物語序章 第一版 28章
覇者の静思 ―六家康の目覚め ―
江戸城の天守から、家康は町を見下ろしていた。
城下には鉄の車輪が走り、蒸気の煙が上がり、夜でも灯の消えぬ町が広がっている。
それは、わずか数年の出来事だった。
数年前まではそれほど大きくもなかったような国が、
今や光と音に満ちた“理の国”へと変わろうとしている。
「あれが……わしの治める“世”なのか……。」
低く呟いた声は、
驚きと畏れと、わずかな誇りが混じっていた。
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変革の速度
この数年、家康の前に現れた少年――明賢。
彼が持ち込む言葉は、いずれも家康の知る世界の理から外れていた。
“政府” “教育制度” “貨幣流通” “規格” “科学”
初めてそれらを聞いたとき、
家康は“夢物語”と笑い飛ばした。
だが、笑いが消えるまでにそう長くはかからなかった。
屋敷に電灯がともり、
報告書が紙で届き、
兵が測量地図を用いて進軍するようになると、
もはや信じぬ方が難しかった。
戦ではなく、数字と理で国が動く。
そのことを、彼は誰よりも早く悟ったのだ。
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老将の不安
夜、政務を終えた家康は、
書状を燃やす代わりに、明賢が置いていった「鉄の箱」を開く。
そこには、地図でもなく戦略でもない――“未来”があった。
新しい制度、産業の予測、教育人口の推移、病の流行予想までもが記されていた。
「まるで、天の声だな……。」
家康は長く戦場で生きた。
運と機略と忠をもって天下を掴んだ男だ。
だが、その自負がこの鉄の箱の前では薄れていく。
理に基づく世界では、武も策も過去の遺物。
力の時代の終焉を、彼自身が肌で感じていた。
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迷いと悟り
翌朝、明賢が城を訪れる。
まだ幼い姿でありながら、
その眼にはどこか“千の経験”を宿した光があった。
「上様、国は武では守れません。理と秩序で守るのです。」
家康はしばし黙し、
その言葉を反芻するように天井を見上げた。
「……わしは戦で天下を取った。
だが、おぬしは“理”で天下を取るつもりか。」
明賢は穏やかに微笑んだ。
「いいえ、陛下。私は“民”に天下を取らせたいのです。」
家康の心臓が、ひとつ強く脈打った。
ああ、この子は天下人ではなく、世界の造り手なのだ――そう理解した。
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老将の決意
夜、家康は筆を取り、ひとつの命を記す。
『明賢を政府顧問筆頭とす。
この者の理をもって、徳川の天下を永遠のものとせよ。』
そして、静かに灯を消し、窓の外の光を眺めた。
「理をもって治むる国……か。
わしは夢の続きを見るとしよう。」
その眼には、もう恐れはなかった。
戦乱を越えた覇者が、
ついに**“理の王”**としての覚悟を決めた夜であった。
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明賢の独白
明賢はその夜、
自室で家康の決裁文を読んでいた。
「やはり、この人は強い……。」
血の流れる戦場で生き抜いた者だからこそ、
理の強さも見抜ける。
その理解があったからこそ、
この国は変われたのだと、彼は静かに胸の内で呟いた。
窓の外では、
夜空を照らす電灯が、まるで星のように瞬いていた。
― 明賢、己が道を省みる ―
夜更け、東京の空には細い月が浮かんでいた。
明賢は机に広げた報告書の束をめくりながら、
静かに羽ペンを置いた。
「……だいたい、ここまでは予定通りだ。」
そう呟く声は幼いが、その内容は国を動かす者のものだった。
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教育の進展
教育制度はすでに全国に行き渡っていた。
清助塾を母体とした義務教育制度は、
都市部では七割、農村でも三割割以上の子どもが就学している。
教員は清助塾卒業生が多いが、
帝国大学教育学部の一期生が間もなく各県に派遣される予定だ。
学力の地域差はまだ大きい。
とくに西日本の山間部では、
交通と電力の遅れにより学校建設が遅れている。
「五年以内に全国の小学校を統一し、
十年で中等教育までを完備する――。」
明賢はその目標を報告書に赤字で書き加えた。
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産業と資源
東京湾沿岸の造船所はすでに稼働し、
小型貨物船から三千トン級の商船まで建造できるようになった。
また、郊外の重工工場では蒸気機関の量産が始まり、
近郊の鉄道網を支えている。
秩父の石灰採掘、関東炭鉱、千葉の油田も順調に拡張中。
鋼鉄生産は目標の八割を達成し、
新設の工業高等学校では技術者養成が軌道に乗っている。
「問題は、燃料と労働力の偏りだ。」
地方工場の人員不足が顕著で、
女性労働の導入によって何とか維持している。
次の段階では、
労働者用住宅と医療制度の拡充が不可欠になる。
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金融と流通
中央銀行の管理は安定し、
紙幣流通率は九割を超えた。
各地の農協・商会は定期的に財務省へ報告を送り、
物資の分配は“中央統制”から“分配型指令制”へと移行している。
「統制を緩め、自治を育てる段階だな。」
物価安定率は予定より早く落ち着き、
農民の貯蓄が増えていることが統計に示されていた。
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電力・通信・インフラ
火力・水力発電の総出力は、
当初計画の三割をすでに達成。
各県庁所在地と主要都市には配電網が通じ、
電灯と通信線が同時に設置された。
通信はまだ実験段階だが、
「有線式遠話装置(電話)」が完成に近づいている。
試作は清助の工作班が進行中だ。
道路整備は主要五街道の改修が終わり、
鉄道は東京~秩父間、東京~小田原間が開通。
次の目標は、東京から名古屋を経て京都への接続である。
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科学と軍事技術
帝国大学の理工学部では、
火薬、金属学、航空理論、電磁気の研究が始まっている。
明賢は戦のためではなく、
抑止力としての科学技術を国に備えることを掲げていた。
「武器は脅しではなく、交渉の盾とすべし。」
彼はそう書き記し、軍需開発課に
「兵器研究と民生転用を並行せよ」と命じた。
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国際と未来
国外との接触はまだ限定的。
だが、長崎・対馬・琉球を通じて情報収集が進んでおり、
近い将来、正式な外交機関を設ける予定である。
「十年以内に“外務庁”を設立し、
世界の情勢を正しく記録できるようにする。」
明賢は、すでに大航海時代の波を見越していた。
この国が孤立すれば再び支配される。
その運命を避けるために、
彼はすでに地図の上で“未来の貿易航路”を描いていた。
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己の省察
報告書を閉じると、
明賢は深く息を吐いた。
この五年で、人も街も、思想も変わった。
けれど、自分の体は幼子のまま。
「この国は、私が成長するより早く育っている。」
その事実に少しの焦りと、
どこか誇らしさが混じる。
机の上の画面には、
彼が生前に残した“未来計画書”のファイルが開かれていた。
――【進捗:22%】
まだ半分にも満たない。
それでも、彼は微笑んだ。
「人は百年で死ぬ。
けれど、理は百世を超える。」
その言葉を小さく呟くと、
明賢は再びペンを取った。
次の目標――
「医療制度の全国整備と感染症対策」。
それが、彼の次なる“戦場”であった。




