副嶺島、北岸に入れる!」
明賢は艦橋の窓越しに海図を見つめ、小さく頷いた。
「よし……ここを、我らの南の拠点とする。」
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陸戦隊と技術士官を中心にした先遣隊が、木製ボートで浜に向かう。
波打ち際には、氷を含んだ白い砂が広がり、風が唸りを上げて吹き抜けた。
吐く息が白く散り、凍えるような冷気が肌を刺す。
その先頭に立つのは、旧松前藩出身の隊長・杉浦勘十郎であった。
「この風は懐かしいな……津軽の吹雪と変わらん。」
勘十郎は薄く笑い、肩にかけた毛皮の外套を締め直した。
彼は蝦夷地で生まれ育ち、冬の山に分け入り、流氷の海を知る男だった。
氷雪の扱い、寒冷地での火の起こし方、風向きを読む勘――
彼の知識はこの地で、命をつなぐ術となる。
「よし、まずは風下の入り江を探せ。風が遮られる場所があるはずだ。」
勘十郎の号令に、隊員たちは荷を背負って散開した。
しばらく進むと、低い丘に囲まれた小湾を見つけた。
そこには小さな淡水の流れがあり、風の影響も少ない。
「ここを拠点地とする!」
杭を打ち、測量班が地図を広げる。
海から見えぬ位置に拠点を築くのが原則だ。
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最初に組み上げられたのは、木造の仮設倉庫と防風柵。
造船所で積み込んでいた組立式の鉄骨フレームを組み立て、
壁面を木板と帆布で覆う。内部には石炭ストーブが据え付けられ、
煙突から薄い白煙が空へ立ち上った。
夜には発電機を回し、灯りがともる。
兵たちはその灯を見て、ここがようやく「地に足のついた場所」だと実感した。
勘十郎は外に出て空を見上げた。
「風は北西からだ。ここでは、風そのものが敵になる。」
そう言って彼は雪を掴み、地面の凍結の深さを確かめた。
測候班はその傍らで風速計を立て、温度と湿度を記録していく。
「気温、摂氏マイナス三度。風速十二メートル。日照時間、短し。」
報告の声が夜風に溶けていった。
翌日からは動植物の調査が始まった。
科学調査班の一人が浜辺の草を摘み取り、スケッチブックに描き写す。
「根が深い……風に耐えるために進化したんだな。」
浜鳥の群れが風に流されるように飛び、沖にはアザラシが浮かんでいる。
寒冷の地にも命はあり、それは確かに息づいていた。
夜、勘十郎は焚き火の前で隊員に語った。
「この島は過酷だ。だが、ここの風と地形を知れば、
南の航路を守る砦にできる。北の蝦夷が我らを鍛えたように、
ここもまた、次の世代を鍛える地となる。」
明賢はその言葉に深く頷き、
「副嶺島の観測データを本国へ送る。風、潮流、氷期の周期。
ここが将来、南航路の守りの地となる。」
と命じた。
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やがて拠点には小さな桟橋が設けられ、
補給艦が定期的に燃料と物資を運ぶようになった。
風を避ける入り江には木製の防波桟が伸び、
「風凪観測所」と刻まれた銘板が掲げられた。
白い雪に覆われた静かな湾。
その片隅で灯る一つの明かりが、
南極へと続く航路の第一歩を、確かに示していた。
副嶺島を離れた艦隊は、再び南を目指した。
灰色の空の下、波頭が白く砕け、冷たい海風が甲板を叩く。
ディーゼルエンジンの低い唸りが、波音に混ざって絶え間なく響いている。
燃料タンクは満載、補給艦には冷蔵食料と予備の発電機、そして修理用の部品が積み込まれていた。
「目標、南緯五十度線。ここから先は風の地獄だ。」
航海士が小声で呟いた。
南大洋――世界でもっとも荒ぶる海。
波は十メートルを越え、風速は三十メートルにも達する。
それでも艦隊は怯まない。舵を切るたび、船体が軋み、甲板に飛沫が叩きつけられる。




