物語序章 第一版 59章
海外遠征
海軍の準備
遠征計画の中心となったのは、瀬戸内海の造船工廠群である。
海軍は、長距離航海に耐える大型艦艇群の整備を急ピッチで進めた。
軍艦の主機関には、全て新開発のディーゼルエンジンが採用された。
燃焼効率が高く、遠洋航海においても燃料消費を抑えられる。
明賢の指示により、各艦の構造は分解整備が容易なモジュール化構造で設計され、
長旅の途中でも部品交換だけで修理できるようになっていた。
今回の艦隊は戦闘を目的としない。
そのため、弾薬庫は最小限に抑えられた。
代わりに艦内には冷凍・冷蔵設備、燃料タンク、医療室、補給倉庫が設けられ、
まるで“海に浮かぶ小さな国”のような構成となった。
補給艦の内部には、工業用冷凍室が幾層にも広がり、
新設の冷凍機が低く唸りを上げて稼働していた。
食料だけでなく、熱帯地域で傷みやすい薬品や標本も
この冷蔵区画で厳重に保管される。
「南方の湿度にやられてはすべてが台無しになる。
冷却が生き残りの鍵だ。」
と工廠長が言うと、明賢は深く頷いた。
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上陸と開拓のための装備
遠征隊が現地でただ植物を採取するだけではないことは、
計画書の時点で明らかだった。
現地で拠点を築く――それが今回の任務の真の目的である。
そのため、補給艦には特別製の上陸用舟艇が複数搭載された。
平底船に近い形状で、波打ち際でも荷物を降ろしやすく、
エンジンは同じく国産ディーゼル式。
また、陸上活動を支えるための発電機、簡易冷蔵設備、移動式工作台、
仮設住宅資材、鉄板道路敷設キットなども次々と積み込まれていく。
陸軍工兵隊は上陸後の拠点建設を想定し、
持ち込む工具や燃料、給水設備の確認を何度も繰り返した。
「木を切る音より、最初に響くのはエンジンの音だな」
と、ひとりの若い工兵が笑った。
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準備の影で
東京港の造船区画では、連日、遠征艦隊の資材が積み込まれていた。
補給艦の甲板には、クレーンが何十回も往復し、
木箱に詰められた資材が整然と積まれていく。
「発電機は確認したか?」
「冷凍庫は温度安定中。予備部品も完備です!」
「燃料タンク、最終確認。漏れなし!」
その声が交錯する港は、
夜になっても作業の手を止める者はいなかった。
照明塔の光が水面に反射し、
遠征の船団が静かにその輪郭を現し始めていた。
まだ、出航の日は決まっていない。
しかし、海はすでにその準備を感じ取っているかのように、
穏やかな波で船体を撫でていた。
――「海の向こうに、未来を掴みに行く。」
誰かがそう呟いた声が、
蒸気と潮の匂いに混じって夜空に消えた。
海を渡る者たち ― 遠征隊の構成と訓練
大遠征計画の骨格が整うにつれ、
国防省と陸海両軍は静かにだが着実に、
「誰をこの未知の航海に送り出すのか」を議論し始めた。
まず、中心となるのは海兵隊先遣隊である。
彼らは開拓と防衛の両面を担う。
一先遣隊あたりおよそ数百名。
内訳は、工兵隊・医療班・警備中隊・測量班・記録班。
いずれも過酷な環境下での任務を覚悟した者たちであった。
特に工兵たちは、航海前から訓練場で汗を流し続けた。
海岸で舟艇を組み立て、重機を陸揚げする練習を何度も繰り返す。
「波打ち際で焦るな。焦れば舟も資材も全部持っていかれる」
教官の声が風を切り、兵たちの耳を打った。
上陸後、まず行うのは拠点建設と地盤調査。
海水を濾過して飲料水を得る設備、
冷蔵庫を動かす発電機、
熱帯病を防ぐための衛生設備。
それら全てを短期間で立ち上げる技術と体力が要求された。
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海軍の役割と士官たち
一方で、遠征艦隊を率いるのは海軍中将・神田誠一郎である。
穏やかな声の持ち主でありながら、
「海の上では、迷いは命取りになる」と常に言って憚らなかった。
海軍の主力艦には、ベテランの航海士と若い整備士が混在していた。
現代のような電子航法装置はなく、
星の位置と地磁気、潮流の読みが命綱となる。
彼らは毎夜、天測訓練を行い、星図を頼りに方角を読む練習を重ねた。
「羅針盤に頼りすぎるな。
海は、見た目よりも嘘つきだ。」
神田中将のその言葉を、若い航海士たちは胸に刻み込んだ。
補給艦の乗員たちは一見穏やかだが、
彼らの仕事は最も過酷である。
食料・燃料・医療品の管理、艦内冷蔵設備の維持、
さらには現地に送る重機や工具の整頓まですべてを担った。
積み込み作業の度に彼らはこう言う。
「俺たちが忘れた物は、現地じゃ永遠に手に入らねえ。」
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医療班と学術調査隊
遠征隊には軍人だけでなく、
帝国大学から派遣された学術調査員も含まれていた。
植物学、地質学、気象学、医療学、それぞれの専門家が同行し、
アマゾンでの採取や研究に備えた。
彼らは日々、標本採取と防疫訓練を繰り返し、
「未知の菌や虫がどんな病を起こすか分からぬ」と慎重そのものだった。
医療班の指導役である中原軍医長は、
「現地では敵は人ではない。自然だ。」と語った。
医療班は、携行可能な冷却庫や応急手術用テントを整備し、
輸送用の冷凍庫には貴重な血清や抗菌薬が詰められた。
彼らの冷静な目が、未知の土地への恐怖を少しだけ和らげていた。
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出航前夜
東京港の灯が静かに落ちた夜、
甲板の上では、作業を終えた兵士たちが潮風を浴びていた。
「帰ってこれるかな」
若い兵士が呟いた。
「帰るさ。
帰ってきたら、ゴムの靴で歩こう。
この足で、未来の道を踏むんだ。」
年長の下士官がそう笑うと、皆が小さく頷いた。
明賢はその光景を、遠く岸壁から見つめていた。
彼の隣には外務省の役人が立ち、手に書類の束を持っていた。
「この航海が成功すれば、日本の工業は百年進みますな。」
「進むのではない。守るのだ。」
明賢は静かに答えた。
「技術も、人も、未来も――この国の形を守るための航海だ。」
波間に映る艦の影が、
まるで夜空の星々のように揺れていた。
出航の日は、もう間もなくだった。
未踏の海図 ― 航路計画と未知への挑戦
まだ誰も正確に世界の果てを知らぬ時代。
日本国の参謀室では、緻密に描かれた「現代の海図」の複写が、
初めて木の机の上に広げられた。
「これが……全世界の海か。」
地図を覗き込んだ若い航海士が、息を呑んだ。
明賢は静かに頷いた。
「そうだ。ただし――この形が“正しい”とは限らん。
だが、少なくとも私たちの足跡を導く灯にはなる。」
紙の上に描かれた大陸の輪郭は、
今の彼らにとって“未来からの贈り物”のようなものだった。
現代で得た知識とデータを、彼は慎重に写し取り、
必要最低限の海図を艦隊司令部に渡した。
だが、航法装置はまだ存在しない。
GPSも、ロランシステムもない。
艦上で頼れるのは六分儀と磁気コンパス、
そして星々の位置だけである。
夜ごと航海士たちは甲板に出て、
星の角度を測りながら航路を想定した。




