物語序章 第一版 28章
命を繋ぐ理 ― 公衆衛生と医療の確立 ―
政府が形を成したその直後、
明賢が最初に取り組んだのは軍でも産業でもなく、
人の生を延ばすことだった。
「民の寿命は、国の寿命だ。
健康を保てぬ国は、どれほど富もうと滅びる。」
彼の改革の根幹には、
“健康寿命の延長”と“出生数の増加”という明確な指標があった。
これは単なる医療ではなく、
人口という国力の再設計だった。
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一、国の命脈 ― 上下水道の整備
東京の町を流れる川は濁り、
井戸水には生活排水が混ざっていた。
このままでは、
どれだけ教育や産業を進めても病に倒れる民が増える――
明賢は最初にそこへ手をつけた。
帝国大学土木科の教員と清助の技術班を招集し、
首都全域に上下水道網を敷設する計画を立案。
主幹水路は厚い鋼管で造られ、
配水所では石炭式のポンプが昼夜稼働した。
汚水路は独立して地下に設けられ、
川の上流へ逆流しないように精密な弁構造を備えている。
「水は国の血液である。
濁れば民は病み、国も腐る。」
この信念が、
後の“清水法”と呼ばれる衛生法の原点となった。
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二、医療の理 ― 医学校と大学の役割
明賢は帝国大学に対し、
三つの緊急命令を発した。
1.ワクチンの開発と量産
2.薬品研究の体系化と化学プラント連携
3.医師・看護師の大量養成
帝国大学医学部の研究棟では、
牛痘の免疫研究が始まり、
わずか数ヶ月で試作ワクチンを完成。
化学学部は千葉湾岸のプラントと連携し、
エタノール・塩酸・石炭酸などの基礎薬品を生産。
抗菌と消毒の概念が、
初めて“科学としての医療”に組み込まれた。
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三、医療機関の整備
帝国大学医学部附属の大病院が東京中心部に建てられ、
同時に各県に衛生局附属診療所が設置された。
地方の診療所には帝国大学の医師候補が派遣され、
診断・処方・接種の三段階制度が導入される。
「医療は、病を治すためではなく、
国を守るためにある。」
この理念の下、
治療費の一部は政府補助とし、
貧困層にも医療が行き届くようになった。
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四、感染症への挑戦
当時もっとも恐れられていたのはコレラと天然痘。
明賢は防疫線の設置を命じ、
交通の要衝には検疫所を置いた。
接種班が各地を巡回し、
“健康証明書”を発行。
これが後の国民医療記録制度の起源である。
「病にかからぬ者は、
国を支える兵であり労働者である。」
この言葉が衛生庁の壁に刻まれた。
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五、生命の学問 ― 教育としての衛生
明賢は衛生を単なる医療制度にとどめず、
教育体系の一部に組み込んだ。
義務教育では「衛生」「人体」「環境」の授業が追加され、
生徒たちは病の原因や手洗いの重要性を学んだ。
また、帝国大学の教育部門では
“公衆衛生学”という新しい学問分野が誕生した。
衛生は宗教の祈りではなく、
数字と因果で説明できる“理の科学”となった。
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六、明賢の夜の記録
夜、明賢は衛生庁から上がった統計表を眺めていた。
――感染症による死亡率、前年比 23%減。
――平均寿命、五年で 4.6 年上昇。
――出生率、二割増加。
「民の命は、数字として応えた。」
ペンを置き、
彼は窓の外に広がる東京の灯を見つめた。
そこには、
清らかな水路が光を映し、
街の隅々まで明かりが行き渡っていた。
「戦で国は守れぬ。
生かす仕組みこそ、真の国防だ。」
そう静かに言葉を落とすと、
明賢は次の書類を開いた。
「住宅衛生と都市構造改革計画」。
命を守る次の戦いは、
“家”と“街”そのものを変えることであった。
都市を繋ぐ血管 ― 鉄道・道路・港湾・空港の整備 ―
江戸の街が形を取り始めた頃、
明賢は次の課題に取り掛かった。
それは、都市を結ぶ“血管”を作ること――
すなわち交通網の整備である。
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放射の道 ― 馬車から未来へ
江戸城を中心に、都市は円を描くように広がっていた。
そこから放射状に延びる広い道路は、
それぞれが地方と都を繋ぐ命の道となった。
道路の中央には、整備された道路の上を滑るように走る
馬車専用レーンが設けられていた。
人や荷を効率的に運ぶためのこの制度は、
やがて鉄道や高速道路に姿を変えることを前提に設計されたものである。
「道は変わるものだ。
人が歩き、馬が走り、やがて鉄が走る。」
道路の両側には街路樹が植えられ、
夏の日差しを防ぎ、雨の日には排水を助けた。
交通と環境の調和――
それが明賢の描く“未来の道”の姿だった。
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橋梁 ― 鉄と石の美学
川を渡る橋は、これまで木製が主であったが、
新たに建設された橋梁はすべて鉄骨とコンクリートによって造られた。
その堅牢さと美しさは、江戸の象徴ともなり、
多くの人々が立ち止まって見上げるほどであった。
特に隅田川に架けられた最初の大橋は、
明賢自ら設計したものであり、
「百年後も壊れぬ橋」と称された。
夜には橋の欄干に電灯が並び、
光が水面に揺らめくその光景は、
江戸の夜景として多くの絵師に描かれることになる。
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三大港の開設 ― 東京・横浜・千葉
明賢は陸の交通だけでなく、
海の玄関口にも目を向けた。
東京湾を囲む形で、
東京港・横浜港・千葉港の三大港を開設。
それぞれが将来的な物流拠点、
さらには国際貿易港として発展することを見据えて
大規模な用地が確保された。
港湾地区は広大な倉庫と輸送線で結ばれ、
物資が流れるように都の中枢へと運び込まれた。
それは、まるで都市そのものが“呼吸を始めた”ようであった。
「港は都市の肺だ。
吸い込み、吐き出し、国を循環させる。」
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空へ伸びる夢 ― 空港用地の確保
明賢はさらに、
まだ誰も知らぬ「空の交通」にも備えた。
江戸の郊外に広大な土地を選定し、
風向と地盤を綿密に調査。
将来、滑走路を設けるための安全な用地として整備を開始した。
「いつか、この空をも道に変える。」
この土地はのちに羽田飛行場と呼ばれる場所となる。
未来を見据えた明賢の設計思想は、
時代を数世紀先取りしていた。
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五、秩序ある道 ― 左側通行の決定
交通量が増えるにつれ、混乱を避けるために
左側通行を正式に制定。
馬車、人、荷車の動線が明確に分けられ、
都市の動きはより滑らかになった。
街角には交通指導員が立ち、
笛と旗で往来を整える。
この制度が後の交通法規の礎となる。
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六、産業の動脈 ― 沿岸工業地帯と専用道路
工場群は、
公害や騒音を避けるために沿岸部に集中して建設された。
それぞれが港湾施設と直結する専用道路を持ち、
貨物車が絶えず行き交う。
道路は頑強な舗装が施され、
重量貨物にも耐えうる構造となっていた。
この「産業専用道」の整備により、
都市内部の交通は保たれ、物流効率も飛躍的に向上した。
「海は運び、陸は繋ぐ。
この二つが一つになった時、国は動く。」
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七、都市の全貌
放射状に広がる道、
それを囲む環状線、
中央を貫く運河と鉄道、
そして海と空を結ぶ港と空港予定地――。
江戸はもはや「一つの城下町」ではなく、
未来を見据えた大都市国家の中枢へと変貌していた。
その全景を見下ろしながら、
明賢は静かに呟いた。
「これで都市の心臓と血管は通った。
あとは、人の意思が流れ始めるのを待つだけだ。」




