物語序章 第一版 26章
黎明の民
― 理に生きる民 ―
朝霧の立ちこめる田園に、
金属のきらめきとともにエンジンの音が響く。
牛馬の姿は減り、代わって小型の鉄の車輪が畦道を進む。
それは政府の指導で導入された新しい農機――
“動力の入った鋤”と呼ばれ、人々の暮らしを一変させた。
かつては太陽と天気を祈るばかりだった農民たちも、
今では数字と計画で動く。
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村の中央には「農協所」と書かれた木の建物がある。
朝になると村人たちは集まり、
掲示板に貼られた紙を見上げる。
「施肥計画・水路清掃日程・作付報告」
帳面を片手に係員が説明し、
「この列があなたの畑です」と指で示す。
その横には、季節ごとの平均収穫量と
前年との比較表が記されている。
「この数値を越えれば、地主殿からの分け前も増えます」
「おお、それはありがてぇ」
農民たちは真剣な表情で数字を見つめる。
一見難しそうな表だが、
明賢が考えた“教育つき農政”の成果で、
ほとんどの者が自分の畑の成績を読めるようになっていた。
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昼の光が強くなるころ、
田の中では男も女も額に汗を浮かべて働く。
田んぼの形は整えられ、
水路は直線に延び、
水門は手のひらで開閉できるよう改良されている。
「あの若様が“流量”とかいう言葉を使うから、
俺たちも数字で水を見るようになっちまった」
老人が笑い、
少年が竹の定規で水位を測る。
それはもはや“農作業”というより“実験”のようだった。
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夕刻、農協の小屋からは
小型のトラックが音を立てて出ていく。
積まれた箱には「東京中央倉庫行き」と書かれている。
それを見送る村人の顔には誇りがあった。
「この米が都の人らの口に入るんだ。
俺たちが国を養ってるんだな。」
農民という言葉に、
“貧しさ”ではなく“誇り”が宿り始めていた。
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夜。
家々の窓には電灯の光がともり、
子どもたちは紙の帳面に字を書いている。
「今日の天気と水の量を記録するんだよ」
父が教え、子が書く。
かつての“口伝の農法”が、
今は“記録の農法”へと姿を変えた。
畑で生まれた知恵はやがて帳面に、
帳面の数字はやがて国の統計となる。
それを誰よりもよく知っていたのは――
かつて老いて死に、再びこの世に生まれた男、
明賢その人であった。
「民が理を知るとき、この国は真に強くなる」
彼の言葉どおり、
理に生きる民の姿が、
静かにこの国の礎となっていった。
― 富と便利の交差点 ―
朝、東京の町に鐘の音が響く。
通りには煙と人の声が混じり合い、
昨日よりも少し賑やかに、少し整然とした一日が始まる。
木と石で舗装された通りには、
馬車と鉄の車輪を持つ小型の荷車――トラックが並び、
軒先の看板には「仕立屋」「書舗」「機械部品」「理髪店」と書かれていた。
いつのまにか、「江戸」という名は人々の口から消え、
代わりに**「東京」**という響きが町を包み込んでいた。
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商人たちの朝
魚市場では、
氷で冷やされた魚が木箱に並べられ、
帳簿を片手にした若い商人が声を上げる。
「銭ではなく、“紙幣”での支払いをお願い致します!」
初めは誰もがその紙切れを怪しんだ。
しかし“日本中央銀行”と記された印章が押されていると知ると、
人々は次第にそれを信じ、
紙幣を受け取るたびに軽く頭を下げるようになった。
銭が音を立てて転がる時代は終わり、
数字と印が価値を持つ時代が始まった。
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町の便利と秩序
通りの角には“郵便箱”が設けられ、
行商人や職人たちが次々と封筒を投函していく。
町には掲示板があり、
「求人」「講習」「商会設立」などの紙が貼られている。
行き交う人々はセンチメートルで寸法を測り、
帳簿は十進法で記され、
工房では明賢が定めたJIS規格に従って部品を揃えていた。
「あの若殿の定めた“番号”があるから、
どこで作っても組み立てられるんだ」
と職人が笑い、
商人はその規格票を巻物のように大切に扱った。
町はすでに、ひとつの巨大な“機械”のように動いていた。
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喫茶と学びの広がり
昼、通りの角の小さな喫茶屋では、
新聞を広げた若者たちが議論している。
「新しい道路法ができるらしい」
「貨幣制度の次は“信用”という仕組みができるそうだ」
文字を読める者が増え、
議論を交わせる町が生まれた。
かつて学問は武家や寺のものだったが、
今や商人も職人も“理”を語る時代である。
子どもたちは放課後、
家の帳場で父のそろばんを手伝いながら、
「利子」「原価」「利益」といった言葉を自然に覚えていった。
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夜の東京
夜になると、電灯が一斉に灯る。
通りは昼のように明るく、
屋台からは蒸気と香ばしい匂いが立ちのぼる。
「一杯いかがでございますか!」
「今日の相場はどうだった?」
笑い声と談笑の中に、
どこか新しい世界の息づかいがある。
誰もが気づいていた。
“生きる”ということが、
“働き、考え、得る”という行為に変わっていることを。
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夜更け、
帳場で一人、古い商人がそろばんを弾きながら呟いた。
「昔は神棚に祈っていたが、
今は数字に祈るようになったな……。」
だがその声には悲しみはなかった。
むしろ、明日を信じる力が宿っていた。
町は眠らず、
人々の手が日本の心臓を動かし続けていた。
― 鋼を打つ者たち ―
朝、まだ空が白み始めたころ。
東京郊外の工場地帯では、すでに汽笛が鳴り響いていた。
冷たい空気の中、鉄扉が開く音が幾重にも重なり、
職人と工員たちが作業服の袖をまくる。
火花が散り、鉄を叩く音が街の鼓動となる。
それはもはや戦の太鼓ではなく、文明の鼓動だった。
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刀鍛冶の転生
かつて刀を打っていた男たちは、
今は鋼板を叩き、エンジンを組み立てている。
「昔は魂を込めて刃を打った。
今は魂を込めて“機械”を作る。」
老いた鍛冶が言うと、
若い工員たちは頷いた。
彼らは明賢の定めた規格表――
JIS票を壁に貼り、寸分違わぬ精度で金属を削り出す。
鉄を叩く音がやがてリズムを生み、
工場全体がひとつの楽器のように鳴り始める。
「刀は人を斬るが、鋼は国を動かす」
清助の教えが、この時代の合言葉になっていた。
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学ぶ職人
昼休み。
食堂では飯をかき込みながら、
若い工員たちがノートを開いていた。
「溶接の温度は何度が最適だ?」
「銅線の抵抗率、これ何て読む?」
彼らは夜間に開かれる“職工学校”にも通っていた。
そこでは帝国大学の卒業生が教壇に立ち、
物理・電気・機械の基礎を教えていた。
汗にまみれた手で鉛筆を握りしめ、
鉄粉まみれの制服で黒板に数式を書く。
それが、この時代の“学び”だった。
「昔は師匠に盗んで覚えた。
今は先生に学んで作る。
けど、心を込めるのは同じだな。」
誰かがそう言い、笑いが起こる。
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女職工の誕生
新しい工場では、女たちの姿もあった。
細い指先で銅線を巻き、
器用に歯車を組み立てる。
「母ちゃん、鉄の花を作ってるんだよ」
子どもにそう話す女工の顔には誇りがあった。
賃金は男より低かったが、
彼女たちの手は確かだった。
繊細な組立や精密作業は、
女性たちの集中力に支えられていた。
明賢は、こうした女工たちのために
「婦人技術学校」を設立することを計画していた。
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夕暮れの工場
日が傾くと、
工場の屋根越しに夕陽が赤く滲む。
機械の音が止み、
モーターの回転が静かに落ちていく。
工員たちは顔を拭き、
油の匂いをまとったまま外に出る。
「あしたもこの国を動かす鉄を作るぞ。」
仲間同士が肩を叩き合い、
夕焼けの空を見上げた。
鉄の光は彼らの誇りの証だった。
貧しさの中にあった労働が、
今や**国を造る“力”**そのものになっていた。
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夜の炉心
夜、工場の奥で残業する者がいる。
彼は若い職工で、
試作中のエンジン部品を前に
紙に図を描いていた。
「先生、回転が止まるたびに熱が逃げるんです」
ノートパソコンの画面越しに、
明賢が静かに答える。
「ならば熱を利用しろ。
無駄を見つけたら、それが次の発明だ。」
火花が散り、また金属の音が響く。
その夜、世界で初めての日本製蒸気タービンの部品が
ひとつ完成した。
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鉄を打つ音、
数字を追う目、
夢を語る声。
その全てが、
まだ見ぬ未来の“産業国家”の胎動だった。
「働くことが誇りになる国を」
――それが、明賢のもう一つの理想であった。




